瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:長尾高勝

真宗興正派の研修会でお話しした内容の3回目です。今回は、美馬・安楽寺の丸亀平野への教線ルートを見ていきたいと思います。最初に安楽寺の丸亀平野の末寺を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

これをグーグル地図に落とすと次のようになります。

安楽寺末寺分布図 丸亀平野

黄色いポイントが初回に見た三木の常光寺の末寺です。緑ポイントが安楽寺の末寺になります。右隅が勝浦の常光寺です。そこから土器川沿いに下っていくと、長尾氏の居城であった城山周囲のまんのう町・長尾・長炭や丸亀市の岡田・栗熊に末寺が分布します。これらの寺は建立由来を長尾氏の子孫によるものとする所が多いのが特徴です。
 また、土器川左岸では垂水に浄楽寺があります。

垂水の浄楽寺

ここには垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転し再建されたと伝えられます。これは垂水の檀家衆の誘致に応えてのことでしょう。ここからも山にあった真宗興正派の寺が里へ下りてくる動きがうかがえます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。

尊光寺・長善寺の木仏付与
 
讃岐の真宗寺院で本願寺から木仏が付与されているのは寛永18(1641)年前後が最も多いようです。その中で、安楽寺末寺で木仏付与が早いのが上の4ケ寺になります。この4ヶ寺を見ておくことにします。
安楽寺の丸亀平野の拠点は、勝浦の長善寺であったと私は考えています。

イメージ 2
かつての長善寺(まんのう町勝浦)
  「琴南町誌」は、長善寺について次のように記します。
 勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。

 長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を含めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。

DSC00797
旧長善寺の鐘楼(鉦の代わりに石が吊されていた)
大川山に登るときには、よくこの寺を訪ねて縁側で、奥さんからいろいろな話を聞かせてもらったことを思い出します。檀家が阿波と讃岐で千軒近いこと、旧本堂は惣ケヤキ造りで、各ソラの集落の檀家から持ち寄られた檜材が使われたこと。阿波にも檀家が多いというのは、阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていたことが考えられます。


DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺(旧勝浦小学校跡)
次に長炭の尊光寺の由来を見ておきましょう。
DSC02132
尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺中興開基玄正
上の史料整理すると
尊光寺中興開基玄正2

ここで確認しておきたいことは、安楽寺からやって来た僧侶によって開かれた寺というのはあまりないことです。開基者は、武士から帰農した長尾氏出身者というのが多いようです。

寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村  乗正坊
C 南条郡羽床村   乗円坊
D 南条郡羽床村   弐刀
E 北条郡坂出村   源用坊
F 宇足郡岡田村   了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村   源勝坊

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺
現在、グーグル地図には岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
この時期の真宗の教線拡大について、私は次のように考えています。
中世の布教シーン
 
世の村です。前面に武士の棟梁の居館が描かれています。秋の取り入れで、いろいろな貢納品が運び込まれています。それを一つずつ領主が目録を見て、チェックしています。武士の舘は堀や柵に囲まれ、物見櫓もあって要塞化されています。堀の外の馬に乗った巡回の武士に、従者が何か報告しています。
「あいつら今日もやってきていますぜ」
指さす方を見ると、大きな農家に大勢の人達が集まっています。拡大して見ましょう

中世の布教シーン2

後に大きな寺院が見えます。その前の家の庭に人々が集まっています。その真ん中にいるのは念仏聖(僧侶)です。聖は、定期市の立つ日に、この家にやって来て説法を行います。それだけでなく、お勤めの終わった後の常会では、病気や怪我の治療から、農作物や農学、さらにさまざまなアドバイを夜が更けるまで与えます。こうして村人の信頼を得ていきます。この家の床の間に、六寺名号が掲げられると、道場になります。主人は毛坊主になり、その息子は正式に得度して僧侶になり、寺院に発展していくという話になります。

蓮如の布教戦略を見ておきましょう。
蓮如は、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。そして
、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。


「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」


意訳変換しておくと

各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ


 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。

   岐阜県大野郡の旧清見村では、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。

①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ

②蓮如から六字名号(後には絵像本尊)を下付され

③それを自分の家の一室の床の間にかけ、

④香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。

⑤これを内道場または家道場という

⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。

⑦長百姓は毛坊主として集会の宗教儀礼を主宰する。

⑧村人の真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。

⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。

⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

この長百姓の役割を果たしたのが、帰農した長尾氏の一族達ではなかったのかと私は考えています。
 長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

安楽寺の丸亀平野への教線ルートをまとめておきます
①勝浦の長善寺が拠点となった
②長尾氏が在野に下り、帰農する時期に安楽寺の教線ラインは伸びてきた
③仕官の道が開けなかった長尾氏は、安楽寺の末寺を開基することで地域での影響力を残そうとした。
④そのため阿野郡の城山周辺には、長尾氏を開基とする安楽寺の末寺が多い。
今回は、このあたりまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

尊光寺史S__4431880

尊光寺史
図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会った。手にとって見ると寺から新たに発見された資料を、丁寧に読み解説もつけて檀家の支援を受けて出版されたものである。この本からは、真宗興正寺派の讃岐の山里への布教の様が垣間見えてくる。早速、本を借り出し尊光寺詣でに行ってみた。

DSC02130

やって来たのはまんのう町炭所東(すみしょ)の種子(たね)集落。バス停の棚田の上に尊光寺はあった。
DSC02132

石垣の上に漆喰の塀を載せてまるで城塞のように周囲を睥睨する雰囲気。
「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」
いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。
DSC02136

この寺の由緒を「尊光寺史」は
「 明応年間 少将と申す僧  炭所東村種子(たね)免の内、久保へ開基」
という資料から建立を戦国時代の15世紀末として、建立の際の「檀那」は誰かを探る。
DSC02138

①第一候補は炭所東の大谷氏?

開発系領主の国侍で大谷川沿いの小城を拠点に、西長尾城主の中印源少将を助けた。伊予攻めの際に伊予の三島神社の分霊を持ち帰り三島神社を建立もしている。後に、大谷氏は 敗れて野に下り、新たに長尾城主となった長尾氏への潜在勢力として、念仏宗をまとめてこの地区で勢力温存をはかる。
 つまり真宗興正寺派の指導者となることで、勢力の温存を図ったということらしい。

DSC02139

 ②第2候補は平田氏

 平田氏は、畿内からやってきて、広袖を拠点に平山や片岡南に土着した長百姓であり、金剛院に一族の墓が残っている。

DSC02140

最初は建物もない念仏道場(坊)からスタートしたであろう

名主層が門徒になると本山から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間とする。縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行。正信偈を唱え御文書をいただき法話を聞く。非時を食し、耕作談義に夜を更かす。この家を内道場、家道場と呼び、有髪の指導者を毛坊主と呼んだという。

DSC02141

中讃での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬町の安楽寺である。

真宗興正寺は瀬戸内海布教拡大の一環として、四国布教の拠点を吉野川を遡った美馬町郡里に設ける。それが安楽寺である。当時の教育医学神学等の文化センター兼農業・土木技術研修でもあった安楽寺で「教育」を受けた信仰的情熱に燃える僧侶達が阿讃の山を越えて、琴南・仲南・財田・満濃等の讃岐の山里に布教活動に入って来る。

DSC02143

安楽寺からのオルグを受けて名主や土侍たちが帰依していく。

中讃の農村部には真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、このようなかつての安楽寺の布教活動の成果なのだ。讃岐の真宗の伝播のひとつは、興正寺から安楽寺を経て広がっていったといえる。
DSC02145

 その布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように話す。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、むしろ道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。
DSC02149

 中央での信長の天下布武に呼応して、四国統一をめざす長宗我部元親の動きが開始される。1579年に始まる元親の讃岐侵入と5年後の讃岐平定。そのリアクションとしての秀吉軍の侵攻と元親の降伏。この激動は、中讃の地に大きな怒濤として押し寄せ、在来の勢力を押し流してしまう。

DSC02150

 在地勢力の長尾城主であった長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働いた。そのためか生駒氏等の讃岐の大名となった諸氏から干される結果となる。長尾一族が一名も登用されていない
 このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入る。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを示す。
DSC02153

DSC02154

 長尾氏出身の僧侶で尊光寺中興の祖と言われる玄正により総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になる。阿波国美馬の安楽寺を中本山に昇格させ阿讃の末寺統制体制が確立したと言える。このため中讃の興正寺派の寺院は、阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行っていた。
 尊光寺が安楽寺より離脱して、興正寺に直属するのは江戸時代中期の1777年になってのことである。

DSC02160

「尊光寺史」は、浄土真宗の讃岐での教線拡大のありさまを垣間見せてくれる。

このページのトップヘ