瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:長法寺

琴平町の三水会の横関智也氏が紹介された備中国小野家の「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」を見ています。前回までに五条村と榎井村を見てきましたので、今回は苗田村を見ていくことにします。
金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館
下(南)から 五条・榎井・苗田の三つの村が書き込まれています。現地で作成したものを、天領を統括する倉敷の代官所に提出したものです。
苗田村について、上絵図から読み取れる情報を挙げておきます。
①茶色が丸亀街道で、南北に延びてきたルートが長法寺の手前で西に曲がり、石井神社でドッグレッグしている。
②金倉川手前の横瀬で街道が南に向きを変える辺りに出水③が描かれている。
③この出水から北に用水路が伸びている。
④石井神社の北側の光賢寺の西側に、高札と郷倉があるので、この辺りが村の中心地であった。


苗田村拡大
上図の苗田村拡大図 石井神社周辺

角川出版の地名大辞典(627P)は、苗田村について次のように記します。(要約)
A 石高841石余。幕府領五条村・榎井村を合わせて池御領・池領・御領などと呼ばれた。
B 東西に分けて苗田東村(苗田村東組)苗田西村(苗田村西組)と称して庄屋が置かれた。
C 五条村・榎井村とともに金毘羅祭り(頭人祭り)の頭人を勤める家があり、祭りのための奉加米3石5斗が出されていた。
D 金毘羅大権現参詣道の丸亀街道が村内を通り、丸亀方面からの入口に当たり、門前町に見られるような富鬮が寛保元年、芝居が寛延3年・宝暦9年に行われている。
E 遊女も多く、風呂屋といわれる置屋もあって、遊女が門前町に入り込み問題となった。
F 「金毘羅御神事古法次第」には、天保10年の記録として
東組が庄屋1名・年寄1名のほかに惣百姓34人で、長法寺の名が見える
西組は庄屋1名・庄屋代1名・年寄4名のほか惣百姓34人で、光賢寺・西福寺・福成寺の寺院名が見える。
G氏神は石井八幡で、金毘羅大権現別当金光院で灌頂などがあった後に、愛宕権現称名寺鎮守と五条村大井八幡・榎井村春日明神と当村の石井八幡を参詣して回る五社参りが行われた。
H明治の「新撰讃岐国風土記」には、田111町余畑8反余・宅地9町余、戸数271、人口1,194(男601女593)。川は石淵川(野田川)、池は徳女池、泉は操矢井・樋口井・羽根出水・三田井など、神社は石井神社のほか稲生社、古川社など12社が記されており,村役場・尋常小学校がある。
I明治23年 象郷村の大字となる。
もう少し詳しく見ておきましょう。

天領と寺領
満濃池御料の三村(白色部分) 上が南
A 石高841石余。幕府領五条村・榎井村を合わせて池御領・池領・御領などと呼ばれた。
B 東西に分けて苗田東村(苗田村東組)苗田西村(苗田村西組)と称して庄屋が置かれた。
Aについては、苗田村は満濃池の維持管理のために置かれた池御料(天領)三ケ村の中の一つで、地理的には一番北側に当たります。この村は東西に分かれていますが灌漑用水路の水系が異なります。

琴平大井・春日神社

 上の土地利用図を見ると古代の水源は、①五条の大井神社 → ②榎井の春日神社 → ③苗田の石井神社を結ぶラインに旧河川跡の伏流水です。この線上に豊富な出水があり、大井や石井などと呼ばれ、そこに水神が勧進されて神社に成長していったことがうかがえます。一方、西側エリアでは大西病院裏の横瀬の出水から用水路が伸びています。また、さらに西側には金倉川が氾濫原として拡がっていて、この辺りは古代条里制施行の空白地帯で、中世や近世になって開発されたエリアであることが分かります。
 那珂郡南部の古代からあった式内神社は、大麻神社と櫛梨神社です。この周辺が古代の有力氏族の拠点だったのでしょう。それが中世になって出水からの灌漑用水路を整備して名主が登場し、それが国衆に成長していく様子が見えてきます。
Cには、「五条村・榎井村とともに金毘羅祭り(頭人祭り)の頭人を勤める家があり、祭りのための奉加米3石5斗が出されていた」と記されています。

苗田村も金毘羅祭り(頭人祭り)には頭人を出していました。

この祭りは、もともとは三十番社の祭りでした。それを近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神が、株取りして接木したものであることは以前にお話ししました。古代や中世には、金毘羅大権現は現れていません。この祭りを担ったのが中世の名主や地侍たちであったことについては、以前にお話ししました。
①中世の小松荘で行われていた八講会は、地頭、代官、領家などの領主主催の祭礼運営スタイルがとられていた。
②それは荘園領主の九条家が荘内の神社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとする統治意図が働いていた。
③祭礼実施のため「頭役(とうやく)」には重い負担がかかってくるので有力者が指名された。
④九条家のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていた
⑤それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになった
⑥「金毘羅山神事頭人名簿」には、慶長年間の頭人として、次のような家が記されている。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者で、「地侍」とも国衆とも呼ばれました。彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。彼らが長尾城主の長尾氏の家臣団に組織され、守護の細川氏の軍団として畿内に送り込まれていたことは以前にお話ししました。
 生駒騒動後に讃岐が東西に分割されると、新たに設置された天領・池御領を代官として苗田村の守屋家でした。
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。 幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡

その後の経緯については以前にお話ししたので、ここでは省略します。
D 金毘羅大権現参詣道の丸亀街道が村内を通り、丸亀方面からの入口に当たり、門前町に見られるような富鬮が寛保元年、芝居が寛延3年・宝暦9年に行われている。
E 遊女も多く、風呂屋といわれる置屋もあって、遊女が門前町に入り込み問題となった。
Dについては、金毘羅参拝道の髙松街道沿いに発展したのが榎井村で、丸亀街道沿いに発展したのが苗田村になります。高灯籠から石井神社には門前町としての街並み形成が近世末には見られたようです。そして、Eのように苗田から金毘羅に遊女が入り込んで問題となります。榎井と同じように、苗田村では丸亀街道沿いに家並み形成が行われていた所もあったことがうかがえます。

G 氏神は石井八幡で、金毘羅大権現別当金光院で灌頂などがあった後に、愛宕権現称名寺鎮守と五条村大井八幡・榎井村春日明神と当村の石井八幡を参詣して回る五社参りが行われた。

Gの石井神社では、金光院 → 愛宕権現称名寺 → 大井神社 → 春日神社 → 石井神社の五社参り(巡礼)のひとつであったとあります。この背後には、金毘羅門前町の民政を取り仕切った普門院(多聞院)の組織力が働いていたと私は考えています。多聞院(片岡氏)は、土佐の仁淀川沿いの片岡の有力国衆で、長宗我部滅亡後に金光院に呼ばれて金毘羅にやって民政を統括します。片岡氏は、吉野参りを何度も行う真言系修験者で、彼を頼って全国から修験者が金比羅にやってきます。彼らは、金比羅周辺の堂や庵に住み着いて、天狗信仰や愛宕信仰などを拡げていきます。榎井や苗田などの神社も、彼らの影響下にあったようです。そして、寺領と天領の村社の別当寺的な役割を果たしていたようです。
佐渡島の大般若経 榎井・苗田からの搬出

  それを裏付けるのが上の佐渡島の佐渡市文化財指定の大般若経です。その解説は、次のように記します。
「この写経は、比叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していた。それが慶長十年(1605)、法印快秀の手によって(佐渡島の)畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、もともとは石井(苗田)・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。有力寺社では毎年期日を決め、恒例行事として大般若経の転読が行われていたことは以前にお話ししました。そのため大般若経を持っているかどうかが、寺社のステイタスを表すものでもあったようです。それが共有されていたということは、背後の別当寺が同一であったことがうかがえます。そして、それは金毘羅寺領の民政を担当する普門院(多聞院)であったという可能性が高くなります。
  尻切れトンボ的になりますが、今回はこのあたりで終わります。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
丸亀街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社と金刀比羅街道
拡大版 苗田村の石井神社周辺と丸亀街道
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CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」

という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
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 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

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