満濃池の石造底樋(まんのう町かりん会館前)
木造底樋から石造物に、転換された工事が行われたのは、嘉永五(1852)年のことでした。しかし、石材を組み立てた樋管の継ぎ手に問題があったこと、2年後の嘉永七年に大地震があったことなどから、樋管の継ぎ手から水が漏れはじめて、満濃池は決壊します。高松藩の事件などを記した『増補高松藩記』には、「安政元年六月十四日地震。七月九日満濃池堤決壊。田畝を多く損なう」と、簡潔な記述があるだけです。
そんななかで私が以前から気になっていた記録があります。
決壊から約60年後の大正4(1915)年に書かれた『満濃池由来記』(大正四年・省山狂夫著)です。
ここには、決壊への対応が次のように記されています。
七月五日午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。七月六日三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。一番ユルと二番ユルの間に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。七月七日夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。七月八日
夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。七月九日高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官。朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。この時の破堤の模様について、「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚鼈(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」
この記述を見ると気がつくのは、対応の記述内容が非常にリアルなことです。
「土俵六十袋・直径三メートルほど陥没・二隻の船で土俵三百袋を投入」などの具体的な数字が並びます。時代がたつにつれて、記憶は薄れて曖昧な物になっていきます。それなのに、昨日に見てきたような情景が、後世の記録に叙述されるのは「要注意」と師匠からは教えられました。「偽書」と疑えというのです。比較のために、同時代の決壊報告記録を見ておきましょう。
【史料1】
六月十四日夜、地震十五日暁二至小地震数度、十五日より十二日二至、京畿内近江伊勢伊賀等地大二震せしと云( 中 略 )九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツヽ残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二て さや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、尤四五日前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
意訳変換しておくと
6月14日夜に大地震、15日暁には小地震が数度、京畿や近江・伊勢・伊賀などで大地震が起きたという。( 中略 )7月9日に、満濃池堰堤が長さ四十間余りに渡って決潰、そのため下流の那珂郡は大水で田畑や人家に大きな被害が出ている。堤は六十間余の所が、両方から七八間だけが残って、真ん中の四十間余りが切れている。金毘羅は大水害で、鞘橋の上に一尺ほども水が流れ、橋は大きな損傷を受けている。町々の人家へも水は流れ込み、被害が出ている。もっとも水漏れ発見後に、郡奉行代官が出張指揮して、下流の人々へ注意を呼びかけていたので、人や馬などに怪我などはない。また、貯水量が満水でなく無之、4割程度であったので水の勢いも小さく被害は少なく終えた。
【史料2 意訳のみ】
一 四日頃より穴が開いて、だんだんと大穴になって、堰堤は切れた。堰堤で残ったのは四五拾間ほどで、池尻の御領池守の居宅は流された。死人もいるようだ一 金毘羅の榎井附近の町屋は、腰まで水に浸かった。金毘羅の阿波町も同じである一 鞘橋はあやうく流されそうになったが、なんとか別条なく留まった。一 家宅は、被害が多く出ている一 田んぼなどには被害はないようだが、川沿いの水田の中には地砂が入ったところもある。一 晴天が続いていた上に、田植え後のことで池の貯水量が4割程度であったことが被害を少なくした。
ここでも記されるのは、危害状況だけで堤防の決壊を防ぐために何らかの手当が行われたことは、何も記されていません。
ほぼ同時代に書かれた讃岐国名勝図会は、決壊経過やその対応について次のように記します。
讃岐国名勝図会 満濃池決壊部分
讃岐国名勝図会 満濃池決壊部分
7月4日に、樋のそばから水洩が始まった。次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
満濃池決壊で流出した底樋の石材
ここでも決壊後の具体的な対応については、何も触れられていません。ただ「見守るしか出来ないでいるうちに・・」とあります。当時の人達は、為す術なく見守るしかなかったと考える方が自然なようです。1918年(大正7)年1月に、仲多度郡が編集した『仲多度郡史』(なかたどぐんし)には、満濃池の崩壊が次のように記されています。
満濃池は寛永年間、西島之尤、之を再築して、往古の形状に復し、郡民共の恵沢に浴せりと雖も、竪樋、底樋等は累々腐朽し、爾後十五回の修営ありしか、嘉永二年に至り、又もや樋管の改造を要せり。此の時榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と議り、官に請ふて樋替を為すに当り、石材を用ひて埋樋の腐朽を除き、将来の労費を省かむとし、漸くにして共の工事を起し、数年を費して、安政元年四月竣工を告けたり。然るに同年六月地震あり。是より樋管の側壁に滲潤の兆ありしか、間もなく池水噴出するに至り、百方防禦に尽し、未た修理終らさるに、大雨あり。漏水増大して遂に防く能はす、七月九日の夜堤防決潰し、池水底を抑ふて那珂、多度両郡に法り、数村の緑田忽ち河原と変し、家屋人畜の損害亦彩しく、 一夜にして長暦の昔の如き惨状を現はし、巨額の資金と数年間の労苦は、悉く水泡に帰したり。是歳、十一月四日大地震あり。家屋頻に傾倒するを以て、人皆屋外に避難せり。翌五日綸ヽ震動を減したるも、尚ほ車舎を造りて寝食すること十数日に渉れり。而して此の地震は、翠年の夏に命るまて、時々之を続けたり。当時民屋の破壊せしもの数千月にして、実に讃地に於ける未曾有の震災と云ふべし。
意訳変換しておくと
満濃池は寛永年間に、西嶋八兵衛之尤が再築して往古の姿にもどし、郡民に大きな恵沢をもたらすようになった。しかし、竪樋、底樋等は木造なので年とともに腐朽するので、交換が必要であった。そのため十五回の修営工事が行われてきた。嘉永二年になって、樋管の交換が行われることになった。この時に榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と協議して、幕府の代官所に底樋に石材を用いて、以後の交換工事をしなくて済むように申し出て許可を得た。こうして工事に取りかかり、数年の工事期間を経て、安政元年四月に竣工にこぎ着けた。ところが同年六月に大地震があり、樋管の側壁に隙間ができたようで、間もなく池水が噴出するようになった。百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し、池水は那珂、多度両郡に流れ込み、数村の水田をあっという間に河原とした。家屋や人畜の損害も著しく、一夜にして惨状を招いた。こうして巨額の資金と数年間の労苦は、水泡に帰した。(後略)
水漏れ後の対策については「百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し・・・」とあるだけです。ここにも具体的な対応は何も記されていません。「漏水は増大して止めようがなくなった」のです。ただ「百方防禦に手を尽した」とあるのが気になる所です。これを読むと、何らかの対応があったかのように思えてきます。そうあって欲しいという思いを持つ人間は、これを拡大解釈していろいろな事例を追加していきます。ありもしないことを「希望的観測」で、追加していくのも「歴史的な偽造」で偽書と云えます。
そういう視点からすると『満濃池由来記』の次のような記述は、余りに非現実的です。
「土俵六十袋を投入・「夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。」「阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。」「高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。」「二隻の船で土俵三百袋を投入。」
同時代史料には、何も書かれていない決壊時のいくつもの対応記事が、非常に具体的にかかれているのです。また『満濃池由来記』と、ほぼ同時代に書かれた仲多度郡史にも、「決壊対策」は何も書かれていません。
以上をまとめると
①満濃池の漏水が始まった後に、決壊対応措置をとったことを記した同時代史料はない
②公的歴史を叙述した大正時代の仲多度郡史にも、何も書かれていない。
③大正時代に書かれた『満濃池由来記』だけが、具体的な対応策を書いている。
④作者もペンネームで、誰が書いたのか分からない。
以上から、私は『満濃池由来記』の記述は「何らかの作為に基づく偽証記事」と考えるようになりました。所謂、後世の「フェイクニュース」という疑いです。
以上をまとめると
①満濃池の漏水が始まった後に、決壊対応措置をとったことを記した同時代史料はない
②公的歴史を叙述した大正時代の仲多度郡史にも、何も書かれていない。
③大正時代に書かれた『満濃池由来記』だけが、具体的な対応策を書いている。
④作者もペンネームで、誰が書いたのか分からない。
以上から、私は『満濃池由来記』の記述は「何らかの作為に基づく偽証記事」と考えるようになりました。所謂、後世の「フェイクニュース」という疑いです。
それならば作者は、何のためにこのような記事を書いたのでしょうか?
そこには、幕末の満濃池決壊の評価をめぐっての「意見対立」があったようです。この決壊に対して、地元の農民達は、工事直前から「欠陥工事」であることを指摘して、倉敷代官所へ訴え出ていたことを以前にお話ししました。そのため決壊後も工事責任者である長谷川喜平次に対する厳しい批判を続けたようです。つまり、水利責任を担う有力者と農民たちが長谷川喜平次の評価を巡って、次のような論争が展開されます。
①評価する側
農民達のことを慮って、木造底樋から石造化への転換を進めたパイオニア②評価しない側
底樋石造化という未熟な技術を採用し、満濃池決壊を招いた愚かな指導者
①の立場の代表的なものが、前回見た讃岐国名勝図会の満濃池の記事の最終部分です。そこには次のように記されていました。(意訳変換済み)
もともと、満濃池の底樋は木造だったために、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天はは御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている
②の農民の立場からすると、彼らは倉敷代官所に次のような申し入れをしていました
長谷川喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。
それに応ぜずに工事を継続した長谷川喜平次の責任は重い。にも関わらず責任を取って、止めようともしない。話にならない庄屋という評価です。こうした分裂した評価が明治になっても、引き継がれていきます。そして、満濃池の水利組合の指導部と、一般農民の中の対立の因子の一つになっていったようです。それが農民運動が激化する大正時代になると、いろいろな面に及ぶようになったことが考えられます。
作者の「省山狂夫」が、どんな人物なのかは分かりません。
名前からして本名ではないようです。本名を隠して書いているようです。分かることは、彼が庄屋たち管理側が決壊に際して、できる限りの対応を行ったことを主張したかったことです。それが、このような記事を彼に書かせた背景なのだと私は考えています。
長谷川喜平次をめぐる評価は、その後の周辺町史類にも微妙な影響を与えています。ちなみに満濃池土地改良区の「満濃池史」や満濃町史は、もちろん①の立場です。それに対して「町史ことひら」は、②の立場のような感じがします。
名前からして本名ではないようです。本名を隠して書いているようです。分かることは、彼が庄屋たち管理側が決壊に際して、できる限りの対応を行ったことを主張したかったことです。それが、このような記事を彼に書かせた背景なのだと私は考えています。
長谷川喜平次をめぐる評価は、その後の周辺町史類にも微妙な影響を与えています。ちなみに満濃池土地改良区の「満濃池史」や満濃町史は、もちろん①の立場です。それに対して「町史ことひら」は、②の立場のような感じがします。
江戸時代後期になって西讃府史などの地誌や歴史書が公刊されようになると、この編纂の資料集めをおこなった庄屋たちの間には、郷土史や自分の家のルーツ捜し、家系図作りなどの歴史ブームが起きたようです。そんな中で、自分の家の出自や村の鎮守のランクをより良く見せたりするために、偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されて、私たちを惑わしてくれます。
以前にもお話ししたように、江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
以前にもお話ししたように、江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、今では椿井文書通りの式内社に位置づけされているようです。こうして、地域の鎮守社を式内社に格上げしていく試みが始まります。このような動きはの中で、満濃池の池の宮の「神野神社」への変身と、式内社化への動きもでてくるようです。歴史叙述には、自らの目的で、追加・書き換えられるものでもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「満濃池史」110p 幕末の満濃池決壊