瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:長谷川翁功徳之碑

満濃池堰堤の石碑
満濃池の3つの石碑
満濃池堰堤の東側に建っている石碑巡りを行っています。
 ① 長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記    (明治 8年)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
前回は①について、長谷川佐太郎が満濃池再築の功績により、朝廷から藍綬褒章を賜ったのを機に建立されたものであることを見ました。忘れ去られようとしていた長谷川佐太郎は、この石碑によって再評価されるようになったともいえる記念碑的なものでした。
今回は、②の「真野池記」です。この石碑は、神野神社に登っていく階段の側に建っています。昨日見た①の長谷川翁功徳之碑が大きくて、いかにも近代の石碑という印象なのに対して、自然石をそのままつかった石材に、近世的な感じがします。しかし、当時の人達には「大きいなあ」という印象を与えたはずです。
   この石碑は明治3年の満濃池再築を記念して建立されたものです。
 幕末に決壊した満濃池は、14年後の明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で再築されます。これを記念して建立された石碑になるようです。そういう経緯からして、この石碑も長谷川佐太郎顕彰碑的なものと、私は思っていました。実際に見ていくことにします。

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弘仁八年旱自四月抵八月郡懸奏之僧空海暮蹟也平時京寓十二丑三月命於是乃甘臨民乙己成霊汪元暦元五月朔洪淵涌天破堤而謂池内村寛永三夏九十五日不雨生駒高俊臣西嶋之尤廓度之五歳創貴鋪八辛未果編戸歓賞文化十季丈為猪辰豹変水啼之嫌囃恟後指役先寇攘丁械摸五表拾克騏羅霧集上下交征利讃法庫有信直者厭夥粍訴請冑以庵治石畳方欲傅無疆嘉永二秋経始明春半済同五継築頻崩潰至七寅春梢畢菊以石泰之不能釘用嘗庸水候雷流井読潜瓜洞出而樋外漫滑布護豊囲同白七月五日格九日肆陳渫漑ド大残害黎首琥泣荒時信直幄轄反側将再封因九合三藩丸亀多度津失三為垂戻故木移浹辰為赤地笙涌気浚井設梓夙夜橘挽妻夫汲々老稚配分炎熱如燃汗如沸希水臍疲渇望洽祈雨燎矩奉百神偶甘雷堪憐田如鰐口剖然則何益矣慶唐二八月七日蕩々森漫懐山資丘琴平屋橋落雨町暴浦老弱男女暁眺泣血漣如溺回計家財大木乏々詠連典北邨旋陀羅鳩漂流越市郷為空動浩魅浅襲穀深為諸坪允巨妃莫比農商歎憚不逞書契焉明々陣頼總朝臣在屯之初九陽徳兼玄黄元々如父母思服如衆星共之三田深田木崎障溜三新池.欲使萬湖穿岩壁先寒川郡使兼勒沼試可最元吉松崎祐敏慨然以一手欲経営之遭戎東愈労働十七暦明治二九月谷本信誼督発旱工既成者翌稔也壬申大膜源泉混々拝穂之瑞敞閉復蘇踊躍不焉余環匝徴徹塞尾張有人鹿池沈波及八万石云雖然械浸吐繕同州甲費也如十市者天下一懸高五万石育磐石防聊数十間双沃欧昔昔空海不究勲天乎命平君地平悠遠省國等賞鴻恩均乾坤公俊徳尖被六合嗚呼可謂累緒不朽神功者也矣
千秋来暦萬濃池為野為原嘉永時百姓傷心将廿載天成磐賓不窮乖鳳鳥翻東海雛離万里嗚仁人民父母親去子何行真野乃池者池之大王動無石械示早流水能白憧
 明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
意訳変換しておくと 
①弘仁八年(817)旱魃は4月から8月まで続いたので、国司は朝廷に大池を築くことを奏上した。よって、池を築いたのは僧空海の業績である。この時に、彼は都に住んでいたが3月に、朝廷からの命を受け讃岐に帰り、人民たちに接した。人々は子が親を慕うように働くこと七か月、弘仁十二年(822)に立派な池が完成した。

②元暦元年(1184)5月1日に大洪水があって天まで水が届き、堤は破壊された。(その後、池跡は開墾され村が出来たので)、この地を池の内と言う。

③寛永三年(1626)夏、95日間に渡って雨が降らない。丸亀城主生駒高俊は、家来の西嶋之尤に、満濃池再築を命じ、五年にして完成させた。りっぱな鍬を創作し、辛未には新しく戸籍を作る。民はその治世を賞賛した。

④文化十年(1813)は旱魅と洪水とがともに襲ってくる恐ろしい災難の年であった。もっこで土を運ぶか運ばない内に、雨で土が削り取られて流されてしまう。池の配水口の所に五基の功績を表わした碑を誇らしげに建てた。しかし、修復に集まった人々は上下こもごも自分たちの利益に目先を奪われ、修復が遅々として進まない。このため改修を官に請願し、庵治石を畳のように敷き詰める工法を採用した。

⑤嘉永二年(1849)、農閑期の秋から工事を始めて来春になると休む。これを繰り返して嘉永五年(1852)まで工事を続けたが、七度崩壊した。そのため、遂に底樋を石で造ることにした。(底樋石造化工法の採用)。ところが石なので釘を用いることができず、配水口に敷き瓦を並べたりすることで石同士を接合し、樋の外側が滑らないように布で護ったりした。しかし、7月5日から9日に、この装置が水で洗われ、ぶっつかり合って堰堤は崩壊した。そのため池の水が大流出し、下流に人きな被害をもたらした。大民たちは泣き叫び、田畑は荒れ、転々と寝返りをうって転げ回り、安んじて生活ができない。

 ⑥(満濃池が再建されず放置されたままなので)、高松・丸亀・多度津など三藩は、旱魃と水害によってしいたげられた。満濃池の水が来ないので、樋を造り、井戸をさらえて朝早くから夜遅くまで夫や妻は、つるべで水を汲む。老人や子供は暑い中で汗を流し、また雨が降るように神々に明々と燈明をあげ雨乞いをしている。神を憐んで大雨が降った。しかし益はなかった。
 慶応二年(1866)8月7日、大雨で濁流となった水は山を包み丘に登り、琴平の鞘橋を越て、各町に流れ込んだ。老若男女は泣き叫び、血を流し溺れる人の数を知らない。また大木も浮かび連なって流れて行く。洪水は村々に拡がって穀物を襲い土橋を越えて流れて行く。
 ⑦この時の高松藩主の源頼総朝臣(高松藩主松平頼総)は、人の行うべき九つの徳を構え、民衆から子の父を慕うように心服されていた。彼は三田と深田と木崎の三箇所に取水堰を新に造った。また池の配水口のため岩盤に穴を開ける案を計画し、寒川郡の弥勒池で試させた。
松崎祐敏は、ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ。苦労は17年間続き、明治2年9月谷本信誼の監督のもとに完成した。混々と流れ出る水は、稲田を蘇生させた。
 ⑧私が池の周囲を見回ってみると水面に高々と水門(ゆる)の装置が見える。尾張の国に入鹿池という八万石を潤す池があるというけれども、この十千池(とおちのいけ)とも呼ばれる万農池は池懸り五万石で配水口は岩盤を穿ち、石が堤防数十間に敷き詰められ肥沃な土地を造る日本一の池である。
 空海が功績を独占せずに天が君の徳に応じて与えたものである。悠然として国の土木工作に従事したことは天地の深い恵みと貴公の高い徳によるものであって、全世界に神の功績として不朽である。千年来の万濃池を野のため原のために、また清き水思う百姓の心になりて二十年の長き間、打盤
を穿ち続けたことよ。おおとりのひなを離れて万里の空を天翔る如く人民の父母と慕いし徳高きあなたは今何処に行かれる。真野池は池の大王なり、岩盤に流れ走る水は白き大のぼりなり。
碑文の内容を整理しておきます。
①前文で、空海の満濃池再築の業績を語り。
②それが平安末期に決壊した後は修復されず、池跡は開墾され「池之内村」ができていたこと
③江戸時代初期に生駒藩主高俊が西嶋八兵衛に命じて満濃池を再築させたこと。
④文化十年(1813)の災難の年に「庵治石敷詰め工法」を行ったこと
⑤嘉永二年(1849)の底樋石造化工法の採用経過と、地震による決壊
⑥満濃池決壊後の旱魃と大水の被害
⑦高松藩主松平頼総の立案と命を受けて、執政松崎渋右衛門祐敏が弥勒池で岩盤に底樋を通したこと
⑧十市池(真野池)への賛美

この内容には、いろいろな誤謬や問題があるように私には思えます。それを挙げておきます。
①②③は、満濃池の由来を記す史料がどれも触れるもので、特に問題はないようです。
④の「庵治石敷詰め工法」については、「満濃池史」などにも何も触れていません。これに触れた史料が見当たらないのです。また、香川県史年表などを見ても、この年が旱魃・大水の「災難の年」とはされていません。2月27日に金毘羅代権現金堂起工式行われたことが「金刀比羅宮史料」に記されているのが、私の目にはとまる程度です。この記事自体が、疑わしいことになります。
⑤の嘉永二年(1849)の底樋の石造化工法の採用経過については、それまでの木造底樋がうまくいかないので、途中から工法を替えて石造化にしたとあります。これも事実認識に誤りがあります。この時の工事責任者である長谷川喜平次は、当初から石造化で工事をすすめていたことは以前にお話ししました。
⑥の満濃池決壊後の状況については、治水的機能を果たしていた満濃池が姿を消すことで、洪水が多発したことは事実のようです。
⑦については、当時の高松藩主の善政を賞賛し、底樋石穴計画も藩主の立案と命であったとします。そして池の復旧に奔走したのは、執政松崎渋右衛門で「ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ」と記します。これは誤謬と云うよりも、長谷川喜平次の業績をかすめ取る悪意ある「偽造」の部類に入ります。
⑧ そして最後は、激情的な「十市池(真野池)賛美」で終わります。
満濃池 長谷川佐太郎
長谷川佐太郎
これを読んで最初に気づくのは、長谷川佐太郎の名前がどこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことが残された史料からも分かります。ところがこの碑文では、長谷川佐太郎を登場させないのです。この石碑を長谷川佐太郎顕彰碑と思っていた私の予想は、見事に外れです。意図的に無視しているようです。心血を注いで満濃池を再築した後に建立されたこの碑文を見て、長谷川佐太郎はどう思ったでしょうか? 立ち尽くし、肩を落として、唖然としたのではないでしょうか。そして、深い失意に落ち込んだでしょう。
 前回に満濃池再築後の長谷川佐太郎は「忘れ去られた存在だった」と評しました。別の視点から見ると、長谷川佐太郎を過去の人として葬り去ろうとする人達がいたのかもしれません。そのような思惑を持つ人達によって、この「真野池記」の碑文は建立されたことが考えられます。この碑文が満濃池再築の最大功労者の長谷川佐太郎を顕彰していない記念碑であることを押さえておきます。
それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
石碑の最後には、次のようにあります。
明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建

ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
矢原正敬(まさよし 1831~1920)のことが満濃町誌1069Pに、次のように記されています。
矢原家はその家記によると、讃岐の国造神櫛王を祖とし、その35代益甲黒麿が孝謙天皇に芳洒を献じて酒部の姓を賜り、797(延暦十六)年から那珂郡神野郷に住み、神野山にその祖神櫛王を奉斎したと伝えている。
その子正久は矢原姓を称し、808(大同三)年に神野社及び加茂社を再建した。また、弘仁年間に空海が満濃池築池別当としてその修築に当たった際、この地方の豪族としてこれに協力した。
52代正信は、1371(応安四)年に向井丹後守・山川市正と共に神野神社を建て、1393(明徳4)年に神野寺を再建した。
その後裔、矢原又右衛門正直・正勝らを経て、69代正敬となった。正敬は、初めは赤木松之助と称したが、のち矢原家に入籍して矢原理右衛門正敬と改め、西湖又は雲窓と号した。正敬は資性鋭敏で文学を好み、漢学に通じ、詩歌・華道をたしなみ、土佐派の絵を能くするなど多趣多芸の文人であった。
 1902(明治35)年から明治41年まで神野村村会議員を勤め、また仲多度郡郡会議員も勤めた。大正九年八月十七日、八十九歳で没した。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池の下の矢原邸(讃岐国名勝図会)
  ここに書かれているように矢原家は、古い家系を誇る家柄のようです。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
①神櫛王の子孫であること
②古代の満濃池築造の際に、空海は矢原家に逗留したこと
③中世には、満濃池跡地にできた池之内村の支配者で、神野神社や神野寺を建立したこと
④近世には、生駒家の西嶋八兵衛による満濃池再築に協力し、その功績として池守に就任したこと
⑤しかし、天領池御料設置で代官職が置かれると、その下に置かれ、17世紀末には池守職を離れたこと。
①の神櫛王伝説自体が中世に造られた物語であることは、以前にお話ししました。つまり、神櫛王の子孫と称する人達は、中世以後の出自の家系になります。矢原家を古代にまで遡らせる史料は何もありません。よって②については、そのままを信じることは出来ません。
 矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
 ただ以前にお話ししたように、底樋の石造化を進めた長谷川喜平次の評価が分かれていたように、長谷川佐太郎についても、工事終了時点では評価が定まっていなかったことは考えられます。そのような中で、矢原家の当主は長谷川佐太郎の業績を記さず、記録から抹殺しようとしたことは考えられます。しかし、その後朝廷からの叙勲を長谷川佐太郎が得ます。
「勲章を貰った人を、地元では粗末に扱っていると云われていいのか」
「真野池記」には、長谷川佐太郎のことは何も書かれていないぞ、あれでいいのか」
「満濃池再築に、尽力した長谷川佐太郎を顕彰する石碑を建てよう」
という流れが生まれたのではないかと私は考えています。
そういう意味では「① 長谷川翁功徳之碑」は、「② 真野池記」を否定し、書き換える目的のために建立されたものと云えるのかも知れません。

以上をまとめておきます。
①明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で満濃池は再築された。
②しかし、直後に建立され「② 真野池記」には、長谷川佐太郎の名前は出てこない。
③意図的に長谷川佐太郎の業績を無視するような内容である。
④この碑文を起草者は、かつての満濃池の池守の子孫である矢原正敬とその子・正照である。
⑤明治29年に長谷川佐太郎は朝廷から叙勲を受けるが、これを契機に彼に対する評価が変わる。
⑥そのような機運の中で満濃池再築の最大の功労者である長谷川佐太郎を正当に評価するために、新たな石碑が建てられることになった。
⑦それが「① 長谷川翁功徳之碑」である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献
満濃池史398P 真野池記 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代


満濃池 現状図
 
昨年の12月に、2つの団体を案内して「ミニ満濃池フィルドワーク」を行いました。その時に、たずねられたのが堰堤の石碑に何が書いてあるかです。石碑の内容を一言で、説明するのはなかなか大変です。そこでここでは、敢えてその全文と意訳文を載せておくことにします。
満濃池の堰堤の東の突き当たり附近には、3つの碑文があります。

満濃池堰堤の石碑

右から順番に記すと次の通りです。
 ① 松坡(しょうは)長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記(明治3(1870)年以降)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
まず①の石碑から見ていきます。
この碑は明治29(1896)年11月に長谷川佐太郎の功績を讃え、朝廷より藍綬褒章及び金五十円を賜ります。これを機に、長谷川佐太郎への再評価の機運が高まります。その機運の中で建立されたと碑文の最後尾に記されています。明治の元勲・山縣有朋が題字、子爵品川彌二郎の撰文、衣笠豪谷の書になります。それでは全文を見ておきます。
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            長谷川翁功徳之碑
  長谷川翁功徳之碑 
          従一位勲一等候爵山鯨有朋篆額

壽珊道禰於徳依於仁遊於蔡蓋長谷川翁之謂也翁名信之字忠卿琥松披称佐太郎讃岐那珂郡榎井村豪皇考練・和似姚為光氏翁為大温良有義気好救人急 夙憂王室式微輿日柳燕石美馬君田等協力廣交天下郎藤本津之助久阪義助等先後来議事文久三年有大和之挙翁奥燕石整軍資将赴援聞事敗奉阜仲小に郎来多度津翁延之姻家密議徹夜高杉晋作転注来投翁血燕石君田等庇護具至既而事覚逮櫨菖急使者作揮去燕石君田下獄翁幸得免替窺扶助両家族 及王政中興翁至京都知友多列顕職勧翁仕會翁固辞面婦素志専在修満濃池池為國中第一巨浸自古施木閉毎年歳改造為例嘉永中変例畳雑石作囃隋漏生蜜水勢蕩蕩決裂堤防漂没直舎人畜亘数十村田時率付荒蕪爾来十四年旱潜瑛萬民不聊生翁恨肺計奎修治屡上書切請明治三年正月得免起工高松藩松崎佐敏倉敷懸大参事島田泰夫等克輔翁志朧閲川告竣単工十四萬四千九百九十六人荒蕪忽化良田黎民励農五稼均登藩侯賞 翁功許称姓帯刀且購米若芭翁撰為区長後為満濃池神野神社神官廿七年叙正七位翁多年去庫國事頗傾儲蓄且修満濃醜蕩粛家産遂為無一物亦隅踊焉洋洋焉縦心所之楽書書好徘句不敗以得襄介意尚聞義則趨聞仁則起可謂偉矣廿八年満濃池水利組合贈有功記念章於翁且為翁開賀宴會者三百五十鈴大寄詩歌連徘頌翁嫡片亦無笑廿九年十一月朝廷賞翁功賜藍綬褒章及金五拾圓云郷大感懐仁慕義青謀建碑請文予乃序繁以斟
 明治廿九年 従二位勲二等子爵品川輛二郎撰 衣笠豪谷書
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長谷川翁功徳之碑

意訳変換しておくと
人の志は道により、徳は仁において、遊は芸による。長谷川翁の名は信之、字は忠卿、号は松披佐太郎と称す。讃岐那珂郡榎井村の豪農である。いみ名は和信、母は為光氏。翁の人となりは、温良義気で、よく人の危急を救った。
特に幕末の王室の衰微を憂い、日柳燕石・美馬君田等と協力して広く天下の士と親交を結んだ。松本謙三郎・藤木津之助・久坂義助らが前後して琴平にやって来て、密議をこらした。文久三年の大和の天誅組の義挙に際しては、燕石と共に軍資を整えて、大和に行こうとしたが、時既に遅く果たすことができなかった。桂小五郎が多度津にやって来た際には、親戚の家に迎えて、夜を徹して話し合った。後に、高杉晋作が亡命してくると、燕石や君田らと共に疵護した。これが発覚し、晋作は逃亡させたが、燕石・君田は捕えられ高松で投獄された。翁は幸に逮捕をまぬかたので、ひそかに両家族を扶助した。
 明治維新になると、京都に上って顕職を求める知友もいて、翁に仕官を勧める者もいた。しかし、翁は固辞して故郷に帰った。その志は、満濃池の修築にあった。池は讃岐第一の大池であったが、木製の底樋のために三十年に一回は改修工事が必要であった。さらに嘉永中(1854)底樋の石材化工事が行われた際に、工法未熟で漏水を生じた上に、宝永の大地震のために堤防が決裂した。そのため民家人畜の漂没するものが数十村に及び田畑は荒れるに任かせた状態になっていた。以来14年旱魃になっても水はなく、作物はできず人々は苦労していた。翁は慨然として、再築計画を何度も倉敷代官所に上書請願した。明治3年正月になってようやく政府の免許が下り、起工した。高松藩の松崎佐敏・倉敷懸大参事島田泰夫などが、翁の志を支援して五か月竣工人夫十四万四千九百九十六人荒地は良田と化し、零細農民に至るまで五穀等しく稔った。藩は翁の功績を賞し、姓を与え帯刀を許し、且つ賜米若干包を下賜した。
こうして、翁は撰ばれて区長となり、後には満濃池神野神社の神官となった。そして明治27年に正七位に叙せられた。翁は多年に渡って国事に尽力し、自分の財力を傾けて満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。また義におもむき仁に立つなど偉大というべき人物である。
 明治28年、満濃池水利組合は有功記念賞を贈り、翁のため祝賀会を開いた所、参加者は350人を越えた。翁の徳を讃えた29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。
本文の内容を整理しておきます
①段目は、長谷川佐太郎の出自と人なりです
②段目は、勤王の志士としての活動で、特に日柳燕石とともに高杉晋作の支援活動
③段目は、満濃池再築に向けての活動
④段目は、再築後の隠居生活

現在の視点からすれば②段目は不要に思えるかもしれませんが、戦前では「勤王の志士」というのは、非常に価値のある言葉でした。戦前の皇国史観中心の歴史教育の中で、華々しく取り上げられたのは「皇室に忠義を尽くした人々」です。その中で、南北朝の南朝の楠木正成や、幕末の薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作は、功労者として教科書に取り上げられます。これに倣って、各県の郷土史教育でも「忠信愛国」の郷土の歴史人物が選定されていきます。その中で香川で取り上げられるのが琴平の日柳燕石です。「高杉晋作を救って、そのために下獄していた」というのが評価対象になったようです。また、戊辰戦争中に戦死しているのも好都合でした。その人間が生きている内は、なかなかカリスマ化できません。こうして日柳燕石についての書物は、伝記から詩文にいたるまで数多く戦前には出版されています。彼の裏の顔である「博徒の親分」というのは、無視されます。その燕石と活動をともにし、獄中の燕石を支援したというのは、書かずにはおれない内容だったのでしょう。
③段目の満濃池再築については、記述に誤りはありません。
④段目には「満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。」とあります。区長とありますが戸長です。しかし、長谷川佐太郎はこれを、すぐに辞退しています。そして、「家産をなくし無一物となるとも、一人静に心に従って俳句を好む」生活を送っていたのです。長谷川佐太郎は忘れ去られていたのです。それが明治27年に正七位に叙せられ、その2年後には藍綬褒章を受賞します。これを契機に周囲からの再評価が始まるのです。その出発点として、姿を見せたのがこの碑文だと私は思っていました。ところが裏側に刻まれた建立年月をみて驚きました。

P1260755
松坡長谷川翁功徳之碑の裏面
   【碑文 裏】
 昭和六年十月吉祥日建之
    滿濃池普通水利組合管理者
     地方事務官齋藤助昇
       建設委員 田中 正義
        仝   谷 政太郎
        仝   塚田 忠光
        仝   三木清一郎
        仝   三原  純
  香川県木田郡牟礼村久通
  和泉喜代次刻

   碑文表の最後には「翁の徳を讃えて明治29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。」とあります。碑文は、その前後に建立されたはずなのですが、現在の石碑の裏側には、「昭和六年十月吉祥日建之」とあります。そうすると、この碑文は2代目のもので再建されたものなのでしょうか。この辺りのことが今の私には、よく分かりません。ご存じの方がいれば、教えて下さい。
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最後の詩文の部分です。
 入賓始築萬農池 弘仁奉勅空海治 寛永補修雖梢整
 嘉永畳石累卵危 安政蟻穴千丈破 慶唐旱僚萬家飢
 松波老叟振挟起 壹為國土借家貨 章懐底績農抹野
 承前善後策無遺 曽悼亡友管祠宇 趨義拒肯畏嫌疑
 人富居貧率天性 蓋忠報國心所期 不侯櫨傅遭顕達
 山来天爵大宗師
意訳変換しておくと
 大賞年間に始めて満濃池を築き、
弘仁年間に時の天皇の勅を承って空海が手を入れ直し、
寛永年間に補修を加えて漸く整備されたけれども、
嘉永年間に石を畳んだものの崩れやすく、極めて危険な状態であり、
安政年間には堅固な堤防も蟻のあけた小さな穴がもととなり崩れてしまい、
慶応年間の日照りと長雨による洪水によって多数の人々は食物を得られずひもじくなった。
松披老翁が袂を振るって一大決心をして満濃池の修治に起ち上がったのは、
偏(ひとえ)に国のためであり、どうして家の資産を使用することを惜しむことがあろうか。
深く懐の底に思いをいたして事にあたったので農民達は野で手を叩いて喜び、
前を引き継いで善後策にも遺す所がなく、
かつて亡友を悼んで神社を営み、
義に趣いてそのためには嫌疑を畏れることはなかった。
富を去って貧に居るという天性に従い、
国のために忠義を尽すことは心に期す所であり、
世間の評判や立身出世を待たなかったことは、                   
生まれつきの徳に由来する大宗師といえよう。

長谷川佐太郎顕彰碑
        満濃池と松坡長谷川翁功徳之碑
碑文前の台石には、現代文で次のように記します。

  P1160062
        【台石】 松坡長谷川翁功徳之碑
 長谷川佐太郎は松坡と号し幕末から明治にかけて満濃池の再築に家財を傾けて尽力した人である。榎井村の豪農の家に生まれ勤王の志士日柳燕石と交流し幕吏に追われた高杉晋作を自宅にかくまうなど幕末には勤王運動にも挺身している
 一方、安政元年に決壊した満濃池は、その水掛かりが高松・丸亀・多度津の三藩にまたがり一部に天領も含まれていた。このため復旧には各藩の合意を必要としたが意見の一致を見ないまま十六年のあいだ放置されていた。この間長谷川佐太郎は満濃池の復旧を訴えて、倉敷代官所や各藩の間を奔走するが目的を果たせないままやがて幕府は崩壊する。
 彼は好機到来とばかり勤王の同志を頼って上京し維新政府に百姓たちの苦難を切々と訴え早期復旧の嘆願書を提出した。この陳情が功を奏し、高松藩の執政松崎澁右衛門の強力な支援のもとに明治二年着工にこぎつけ同三年に竣工した。この間彼は一万二千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失い清貧に甘んじている。この碑は彼の功績を称え 明治の元勲山形有朋が題字を、品川弥次郎が撰文したものである。扇山
3つの碑文の内の最初に長谷川佐太郎のものを紹介しました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
讃岐人物風景 8 百花繚乱の西讃 四国新聞社 大和学芸図書 昭和57年

後日の補足
後日に、讃岐人物風景8の「長谷川佐太郎」には、次のように記されているのを見つけました。

このように私財をすべて投入し満濃池修築に献身するとともに動皇家としても立派に活動した。二面の顔を持つ佐太郎は、明治五年(1872年)香川県第五十八区戸長に任ぜられた。数カ月後に辞し、同年八月には松崎渋右衛門の祠を建て松崎神社とした。その後、神野神社の神官に任ぜられ、明治二十七年(一八九四年)には正七位が贈られた。
 明治二十八年(1895年)には満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈られて、三百五十人の参加で慰労の宴が催された。毎年五十円ずつを佐太郎に贈りその労をねぎらうことになった。翌二十九年(一八九六年)七十歳のとき、藍綬褒章が授与されたのである。
 大正四年(一九一五年)人々は佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀し、昭和六年十二月六日佐太郎頌徳碑を池畔に建立し永遠にその徳をたたえている。
 国と郷土に私財をなげうって奔走した佐太郎も晩年は不運のうちに生涯を閉じた。しかしその心意気は末永く人々の心に残り生き続けている。
 子孫と称する人が大阪、奈良、東家から丸尾家を訪れたのも数年前のことであり、佐太郎の妹が多度津へ嫁いだ先は薬局を営んでいたともいわれる。
 佐太郎は、明治三十一年(一八九八年)一月七日、七十二歳で象頭山下のふるさとで没し、いまもこの地で眠り続けている。 
これらを年表化すると次のようになります。
①1894(明治27)年 正七位が贈呈。
②1895(明治28)年 満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈呈
③1895(明治28)年 第1次嵩上げ工事実施
④1896(明治29)年 70歳のとき、藍綬褒章が授与
⑤1898(明治31)年 1月7日、70歳で没。
⑥1915(大正 4)年 佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀
⑦1930(昭和 5)年 第2次嵩上げ工事
⑧1931(昭和 6)年 12月6日 佐太郎頌徳碑を池畔に建立
⑨1941(昭和16)年 第3次嵩上げ工事
 ここからは次のようなことが分かります。
A ③の第1次工事の直前に、水利組合が褒賞していること。しかし、石碑は建立されていないこと。
B ⑦の第2次工事直後に、石碑は建立されたこと。
ここからは、嵩上げ工事が行われる度に、長谷川佐太郎の業績が再評価されていったことがうかがえます。それが1931年の石碑建立につながったとしておきます。長谷川佐太郎に藍綬褒章が授与されて、すぐに建立されたのではないことを押さえておきます。別の見方をすれば長谷川佐太郎の業績褒賞を、嵩上げ工事推進の機運盛り上げに利用しようとする水利組合の思惑も見え隠れします。
参考文献 
満濃池史391P 松坡長谷川翁功徳之碑 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代

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