讃岐からの移住団をひきいてやって来た三橋政之について
三橋政之について「讃岐移民団の北海道開拓資料」の中に詳しい紹介があった。この本は大久保諶之丞の末裔の方が諶之丞に関する北海道開拓移住関係の貴重な書簡や資料をまとめて出版されたものだ。その中に、「洞爺村史」の中の三橋政之に関する部分が全文掲載されている。以下、紹介する。
三橋政之(伝四郎)の父は、間宮藤兵衛光庸といい丸亀藩士であった。
間宮家は丸亀藩士で郡奉行などを代々勤める百三十石の家柄であった。政之は二男で嘉永元年(一八四八)一月十一日に生れ伝四郎と名付けられた。兄は光輝、弟は後に政之と共に北海道へ移住し開拓功労者のひとりとなった間宮光貫である。
三橋政之(伝四郎)の父は、間宮藤兵衛光庸といい丸亀藩士であった。
間宮家は丸亀藩士で郡奉行などを代々勤める百三十石の家柄であった。政之は二男で嘉永元年(一八四八)一月十一日に生れ伝四郎と名付けられた。兄は光輝、弟は後に政之と共に北海道へ移住し開拓功労者のひとりとなった間宮光貫である。
一方、養子先の三橋家は藩主京極氏の古い家臣で、佐々木京極といわれた近江時代から仕えていたといわれる。
洞爺の倉庫の中から発見された柳行季の中から出てきた三橋家の系図では、 藩主に従って丸亀に移って来た時から書かれている。
洞爺の倉庫の中から発見された柳行季の中から出てきた三橋家の系図では、 藩主に従って丸亀に移って来た時から書かれている。
三橋家の丸亀初代は、三橋安太夫政宗で百三十石、寛文四年二六六四)に病死している。このあと、丸亀三代政常が亡くなった時、甥の敬英が養子となったが、跡目相続の遅れで、新知といって新しく禄を受ける形になり、半分の七十石になった。
次の正為は、大目付などを勤めて功績があり、加増されて九十石、伝四郎が養子にいった時も禄はそのままで、養父の武太夫政一は、普請奉行を経て大目付を勤めていた。
政之の叔母のヤエは初め常代のち吉といった。
同じ藩の侍である三橋武太夫政一のところへ嫁いでいたが、子どもがなかったので、自分の兄の光庸に頼んで、伝四郎を跡とりにすることにした。
伝四郎すなわち後の政之は養子として三橋家を継ぐことになった。
伝四郎すなわち後の政之は養子として三橋家を継ぐことになった。
当時の武士の家は、丸亀城の城郭の中に建てられていた武家屋敷の中にあった。三橋の屋敷はこの城の東郭の中で、もとの三番町といったところにあった。敷地は三九一坪で、伝四郎の控によると、
「私居宅、四開梁に桁行七間、南手へ五間、東手へ四間、両様共、尾ひさし付き、何年の頃取建候や、手暦相わかり難く候得共、余程、年古く相見え・…:」
と記している。伝四郎はこの家で育った。
同四年、伝四郎十才のときには、藩から貰う家禄の六割が天引されるという非常手段がとられた。生活が苦しくとも武士の対面は保たなければならない、しかも藩の内外は尊王攘夷の問題で、ようやく騒がしくなってきていた。伝四郎が育ったのはこの様な時代で、今のように恵まれた時代ではなかった。
三橋政之は必死になって文武の修業にとりくんだようである
三橋政之は必死になって文武の修業にとりくんだようである
彼は、当時の武士の子どものしきたりに従って、藩校の正明館で学問を学び、また鉄砲、槍、剣術などを師範のところへ通って修業したものと思われる。文久三年二八六三)十六歳になった時、芸州(広島県)へ剣術修行に出ている。
政之は剣道の達人であると書かれているものがあるが、後に土肥大作事件で生死を賭けた働きや維新後の邏卒や県役人の経歴などを検討してみると、度胸もあり腕の立つ人物であったことは間違いない。彼の開拓に於ける不届の闘志と、不動の信念は、実にこの剣道の修業時代に形づくられたものといえる。
文久三年(一八六三)八月京都の勢力の中心になっていた尊王攘夷派を、公武合体派がまき返して主導権をとった。丸亀藩は、藩主が上京し皇居の警備に当たることになった。藩では藩士の中から精鋭22名を選抜し上京させた。この中に伝四郎の兄、間宮庵や土肥大作らと共に十六歳の伝四郎が加えられた。この中では、もっとも年は若く、伝四郎にとっては最初の危険な運命との出合いであった。藩からは出発の祝として、酒一斗、干鯛五枚が下賜された。この一行は無事に年末にかけて帰藩している。
元治元年(一八六四)八月藩は堀田嘉太夫、間宮藤兵衛、原田丹下の三名に宛てて、高島流練達の土の取立てに付いて文書で命じている。
操練世話方 大塚秀治郎、間宮庵、原田八朔、三橋伝四郎など十六名 同 肝 煮 土肥大作など五名
伝四郎が、藩主の朗徹に正式に御目見を許されたのは、慶応元年(元治二年)正月であった。慶応三年五月父の武太夫政一は隠居を許され、伝四郎は二十才で家督を相続した。正式の名前も政之とすることを許され、そのまま九十石を受け継ぐことができた。同時に御側小姓、江戸勤番を仰付けられた。伝四郎は江戸藩邸に勤めること数ヶ月、藩主朗徹に従って京都へ向うことになった。
慶応三年秋、朝廷では諸大名を京都に召集してその意見を聞き、幕府の大政奉還後の政治の方針を決めることにし大名招集の大号令が下った。
「慶応三年。朗徹候江戸に在り。11月16日。迅速上京の命を蒙りしも、時恰も病獅に在りしを以て、漸く少癒を得て、十二月二十一日、江戸を発し、翌四年(明治元年)正月四日、池鯉鮒駅に至る頃、京都騒擾の報を得、急行して江州柏原駅に到るや、宿病復に発して進むを得ず。乃ち同駅附近清滝村の所領に入りで病を療する数日、同月十五日、京都に入りで西陣本條寺に宿す。時に京都鎮静に帰し、王政維新に際会す。』
(丸亀藩事蹟)
朝廷側と幕府方の決戦は朝廷側の大勝利に終り、丸亀藩は危い橋を渡らずに済んだのである。官軍の東征は二月、江戸城明け渡しは四月十一日であった。
慶応が明治という年号に改められたこの年十一月、伝四郎は藩主の養嗣子久之助の御膳番の兼任を命ぜられた。久之助は、後の子爵京極高徳で、政之が死ぬ最後まで尽力をした北海道京極農場の主となった人である。
明治二年二月、京極朗徹は版籍奉還の願いを朝廷に提出、六月、朗徹は丸亀藩知事に仕命された。十一月、伝四郎は「先役中勤労も有之」として、これまでの功績が認められ侍番所次席を命ぜられ、ついで同三年四月、常備隊令士となった。
土肥大作襲撃事件で武勇を示し、一躍時の人に
明治4年旧丸亀藩士五十一名が、県の政治の視察にきた県出身の民部省の役人、土肥大作を斬ろうとして、その邸を軋撃する事件が起きた。新時代になって藩が県となり、禄の保証も心細くなった士族の人々にとって生活の不安と困窮は甚だしいものがあったに違いない。このことが県政に対する不満と結びつき、形をかえて土肥大作に向けられてきたのである。
事件は七月十日、夜十一時頃に起きた。
『悪政の罪は、土肥大作にある。小身者が出世して藩政を専断したことに原因がある。大作を斬るべし』
と、五十人組は大作の宿舎へ斬り込んできた。大作方には大作は勿論、伝四郎をはじめ腕の立つ者が多かったので、五十人組はついに退けられてしまった。翌十一日暴徒は全部逮捕され、投獄、家禄召しあげの上、それぞれ懲役、閉門、差控えを命ぜられることになった。
七月十二日、丸亀県は事件の顛末を中央政府へ急いで届出ている。
死傷人氏名 `一、土肥大作方極浅手 土肥大作土肥大作方に寄留書生深手 三橋伝四郎同 佐治与一郎同 百々 英夫深手 田中 鍛浅手 守武政一郎二、五十一人組方(氏名略)即死 三名深手 四名浅手 五名極浅手 一名
県庁は公式には謹慎を申し渡し、知事は内々に見舞金を下している。
三橋伝四郎去る十日、土肥大作宅江寄宿申、多人数暴人、及刃傷候趣、尚可承札義有之候に付、於自宅相慎可罷在候之事。 辛未(明治四年)七月十二日 県庁
なお、伝四郎の控によると、
「七月十日夜、土肥大作方にて不慮之儀有之、翌十一日、知事様より御内々金十両、養生料として被下、尤御住宅にて御家令、堀田清四郎より大塚一格迄渡に相成、同人を以御請中上候」辛未 七月二十五日
中央政府はこの事件について、折返し土肥大作には金百円を賜って災難をねぎらい、三橋伝四郎外五名の者には、その相応の手当として治療、慰労など、優遇措置を取るように示達した。
この明治初年の大事件は、讃岐地方の人々を驚かすとともに伝四郎の名を知らぬ者はないようになった。
しかし伝四郎にとって、降りかかった火の粉をはらうために止むを得なかったとはいえ、多くの人を死傷させる立場になったことが、あとあとまで心にかかったに違いない。政之の宗教心の篤いことや、後年になってもこの事件を語りたがらなかったので、洞爺では全く知られていなかったことからも、政之の心中を察することができる。
しかし伝四郎にとって、降りかかった火の粉をはらうために止むを得なかったとはいえ、多くの人を死傷させる立場になったことが、あとあとまで心にかかったに違いない。政之の宗教心の篤いことや、後年になってもこの事件を語りたがらなかったので、洞爺では全く知られていなかったことからも、政之の心中を察することができる。
土肥大作は、このあと民部省に戻り、その後各県の参事を歴任した。明治五年、新治県の参事となり、土浦へ赴任するが、時勢をなげいて三十六歳の働き盛りで切腹して果てている。
政之の謹慎の解けたのは明治四年十二月五日である。
土肥大作事件で重傷を受けた政之の体もすっかり快復していた。 政之は県庁に出仕し、十四等出仕、聴訟課付、丸亀出張所詰を申付けられた。聴訟課というのは、警察と裁判の両面を担当する所で、この頃はまだ両者は分離していなかった。
第一次香川県は徳島の名東県に合併し、明治六年七月二日、政之は聶卒総長に任命された。邏卒総長というのは現在の県警本部長のような職務である。
邏卒早朝として「血税一揆」の鎮圧に功績
明治六年、西讃地方は日照りが続き、田植えの水にも困る状態であった。ちょっとしたことが原因で農民暴動が起つだ。六月二十七日に始まり、七月六日に鎮定されるまで参加者約二万、二名の週卒が殺された。学校、役所、寺院などが多く焼かれ、民家と合わせ五九九戸が災害を受けた。
丸亀、多度津では邏卒総長、三橋政之の指揮のもとに旧藩士二百余名で抜刀隊を組織し町の郊外で暴徒が町に入るのを防ぎ、また数人を捕えたので、暴徒は逃げ市中は幸いにその災害を免かれた。県では政之の働きに対し、感状と慰労金五円を付与している。
明治八年、第二次香川県が設置されたとき、政之はその職を辞任し、その後京極家の一等家徒を勤めることになった。
明治九年、香川県は愛媛県に合併された。同11年十二月十六日、愛媛県は政之に県庁出頭を命じ、那珂多度郡長に任命した。時に政之は満三十歳になろうとしていた。郡区町村編成法の発布により、那珂、多度の二郡を以て一郡とし、丸亀に郡役所を置いて監督機関とし、県政の円満な施行を図ろうとしたのである。
郡長として香川県独立への願いと士族の救済
明治十六年十一月十日、願に依って本官を免ぜられるまで五年間郡長として勤めた。この間にもっとも苦心したのは税金の問題であったのではないかと思われる。
地租改正に伴う地租不納者に対する取扱いの配慮、営業税を納める営業者への心得方について各町村へ指令している。明治13年の愛媛県の決算報告では、香川側の収めた税金十九万円余に対し、香川の為に使われたのは十六万円余で差引三万円も伊予側か吸いとったという計算になる。
讃岐人としての政之は、この間に立って戸長会議、町村連合会の組織づくりをしながら、交通、通信、産業、教育など、各般の問題について丸亀を中心とする郡の発展に心魂を砕いた。
明治十五年、郡の庁舎の借入料金の増額を県に事前に相談しないで、取計ったとして謹責を受けたりするが、これも政之の讃岐人としての人情の現れではあるまいか。
三橋政之の北海道開拓への思い
三橋政之は「讃岐分離の建議書」を中央政府の山鯖内務卿に提出したが、請願は却下されている。このあと五年、明治二十一年には愛媛県から分離し三度香川県が発足するが、このとき政之はすでに北海道の地であった。
郡長を退職した政之は、郡長の時代から考えていた北海道移住の計画を練るかたわら、弟の光貫とともに士族の事業応援をしたようである。
士族や、狭い土地で苦しむ農民の救済のために、自ら移住することを決意し、明治十九年、知人を北海道に派遣して向洞爺の地を撰定し、郡役所とも協議を重ねていた。翌二十年、郡役所では各村々の戸長を通じて移住者を選び、ついに政之を団長とする二十二戸(政之書翰によれば二十三戸)八十九人の北海道向洞爺移住団が結成された。
士族や、狭い土地で苦しむ農民の救済のために、自ら移住することを決意し、明治十九年、知人を北海道に派遣して向洞爺の地を撰定し、郡役所とも協議を重ねていた。翌二十年、郡役所では各村々の戸長を通じて移住者を選び、ついに政之を団長とする二十二戸(政之書翰によれば二十三戸)八十九人の北海道向洞爺移住団が結成された。
この時の郡長は政之の後任で同僚の豊田元良であった。
豊田元良は、明治十四年、三豊郡長となり、明治十六年十一月より十七年三月まで、仲多度郡長を兼ね、後任の福家清太郎が十七年十月死亡により、三豊郡長より転出、同十八年三月より二十三年十一月まで再び仲多度郡長を勤め、後は三豊郡長に転出、明治三十二年丸亀に市政を施いた時、初代市長となった人である。
明治20年3月29日 三橋開拓団は盛大な見送りを受け丸亀港より神戸行きの汽船に乗り込んだ。政之40歳であった。
追記
三橋政之の子政道は、十五歳の時に父に従い洞爺に赴き、同時に向洞爺に入植した堤清造の長女サワを妻とし、その間に生まれた政美は公選による洞爺村初代村長となった。その子三橋健次氏も村長であった。なお三橋政之の長女シズヱは京極高直夫人である。
三橋政之は、同農場内における小作人募集の件で上京中に発病して明治二十九年十一月三日死去した、と言われている。
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