瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:阿刀氏

岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に走る南海道

讃岐には、若き日の空海(幼名真魚)は、「国学(地方大学)」で学ぶために毎日、額坂を越えて通学していたという話があります。空海の父田公の館は、現在の善通寺周辺にあったとされます。讃岐の国学は、建立されたばかりの国分寺周辺か、府中の国府周辺にあったとされます。そのため善通寺から東に一直線に伸びる額坂街道を馬を駆けって通ったというのです。
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空海の平城京への出立(弘法大師行状絵詞) 騎馬の若武者姿

確かにこのルートは、発掘調査で南海道であることが分かってきました。幅が8mもある大道が、丸亀平野の条里制に沿って、善通寺を横切っていきます。この大道を馬で駆ける真魚の姿は、絵になる光景です。しかし、これは本当なのでしょうか。真魚が、讃岐の国学で学んだのかどうかを史料で見ていくことにします。

岸の上遺跡 多度郡条里と南海道jpg
四国学院内を通っていた南海道

 空海は15歳の時に母方の叔父である阿刀大足に就いて学んだことは、空海の著書である『三教指帰』の序文に書かれているので事実のようです。
それでは、大学や国学で学んだというのは本当なのでしょうか。
 『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(835)3月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。

  讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。①年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。②十八遊學槐市。③時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。
ここには
①15歳で、外舅(母の兄)阿刀宿禰大足について漢学を学び、
②18歳で平城京の大学明経科に入学した。
③ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
ここには空海は、阿刀宿禰大足について学んだことは語っていますが、国学で学んだことは何も触れていません。空海は国学に入学したのでしょうか。
  唐の律令制度を学んで作り上げた大宝律令以後は、原則的にはこの国は「法治主義国家」です。政治は法令によって運営されていきます。例えば古代律令下の教育機関としては、中央には大学が、諸国には国学が設置されて官吏養成が行われることが定められています。
学令大学生条に定められた就学規定には、次のように記されています。
凡大學生。取五位以上子孫。及東西史部子爲之。若八位以上子。情願者聽。國學生。取二郡司子弟爲之。大學生式部補。國學生國司補。並取二十三以上十六以下聰令者爲之。
  意訳変換しておくと
およそ大學生。五位以上の子弟か、東西史部の八位以上の子弟で、入学希望があったものを入学させよ。地方の國學生については郡司の子弟を入学させよ。大學生式部補と國學生國司補の年齢制限はそれぞれ、23歳以上と16歳以下の者とする。

これが大学生と国学生に関する規定です。この規定に従って空海の入学資格を見ておきましょう。まず15歳という年齢については国学への入学については問題ないようです。年齢からして、国学へ入学した可能性はあります。しかし、もうひとつの条件である官位についてはどうでしょうか。「國學生については郡司の子弟」とあります。
 空海の生家である佐伯直氏は、旧讃岐国造であったことが『日本三代実録』に記されています。通説では代々多度郡の役人を勤めた家柄で、田公自身は郡の少領であったとされます。しかし、『日本三代実録』には田公の位階は記されいません。一方田公の子供達(空海の兄弟)には位階があります。ここから空海の父田公は、無位無官であった可能性が高いと研究者は考えています。
選叙令郡司条には、次のように記されています。
凡郡司。取下性識清廉堪時務者上。爲大領少領。強幹聰敏工書計者。爲主政主帳。其大領外從八位上。少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造

ここには郡司の選定基準として「少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造」とあります。田公が少領であったとすると、低くとも外従八位下という官位を持っていなければならないことになります。例え主政・主帳であったとしても考課を経たのであれば、何らかの位階を与えられていたはずです。ここからも田公は無位無官であったとことが裏付けられます。そうすると、空海は国学の入学規定である「郡司子弟」の条件に当てはまらないことになります。つまり、空海には入学資格がなかったことになります。
 しかし、残された道があります。『令義解』学令大学生条の子弟に冠する註には「謂 子孫弟姪之屬也」とあります。空海が所属する戸の戸主である佐伯直道長が正六位上という位階を持っていて、何らかの官職に就いているので、この条件をクリアできたと考えることはできます。以上から空海は郡司の子弟として国学に入学することは可能であったとしておきましょう。

 しかし、問題は残ります。先ほど見たように空海が書いたとされる『三教指帰』には、15歳で伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足に教えを受けたと記されている点です。これをどう考えればいいのでしょうか。叔父阿刀大足については、次のように伝えられています。
①空海の母の実家阿刀家の後継者で摂津が本貫
②伊予親王の侍講(家庭教師)であった人物で、漢学の俊才であった
③叔父阿刀大足が讃岐に残した痕跡は何もない
これでは空海は15歳になって、讃岐の国学に通いながら平城京にいる叔父の阿刀大足から英才教育を受けたという話になります。このためには空海は「分身の術」を身につけていなければなりません。阿刀大足が、讃岐の国博士として赴任してきていたという話もありません。そもそも阿刀氏の痕跡は讃岐にありません。伊予親王の侍講であったという経歴から考えると、阿刀大足は平城京に居住していたと考えるのが自然です。これをどう考えればいいのでしょうか。
讃岐の豪族6 阿刀氏? 空海が生まれたのは摂津の母親の実家? : 瀬戸の島から
難波津と阿刀氏の本拠地
 この謎を解消するのが「空海=摂津誕生説」です。
当時の通い婚の通例として、空海は阿刀氏の本貫である摂津に生まれ、そこで生育し英才教育を受けたという説です。この説では、空海は讃岐の国学には入学せずに上京した、あるいは最初から摂津で生まれ育ったことになります。どちらにしても、空海が南海道を馬を走らせ、府中の国学に通ったという説は成立しがたいようです。

跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
跡部(阿刀)神社(八尾市亀井)阿刀氏の本貫・河内国渋川郡跡部郷

空海が平城京の大学に入学したのは18歳と記されています。
これは、就学規定で定められている年齢には当てはまりません。下級官人であっても八位以上の子弟であれば、特別に入学は可能でしたが、『令集解』学令大学生条の註には次のように記されています。

「問 八位以上子。情願任者聽。畿内外同不。答。畿外不取。又外六位以下不取也。但並得任國學生耳」

 ここからは、その特例が認められたのは畿内の官僚だけだったことが分かります。讃岐国出身の空海がこの方法で大学へ入学することはできません。これに対して。
「当時の学制に何らかの変更があったのかも知れない」
「伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足等の力で入学できた」
という例外的な措置として入学したという説もありますが、律令規定は国家の柱なので、「ゆるぎたらるぎ」で運用はしていません。伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足の影響力を過大評価するのも慎むべきでしょう。
むしろ、次の「学令通二経条」に注目すべきと研究者は指摘します。

凡學生通二經以上求出仕者。聽擧送。其應擧者。試間大義十條。得八以上。送太政官。若國學生雖通三經。猶情願學者。申送式部。考練得第者。進補大學生。

ここには地方の国学から中央の大学へと進む道も成績や条件次第では開かれていたことが記されています。空海が讃岐の国学から大学に進んだとすれば、このコースを辿ったと考えた方がよさそうです。
 十五歳で国学に入学した空海は、基準である三年あるいは四年で二経以上に通じ、そして考練得第して十八歳の時に大学に入学したという説も捨てられないことになります。
跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
阿刀氏の氏神 跡部神社

以上をまとめておきます。
①従来の善通寺生育説では、讃岐の国学に通ったとされるが、「三教指帰」には15歳で、叔父阿刀太刀の教えを受けるようになったという記述と矛盾する。
②「空海=摂津生誕説」では、阿刀氏の母の実家である摂津で空海は生まれ、幼い時から叔父阿刀太刀の英才教育を受けたとされる。ここでは、空海の本貫は讃岐国多度郡だが実際の生育は摂津の阿刀氏の母の元であったとされる。
③「空海=摂津生誕説」では、空海が平城京の大学に入学するためには、父親の官位が低すぎるという問題がおきる。
以上のように、解決への詰み手がなくなってしまいました。空海の国学や大学入学問題についても、分からないことが多いようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

空海=摂津・生誕養育説を追ってみると・・・             

空海の母親については、「玉寄(依)御前」とする伝承が広く伝えられてきました。私も、小学校ではそう教わりました。現在も善通寺市内の小学生達が使う郷土学習副読書には「空海の母は玉寄御前」と書かれています。しかし、これは江戸時代前期の近世あたりにから盛んに言われだしたもののようです。
  近年、空海(幼名 真魚まお)を生んだ母親については、「摂津の阿刀氏の娘」説が出され、空海は母親のもとで幼年期を送ったのではないかという説が発表されています。さらに、空海=摂津生誕説による小説も書かれています。
釈伝 空海 上 西宮 紘 空海 藤原書店

四宮宏「釈伝 空海」藤原書店
香川県人としては、郷土愛(?)を刺激される説ですが、その感情を抑えながら空海=摂津・生誕養育説を見ていくことにします。
空海(幼名は真魚まお)の母親について書かれている記録は限られます。『続日本後紀』に  
年十五にして、舅(母方の兄弟)の従五位下阿刀宿禰大足に就いて、文書を読習し(後略)
とあることから、母が阿刀氏出身であること、そして母の兄(伯父)が阿刀大足であることが分かります。若き日の真魚は、この伯父さん漢学・漢籍の手ほどきを受けたようです。この資料から研究者の間では、母親を、「玉寄(依)御前」ではなく「阿刀氏出身の女」とするのが「定説」とされています。
 しかし、問題があります。讃岐に阿刀一族が住んでいた記録は見当りません。讃岐国多度郡の真魚の父親の佐伯家と、摂津の阿刀家がどのように結びついたのでしょうか。

次に、阿刀大足を手がかりに阿刀氏を探ってみましょう。

 阿刀氏の本貫は河内国渋川郡跡部郷で、ここに鎮座する跡部神社(八尾市亀井)が氏神のようです。跡部郷というのは、奈良から流れてくる大和川が長瀬川と平野川とに分岐する三角地帯で、川運拠点であり平城京へも水運を通じて数時間で通じていたとされます。
 郷内には渋川廃寺が発掘調査され、七世紀前半の軒丸瓦片が出土し創建は飛鳥時代とみなされます。その後に、四天王寺式で奈良時代後期以降の再建されています。
 創建は仏教排斥派とされてきた物部氏説が強いようです。奈良時代の再建の主には、物部と同族で大和川の舟運も仕切った阿刀氏が、その頃最も一族が隆盛しているので最有力候補だと考えられています。阿刀氏は、もともとは物部氏の一族でしたが、宗家の物部氏が蘇我氏に滅ぼされた後も、大和川の水運に関わりながら河内でその勢力を保持したようです。
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 阿刀氏について分かる資料は正倉院文書の中にもあります。

ここには二十数人に及ぶ多くの写経生としての阿刀氏の一族の名前が記されています。さらに天平初年頃から天平宝字七年(763)まで30余年間にわたって、東大寺写経所で活躍した阿刀連酒主や造東大寺司や造石山寺別当として活躍したか安都空祢雄足(あとのすくねおたり)がいます。阿刀氏は文官や書法において優れた人材を数多く輩出しているようです。
 これ以外にも空海の伯父阿刀宿祢大足に焦点をあてて資料を探すと、次のようなことが明らかにします。
1 阿刀宿祢大足が跡部郷の本宗家であること
2 阿刀宿祢大足の兄妹である空海の母は、河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿 刀本宗家の娘である。兄弟順は真足・大足・長人・空海の母である
3 阿刀家一族は玄昉や善珠という高僧も輩出している

阿刀宗家には『万葉集』に名を残している女性もいます。

巻四・七一〇番
「み空行く月の光にただ一日あひ見し 人の夢にし見ゆる」
を残した安都(阿刀)扉娘子(あとのとびらおとめ)は、聖武天皇か光明皇后に仕えた内侍であろうと考えられています。
 また(『続日本紀』巻三十二、同日条の宝亀三年(七七二)三月二日 に、光仁天皇白身が、妻である井上皇后をふこの罪で位廃する事件が起きます。この事件に連座し、断罪された二人のうちに安都(阿刀)堅石女(あとのかたしめ)の名が見え「謀反の事に鮒いて、隠して申さぬ奴ら……」とされ、呪影を報告しなかった罪が問われています。ここから堅石女は女官の最上位と思われ、いわば側近として監督不行届をとがめられています。
 井上皇后の事件罪を受けた堅石女は、真魚誕生の二年前のことです。堅石女が阿刀家本家出身だと考えると、真魚の母にとって堅石女は、姉であったことになります。
 このように、阿刀家は天平時代から三十年にわたって尚侍・内侍といった高位の女官を輩出し続けています。空海=摂津誕生説では、このような阿刀家の環境の中で真魚は生まれ育ったと考えられているようです。
現在流布されている「空海の母=玉寄御前」説について、
日野西真定「玉依御前論考」(高野山大学仏教学研究室編『仏教学論文集』一九七九年、東方出版)は、「もともと「玉寄姫」は『記紀』の中にも何回か出てくる巫女を指す普通名詞」とします。そして「玉依姫」は鎌倉時代後期以降、空海という偉大な宗教者を生んだ尊い巫女という唱導の中に生まれたもの」であって、
「その唱導は、阿刀大足の次男を元祖とする慈尊院別当の中橋家を中心に発生・確立」
していったものと指摘します。
 それが文学書や民俗資料で用いられるようになり、江戸前期になると四国八十八か所遍路と弘法大師説話が互いに影響を与える形で説かれるようになり
「父・佐伯善通、母・玉寄姫、誕生所・善通寺」
が世間に定着していったとしています。

空海の父(佐伯氏)と母(阿刀氏)はどのように出会い、結ばれたのか

  武内孝善(こうぜん)「弘法大師空海の研究」吉川弘文館には、新しい視点が次のように記されています 
 空海誕生当時の婚姻形態が妻訪婚である点に着目、母と子は十年前後は母方の一族と生活をともにした。従って真魚の誕生地も養育されたのも畿内の阿刀家ではないかとします。さらに空海の父・田公が船による瀬戸内海の交易事業を行い、その拠点が住吉津にあったことを示します。それが、大和川の川船輸送を行う阿刀氏の本拠・跡部郷との接点であったするのです。

1 阿刀氏の本貫地
 これについては、民俗学の谷川氏も阿刀氏が大和川の舟運を司っていたことを指摘しています。谷川健一・金達寿対談『地名の古代史-近畿篇』(河出書房新社)
 ここからは、海運をしていた空海の父・佐伯田公と阿刀氏の次のような結びつきが想起できます。

空海の父・田公は、瀬戸内海運で集めた物資を住吉津に集め、阿刀氏がそれを車馬で八尾街道を一直線に跡部郷に運び、水路で平城京や大和、あるいは長岡京に運送する。その事業の連携のために阿刀と接触、空海の母との縁が芽生える

というストーリーです。
 讃岐を本貫とする佐伯田公と河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿刀娘子の結婚は、当時は妻訪婚ですから、田公が娘子のいわば実家へ通うことになります。現在のように、海を越えて「瀬戸の花嫁」のように讃岐に輿入れすると云うことは考えられません。すると讃岐にも妻がいたと考えた方が自然です。当時は、一夫一妻制でもありません。そう考えると空海の複雑で不明の多い兄弟関係も解けてくるような気がします。 

そして、真魚(空海)が渋川郡跡部郷で生まれます。

当然、養育権は阿刀家にありますので、真魚は阿刀家で育てられることになります。
真魚は神童とされましたので、並の幼児教育では追いつかなくなります。それに対応するだけの環境と教育力が阿刀家にはありました。わが児の異能を知った母は、真魚に高度な教育を受けさせる必要を感じます。相談する相手は兄の大足です。
『文鏡秘府論』の序には次のように記します。
「私、空海は幼いころから母方の伯父について、六朝古来の文章法を学んだ。」
大足は官人ですから平城京の屋敷にいます。その屋敷は、平城京左京三条一坊にあり、多生門を出てすぐの長屋王邸と朱雀大路とに挟まれた一画になります。真魚は、この阿刀宿祢の本宗家に預けられることになったのでしょう。
母は、どうしたのでしょうか? 
妻の役割として、跡部郷に本居としながら、平城京の頻繁に行い真魚の世話もしたのでしょう。跡部郷と平城京は、歩いて半日の距離で、その上大和川の舟を自由に使える身なのですから。

真魚は、いつ、だれに書法の弟子入りしたのでようか

若き空海の実像: 「聾瞽指帰」と新資料「破体千字文」で解明する [書籍]

書道家の飯島太千雄氏は「若き空海の実像」の中で、次のように記します。
「空海の書法は俯仰法と言い、王義之以来の古法だが、筆と手首を進行方向に陰陽、俯勢、仰勢に倒してゆく筆法で、極めて指・手首・肘の柔軟性が要求されるもの。一般に十歳にもなると手が固まってきてしまうので、書道は五、六歳までに始めるべき」として、真魚の弟子入りを「常識的には、手の固まらない五、六歳といった線だろう。少年空海の異能、手筋の良さを知った大足と娘子は、時の能書・忍海原連魚養(うおかい)に指導を仰ぐべく画策」したとします。そして「魚養は、阿刀氏出身の玄昉の弟子であり、その系譜につながる真魚に、持てる書法の限りを尽し指導したに違いない」
空海には謎が沢山あります。
①幼年期の英才教育を、どこで受けたのか
②中国の儒教的教養、中国語(音韻)、書道などをいつ、どこで、誰から受けたのか
真魚は「讃岐で、神童として育てられた」と言われてきましたが神童は「英才教育」があって現れるものなのです。善通寺生誕・生育説では、これには答えられません。
しかし、空海=阿刀氏養育説にたつと、この疑問は解けていくのです。
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