瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:阿波の修験者

P1160245ha箸蔵寺 天狗面
箸蔵寺本殿 金毘羅大権現の両脇をかためる天狗たち
江戸時代後半の箸蔵山が阿波の人々からどのような目で見られていたのかを今回は見ていくことにします。
まず「阿州寄事雑話(あしゅうきじざつわ)」を取り上げます。

阿州寄事雑話1
この本は阿波国の奇談や地誌、伝承を集めた地誌・随筆集で、著者は横井希純(よこいきじゅん)です。阿波の狸伝説や山川町の妖怪伝説の種本になっていて、近年は人気があるようです。そこには箸蔵山のことが次のように記されています。
三好郡洲津村箸倉山は讃の象頭山の南方に当て四五里を隔つ、昔より伝え云ふ、金毘羅にて用ひ捨つる箸は皆此の山に飛来るとなり、此の山も霊異多し、近年仔細有りて此の山の大木を伐りたるに山騒しくして寺中の小僧等失せて山中に迷ひ居し事度々に乃べり、又白昼に単衣を着せし男身を縮めて紙鳶の如く中天を飛て此の山に至るを近所の民打見およびたる多しと云ふ、
此の辺の人家の内一軒如何成る山神の憎しみを受けし事にや、ある時つぶ打事夥し、且大木をも投げぬ、家人皆逃れ去りしが竟に此の家を打潰しぬ、並に此の伐たる木の末木抔鍛冶炭になせしに其の鍛冶有りし処に火起りし事有りとなり、かやうの山には此の類多し。 (此の類の怪事は今に所々
にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
意訳変換しておくと
三好郡洲津村箸倉山は、讃岐の金毘羅大権現の象頭山の南方四、五里に位置する。金毘羅(大祭)で使用済みで捨てられた箸は、すべてこの山の飛来すると昔から伝えられる。箸蔵寺も霊異が多い山である。近年に仔細あってこの山の大木を伐ったところ、山騒しくなって、箸蔵寺の小僧が山中に迷い込みいなくなってしまった。白昼に単衣を着た男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくるのを近所の人々は何度も見たという。
 箸蔵寺の人家の内の一軒がどうしたことか、山神の憎しみを受けることになってしまった。すると、つぶてが飛んできたり、あるときには大木も投げつけられ、家人は皆逃れ去ったが、それでも許さずに、ついにはこのの家を打潰してしまった。また、この伐った木で炭焼きをして鍛冶炭にしたところ、鍛冶屋が火事になったこともあった。箸蔵山にはこのような類の話が多い。 (此の類の怪事は今に所々にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
ここには 箸蔵山は、奇っ怪なことが起きる不思議な山であることが書かれています。
このような話は、疫病退散のために寝ずに一晩をお堂で過ごす庚申の時に、村人達が語り合った物語が今に伝えられていることが多いようです。これらの物語を伝えたり、創作したのは山伏(修験者・聖)だったと民俗学者たちは考えています。山伏たちは、あるときには薬草をあつかう漢方医であり、悪病退散を祈祷する医術者でもあり、剣山や石鎚山へ信者を誘引することもしました。妖怪伝説や悪霊伝説などの物語が色濃く残っている所には、それに比例して山伏の痕跡が濃いと研究者は指摘します。
 ここには箸蔵山が特別な霊威の空間であることを伝える意図が見えます。例えば「男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくる」というのは、天狗伝説です。中世の山伏たちは、鞍馬天狗や弁慶の物語に出てくるように、修行で天狗になることができると思っていました。そして天狗のように空が飛べる飛行術を身につけようと修行に励んでいたのです。このような天狗信仰者が象頭山に金毘羅大権現を開き、それを箸蔵寺にも勧進してきたということになります。「阿州寄事雑話」で語られた物語が時代を下ると、村々で起きた事件として残されるようになります。
今度は、「燈火録(とうかろく)」に出てくる著倉山を見ていくことにします。
この書は、文化9年(1812年)に出された阿波の総合的な地誌・歴史書で、著者は元木蘆洲(もときろしゅう)です。
箸蔵寺 燈火録
                燈火録(文化9年(1812年)
意訳変換しておくと
讃岐の讃州金毘羅神は、例年十月の御祭礼行啓を終えると陪従の人々に摂侍所にて宴席が設けられる。それが終わると、腕も箸も総てを置いたままで下山する。そして、翌日の十日十一日は申刻過から山門に竹垣を結て登山を禁じる。ところが、どうしたことか、置き残した箸が総て三好郡箸倉山の岩倉へ夜中に山神(天狗)によって持運び納められると云う。また除災の衛護のためにと宿所へ持帰ったものも、土蔵にしまい込んだものも、悉くなくなっている。奇異な事だ。

まずは金毘羅大権現と箸蔵山を結ぶ「箸運搬と天狗伝説」が語られます。次に、その神域を犯す者への天罰が次のように述べられます。

箸蔵寺 燈火2
意訳変換しておくと
 箸倉山の樹を伐ることは、山神の嫌うところある。また霊窟のあたりへは、人々は近寄らない。箸蔵寺の僧ですら、行て帰らないものもいる。神域の林樹を買った者でさへ伐取人はもとより、木を仲介した先々まで神罰があったという。そのため、それを知っている人々は神罰を怖れて、箸蔵山産の薪炭を買うことを避けようとする。
 ある年、当山の寺の木を樵って渓間に多く積み置いていたところ、洪水で流されてしまった。 それが麻植郡の何某の家の垣に流れついた。そこで二階に積み置いて、外へ出て畠の仕事をしていた。すると拾った樵木が水に濡れて乾いてもいないのに火がつき燃え出し、家は跡形もなく焼失してしまった。
 徳島新町鍛冶屋の某は、炭を買て積置いていたところ、火が出て隣家までも焼亡してしまった。後日に聞けば、この炭が箸蔵山で切り出し焼かれた炭だったとのこと。また寛政の頃に、、箸蔵山の樹を買取りって伐出した杉丸太三間を十本ほど、三好郡芝生村の酒屋へ売却し、門内の隅に立懸けて置いた。その家の庭は広いので、七月の盆踊り会場となっていて、周辺の若者たちが集って踊っていた。すると、虚空よりぱらぱらと小石が降ってきたので、人々みな家の内へ駆け込んで、興が冷めてしまった。この家主があやしみ怒って、これは狸の仕業にちがいないと空鉄砲を発射して威嚇すると、小石はますます激しく降ってきた。ついには、二人で持たなければ動かない大石が打ち降り、家の屋根が打ち抜かれ瓦が砕け落るすさまじい音がして、人々は恐怖におののいた。主人が非難すると暫時にして止んだ。家宅は壊れたが、怪我をした人はいなかったのが吉兆だったと、翌日に近隣の人々を集めて酒を勧めて無事を祝した。その時に人々が云うには、箸倉の神の御咎だろうということになり、この丸太を前の川に流した。その後は何の障怪もなかったという。この辺りの人が来て、離したことを語るままに書き付けたものである。

ここには箸蔵山で切られた木がいろいろな禍をもたらすことが繰り返し述べられています。この物語を創作した山伏の伝えたかったことを推論してみます。
①箸蔵山が神域であること
②その木を切ったり、妄りに立ち入った者に対しては神罰が下されること
このような物語を拡げることで、箸蔵山周辺の山伏たちは自分たちの行場ゲレンデであり、聖域であるテリトリーを守ろうとしたことが考えられます。つまりは、箸蔵寺が彼らにとっては守るべき聖域であったことになります。そのために多くの山伏(修験者)がやってきて修行にはげんでいたのでしょう。

全国にある大師堂の多くは、山伏(修験者・高野聖・熊野行者)などの遊行の跡だった研究者は考えています。
ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまいました。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。修験者の中で、最初に吉野川流域にやってきたのは熊野行者のようです。熊野行者は、次のようなルートで吉野川の上流をめざしたことは前にお話ししました。

熊野業者による吉野川流域への教線拡大

熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

  例えば土佐の本山町では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神です。それに対して、聖神は人々の信仰対象になっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者(修験者)が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。このような塚が阿波のソラの集落にも数多く見られます。
 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。
例えば、彼らは讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。妖怪街道と呼ばれる山川町の藤川谷川流域も、山伏たちの密度が濃く、活発な活動が行われていたエリアです。彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつもの話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通性があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。以上から山伏が自分たちの行場であり、活動エリアである箸蔵寺周辺を聖地として守るために、意図的にこのような物語は作られたのではないかと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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   私の家の前には布帛(ふはく)神社という小さな社があります。その社の境内の中に五角の石柱があり、各面に神々の名前が掘られています。このような五角形の石柱は、三豊や丸亀平野の南部でよく見かけます。これは五角柱地神(じしん)塔と呼ばれているようです。五面に書かれている神の名前は次の通りです。
(五角柱地神)蓮池(香川県木田郡三木町大字田中)
五角柱地神(香川県三木町蓮池)

五角柱地神に登場する神の名前

いつ、誰が何のために、これを設置したのかと不思議に思っていました。今回は私の家の氏神さまの境内にある五角柱地神について調べて見た報告書です。最初に、地神をAIで調べると次のように答えてくれました。

地神信仰とは

この中では一番下の地神塔が最も近いようです。私の家の近くで地神塔が多くあるのは阿波のようです。「阿波の地神塔」で検索すると、AIは次のように答えます。

阿波の地神信仰

阿波地域には土地の守り神や農業の神を祀る地神信仰が根付いていて、境内や村の辻などに「地神社」や「地神塔」と呼ばれる小さなお社や石碑が数多く残されているようです。さらに検索を続けていると出会ったのが、「徳島県郷土研究発表会紀要第42号 北島町における地神信仰 民俗班(徳島民俗学会)庄武憲子・東田塁美・岡島隆夫」です。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
地神塔についての調査報告書で、教えられることが多かったので、今回はこれをテキストにして地神塔について見ていくことにします。

報告書は、北島町内の11の地神社を次のようにリストアップします。
北島町の地神社一覧

それを地図に落としたものが下図です。
阿波北島町の地鎮さん分布図
ここからは北島町全体にほぼ均等に分布していることが分かります。集落毎に地神社が祭られていて、コミュニティーセンターの役割を果たしていたのかもしれません。そうだとすると、ソラの集落のお堂と同じような機能があったこと、修験者が運営に参加していた可能性があります。次に北島町の五角地神塔のスタイルを押さえておきます。

阿波北島町の地鎮さん 中村字長池G

阿波北島町の地鎮さん2 G

これを見ると、基本構成パーツが上から「心石(五角石柱) + 台座 + 基壇」の3点であること、大きさやほぼ同じで同一規格下で建立されたことがうかがえます。もう少し詳しく見るために、研究者は地神さんの素材や構成品を次のように一覧表します。(番号が上の一覧表と同一)

阿波北島町の地鎮さんの素材
この表からは、次のような事が分かります
A 11の地神社のすべてが、基壇、台座、心石のパーツで構成されていること
B 基壇や台座には、多少の違いはあももの、心石についてはすべて五角柱であること
C 素材は砂岩。花崗岩が使用されているのは、昭和以降に建替えのため
D 天照大神の面が、すべて北向きに統一されていること
心石には、五神名が刻まれています。その神名の配列順と天照大神の対面方向をまとめたものが表3です。
五角柱地神塔の神名配列順

最後の欄の「向き」とは、天照大神の面がどちらを向いているかと云うことです。総て北です。その他の神々の方向も総て同じです。ここにも規格・統一性が見られます。

これらの地神塔がいつ建てられたのでしょうか。地神社の紀年銘をまとめたものが下表です。

阿波北島町の地鎮さんの紀年名
ここからは次のようなことが分かります。
① 3の燈籠や、6・11の手水鉢などが最も年代的に古く、18世紀後半まで遡れる。
② 2は、玉垣の紀年銘から安政6(1859)年以前の建立。
③ 1は、台座の銘から明治32年に再建されたもので、心石の形からは藩政期の創建
地神塔建立の開始時期が18世紀後半で、それ以前のものはないこと。19世紀になって急速に拡大し、明治以後になっても建立が続けられたことが分かります。

統一スタイルの地神塔が同時期に出現し、それが普及していった背景はなんなのでしょうか。
  阿波の地神さんの起源ついては、金沢治氏が次のような説を出しています。

「寛政元年(1790)に、当時勢力のあった徳島城下富田八幡宮の祠官早雲古宝(ふるとみ)が藩主治昭に説いて各村に地神祠を奉斎せしめ、庄屋に祀(まつ)らせた」(『日本の民俗 徳島』)

そして、推進者だった早雲古宝(伯耆(ほうき)の地神信仰との出合いについて、次のように推察します。

おそらく上方で手に入れた大江匡弼著『神仙霊章 春秋社日■儀』(序文に天明元年 〔1781〕には農業の守護神である地神の大切なことが説かれ、その祭り方を示していた。これを手本にした

それでは「手本」にしたとされる大江匡弼の『神仙霊章 春秋社日■儀』には、どんなことが書かれているのでしょうか。
(神仙霊章)春秋社日醮儀
                       春秋社日?儀』と五神名地神塔(京都大学アーカイブス)
この書は京都大学のアーカイブで見ることができます。天明元(1781)年に出されたこの本の中で大江匡弼は、次のように記します。

(神仙霊章)春秋社日醮儀2

中国では古代より年二度、春と秋の社日に五穀豊穣、天下泰平、子孫繁栄などを祈願して五穀の祖神の祭祀をおこなう祭礼を行ってきた。それは清浄な土地に石または土で社壇を作り、五角に切った石のそれぞれの面に以下の五神名を刻んだ碑を立てるというものである。それを我国でも広めるべきである。

そして清朝で行われている地神の祭儀について、次のような挿絵が挿入されています。

(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔絵図
清国の地神祭の祭壇(春秋社日樵儀)

中国の祭儀に基づいて、我が国で行う際に造立すべき宗教施設を施設を、次のように示しています。

(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔絵図2
清朝の祭壇を真似て、日本でつくろうとした地神塔(春秋社日樵儀)
五神名石柱には、北面に天照大神が記されている
これは先ほど見た阿波の五神名地神塔と非常によく似ています。この本を見た富田八幡宮の早雲古宝が藩主治昭に進言し、藩が主導して造塔と祭祀が行われるようになったと先ほど紹介しました。寺社奉行の役人がこの挿絵を庄屋たちに指し示しながら「これをモデルに、おのれらのムラに造立せよ」と云う姿まで浮かんできます。そして、それが周辺の村々に拡がって行くという話になります。説得力のある挿絵です。
(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔絵図3
地神社の社壇配置図((春秋社日樵儀)
 約半世紀後の天保3年(1832年)に、渡辺月石は『堅磐草』の中で次のように述べています。

「近世 江匡弼社日?儀ヲ編撰シタルニ従リ、国命有リテ各村之ヲ祭ル。彼ノ書本邦神代之五神ヲ以テ之ニ配シ大ニ当レリ」

意訳変換しておくと
「50年ほど前に、大江匡弼は春秋社日樵儀を編纂した。それが藩主の国命で地神を阿波の各村々に祀ることにつながった。彼の書は、神代の五神の普及に大きな役割を果たした

以上を整理しておきます。
阿波藩の五神名石塔の普及背景

つまり、個人の献策を受けて藩主の肝いりで、地神塔建設は始まったようです。それを受けて庄屋を中心に周辺の集落に拡がって行く様子が見えてきます。つまり、お上の音頭取りで始まった徳島藩の宗教政策の一環だったことになります。同じような例が、阿波ではお堂建設がありました。集落毎にお堂を建設して、宗教的コミュニティーセンターとして活用するというものでした。その推進役は、修験者(山伏)でした。ここでも、地神神の祭礼を行ったのは山伏だったようです。それは後で見ることにします。
阿波北島町の地鎮さん 御祈祷と松明
地神社の前で行われる社日祭(徳島県北島町)
北島町の地神社では、今も春秋の社日祭が執り行われています。
社日は、春分・秋分の日に最も近い戊の日が地神を祭る日とされています。昔、中国で天神を「神」と呼んだのに対し、地神を「社」と称しました。暦法や五行説とともに、地神を祭る社日祭も中国に学んだことは先ほど見たとおりです。この日を阿波では“地神さん”と呼びます。そして、村人たちが地神社に供物を祭り、春は豊作を祈り、秋には収穫を感謝します。
飯田義資氏は「地神碑と社日祭」について、次のように記します。
①県下に約2千社あるが、阿波ではともに“地神(じしん)さん”といっている。
②北島町でもそれを“オジジンサン”又は“ジジンサン”と呼んでいる。
そこでどんな祭りが行われているのかを見ておきましょう。まず祭礼準備です。
①社日祭の準備は、各社とも当家(オトウヤ)が受け持つ。
②氏子が神社(氏神)の氏子と重なるので、神社の当家組が兼ねるところが多い
③そのため4・11 のように地神当家を別にくじで決めるところもある。
④輪番制で、任期は1年か半年、当家数も氏子地域の広狭によって1~10戸とまちまちである。
次に神事(御祈祷(ごきとう)です。

神職が到着すると、参列者(総代・当屋・氏子の有志ら、各地神社とも15人前後)一同が神前に居並び、御祈祷が始まります。神職の所作に倣って拝礼し、かしわ手を打つ。

阿波北島町の地鎮さん 御祈祷と修祓

①「修祓(しゅうばつ)」で、神前や参列者を祓(はら)い清め(図9)
②お供えを「献饌」し、神楽太鼓を打ちながら「中臣祓(なかとみはらい)」を上げる。
③続いて「祝詞」が厳かに奏上され、参列者一同「玉串」を捧げて拝礼
④最後に「撤饌(てっせん)」で終わる。
(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔祭礼時絵図
地神さんへの供物(春秋社日樵儀)
阿波藩の五神名石塔御供え
北島町の地神社祭礼の御供え (上図との共通点が見られる)
この間約20分、神前にロウソクをともすところや、松明(たいまつ)をたくところもあるようです。
以上からは、今は神主が進行役を勤めていますが、神事が「ご祈祷」と呼ばれていることや、蝋燭やたいまつをともすところから神仏分離以前には修験者がつとめていたことがうかがえます。藩による地神信仰の普及にも、里山伏たちがかかわっていたと私は考えています。
直会(オナオライ・ナオライ)
神事が終わると、お下がりのお神酒・焼き魚、当家の準備した煮しめ・赤飯・巻きずしなどで直会をします。直会は、神からのお下がりを戴くことで神の霊力を授かるとされています。そのため鏡餅などの供え物は参列者が分けて持ち帰ります。以前は鏡餅を小さく切って全氏子に配っていたそうです。

地神祭の直来

北島町の社日祭については、次のような言い伝えが残されていると報告されています。

昔は、この日は農民の休日で、御祈祷の後で農事の相談をした。そして「田畑に入らない、土をいじってはいけない」と言われていた。ふだんは忙しい農家の嫁も、餅を土産に里帰りをした。今はその餅をつく家も少なくなり、ほとんどの人が休まず農作業をしている。そんな中で老門(中村字本須)の三木家のように、床の間に地神さんの神号軸を掛け、灯明をあげ、お神酒、赤飯などを供えるなど、古くから伝わる家の祭りを大切にしている家もある(図12)。
地神信仰の五神の掛け軸

「秋のジジンサンは少々遅くなってもよいが、春は早いうちにお参りするように」との言い伝えは、種まきの時期を失しないようにとの教えで、いまも生きている。
「彼岸の中日と社日が重なった年は、東向きの鳥居を五つ(または七つ)くぐると、無病息災で過ごせる」
山伏たちの活動について最後に触れておきます。
 山伏たちは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがあります。山伏は、雨乞や虫送り、非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることもおこなっていたことは以前にお話ししました。つまり、集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、彼らは担う存在だったのです。そういう意味では、準公務員化した僧侶や神主よりも、庶民に近い位置にいて頼れる存在でした。そして、前回お話ししたように阿波藩では藩の保護を得て、住民からもリスペクトされる存在でした。新たに導入された地神信仰も、庶民救済を優先させて普及のための先頭に立ったはずです。
 山伏と庶民をむすぶのは庶民信仰です。庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世幸福と来世安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが山伏でした。ソラの集落の庚申信仰も、このような文脈の中で私は捉えています。
 江戸期後半から幕末にかけて、阿波では地神信仰が広がり、村々に五神名地神塔が立てられるよ
うになります。
それが明治になると、阿讃山脈を越えて讃岐側でも造立されるようになります。最初にお話しした我家の氏神さまの祠の横にある地神塔も明治以後のものです。その背後には、その建立を進めた阿波の修験者の布教活動があったのではないかというのが私の仮説です。つまり、明治以後の阿波修験者の讃岐進出です。そうだとすると、近代になって建立された讃岐の地神塔は、阿波修験者の活動の痕跡といえることになります。この跡を追いかけるのが、今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「徳島県郷土研究発表会紀要第42号 北島町における地神信仰 民俗班(徳島民俗学会)庄武憲子・東田塁美・岡島隆夫」です。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
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P1190798
             田野々集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
かつて阿波のソラの村々のお堂をめぐる端山八十八ヶ所巡礼を行っていたことがあります。その時に訪ねたお堂や庚申塔などからは修験者(山伏)の痕跡を色濃く感じました。そのことについては以前にお話ししました。今回は江戸時代の修験者たちが藩から保護され、村人からは信頼されていた存在であったことを見ていくことにします。

山嶽仏教に始まる修験道は、中世になると熊野山の先達として活発な動きを見せるようになります。彼らは地域に講社を作り、熊野に案内したり、代参することで信徒を増やして行きました。このスタイルが後には、伊勢神宮・多賀神社・愛宕神社・出雲大社などにも導入されていきます。修験道は、山を登り、多くの神社を数多く参詣することによって超人間的な呪術を身につけていると信じられ、病気・不幸・災難の一切から免かれるためのプチ修行を一般信者も行うようになります。このプチ修行は、勤勉な農民の信仰心を捕らえ、各地で講が生まれるようになります。こうして近世後半に開かれた剣山には、先達に誘引された信者達がお山開きになると大勢やってくるようになります。僧侶に世俗的地位と経済基盤を奪われた神主の中にも、山伏的な祈祷師として信仰を集める者も現れます。
 修験道ではイスラム教のメッカ巡礼と同じように「本山参り」が重要な「信仰告白」でした。それを誘引する先達が、修験者(山伏)です。やがて山伏や神主を中心とする講社が作られ、団体で参詣するようになります。さらに順番で代表が参拝する「代参」というスタイルになり、伊勢講・金比羅講などが生まれます。講中で資金を積立て、くじ引きで当たった者が代表で本山参りを行います。伊勢参りなどは二〇人、三〇人で団体行動をしています。また、本山(宮)の修復・拡張などのときには、この講社が集金(勧進)マシーンとしての機能を大きな発揮しました。
例えば、池田町史568Pには、中世の畑栗寺という山伏寺のことが紹介されています
この寺がどこにあったかは分からないようですが、池田町内の棟付帳には、山伏が10戸以上登録されています。その内の玉蔵院を見ておきましょう。(明暦四年池田村棟付帳」)
明暦四年池田村棟付帳」 阿波池田の山伏寺

この史料からは次のようなことが読みとれます
①玉蔵院は、58歳の山伏(修験者)で、快蔵(24歳)と きち(12歳)の男の子がいること
②妻や娘などの女性は記されていない。実際には女子の下人も何人かいた
③石高は5石あるので、自作農クラスの農地を持っていたこと。
③下人は2人で、その内の一人は草履取りで、彼らによって農業経営が行われていたこと
④さらに小家下人一戸がいたこと。
ここからは、農地をもった山伏が「ざうりとり(草履取り)」を従えるという特別な存在で、ムラの宗教行事では指導的な役割を果たす姿が見えてきます。それは普通の百姓よりも、遙かに身分が高い特別な存在に見えたはずです。ここでは山伏が卑下される存在ではなく、村人からリスペクトされる存在であったことを押さえておきます。卑下されるようになるのは、明治維新の神仏分離以後のことのようです。

もうひとり、27歳という若い御蔵山伏の快次郎を見ていくことにします。
 意訳変換しておくと
小家 宝仙    27歳
この者の先祖は明学院で、延宝2年の棟付張には親藤左衛門の家族として登録され、山伏となり賦役免除となったと記されている。この家は代々、山伏業で渡世を営む家で、取調に対してその旨を述べている。本人と惣領が夫役御免になっていて、同家多りとも夫役被仰付旨被仰渡侯(「文化八年西山村「棟付帳」)
 もう一人の山伏宝仙も、山伏という理由で本人と惣領が夫役御免の特権を得ています。こうしてみると棟付帳に載っている山伏は、例外なく夫役御免扱いの特権を得ています。ここからは阿波藩の保護を受けた山伏が一般農民の信頼を受け優遇され、村々で指導的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 しかし、だれでもが山伏になれたわけではありません。
山伏なるには、やはり修行が必要でした。山嶽修行の期間や、本山への参拝回数によって、その呪術にも差があるとされました。また、本山からも大先達・中、小先達と位階がつけられます。そのためには本山から免許状を受ける必要がありました。これには金銭的な負担が伴いました。つまり、山伏は困窮した人達の階層に属していたのではなく、ある程度の経済力と身分を持った人達であったことがうかがえます。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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前々回に、伊予の四国霊場八坂寺について、次の点を押さえました。
①熊野十二社を勧進し、熊野先達業務をおこなっていたこと
②周辺に広い霞(信者テリトリー)をもち、広範囲の檀那を擁していたこと
それが近世になって熊野詣でが衰退すると、石鎚詣での先達に転進して活躍するようになり、信者を再組織していきます。これが八坂寺の中世から近世への変化に対する生き残り策であったようです。
 今回は、山伏(修験者)たちが、中世から近世への時代変化に対して、どのように対応して生き残っていったのかをを見ていくことにします。テキストは「近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景」です。

熊野詣での衰退要因については、研究者は次のように考えています。
熊野詣での衰退と対応

16世紀における戦乱の拡大は参詣者の減少をもたらし、さらに戦乱による交通路の不通によって、熊野先達業務は廃業に追い込まれた。15世紀末以降、熊野先達は檀那であった国人領主層の没落などを受けて、新たに村々の百姓との結びつきを深め、彼らを檀那として組織するようになった。しかし、戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化していったと考えられる。

 それでは熊野先達業務が不調になっていく中で、先達を務めた来た山伏たちは、生き残る道をどこに見つけたのでしょうか。それについて修験道研究では、次のような事が指摘されています。
①戦国期には山伏の村落への定住が始まったこと
②そして山伏が庶民への呪術的宗教活動を盛んに行うようになったこと
 つまり、近世の山伏たちは、生活圏を町場から村へと移し、檀那(信者)もそれまでの武士領主層から村々の百姓へと軸足を移したというのです。それでは山伏は新たに住み着いた村々で、どんな「営業活動」を行ったのでしょうか?

修験者の里定着の方法

北条家朱印状写の中の「年行事古書之写」を見ていくことにします。
これは永禄13年(1585)に、小田原玉瀧坊に対して後北条氏から出された「修験役」に関する文書です。玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は次の通りです。
〔史料五〕北条家虎朱印状写34)(「本山御門主被定置
○年行事職之事丸之有ハ役ニ立たさる也 十一之御目録」
一、伊勢熊野社参仏詣
一、巡礼破衣綴
一、注連祓・辻勧請
一、家(堅カ守)
一、釜注連
一、地祭
一  葬式跡祓
一、棚勧請
一、宮勧請
一、月待・日待・虫送・神送
一、札・守・年中巻数
右十一之巻、被定置通リ、不可有相違候、若不依何宗ニ違乱之輩有之者、急度可申付者也、注連祓致陰家ニ(ママ)者有之者、縦令雖為真言・天台何宗、修験役任先例可申付者也、仍而定如件、
永禄十三(1570)年八月十九日長純
「○時之寺社奉行与申伝ニ候」
玉瀧坊
 近世に書写された史料ですが、ここには近世初頭の山伏の年間行事が挙げられています。

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このことから修験者の役割は、次の4つに分類できそうです。
①伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、
②家や土地の汚れを祓(はら)う行為
③葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、
④守札等の配札行為、
一番目に「伊勢・熊野社参仏詣」とあります。これが、伊勢や熊野への先達業務です。ここからは、戦国時代になっても山伏が伊勢・熊野などの諸寺社への先達業務を行っていたことが分かります。ここで注意しておきたいのは、「伊勢・熊野」とあるように、熊野に限定されていない点です。その他の有名寺院にも先達を務めたり、代参を行っていたことがうかがえます。
 しかし、残りの活動を見てみると「注連祓」「釜注連」「地祭」「宮勧進」などが並びます。これらは村の鎮守の宗教行事のようです。また。 「葬式跡祓」とあるので、山伏が村人の葬儀にも関係していたことが分かります。
 「月待・日待・虫送・神送」は、近世の村の年中行事として定着していくものです。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
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「札・守・年中巻数」は、護符や守り札のことでしょう。

これらも山伏たちによって、村々に配布されていたのです。こうして見ると、近世に現れる村社や村祭り・年中行事をプロデュースしたのは山伏であったことが分かります。風流踊りや念仏踊りを伝えたのも、山伏たちだったと私は考えています。
ここでは、山伏は、「イエ」や個人に依頼され祈祷を行うだけでなく、近世になって現れた村の鎮守(村社)の運営や年中行事などにも関わっていたことを押さえておきます。

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越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
これは金剛院空我という人物によって著された呪術作法集で、寛文年間(1661~73)に、書かれたものとされます。その内容は、喉に刺さった魚の骨を取る呪法や犬に噛まれない呪法などの現世利から始まり、堂社の建立や祭礼、読経、託宣な169の祈祷作法が記されています。 当時の村に住む山伏が、村人の要望に応えて多種多様な祈祷活動をしていたことが見えてきます。村人から求められれば、なんでも祈祷しています。それは、歯痛から腰痛などの痛み退散祈祷からはじまって、雨乞い、までなんでもござれです。このような活動を通じて、山伏たちは、村の指導者たちからの信頼を得たのでしょう。こうして山伏の村落への定住は、彼らに新たな役割をあたえていきます。

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例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。

 天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。

ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。そして伊予では、熊野詣から石鎚参拝に転化したことは、以前にお話ししました。その背景について、考えておきましょう。
 近世の熊野参詣は、参加者が数人程度の小規模なものになっていきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。

こうした中で、新たな熊野参詣の方法が採られていくようになります。
天正16年(1588)に古河公方家臣の簗田氏の一族・簗田助縄という人物から、武蔵国赤岩新宿の修験寺院大泉坊に対して出された判物を見ておきましょう。
簗田助縄判物諸社江代官任入候事
一、大峯少護摩之事
一、宇佐八幡代官之事
一、八幡八幡代官之事
一、伊勢へ代官之事
一、愛宕代官之事
一、出雲代官之事
一、熊野ヘ代官之事
一、多賀へ代官之事
一、熱田へ代官之事
右、偏任入候、来年ハ慥ニ一途可及禮候、尚鮎川可申届候、以上
   戊子六月廿一日 助縄(花押)
大泉坊
ここには「諸社江代官任入候事」とあります。ここからは、簗田助縄が大泉坊に対して、こららの寺社への代参を依頼していることが分かります。吉野の大峯から、豊後の宇佐八幡宮まで全国各地の有力神社へが列記され、その中に熊野神社の名前もあります。この時期、武将達は「代参」という形で地方の有力寺社に祈願していたのです。これを研究者は、次のように指摘します。
①「大泉坊が民間信仰の総合出張所=地域の宗教センター的役割を果たしていた
②大泉坊に代参を依頼した背景には、簗田氏というよりは、むしろそこに集う民衆の要請があった
ここでは、戦国期には直接参詣に赴くことができない信者の要請を請けて、山伏が代参という形で地方の諸寺社を参詣するということが行われていたことを押さえておきます。人々の熊野に対する信仰は、代参という形に変化したも云えます。
以上をまとめておくと
なぜ中世後期に熊野参詣が停滞・衰退したのか、
①15世紀末(戦国期)ころから山伏たちは、村々への定着とともに、村人を檀那とするようになった。
②山伏は、村人の要請に応えていろいろな祈祷や祭礼を、行うようになった。
③一方で熊野参詣は、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより実施が困難になっていく。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
⑤代参は熊野だけでなく、全国の有力神社が対象で、熊野はそのなかのひとつにすぎなくなった。
⑥その結果、熊野参詣の停滞・衰退が生みだされた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景
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西阿波の庚申塔には、何が彫られているの?

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天空(ソラ)の集落を訪ねていると、お堂は集落の聖地であり、念仏踊りなどもここで行なわれるなど文化センターでもあったことが分かる。

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端山巡礼第80番観音堂
端山巡礼第80番観音堂にやって来た。
半田から落合峠を経て祖谷に入っていく街道沿いにあるお堂だ。
お堂の前にはカゴノキの巨樹が木陰を作っている。
旅人達の休息所だったことが想像できる。

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        端山巡礼第80番観音堂の庚申塔
その巨樹の前には庚申塔が建っている。

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建立は天保3年9月吉日。シーボルト事件が発覚し、伊勢のお陰参りが大流行した頃だ。200年近く前のものだが、朱で彩られた文字がくっきりと残る。
「光明真言三百万遍」
と読める。
「光明真言」とは、お四国巡りの際などに、般若心経の最後に唱える
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」

という呪文のような真言のことである。これを、三百万回も唱え終えたことを記念として建立された記念碑ということになる。
旅行く人たちは驚きの気持ちで、これを見上げたのではないか。
そして、建てた地元の人たちは誇らしげに感じたのではないか。

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穴吹の口山の猪滝堂
こちらは穴吹の口山の猪滝堂。
ここにも真言百万遍の庚申塔が建っている。

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こちらは江戸末期の嘉永年間 なんと三百万回だ。

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そして西阿波で最高回数は・・・これ
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なんと七百万回と刻まれている。
最大の大きさのものは、加茂町にある。
誰が? どこで? いつ? 光明真言を唱えたのか。
 日本に伝えられた道教の教えで、
「人の体の中には3匹の虫がいる。
1つは頭の中に居て彭■(ほうきょ)と言い、首から上の病気をおこす。
2つめは彭質(ほうしつ)と言い、腹の中にいて五臓を病気にする。
3つめは足にいて彭矯(ほうきょう)と言い、人を淫乱にする。
これを三尸(さんし)の虫と言い、庚申の夜に人が眠ると人体から抜け出て天にのぼり、その人の犯した罪過を天帝に報告して、その人の生命を縮める。
そのため
「庚申の夜に身を慎み徹夜すると虫が人体から抜け出すことができない。」
と言われ、庚申の夜には眠らずに「守庚申」(まもりこうしん)が行われるようになった。

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 阿波の人々が盛んに、講を組織し庚申待を行うようになるのは江戸時代後期になってからだ。

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 こんな姿を刻んだ庚申塔も現れるようになる。青面金剛だ。
「一身四手で、左の上手には三股、下手には棒を、
右の上手の掌には宝輪、下手には羂索をもつ。
身体は青色で口を大きく開き、目は血のように赤く三眼である。
髪はほのおのように聳立しどくろをいただいている。
両足の下には二鬼をふんでいる。本尊の左右には香炉をもった青衣の童子が一人づつ待立し、また右側にはほこ、刀、索をもつ赤黄の二薬叉(やしや)が立っている」
庚申塔の説明

青面金剛はもと「病を流行らせる悪鬼」だが、改心して「病を駆逐する善神」に変化した。
やがて、

「三尸虫を封じ込める」→「力づくで病魔を駆逐してくれる神様」
 として、庚申の本尊に採用された。
  西阿波では、青面金剛が彫られた庚申塔が多い。
庚申塔(こうしんとう)って何:目黒区公式ホームページ

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 申(さる)は干支で、猿に例えられるから「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものも多い。

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 当時の人々にとって庚申の夜は、地域のニュースを交換したり生活知識を入手する唯一の場であった。一晩徹夜をするのがつらいので、飲み食いをしたり、踊ったりして信仰はそっちのけで遊びの会になってしまった講もあったようだ。

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 一方、領主側からすると細かな取締り方針の伝達の場であり、時には民情を探るための諜報(穏密情報)集収の場にも利用されたようだ。そこで人々は保身のために、庚申待で語られた御政道批判や不用意な噂ばなしなどは
「一切不見(みず)、不聞(きかず)、不言(いわず)」
を守ることが大切なことだと経験から学び、庚申塔に彫り込んだのかもしれない。

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 戦後、生活様式の変遷等と合理思想の波に洗われて、お堂も姿を消し、庚申の行事も途絶え、庚申塔はあってもその名称さえも知らない人達が多くなった。
そうしたなかで西阿波には、全国でも珍らしく庚申信仰の習俗が残存している地域があるという。 いつか見てみたい、参加してみたいという願いを持ちながらソラのお堂巡りは続く。

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