他国からの侵略者について、悪評が残るのは当然のことです。侵略する方は、「天下布武」「四国平定」「大東亜共栄圏建設」などの大義名分を掲げますが、侵略される方からすればそれは受けいれられるものではありません。讃岐でも、江戸時代後半になると長宗我部元親は「悪役」として語られることが多くなります。その背景を以前に次のようにまとめました。
①「長宗我部元親焼き討説」が広がり、「信長=仏敵説」のように語られるようになった、
②江戸時代の僧侶や知識人が「元親=仏敵説」にもとずく記述を重ねるようになった
③「土佐人による讃岐制圧」とが「郷土愛」を刺激し、長宗我部元親への反発心がうみだした。
どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、「元親=悪者説」が多いのです。それは阿波でも同じようです。今回は阿波での「長宗我部元親=悪役」の背景を探って見たいと思います。テキストは「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」です

研究者は長宗我部元親の「悪評」記述を次のように挙げます。
住吉神社/ホームメイト
藍住町の住吉神社

①板野郡住吉村(藍住町)の住吉神社に残る「住吉明神由来書」(1793)年

「住吉明神往古ハ余程之大社二候処 長曽我部兵火二焼失仕候」

 ここには、住吉明神は大社であったが元親軍の兵火で焼失したと伝えています。
②『阿波郡風土記」の香美村の項

「十一社が元親の兵火にあった。八幡祠(寛永元年九月再興(祭神三座 誉田別尊・依姫・神功皇后、門守の神像に焼け損じたる像あり。是は土佐虐乱の兵火にかかりしなりとぞ」

③名東郡上八万村(徳島市上八万町)の宅宮神社や四門寺にも元親軍の侵攻で兵火にあった伝承
④名東郡西須賀村(徳島市西須賀町)の神主冨川石見の書状(1793年付け)

「杉尾山神領所と申す候ハ四国御管領細川家御代々之御間は御室御領之比より相伝仕来り候通無相違乱持隆公之御代後迄社領仕居中趣之所人正年中之騒乱二長曽我部元親名東郡下八万村之内蛭子山楯之城二在陣之間勝浦近郷之在家を不残焼払ハセ候」

意訳変換しておくと
「杉尾山の神領所は四国管領の細川家の所領として騒乱も無く相伝してきた。ところが長曽我部元親の侵攻の際に、名東郡下の八万村の内蛭子山楯之城(夷山城)に布陣した際に勝浦近郷の家々はみな残らず焼払われた。」

ここには夷山城攻撃の際に、その南方にあたる勝浦近郊の家々を長宗我部元親が焼き払ったと伝えています。
⑤「忌部系統写」千日太夫の記述

「此時分乱賊多ク、長曽我部元親ノ神領ヲ押領ス。依テ一門社格身振ヲ失ウ」

吉野川市山川町でも長宗我部元親の侵入で寺社が社領を失い、退転したと記します。

⑦『美馬町史』

この時の長宗我部の兵火によって多くの民家が焼き払われ、由緒ある古寺院もまたその厄にあったと伝えられている。郡里字銀杏木の銀杏庵の周辺にその遺跡を残している郡里廃寺(立光寺とよばれていたともいう)のごときも、七堂を備えた白鳳期の大伽藍であったが、長宗我部の兵火によって焼失したとする伝承がある。『願勝寺歴代系譜』の記述にも長宗我部元親による被害が記されている。しかし真実は見極めがたい。

⑧『城跡記』
勝瑞城が陥落して三好(十河)存保が讃岐に逃亡した後も岩倉城は元親軍を防いでいた。そこで

「元親扱ヲ人テ城ヲ請取、城番トシテ長曽我部掃部頭ヲ置、此時当日神社仏閣迄悉ク焼亡ス、不人ノ至哉」

意訳変換しておくと
「元親は兵を派遣した城を奪い取り、城番として長曽我部掃部頭を配置した。その時に、周辺の神社仏閣はすべて焼き払った。この所業は人にあらず」

⑨『矢野氏覚書』の中富川合戦の記述
「さて土佐の軍勢共在家に火をかけ焼払ひ、勝瑞へ押寄、見性寺に陣を取」

ここでも戦闘に先立ち周辺の家々を焼き払ったとあります。

⑩『池田町史 上巻』
長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これらの伝説がどこまで本当のことなのかは確かめようがありません。ただ、板野地区の長宗我部との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が町営住宅の敷地になるため発掘調査されました。そこからは寛永通宝が出土しました。つまり、この塚は天正年間にまで遡るものではなかったのです。この例でもわかるように、「長宗我部元親=すべて焼き討ち」説が事実ではないようです。
 しかし、この長宗我部氏の寺院放火伝説は、土佐軍の侵人占領が、阿波の人々に大きな衝撃を与えたことは事実です。例えば池田地方は、戦国の世になっても大きな戦いの戦場になることはありませんでした。そこへ土佐兵が大軍でやってきて、何年間も軍事的占領し駐留したのです。白地城は常時3000の兵がいたと言われます。この城を拠点として、伊予や讃岐、吉野川下流へと兵が派遣・帰還などが繰り返され、池田地方はざわめき立ったことでしょう。食糧や物資の徴発、人夫の強制などは、池田地方の人々の負担となり、のしかかってきたはずです。征服者としての異国の土佐兵の常駐は、あっちこっちで問題を起こしたことが推測できます。八年間にわたる占領下の苦しみが土佐兵に対する憎しみとなり、長宗我部放火説へと転化していたのかもしれません。

『小松島市史 上巻』には、四国八十八番札所の恩山寺について、次のように記します。

「立江寺にも恩山寺にも長宗我部侵攻の際に兵火にかかったと言う伝説がある。新居見には長宗我部軍の職を五月職と見違えたために不運にあったことから、今も五月職の吹流しはつけない風習が伝えられている。新居見城の山麓の清浄寺池には焼いていた途中に襲来したために、半焼の魚がいると伝えられたり、更に清浄寺の坊さんが鐘をかぶって清浄池に飛び込み白なまずになつたとか、いろいろの話が伝えられている」。

阿南市桂国寺(長生町会下)の由緒には、次のように記します。
桂國寺庭園 ― 上田宗箇作庭…徳島県阿南市の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
庭園で有名な桂国寺

桂国寺は、応永20(1413)年に周防国鳴滝から阿波にやってきた泰雲寺の全庵一蘭が隠居所として創建したことにはじまる。永禄年間に兵火によって焼失したが、本庄城主安芸守によって再建された。しかし、天正十(1583)年、長宗我部元親の侵攻によって再び焼失した。天正13年、阿波国に入部した蜂須賀家政は、翌14年に丈六寺の描笑春賀に命じて再興させたと伝えられる。近世初期、牛岐城番で家老賀島家の保護を受け、以後賀島氏の菩提所となったという。

その他、阿波国に近接する阿讃山脈北麓に位置する讃岐国の大窪寺などでも元親の侵攻によって焼失したという伝承があります。
これに対して野本氏は次のように記します。

「元親は四国内の宗教諸勢力の力にも目を付け、国境を越えて教線上に点在する寺院を利用した。曹洞宗の場合、阿波の丈六寺を土佐予岳寺の末寺としたり、伊予の古刹龍沢寺を巧みに土佐の末寺元享院(津野領)の影響下に置くといった事例は、宗派別教線の支配という元親の外交戦の一端を垣間見せる。他にも、一向宗・法華宗などで元親の干渉を推察できる史料がある。彼が阿・讃・予の寺社の大半を故意に焼失させたという伝承の何割かは再検討が必要である」

以上のように、長宗我部元親の侵攻伝承の実態を検討しておく必要を述べています。

そういう目で、文久元(1862)年8月の「箸蔵寺旧記聞伝覚書』の「箸蔵寺由来」を見ていくことにします。
箸蔵寺本殿・護摩殿ライブカメラ | 徳島県三好市池田町 | ライブカメラJAPAN FUJIYAMA
一、上之堂与申者昔長曽我部宮内少輔(長宗我部元親)土州より打出大西家落城迄者箸蔵寺此処二有之候。其砌兵火に焼失仕夫より夜々山中に光りを見付、長曽我部一類之者尋来り樹下に霊像あり、見連バ、当山、権現本尊薬師如来諸眷属火中より出残り深く感歎し、是を宿因とし、右霊像を祭りしが凡三十ケ年にも堂寺無之、庵を結び日を送る
(中略)
一、先代蓬庵公巡国是砌、小庵ニ隠者有之候由、聞召、御登山被為遊候節住持申上候其時々之御領―様、是道者権現本尊江御供田被下置来り、殊更御祈祷、所二相成候義与奉申上虎御高之義ハ不被下候得共、山内七十七町七反四畝被為下置御證文御制札御書判被為仰付、御祈祷所並二御取立二相な有之候本社あり(下略)
意訳変換しておくと
一、上の堂と云うのは昔、長宗我部元親が土州から侵入し、大西城が落城するめで箸蔵寺があったところである。兵火で焼失した後に、夜が来ると山中で光りを発するものを見つけた。長曽我部の家臣が捜し訪ねていくと、樹下に霊像があった。見ると、当山箸蔵寺の権現本尊薬師如来が火中から現れていた。これに深く感歎し、宿因とし、この仏像を祀ったが、凡十ケ年にも堂寺は建立できず、庵に安置されていた。
(中略)
一、先代の蜂須賀家の蓬庵公が巡国の際に、仏像が安置されている小庵に隠者がいることを知って、呼び寄せ住持とした。その時に寺領を拝領し、道者権現の本尊御供田とした。さらに祈祷などに優れた効能があったので、山内に七十七町七反四畝の寺領の證文と制札を下さされるように仰せつかった。この祈祷所と取立の証文は本社(箸蔵寺)にある。

ここには、前半部で長宗我部軍の兵火による箸蔵寺の焼失が、そして、後半部に蜂須賀藩による保護復興と寺領寄進が記されています。これは、長宗我部元親と蜂須賀家を意図的に対照的にかき分けていることがうかがえます。これについて、研究者は次のように指摘します。

これには、藩主蜂須賀家の威徳を奉ると共に、蜂須賀氏との関係を強化・維持しようとする地域社会の動向のなかから生み出されたきた侵攻伝承ではないかと思わせる

ちなみに、元親侵攻と同時代を生きた二鬼島道知の『昔阿波物語』などには長宗我部軍による兵火のことは何も書かれていません。
阿波国海部郡への侵攻に関して『元親記』は、次のように記します。

元親卿、其春の異夢を神主左近合申所の任神慮阿波入を思立、早速得利運たりじ併氏神八幡大菩薩之加護なりとて、帰陣の後社参し給ひて、種ゝ神楽を備へ、神社十十二疋社進し被通夜たり。

  意訳変換しておくと
長宗我部元親は、その春の異夢を神主の左近合が語る所の「神慮が阿波侵攻」求めているという言葉を思い出し、早速に神運がめぐってきたと解釈した。これぞ氏神八幡大菩薩の加護だと云って、帰陣した後に氏神に参拝して、様々な神楽を備へ、神社に奉納した。

ここからは元親が八幡大菩薩を信仰し、その加護を深く信じていたことがうかがえます。
「長宗我部氏掟書」にも「一、諸社神事祭礼等、従先年如相定、不可有退転事」とあります。ここからも社寺の祭礼に気を配り、保護に努めていることが分かります。戦国武将は神仏に保護を加え、その加護を求めるのが普通でした。元親も丈六寺など寺社勢力の掌握にも努めています。寺社に対して、無制限に焼き討ちを行った痕跡はありません。
その他、『阿州足利平島伝来記』は次のように記します。

「長曽我部元親、天正五年阿州へ責来ル時、桑野二陣取テ居ケル時、桑野梅谷寺卜云僧二池田長兵衛卜云者ヲ指添、義助方へ尊公御領分ハ、全異儀御座有間布候トテ、細矢卜名付ル駿馬ノ馬土佐紙等ヲ添テ送、同天正十年ノ秋、元親又当国へ打入、勝瑞三好正安ヲ責シ時モ、夷山二在陣、八万村丹光寺卜云出家二西守腎齋卜云法師武者ヲ相添、引廻ヨキ故二名ヲ小鋸卜云ル馬二、土佐布杯ヲ添テ被送ケリ」
意訳変換しておくと
「長曽我部元親が、天正5(1577)年に阿波に侵入したときに、桑野に陣を置いた。その時に、桑野梅谷寺の僧に池田長兵衛を遣って、そちらの寺領については、すべてを今まで通りに認め保護する旨を伝え、「細矢」卜いう駿馬を土佐紙とともに贈った。また天正10(1582)年の秋に、勝瑞の三好正安を攻略するときには、夷山に陣を敷いた。その時も、八万村丹光寺に西守腎齋という云う法師武者を遣って、「小鋸」という馬と、土佐布を奉納している。

ここからは、長宗我部元親が阿波の拠点寺院を選択的に保護していることがうかがえます。
研究者が注目するのは、次の『長元物語』の記述です。

三好殿家老衆大将ニテ、人数六千余打出テ、岩倉ノ城近邊在々、池田・ヒルマ(昼間)其邊焼働シテ

ここには長宗我部軍に攻めたてられた三好方が、岩倉城周辺や池田・昼間の家々を焼き払ったことが記されています。
『昔阿波物語』には次のように記します。

十河(三好)存保の家臣木村新丞なる人物が「城のうちを出て、勝瑞の町を一間も不残焼払ひ候」

ここには海瑞攻防戦に先立って、三好方の武将が勝瑞の人家をすべて焼き払ったことが記されています。
  戦闘前には家々を焼き払うのが常套戦術でした。三好方の放火もあったもことが分かります。

寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺

美馬市美馬町の『願勝寺歴代系譜』二六代快全上人の項には、次のように記します。

「天正年中土州長曽我部元親ノ兵火二罹り一端無住同断ノ地トナリケルヲ快全上人焦心尽カシテ当寺ヲ再興シ、天正十三年大守蜂須賀家政公御入国以来種々古来ノ由緒ヲ申立先規ノ如ク被仰付御墨附迄拝領シ上郡大地ノ一寺トナルハ是快全ノ功労也」

意訳変換しておくと
「天正年間に土佐の長曽我部元親の兵火を蒙り、一時は無住の寺となった。それを快全上人が尽力して再興した。、天正13年に蜂須賀家政が入国した際に、古来からの由緒を申立てて、従来通りの特権などの御墨附を拝領した。これによって上郡の有力寺院となることができた。これは快全上人の功績である。」
 
ここには長宗我部元親の焼き討ちで退転した願勝寺を、快全上人が復興したことが記されています。そして、それを保護・支援したのは、蜂須賀家初代の家政です。

蜂須賀家政 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins)
蜂須賀家初代の家政
この文書は長宗我部侵攻からさほど時間の経過していない文禄三(1594)年の奥書をもつことから、信憑性が高いとされてきました。しかし、この年は蜂須賀家の家老稲田氏から願勝寺が郡中出家取締の役に命じられた年に当たります。蜂須賀家から墨付きを拝領したた願勝寺の立場として、蜂須賀家への「お礼」の思いから書かれた可能性を研究者は指摘します。 さらに『願勝寺歴代系譜』の成立時期については、長谷川賢二氏が式内社忌部神社をめぐる争論に際して、その所在地を美馬郡内とするために明治期にかけて偽作されたものという見解も出されていることは以前にお話ししました。

前々回には、祖谷山衆が長宗我部元親にいち早く帰順し、阿波侵攻の先兵として働いたことを見ました。
ところが後世に書かれた『祖谷山旧記』には、祖谷山衆と長宗我部元親の関係については何も触れられていません。あるのは蜂須賀家との関係だけです。ここにも作者の「取捨選択」が働いていることがうかがえます。このように阿波の寺社の近世後期に書かれた「由緒」の多くは、蜂須賀家を称揚し、阿波藩との関係を維持・強化しようとする意図で書かれたものが多いと研究者は指摘します。ここでは、その意図が長宗我部元親を悪者として貶めることで、蜂須賀家の藩祖を神格化・カリスマ化しようとする意図があったことを押さえておきます。

戦国時代の阿波の支配者三好氏についても、同時代に生きていた人々はその権力を肯定的に捉えていました。
例えば、『朝倉宗滴話記』には次のように記します。
日本に国持人つかひの上手よき手本と可申人は、今川殿義元・甲斐武田殿晴信・三好修理大夫殿・長尾殿・安芸毛利殿・織田上総介殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事
意訳変換しておくと
統治者として上手な手本としては、今川義元・甲斐武田殿晴信(信玄)・三好修理大夫殿(長慶)・長尾(謙信)殿・安芸毛利殿・織田上総介(信長)殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事

統治上手な武将として、三好長慶が挙がっています。
『信長公記」でも「三好修理大夫(長慶)、天下執権たるに依つて」とあります。三好長慶が幕府の実権を握り、京都を差配していたと記されています。
ところが阿波では、三好長慶も江戸も半ば以降になるとその評価が急落します。
その背景にあるのが、藩主蜂須賀氏の治世に対する何らかの配慮が働くようになったからだと研究者は推測します。その背景として考えられるのが幕府による家康の神格化の広がりです。18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長宗我部元親などの評価が貶められていくのです。その一例が阿波の寺社に対する「長宗我部元親=焼き討ち説」の記述の増加です。こうして、長宗我部元親にはマイナス評価が固定化されていくと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①讃岐や阿波では「長宗我部元親=悪役」説が広く流布している。
②その背景にあるのが、近世後半の寺社由緒に長宗我部元親が焼き討ちしたことである。
③しかし、同時代史料からは長宗我部元親が無分別に無差別的な焼き討ちを行った事実は見られない
④当寺は、戦場の建築物を焼くのはひとつの戦術で、これは三好方も行っている。
⑤「長宗我部元親=悪役」の背景には、近世後半の藩祖神格化がある。
⑥藩祖の神格化・カリスマ化のために、同時代の三好氏や長宗我部元親を悪役化された節がある。
⑦寺社の由緒書きの長宗我部元親や三好氏の記述については、マイナス評価された側面があるので取扱に注意することが必要である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」
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