瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:阿波大西氏

 長宗我部元親の阿波侵攻1
守護小笠原時代の大西氏

 細川・三好氏の讃岐侵攻、その後の長宗我部元親の讃岐侵攻を追いかけていると、白地城の大西氏の果たした役割を見逃すわけにはいかなくなります。大西氏がどのようにして勢力を拡大したかについて見ておくことにします。テキストは「白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P」です。
大西氏は、田井ノ荘の庄官として京都からやってきた時には近藤氏を名乗っていました。
それが、次第に武士化していきます。その過程を、まず追いかけます。
建武二年(1335)年7月12日付で田井ノ庄(三好町と井ノ内谷以西の三好郡)は西園寺家が管領することになり、庄官として近藤氏(後の大西氏)が派遣されます。〔阿波国徴古雑抄所収西園寺家所蔵文書〕
 田井ノ荘の本家である京都の西園寺家は、承久の乱で大きな権力を獲得し、その影響は田井ノ荘にも及んだことが考えられます。例えば、小笠原氏が守護として池田大西城に入ったときにも、田井ノ荘に対してはむやみに手をつけることはできなかったと研究者は推測します。当時は守護・地頭の荘園押領は日常茶飯事のことだったので、田井ノ荘にとってはプラスに作用したでしょう。そのうちに小笠原氏と縁組みなどにより親類関係を結び、その一族として協力関係を作り上げていったのでしょう。
 建武中興によって西園寺家が衰えると、武士の荘園侵略が横行しはじめます。その頃には小笠原氏の支援を受けて、田井ノ荘を自領として確保したのでしょう。南北朝時代になると京都の西園寺家は名目だけの本家として、わずかばかりの貢租を納めるだけになっていたことが推測できます。
正平4年(1349)の紀伊国の野川氏所蔵文書に、「南朝方の野川氏ヘ田井ノ荘の年貢の内30石を宛下さる」とあります。この内容からも西園寺家の田井ノ荘支配は名目的になっていたことがうかがえます。
 南朝方に付いていた大西氏は、小笠原氏とともに康永2年(1343)に、細川氏に降ります。そして、小笠原氏が三好と改姓して勝瑞に移ります。これ以後は、近藤氏(大西氏)が池田城を管理するようになり、次第に大西氏を名のるようになります。

池田大西城
池田の大西城

一方三好氏は、細川氏の下で阿波の統治権を握るようになります。そして、阿波全域に広がった軍事動員権を通じて己の基盤を強化していきます。例えば、応仁の乱では、細川成之は8000騎を率いて東軍の中心として戦っています。この時に三好氏は従軍しています。三好氏の一族であり、被官でもある大西氏も従軍しているはずです。 応仁記には「細川の陪臣」と記されています。大西氏が三好氏の軍団に属して海を渡り、応仁の乱に参戦したことが分かります。
馬場の佐々木家には、応永9年の日付のある呪法(?)の秘伝の巻物、室町期の銅銃などともに、佐々木家の系図が伝わっています。

大西家一族 佐々木家の系図
鳥坂城主の流れを汲む系図で、遠祖は源氏の出で詳しくその事情が書かれています。その真偽は別として、系図の終末が戦国末期で終わっていることに研究者は注目します。つまり、この系図は戦国時代に近いころに書かれたもので、その附近の記述は相当正確でないかと考えられるからです。この佐々木系図には、応仁の乱に参戦したことが記述されています。内容は、もちろん出陣し功名をあげたという記述です。この系図の記述も「応仁記」の記述と相応ずるものです。ここからは応仁の乱に際して、大西氏も従軍し、それに伴って田井ノ荘の人たちは兵士として駆り出され、戦傷や戦死者がでたことがうかがえます。遠征のための戦費も当然、農民の肩にかかって来ます。一面、農民は自ら視野を広め、農耕の技術を見間する機会とし、新しい中世の農民の社会や文化を形づくる契機となったかもしれません。

大西氏が畿内に遠征したことが分かるのは、大永7(1527)の桂川原の戦いの時です。

              大永7(1527)の桂川原の戦い
三好元長に従軍して、大西元高が戦死したことを記す文書を見ておきましょう。
去十九日従泉乗寺一取二出於西院口自身手砕則切崩遊佐   弾正忠阿部大西如百餘人討捕之趣忠節無二比類・候或討死  或被庇之族且者感悦者愁歎候弥可被励軍功事尤候恐々 謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
意訳変換しておくと
去る19日に泉乗寺より出撃して、西院口で敵軍を切崩し遊佐弾正忠や阿部大西など百餘人を討捕えた武勇は忠節無比で、感悦する働きであった。この軍功を認める。恐々謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
細川道永とは細川高国の剃髪後の号で、細川氏の敵対者でした。その高国が朝倉氏に対して、遊佐氏や大西氏を撃破したことに出した感状です。この時に敗れた側が細川晴元方の阿波屋形の細川氏であり、三好氏でした。大西氏は三好氏に従軍していました。上の布陣図では青軍になります。両軍は大永7年にも何回か戦っていますが、越前の朝倉太郎左衛門教景が高国側について、三好元長が西院に陣したのは年も押しつまった12月のことです。この戦いに、大西元高が戦死しています。この戦いに参加したのが大西元高とする根拠は、元高の死亡が大永七年であることです。
池田町白地の八幡寺には、この時に戦死した大西元高の位牌がまつられています。

白地八幡寺の大西元高の位牌
この位牌には次のように記されています。

「享坤院天恵祖芳大居士  千時大永七亥天 三位乙暦十一代維遠後胤 七月初八日 故藤原大西出雲守元高 当院中興開基大壇越、

意訳変換しておくと
「享坤院天恵祖芳大居士  大永七(1527)亥天 三位乙暦 十一代維遠  七月初八日
 故藤原大西出雲守元高 は当院中興・開基の大壇越である、

ここからは次のような情報が読み取れます
①大西元高の死亡は大永7(1527)年7月8日であること。
②大西元高の姓が藤原氏であること
③白地の八幡寺は大西元高が中興・開基した寺院であること
先ほど見たように三好元長が応仁の乱で、京都の西院で敗死したのは12月です。この位牌の死亡日時との間にはズレがあります。しかし、元長と高国の戦いは、大永7年の2月ごろから断続的に続いているので、元高の戦死はそうした一連の戦いの中で戦死したことがふたつの史料からはうかがえます。史料には残っていませんが、三好氏の遠征に大西氏がほとんど加わっていたと研究者は考えています。ここでは、大西氏は三好氏の一族であり、忠実な被官であったことを押さえておきます。

白地 八幡寺
白地八幡寺
大西氏は畿内への出兵以外にも、阿波国内や讃岐への遠征にも三好氏に従軍したことが分かります。
次の古文書は、大西氏の被官である佐野氏が三好義賢からおくられた感状です。
「三好郡佐野村百姓卵兵衛所蔵文書 
坂東河原合戦之剋、敵阿助被討捕之、特自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陳無覚束候、弥可抽戦功之状如件
八月十九日             義賢 墨印 
佐野次郎左衛門尉殿」 (『阿波国徴古雑抄』所収)


三好氏系図.4jpg

阿波三好氏系図(池田町史上)

三好元長(長基・海雲)が堺で憤死したとき、三好長慶(千熊九)はわず14歳でした。その後、臥薪嘗胆し着々と勢力を増し、父の仇を討つ機をねらっていました。白地城大西氏は頼武の時代になっていましたが、上の系図のように長慶の妹を妻とし、長慶の重臣として深い関係にありました。大西頼武は三好氏の重臣として、勝瑞にあり、さらに長慶に従って畿内で活躍したと研究者は考えています。細川氏も三好氏も阿波と畿内に分かれて「二重生活」で活躍したように、白地城大西氏も、三好氏の被官として勝瑞や畿内で頼武が活躍します。白地城では、弟の元武が幼主大西覚用を補佐して四国中央部で勢力を拡大します。この間も田井ノ荘の人たちは、細川・三好氏に動員され、阿讃や畿内に転戦し、敗れれば大西へ帰って疲れを癒し、また、動員されて出征するという苦しい試練に飲み込まれていたのかもしれません。讃岐の中世武将たちが管領家の細川氏に動員されて、畿内で戦って「細川家四天王」と称されたように、阿波の大西家も阿波細川氏に従軍して畿内で活躍したことを抑えておきます。
大西家系図 池田町史
大西家系図(池田町史)

 大西頼武が勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。
もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは最初に見ました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それと併行して留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
①頼武の弟の源兵衛を井之内に住まわせ、井之内地方一帯を固める
②田野を井川に住まわせ、井川荘(湯川荘)の中に勢力を植えつける。
③大西田野は、氏神の白地八幡神社の分霊をまつって井川の鎮守とする。これが井川町中村の八幡神社
④池田へは宗安を住まわせたのが、現在の「宗安通り」

「故城記」の勝瑞屋形218家の中には、大西氏の家紋である鳳凰と雁を使用している家が七家あります。
武家家伝_大西氏

「故城記」に記載されているので、三好氏の有力な一員であったことがうかがえます。この七家は大西氏の一族と推測できます。「故城記」所載の七家は次のとおりです。
一、片穂殴 鳳凰 
一、中務殴 鳳胤 
一、大西角用殴  鳳凰・雁
一、忠津川殿
一、片山殿 昼間・雁 
一、大谷殿 池田・雁
一、宗安殿
この七家について、研究者は次のように推測します。
①最初の片穂、中務の館がどこにあったかは分かりません。
②忠津川は、志津川の草書体の写し誤りで、漆川の古名志津川はここから来ている。
③片山については、州津と昼間の境に片山の地称が残っているが、片山殿の館跡は場所不明
④宗安ついては、池田の「宗安通り」あたり

次に大西氏が創建・再建した神社仏閣や、寄進した仏像などを見ていくことにします。
  A 報恩寺創建 
報恩寺銘瓦の拓本が三好郡志に載せられ、現物も田村家に保存されているようです。
「文明癸巳歳十一月吉日 大檀那 藤原之高」 (文明五年(1473) 元高との説あり)

山城梅宮神社

 B 山城梅宮神社創建


山城梅宮神社創建並再建棟札2 大西覚用

B 山城梅宮神社創建・再建棟札

大西家に関わる最古の棟札です。「永正十□酉年」は永正十年癸西年(1513)で報恩寺瓦から30年後のものです。元高が京都で戦死したと言われる大永七年は、さらに14年後になります。「大施主並女大施主藤原□□」とは何者なのでしょうか? 大西氏のことなのでしょうか? 国司やその要(娘)が名目だけに名をつらねたのでしょうか。私には分かりません。彼らが藤原性を名乗っていることを押さえておきます。
  ここには次のような大西覚用の棟札もあります。 
「奉建之梅宮五社大明神御宝殿 天正二(1574)年甲成十二月十二日 大西覚用
 阿波国郡村誌には「梅宮神社天正三(1575)年甲戊十二月十二日 大西覚用祀之」
 
徳島県 四所神社】銅山川沿いの総氏神三好市 山城町
四所神社(山城町大月名)
C 四所神社(山城町大月名)の棟札には、次のように記されていたとされます。

 「…大檀那大西覚用公 大願主大月寺(現長福寺)現住金智」

この棟札は、安永年中紛失と「古事書上帳」に記されていて今はないようです。四所神社は、大西覚用が大西氏の菩提寺として大月寺(現長福寺)を建立したとき、その守護神として建てたものとされます。大月寺と四所神社は、神仏混淆下では、大月寺の社僧が管理していたはずです。この下を流れる銅山川を遡っていくと、新宮の熊野神社があり、この辺りの熊野信仰の拠点であったことは以前にお話ししました。新宮の熊野神社の別当寺が四国霊場の三角寺でした。この辺りは中世には熊野行者や密教系修験者の活動が色濃く残るところであることは以前にお話ししました。
D 四所神社の別当寺大月寺(現長福寺:山城町大月名)も大西覚用の建立とされます。
「古事書上帳」には大檀那大西覚用の名が正朱で記されていたとします。やはり安永年間に紛失しています。
長福寺の大銀杏
長福寺(大月寺)の大銀杏
現在長福寺には大西覚用が植えたと伝えられる大イチョウが県指定の天然記念物となっています。 なお、覚用自筆の法華経が寄進され、伝えられています。
川崎三所神社の棟札 

山城梅宮神社創建並再建棟札 大西覚用

左の棟札が所蔵されています。三所神社は小笠原長経の創建と伝えられます。それを永禄5年5月1日に「藤原(大西)元武」が再興したということになるのでしょうか。この神社には応永年間の般若心経六百巻が伝わっています。ここからは、この神社が郷社的な存在であったことがうかがえます。
大西覚用系図
 D  中西一宮神社(池田町三繩)には、次の棟札があります。

「上棟一宇大明神天正三乙亥 小春初日 大檀那覚用居士藤原頼武

大西氏の系図は、混乱をきわめ、頼武と覚用が同一人物とするものもあります。しかし、この棟札には、両名の氏名の間に「並」の文字があります。ここからは二人が別人であることが分かります。
一宮神社には、「嘉暦三年(1328)、城主宇清藤太夫信幅宝納」と朱書した鎌倉時代の面(五作の面)が伝えられています。城主についてはよく分かりませんが、これも大西氏の一族でしょう。
   
紫雲山 願成寺 « 紫雲山 願成寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

昼間願成寺へ薬師如来寄進 
「天文十六(1547)丁未六月十七日、当寺住職五叔等川木願三蔵大檀  那(大西)元武

この他にも、雲辺寺鰐口(現在紛失)や、西山密厳寺般若心経20巻なども白地城の大西氏の寄進と伝えられています。このように大西氏は周辺の拠点に、新たに神社や寺院を建立・中興し、自らの支配を根付かせていったことがうかがえます。これらの信仰活動の中心となったのが、熊野行者や真言密教系の修験者たちであったと私は考えています。それは、伊予新宮の熊野神社や、土佐の豊前寺と修験道ネットワークで結ばれていたようです。それが近世になると、箸蔵寺などに姿を変えていくのでしょう。このような濃厚な修験者たちの存在が、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の教線が三好郡に及んでくるのを妨げたのかもしれません。

 大西覚用は、吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達に熊野参詣の費用を支出しています。
白地城城主の大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げた文書「大西覚用熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書)」からは、次のような先達と檀那の「詩壇関係」が見えてきます。

檀那 大西覚用 → 十川先達 → 御師 → 熊野大社

このときに、大西覚用自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって代参したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石=5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは現在の米価格に換算すると約4000万円ほどになります。これは、熊野の御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。ここからは、大西覚用は大西一族の棟梁として、このくらいの「参拝料」を収める経済力があったことがうかがえます。同時に、大西覚用が熊野信仰を持っていて、熊野行者や修験者を保護していたことも見えて来ます。
 その他の古文書、古記録等より、大西氏の領地、石高、経済力などを見ておきましょう。
伊予西条藩が藩の儒学者日野和煦に命じて編纂した地誌「西條誌」は、次のような記述があります。

西條史 
『西條誌』(伊予西條藩編集)

「大西備中守元武の氏は小笠原氏にて阿州三好郡白地の城主たり。五代の祖左衛門亮勲功あり。足利将軍より阿予の内にて五万石を賜わり、当国宇摩郡桑鳥村にも五百石の領地あり」

ここには大西氏が足利将軍より「阿伊の内にて五万石を賜り」とあります。これはそのまま信じるわけにはいきません。「故城諾将記」には「大西出雲守(頼武)の領地三百貫」と記します。中世の武家の知行高で、一貫は約田畑十石です。三百貫は三千石となり、『西條誌』の「五万石」とは大きな隔たりがあります。しかし、大西氏の領地が、伊予、土佐、讃岐にまたがり、四国中央部を占めていたことは推察できます。また、その領地は石高では測れない「山野の財」を産出したのではないかと私は考えています。それは、古代以来の銅や水銀などの鉱山資源や、木材、木工製品などが考えられます。
 領地を伐り取り、勢力を広めてゆく状況は、「大西軍記」(元武功徳明視録、金記、馬路記)に詳しく述べられています。
大西軍記
大西軍記
『大西軍記』は、大西元武の武勇伝を中心にした軍記物語で、元武の五代の孫武政が元禄時代に、現地を調査して書きあげたものです。軍記ものなので、すべてが史実ではありません。ただ伊予の金川で書かれているために伊予のことは正確で、阿波のことには誤りが多いとされています。元武が、戦いに継ぐ戦いで、最後に、 一族の裏切りに会って戦死するまでの生涯を描いています。
一部を紹介しておきます。
  「大西軍記   巻の六
宇摩郡松尾城合戦斯くて大西備中守源の元武は、竊かに忍ひを以て 土佐守か振舞を探り聞くに、岩倉の城にあつて日ならすして土州へ帰陣の由告け来らは、是れ必す虚実 の計事ならむ、急に当国へ寄来るへし(と)衆臣を 集めて曰、思ふに元親阿州に出張し必す土佐帰陣は 空虚ならん、此時山中の小路より土佐へ討て出、急 に責め立つれは大に利を得む、若元親急に進めは臨機応変の処置し、或は引或は進み、二、三度土佐勢をなやまさは終には勝利となるへし、林密計を語る 所に人あつて当国の諸将残らす変心の由告けゝれ は、元武大に驚き其故を尋るに、真鍋左衛門佐土佐勢の強勇なるを恐れ、義を破り諸将をして元親に一 味同心のよし進めけると聞けれは、備中守大に怒 り、左衛門佐臆病なれは、彼壱名の去就何そ怖るゝ に足らむ、然れ共、衆将を引分る事奇怪なり、不意 に押寄彼れを責取、向後東に帰らむと出陣の用意し けれ共、未夕痛み頻りなれは志摩守を差し向けらる へきよし申しけれは、衆評是非に及はす、急に兵を 調へ松尾の城江押寄せける、其勢弐百五拾には過き さりける、抑伊予国松尾城と申すは、後は大山峩々として山 の流れを切開き尾上に櫓をかけ、東西は谷深ふして 大手斗りの責口と見へにけり、さしもの一城要害は 堅固にして中々容易に落かたく備へたる城なれは、 志摩守の勢をはかつて責寄せける、城中にも兼而存 する事なれは、兵三百余騎を一手になし、城外四、 五丁出てゝ陣を取り待ちかけたり

久米田の戦い…三好長慶が弟の三好実休を失い、三好氏凋落のきっかけとなった合戦 - YouTube


白地城大西氏は、頼武が義兄長慶に従って畿内で活躍しました
その最後の参戦は、三好義賢(実休)が戦死し、三好氏衰亡のきっかけとされる久米田の戦いでした。『南海通記』には「大西出雲守(中略)等七千余人」と記されますが、 この戦いから頼武が白地城に帰ってきたときは、相当の老年になっていて隠退の時期を迎えていたはずです。久米田の戦い以後は、大西氏は三好氏の被官というよりも、独立した戦国大名として動き出すことになります。
 それが三好氏と距離を置いて、毛利氏に接近しながら讃岐への勢力拡大を図ろうとする動きだったようです。ここでは戦国末期の大西氏は、三好氏の意志にも反して行動するようになっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P
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讃岐戦国史年表2

1563年に天霧城陥落し、その2年後以降は、香川氏の発給文書が途絶えます。代わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が萩原寺の地蔵院などの各寺に残されています。ここからは三好氏による讃岐支配が固まり、天霧城を追われた香川氏は備中に亡命し、毛利氏の傭兵部隊として活動しながら讃岐帰国のチャンスをうかがっていたと研究者は考えるようになっています。三好氏の讃岐制圧によって、讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。その結果、三好家に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料は今のところは見つかっていません。しかし、その一端を窺うことができる史料を以前に見ました。今回は、阿波白地城の大西氏が、三豊にどのような利権を持つようになっていたかを見ていくことにします。テキストは「中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年」です。
まず、天霧城退城後の香川氏の発給文書を香川県史の年表で押さえておきます。
1563年8月7日
A 香川之景・同五郎次郎、阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の秋山藤五郎の奮戦に対し感状を発する(秋山家文書)
8月18日 
B 香川之景・同五郎次郎が、三野菅左衛門尉に、天霧籠城と退城の時の働きを賞し、本知行地と杵原寺分を返付することを約する(三野文書)
C 12月6日 帰来秋山氏、財田で阿波の大西衆と戦う(帰来秋山家文書)
1564年2月3日
D 香川五郎次郎、秋山藤五郎が無事豊島に退却したことをねぎらう(秋山家文書)
E 3月~  三好の重臣篠原長房、豊田郡地蔵院に禁制を下す(地蔵院文書)
5月13日 香川之景・同五郎次郎、三野勘左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返却
 1565年6月28日 
F 香川之景、秋山藤五郎に、三野郡熊岡・上高野御料所分内の父秋山兵庫助の所領分を安堵し、家弘名を新恩として宛行う(秋山家文書)
1568年 
G  篠原長房、讃岐国衆を率いて備前児島に出陣し、毛利軍と戦う。
この年表からは次のような情報が読み取れます。
①A・Bより1563年8月に、三好氏との攻防戦の結果、香川氏は天霧城を退城したこと。
②C・D・Fから、香川氏はその後も約2年間、三豊を拠点に三好氏に抵抗を続けていたこと
③1565年6月28日を最後に、香川氏の発給文書が途絶える。これは香川氏が讃岐から備中に亡命したことを示す。
④Gから三好氏の重臣篠原長房の備中遠征に、讃岐国衆は従軍し、毛利軍と戦っている。

上の年表のC帰来秋山家文書の感状を見ておきましょう。
A 閏年永禄6年(1563)の香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言閏十二月六日   五郎次郎(花押)
             香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。
謹言閏十二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること

同じような内容の感状が、翌年の3月20日も香川五郎次郎から発給されています。ここでは、天霧城落城の後も財田方面で「大西衆」と香川氏の戦闘が続き、従軍していた帰来善五郎が軍功を挙げていたことを押さえておきます。
 香川氏の抵抗は2年ほど続きますが、1565年には篠原長房の圧迫を受けて、毛利氏を頼って備中に落ちのびます。そこで傭兵活動を行いながら臥薪嘗胆の時期を送ります。西讃の香川氏の領地は、阿波の武将たちに論功行賞として与えられたのです。この文書に登場する大西衆が、阿波白地城の大西覚用を中心とする一族だったようです。彼らが西讃地方に領地や権益をを確保するようになったことがうかがえます。
阿波大西氏は、阿波三好郡の白地城を中心に讃岐豊田郡・三野郡・伊予宇摩郡・土佐長岡郡にまで勢力を持ったとされる国人とされます。
阿波大西氏についてのまとまった研究としては、以下の2つが挙げられます。
A 田村左源大「阿波大西氏の研究」(1937)
B 池田町史 上巻(1983年、132P~183P)
池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

しかし、史料不足のために詳しいことは分かりません。
大西覚用系図
阿波大西氏系図
例えば系譜については、系図・軍記によって違いがあります。大西出雲守頼武と覚用については、親子関係が逆転していたり、同一人物として扱われるなど混乱しています。『池田町史 上巻」は、頼武を親、覚用を子とします。なお、覚用の母は三好元長女(実休妹)とされているので、覚用は三好長治・存保の従兄弟になります。また、大西覚用の妻は三好長慶の妹とされます。三好氏と何重もの婚姻関係を持ち、深いつながりがあったことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
天正年間の当主である大西覚用について、ウキの前半部には次のように記します。
「大西 覚用(かくよう)- 天正6年(1578年))は、阿波国の国人領主。出雲守と称す。俗名は輝武。父は大西元高、子は大西頼武(親子が逆転している)
①大西氏は鎌倉時代に荘官として京都より派遣されていた近藤氏が土着・改姓したもの。
②承久の乱で功のあった小笠原長清の子小笠原長経が、守護代として阿波池田に赴任してきた際に小笠原氏に属した。
③南北朝時代には大西氏と小笠原氏は南朝方として戦っていたが、南朝方が不利になると小笠原氏は細川氏と和議を結びこの地を離れ三好と改姓。これを契機に大西氏は小笠原氏より独立、戦国時代には阿波西部の最大勢力となっていた。
④大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。
⑤阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐の長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。

①~④までについては、軍記ものに書かれている内容で、これを裏付ける史料はありません。しかし、①では、大西氏も従来は近藤氏と名乗っていたとします。
④からは婚姻関係を通じて三好家と大西家は強く結ばれていたことが分かります。三好氏の讃岐制圧戦の先陣を切って、大西覚用が西讃の丸亀平野や三豊平野に侵攻し、領地を確保したことがうかがえます。それをうかがわせる史料が冒頭の財田合戦に出てくる「大西衆」です。

大西覚用の西讃侵攻の「相棒」となったのが二宮・麻の近藤氏です。
中世の近藤氏については、以前にも触れましたのでここでは省略します。

大水上神社 近藤氏系図

近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えています。この背景には、永世の錯乱によって、阿波細川家と讃岐細川氏が対立し、阿波勢力が讃岐に侵攻してきたことが背景にあります。その先兵が三好氏でした。三好氏の讃岐侵攻は東讃地方では、十河氏を中心に進められたことは以前にお話ししました。それに対して、西讃については三好氏の侵攻制圧過程が史料からは、なかなかたどれません。そのため、南海通記ばかりを見ていると、西讃は天霧城の香川氏の配下にあったと思えてきます。しかし、長尾氏や奈良氏・羽床氏・滝宮氏なども三好氏に従属していたこと、また香川氏は1573年に天霧城を退城後は、備中で毛利軍の「傭兵部隊」として10年近く活動していたことが分かっています。そして、讃岐国衆の安富氏や中讃の滝宮氏などは、三好氏の重臣と婚姻関係を結び、三好氏の遠征に従軍するようになっていたことは以前にお話ししました。そのような流れの中で、三豊の近藤氏を捉える必要があります。
 
三好氏の近藤氏への懐柔策の一つが「近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えた」という婚姻政策でしょう。
そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。国雅の代になると、三好氏との連携強化が進みます。三好氏から見ると西讃制圧が進み、讃岐の国人衆を配下に入れで動員できる体制が整ったといえます。こうして近藤氏は、阿波三好氏に従軍しして動くようになります。これに対して、反三好を旗印とする天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます。
信長と三好氏の対立
         織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

永禄三(1560)年、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは先ほどお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで近藤国雅が永禄三年に討死しています。三好氏の侵攻が天霧城をめざして、じりじりと迫っていることがうかがえます。近藤氏は、この時点で大西覚用と同盟関係にあったことがうかがえます。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう。
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。国祐を取り巻く肉親関係は少々複雑です。国祐は大平氏を名乗ります。母親は阿波白地城の大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。とすると、近藤氏は、当主の嫁を三好氏に続いて、大西家から迎え入れていたことになります。近藤氏の阿波勢力とのつながりが深化していることがうかがえます。

大西覚用が讃岐において何らかの権益を得ていたことは次の史料から分かります。
 次の史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が、備後亡命中の香川信景に讃岐に帰国し、反三好的な行動を起こすことを求めたものです。
「【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿

上洛してきた香川氏に対して反三好的な軍事行動を起こすなら「大西跡職」を与えるとあります。「大西跡職」というものがなんのことか私にはよく分かりません。ただ大西覚用が西讃に持っている権益を香川氏に与えると読み取れます。そうだとすると、大西覚用は三好氏から恩賞として、なんらかの権益を讃岐に持っていたことになります。以上からも篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと考えられます。一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えるようになります。この中には近藤氏も含まれていたことが推測できます。こうして阿波三好氏による讃岐平定は着々と進められて行きます。奈良氏・長尾氏・羽床氏も三好氏の配下となり、香川氏追放後の西讃は三好氏の氏配下にあったことを改めて押さえておきます。そういう視点から見ると、これまでの南海通記に基づいて書かれてきた歴史は辻褄があわなくなってきます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

例えば1574年10月に「大西覚養(用)が香川氏を討つために那珂郡へ侵入」とあります。しかし、香川氏はこの時点では亡命中です。そして、奈良氏や長尾氏は三好氏へ従属しています。大西覚用は、二宮や麻の近藤氏と婚姻関係を結び、同盟軍として動いています。すでに10年前から讃岐国衆は三好配下にあるのです。そこに大西覚用が「讃岐侵入」するはずがありません。ここにも南海通記の時代認識の誤りが見られます。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 このような中で三好氏の讃岐支配をひっくり返す動きが起こります。それが次の2つの事件です。
A 毛利軍の支援による香川氏の天霧城復帰と元吉城占領
B 長宗我部元親による阿波侵攻
長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親は、阿波や讃岐でも懐柔策を進めます。『祖谷山旧記』には、次のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここにはいち早く長宗我部元親に帰順した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。祖谷山間部の土豪を、豊永の豊楽寺の信仰集団に組織し、見方に引き入れた土佐軍は、吉野川上流から大西覚用の白地城に近づきます。そのような中で、長宗我部元親が栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。
十一月二十三日長宗我部元親書状

雖未申入候、令啓達候、
貴国が今不昇平御心
遣令察候、自今以後
別而可得御意候条、於御
入魂者可畏存候、就中
大西方・三好安藝守方
和睦
之儀、此中申試候
殊被添御情由大慶至候、
重而使者差越申義
候之間、双方納得之御助
言所仰候、傷御太刀一腰
馬一疋進覧之候、卿
表御祝儀計候、猶
委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

意訳変換しておくと

今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方の納得を得れるように助言していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

内容を次のように整理して起きます。
①長宗我部元親から栗野氏への初信で、阿波国内の混乱に言及した上で、今後の従属を求めています。
②阿波大西氏と三好安芸守の和睦を試みていることについて喜び、重ねて調停の使者を派遣するため双方が納得するような助言を求めています。

ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。

白地城周辺
阿波白地城と栗野屋敷

白地城から西へ1㎞ほどにある池田町白地字井ノ久保には栗野屋敷という城館跡があり、栗野大膳を祀った塚があります。この栗野氏は白地城主の一族ともされます。この栗野氏の三好郡内における立場がどんなものだったのかはよく分かりませんが、阿波山間部の南朝年号文書に見える南朝武将の中には、粟野三位中将が出てきます。三好部内に子孫を称する家が多数あると「池田町史 上巻115P」には記します。しかし、南朝年号文書については近年は、近世の偽書の可能性が指摘されていて、そのまま信じることはできません。
 ここでは栗野氏が、阿波大西氏・三好安芸守の懐柔に影響力を持つ人物と元親は見ていたことがうかがえます。この後の天正5年に、大西氏・三好安芸守は帰順します。

ウキには、大西覚用の後半部が次のように記されています。
⑥城主の大西覚用は、一族の大西頼包(弟?)を人質として一旦は長宗我部元親に従属した。
⑦しかし、三好氏が織田氏と同盟し、長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、大西覚用は三好笑岩の求めに応じ三好側に寝返った。
⑧それに対して元親は、天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とし、覚用は讃岐国麻城の近藤氏のもとへ逃げ延びた。
⑨天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。
⑩阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。
⑪覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した

この時期の大西覚用の動向を、一次史料と『元親記』『昔阿波物語』「三好記』などの軍記でもう少し詳しく見ておきましょう。
    ⑥については「元親記(上)」には、次のように記されています。(要約)

天正四年(1576)、前年に阿波南部に侵攻を果たした長宗我部元親は大西入りを評議した。当時、大西覚用は土佐の寺院の住持だった兄を通じて元親と音信を交わす関係にあった。このため元親は、覚用を調略し、覚用は甥の大西上野介頼包を元親への人質とした。しかし、その後覚用は三好長治に寝返り頼包を見捨てた。しかし、元親はその後も人質の頼包を重用した。

「大西覚用の兄」については、「芝生大西系図」「阿波志」六に覚用の弟として土佐野根万福寺の僧である了秀の名が記されています。長宗我部元親は修験者をブレーンとして重用して、情報収集や凋落などの外交交渉にも当たらせていたことは以前にお話ししました。ここにも、その一端が見えてきます。

⑦については、元親から離反する前の大西覚用の動向を次のよう史料で確認できます。
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏の重臣「御四人」に宛てたものです。
小早川左衛助殿参
吉川駿河守殿御宿所        
先度同名越前守以書状申人候之虎、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宜者日上申候之条、暉被成御尋候、恐々謹言、
  二月廿七日       (大西)覚用(花押)
                  高森(花押)
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
口羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿
参 御宿所
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏重臣「御四人」に宛てたものです。大西越前守からの書状に対する毛利氏の返信を受けての書状で、覚用らが足利義昭の入洛について前年より今村紀伊守と相談し、隣国表(讃岐)を第一とする申し合わせをしていることを伝え、毛利氏にその了承を求めています。内容からは、元吉合戦のあった天正五(1577)年のものと研究者は判断します。
  ここからは前年の天正四(1576)年に、大西覚用が、毛利氏の進める義昭の入洛(織田氏に対する軍事行動)に従軍していたことが確認できます。毛利氏と長宗我部元親の間には不戦条約的なものがあり、準同盟的な関係にあったと研究者は考えています。この頃の毛利氏は「海陸行」と称される対織田氏の大規模な軍事行動を計画していて、大西氏の讃岐への侵攻計画もその一環と研究者は考えています。なお、毛利氏の軍事行動は2月に実施され、讃岐では7月に元吉合戦が戦われています。大西覚用は、天正四年から義昭人洛について協議し、翌5年には毛利氏と連携した讃岐への軍事行動を予定していたようです。しかし、これは長宗我部元親の侵攻で頓挫します。
「元親記』上には、長宗我部氏の大西攻めは、大西頼包の先導によって行われ、在地領主の離反にあった覚用は讃岐三野郡麻城に逃亡したと記されています。西讃府志には、麻城主は近藤出羽守国久で、国久は大平伊賀守国祐の弟と記されています。大平国祐の母は、先ほど見たように大西備前守長清女とされます。その関係で大西覚用は縁戚関係にあった近藤国久を頼って麻城に逃れたようです。なお、覚用弟の長頼も覚用敗死後に麻城に逃れたと西讃府史は記します。

この大西覚用追放の功績で、頼包は元親より白地城の領地を認められます。さらに三好郡西部の馬路を得て、三好郡東部の足代を攻略します。この長宗我部氏の大西侵攻については、一次史料によって4月頃であったことが分かります。

長宗我部元親文書の中に、大西覚用や弟たちが登場するものがあるので見ておきましょう。

長宗我部元親 【史料②】十月十三日長宗我部元親書状
上の右部分の拡大
【史料②】十月十三日長宗我部元親書状 拡大

【史料2】十月十三日長宗我部元親書状
「 (墨引)   長宮
三式少御宿所  一九親」
尚々虎口之様林具
可示給候、脇上・太丹へも
此由申度候、
先度至南方被示越
即御報中候き敵動之事、頓而
引退之由御飛脚日上之間、
乗野方之儀も堅固申付、

為番手昨日打入候、然者又
自勝瑞十日二相動候由大西方
注進候、ホ今居陣候欺、於事
実者加勢之儀不可移時日候、
将亦大西之儀覚用下郡被取
組之由候、大左・同上此方無別
義趣共候、乍去彼邊之事
弥承究機遣緩有間敷候、
定而敵表之儀為指事雖
不可在之候、御手前堅固御武
略肝要候、猶追々可申入候、恐々
謹言、
拾月十三日  元親(花押)
三式少
御宿所
意訳変換しておくと
①三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して連絡をとった際に、返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②そのため那東郡桑野についても堅岡に命じ、十月十二日に番手を配置した。
③勝瑞から十月十日に岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑧虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)にとされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。書かれていることを、もう少し詳しく見ておきましょう。
①については「御飛脚」と敬意を表していることから、「南方」とは阿波南部で阿波三好氏と敵対していた阿波守護家細川真之を指すと研究者は考えています。
この史料の中で注目したいのは、⑤の大西覚用とともに文中に出てくる⑥の「太左」「同上」です。
⑥のふたりは覚用の弟たちで、(A)大西左馬頭長頼と(B)大西上野介頼包と研究者は考えています。
(A)「太左」=大西左馬頭長頼については、次のように考えられています。
(1)「善正寺系図」(三豊郡史 1921年、328P)では、讃岐三野郡麻城主
(2)「芝生大西系図」(大西徹之「阿波大西氏明視録(その四)」『宇摩史談」八八号)では、讃岐豊田部不二見城主
(3)「日本城郭大系』第15巻160頁は、讃岐三野郡麻口城を「大西左馬守長頼の居城」(典拠不明)
麻口城は、高瀬町史などでは讃岐では麻近藤氏の居城とされています。そこが大西覚用の弟たちの城だったというのです。それほど近藤氏と大西覚用の一族は関係が深かったと言えるのかもしれません。ただ、大西覚用の弟たちが讃岐の城主として活動していることは押さえておきます。
(4)「太左」については、『阿波志』六は、阿波三好郡漆川城主とある大西左衛門尉の可能性もあると研究者は指摘します。
(B)大西左衛門尉は、人質として長宗我部元親に出されていた人物ともされます。
(5)「漆川村大西鎮一所蔵系図」では「大西七郎兵衛 後上野守」、「阿波志」六では「頼包 称上野介」として記され、いずれも覚用の弟とされます。
(6)「元親記」上は「上野守」として覚用の甥、「みよしき」「昔阿波物語」「三好記」では「七郎兵衛」と見え、覚用の弟とします。
⑨の「太丹」「脇上」は、三好式部少輔重臣とされる大島丹波守と岩倉城に程近い美馬郡脇城主の武田上野介信顕と研究者は考えています。いずれも三好式部少輔に近い人物で、式部少輔とともに長宗我部氏に服属し、阿波三好氏と敵対していたようです。

内容としては、次のような事が分かります。
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)から注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど。以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、弟の大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6年と研究者は判断します。
 内容を整理すると、次のようになります。
A 長宗我部元親が三好式部少輔に対して、阿波三好勢の侵攻があった阿波南方の状況を伝えている。
B 同時に、大西より三好勢侵攻の注進があった岩倉表の状況について問い合わせ、大西覚用ら阿波大西氏の動向についても知らせたもの
この史料は「史料綜覧』巻11に天正四年十月十日条の「阿波三好長治、其将大西覚泰の長宗我部元親に降るに依り、之を攻む」の出典として挙げられているものです。

以上をまとめておきます。
①三好実休の時代には、東讃は十河一存を中心に三好氏の勢力浸透が行われた。
②一方、西讃においては白地城の大西覚用などが三豊地域への進出を行う
③その際に大西覚用は、二宮・麻の近藤氏と婚姻関係を深めながら進出を計る。
④近藤氏の麻口城は、阿波の大西覚用の進出拠点として機能した
⑤そのため周辺では、天霧城の香川氏配下の秋山氏などとの小競り合いが多発した。
⑥しかし、三好氏の重臣篠原長房の西讃制圧によって、香川氏は備中への亡命を余儀なくされた。
⑦以後は、香川氏の領地は阿波国衆に配分され、大西覚用も西讃に領地や利権を得た。
⑧このような中で1577年に、元吉合戦と同時並行で毛利氏支援による香川氏帰国が実現する。
⑨一方、長宗我部元親に従属していた大西覚用は寝返り、白地城を追われ麻口城に落ちのびてくる。
⑩大西覚用と近藤氏は、長宗我部元親の西讃侵攻に対して徹底して抵抗する。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年
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