
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係

三木家文書への偽書混入
以前に「明治の忌部大社所在説をめぐる争論に大きな影響を与えた三木家文書には近世に作られた偽書がまぎれこんでいた」という文章をアップしました。これに対して、どのように偽書が作られたのか具体的に説明した欲しいというリクエストがありました。そこで今回は、三木文書の中の偽書がどんな方法で作られたのが「偽書作成手法」を見ていくことにします。テキストは「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。
戦前の皇国史観のもとでは、天皇とそれに尽くした忠臣を描くことが歴史叙述の大きな役割でした。
そのため南北朝時代の郷土史では、楠木正成に代表されるように誰が南朝方についた忠臣で、どんな活躍をしたのかが歴史探究の課題となります。そして、阿波の麻植郡種野山や美馬郡祖谷山などでは、次の史料と由緒が大きな影響力を持っていました。
そのため南北朝時代の郷土史では、楠木正成に代表されるように誰が南朝方についた忠臣で、どんな活躍をしたのかが歴史探究の課題となります。そして、阿波の麻植郡種野山や美馬郡祖谷山などでは、次の史料と由緒が大きな影響力を持っていました。
A 種野山の三木文書古代以来、忌部氏の子孫である種野山の住人が大嘗会に際して荒妙貢進をおこなってきたことB 種野山や祖谷山の南朝年号がある中世文書ここから阿波の山岳武士は、南朝方について活動していたことが分かる
これらは戦後になっても市町村史などの郷土史を書く際には「根本史料」とされ、これに基づいて阿波の中世史は書かれてきました。そのため次のような歪みが見られるようになったと研究者は指摘します。
C 南北朝期の歴史を南朝方在地領主の活動としてのみとりあげることD 忌部神信仰が古代から近世まで切れ目なく続くものとしてとりあげられること
今回取り上げるのは種野山とよばれていた麻植郡山間部の三ツ木村(三木村)の三木家に中世文書として伝わる三木家文書です。この文書群は近年まで、文献学的な考証や、その真偽が検討がされないまま「中世文書=根本史料」としてあつかわれてきました。まず、三木家文書への疑問の眼がどのように生まれだしてきたのかを「研究史」として見ておきましょう。

三木家
①1982年 福尾猛市郎氏が写真と対照させながら三木家全文書の釈文作成
この過程で数点の文書について様式からみて偽作文書の可能性があることを指摘。文書そのものへの批判的検討が必要とします。
②1989年に脇田晴子氏は、この文書群を下記の3群に分類します。
A 種野山の在地関係の文書B 大嘗会荒妙の御衣奉仕関係の文書C 支配層からの感状類 イ南朝関係 口細川氏などの武家関係
その上で、「疑問文書」が少なからずあることを指摘します。脇田氏の分析で、三木文書の特質・構成や、偽書がどのように位置づけられているのかが分かるようになります。
③2000年に、福家清司氏は阿波種野山・祖谷山・土佐大忍庄の南朝年号文書について比較検討し、次のような事を明らかにします。
A 為仲奉書など奉書関係は近世に作成された偽書であること、B 三木家文書中にも為仲奉書など近世に作られた南朝年号文書(偽書)があること
これらの指摘を踏まえた上で。研究者は次のような検証の必要性を唱えます。
①どの部分が中世からの伝来文書であり、どの部分が近世作成の偽書であるのか②三木家はいつ頃、どのような背景下で伝来文書に後世作成文書をつけ加えたのか③またその目的は何だったのか
三木家への感状類を見ていくことにします。感状文書は南朝関係と武家関係の2つに分類できます。このうち南朝関係を整理したのが上の表二になります。この内で、後世の偽書と研究者が考えているものを挙げていきます。
27・29・30・33は南朝高官の時有・為仲が奉じている奉書です。これに対して脇田氏は次のように指摘します。
「この四通について、誰の仰せかわからず花押も似ており筆跡も類似するなど問題があり検討を要する」
さらに福家氏は、この四通をふくめ祖谷山名主家などに所蔵されている合わせて19通の同種類の南朝年号をもつ御教書(本書)が阿波山間部にもあること、それらが近世になって作成された文書であることを明らかにします。つまり、これらも近世の偽書ということになります。
32の「後村上天皇論旨」については、次のように指摘します。
綸旨が武士にたいして直接下されることは通常はない。百歩譲って、南朝の場合は軍隊動員上ありえたかもしれないとしても、その場合にも相手の身分の低さをおもんばかって充所をかかず文書中に充てた人の名を書きこむのが普通。三木氏クラスの地侍にたいし「三木太郎左衛門尉」の充所は丁寧にすぎるし、また書き止めの「悉以」にたいしてもこの充所はそぐわない。
48の「後村上天皇論旨」もかって三木家に所蔵されていた綸旨ですが、形式は32と同じで脇田氏の指摘がそのままあてはまります。つまり32・48の二通の綸旨も後世作成の文書と研究者は判断します。
武家関係の感状を整理したのが表三です。 .
この内の35・39・40については、どれも花押がありますが本物とは思われないと研究者は指摘します。具体的に
35については末尾の「右馬頭」の署名の直下に花押がなく、少し位置がずれていること。
39・40については「官途」が唐突にでてくる点
26は冒頭が「宛行 種野山国衛分三木内在家弐家之事」としながら結びは「所補任之状如件」となっていて、整合性がなくおかしな文書であること
36は「依時之忠、可知行」という知行宛行状としてはあいまいな表現で、正当な伝来文書とできないこと。
そうすると感状類については、武家関係もすべて後世の偽書ということになります。
次に荒妙御衣奉仕関係文書群については、研究者は次のように2つに分類します。
A 阿波国司に荒妙貢進をおこなうことを命じた文書群B 荒妙貢進をおこなう御衣御殿人集団についての文書群
①福尾氏は24以外は問題はなし。②脇田氏も全体が文面に難点はなく正文の写しとします。③福尾氏は「日宣案に二人を連署叙任するのは異例」と疑問投げかけます④これに対して脇田氏は連署で叙任される例もあり正当な文書とします。
そうすると荒妙貢納の文書群は全体として中世からの伝来文書群で「本物」とみてよいことになります。
次に「御衣御殿人」関係文書を見ていくことにします。
各研究者の評価は以下の通りです。
2と3は中央の斎部氏長者下文で、2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」
2と3は中央の斎部氏長者下文で、2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」
3は「前号文書2と同一筆者で粗雑な書風である」
2・3ともに書式として年月日のつぎに宛名はいらないし、3は奉書でないのに奉者があり書式がととのわない。
5について差出人は「神祇少輔」とあるが神祇官の次官は「神祇少副」であり、偽文書の疑いがあるとします。
11については、下文ならば書きだしの「下」の下は宛名になっていなければならないし、また書き止めは「以下」または「可令存知之状如件」であるはずがいづれもそうなっていないこと。書きだしが下文で書き止めが奉書という首尾一貫しないもので、これも偽書とします。

21について、福尾氏は「種野山の代官が書いたものと思われる」とし、22は「勅使の署名に疑問がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう」とします。
この六通について、研究者たちは内容についても次のように指摘します。
2・3で御殿人所役をつとめる宗末入道・宗時入道は左右長者にしたがわなくてよいとあります。
5・11で四郎男や氏人黒女は御殿人に属する左方長者らが所役をかけるのは不当とします。
21と22も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとします。
こうしてみると1260年代から1330年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになります。これは、不自然で作為的です。この六通は形式面からも内容面からも後世の偽書と研究者は判断します。
21と22も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとします。
こうしてみると1260年代から1330年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになります。これは、不自然で作為的です。この六通は形式面からも内容面からも後世の偽書と研究者は判断します。
20の2通の文書はについて、院宣案という端裏書をもっていますが「院宣」の文言はありません。また誰かの令旨や奉書にしても、名前がないのでだれがどこから発したのかも分かりません。さらに、20と21は、筆跡が似ています。
46と47は、13名の御殿人が連署署名している南北朝期の契約状として著名なものです。
しかし、これは原文書ではありません。近代の写しです。検討してみると、連署者13名の中心となっているのは三木氏村のようです。その名前は文政10年(1837)三木恒大作成の南北朝期から恒太に至る三木家代々を記した『三木氏累祖連綿記』に南北朝期の先祖の一人「三木右近允氏村」としてあらわれるのが初出です。連綿記の三木氏代々のうち中世の部分は表二・表三として整理した後世作成文書を編集しなおして作られています。氏村もこの際に、新たに付け加えられた名前です。これは氏村以外の他の人名もそうです。以上から、この二通の契約状も後世の偽書と研究者は判断します。
種野山関係文書は、中世種野山にかかわる文書群で20通におよぶものです。
15の冒頭は「麻殖山内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」と記します。これについて脇田氏は条々の内容からみて種野山全体が訴えたものとみるのが妥当で、冒頭は「麻殖山番頭百姓等訴申条々」とあるべきものとする。また次の末尾にも問題があると指摘します。15の最大の問題は、代官沙弥の花押だと研究者は指摘します。この花押は16の三木名番頭職補任状の御代官願仏の花押と同じなのです。その上16については下文の場合「下 宛名」となるべき所が「下 三木名番頭職事」となっています。宛名がなく不自然です。具体的には15の冒頭・末尾には作為が加えられており、また16は後世の偽書と研究者は判断します。
41の末尾は、次のように記されています。
…大略注進如件嘉暦二年三月八日
沙弥弥意(在起請)忌部行正(在起請)忌部吉久(在起請)但此事者、貞和三年亥歳五月四日政所ョリ……
この文書には種野山全体の在家員数などを書かれていて、15とともに中世種野山の中心的史料です。ところが末尾の三名の署名の位置に不自然さがあります。三名の署名は年月の行とつぎの「但此事…」と記された行との間の余白に押し込められて書かれています。しかも、字体も不揃いです。これは、作成は嘉暦年間の文書ですが、三名の署名は後世に書き加えたためと研究者は推測します。つまり本文は本物、3人の氏名については加筆ということになります。
28・31について、31は友近の譲状で末尾はつぎのようになっています。
正平廿二年二月十二日九郎兵衛のゆつりしやう友近(花押)
これも末尾の宛所が不自然だと研究者は指摘します。それは「正平片二年二月十二日」と「九郎兵衛のゆつりしやう」の二行が不自然なのです。後者の「九郎兵衛」は本文と関係がなく、前者の年月日とともに余白に押し込む形で記入されています。同様なことは28にも云えます。28は「とう内」の麦借用状で在地文書ですが末尾の「正平八年十二(月脱)十一日癸巳年とう内(略押)」については、墨の色が本文と違います。字の配置からみても余白部分へ、後世に書き加えられたものと研究者は考えています。そうすると、31・28は本来の文書に正平年号が後世になって書きこまれたと研究者は判断します。
4・6・7の三通は、どれもいづれも下文の形式です。そうだとすると、「下 宛名」となるべきです。ところがすべてに宛名がありません。これでは下文の意味をなしません。
1と4は、正意宛行状案です。1については、出された状況が分からず疑問ありとします。
これら四通に登場する安村(4・6・7)と正意(1・4)について、安村はニロの5に忌部安村として登場する人物です。正意も安村と一緒に登場するので、1・4・6・7の四通も後世に作成された偽書と研究者は判断します。
34では、義興が植渕帯刀尉盛村に名東庄一四条郷領家職を譲るとしています。しかし、名東庄一四条郷はあったかどうか分からない郷名です。さらに「盛村」は表二33「為仲奉南朝感状」の宛先として出てくる三木帯刀丞と同一人物のようです。三木家への感状類と一組になるものとして後世に作成された偽書と研究者は判断します。
このように中世の者とされてきた三木家文書には、近世になってあらたに書かれた偽書や、年号や名前を後世に加筆したものが数多く含まれていると研究者は指摘します。それでは、何の目的で偽書が書かれたのでしょうか? それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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