瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:阿波忌部氏

阿波忌部氏と麁服
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係

 前回は、中世の阿波忌部氏と大嘗祭との関係を見てきました。阿波忌部氏が姿を消すと、その氏神であった忌部神社も、鎌倉時代までには姿を消してしまったようです。そして、江戸時代になると、それがどこにあったのか分からなくなってしまいます。今回は、どのようにして忌部神社が復活したのか、それがどのような争論を生み出したのかを見ていくことにします。テキストは「丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ」です。

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種穂忌部神社(山川町川田)

 姿を消していた忌部神社が最初に復活するのは、山川町の川田です。
江戸時代前期に高越寺が忌部神(天日鷲神)を奉るようになったのです。高越山は、霊山として中世以来の修験の山として信仰され、高越寺を中心とする社僧(修験者)たちが先達に率いられた登山参拝者を多数集めるようになっていたことは以前にお話ししました。こうした中で周辺の神社も、高越寺の修験者たちが管理運営していたようです。そんな中で17世紀末の元禄年間に高越寺の住職が、忌部神(天日鷲神)を祀るようになります。

天日鷲神

『日本書紀』には、天日鷲神について次のように記されています。

神代上第七段 一書第三
 粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿
意訳変換しておくと
 粟国(阿波国)の忌部の遠祖である天日鷲が
木綿ゆうを作った。

ここには天の岩戸にまつわる話のなかで、天日鷲が木綿(ゆう)を供えたとあります。「ゆう」とは、綿花から作られる木綿ではありません。木綿が登場するのは江戸時代になってからで、「ゆう」とはちがいます。ここに出てくる木綿(ゆう)は、楮の木の皮を剥いで蒸した後に、水にさらして白色にした繊維から織られた布のことです。そして木綿(ゆう)は神事に用いられ重要な役割を果たす布でもあるようです。
 天日鷲神は、天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされています。その子孫は荒妙や麻の栽培を仕事とし、麻植神(おえのかみ)とも呼ばれました。ここからは忌部神には2つの顔があったことが分かります。
A 忌部神=阿波忌部氏の祖先神
B 天日鷲神=木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされる麻植神 

高越山の麓の川田は、近世になって和紙の生産地となり、18世紀初めには急速に発展をとげます。
16世紀末になり、細川氏・三好氏が減亡し、近世大名として蜂須賀氏が阿波に入ってきます。そんな中で平野部における藍生産はさらに発展していくことはよく知られています。同じように、近世麻植郡山間部では吉野川沿いの川田を中心に和紙生産が大きく発展します。宝永三年(1706)に徳島藩は、麻植・美馬・三好諸郡の山間部の庄屋に触書をだして和紙を藩の専売にすることを通達しています。ここからは18世紀初頭には、和紙生産が古野川流域の山間部の村々に広がっていたことが分かります。こうして、和紙の生産・集積・輸送など和紙産業の拠点が形成されていきます。
阿波藩の和紙専売制の管理下では、次のような役割分担がありました。
A 貞光は三野郡山間部の和紙集積地
B 山崎は種子山など麻植群山間部の和紙集積地
集められた和紙に藩は税金をかけて出荷販売しました。この2カ所は美馬郡・麻植郡の和紙の集散地でした。そして川田は、和紙生産の先進地です。山崎や貞光は、この時期に和紙の集積地として、賑わうようになっていたことを押さえておきます。
この経済的な活況と高越山で天日鷲神(忌部神)が復活するのが同時期であることに研究者が注目します。
『古語拾遺』の中には、和紙の起源を天日鷲神に求める説が記されていました。また、木綿(ゆう)は「楮(こうぞ)の木の皮」から作られるとされていました。楮は和紙の原料でもありました。ここからは、高越寺の住職が川田の和紙生産者を、新たに高越山の信者として組織するために紙祖としての天日鷲神を導入したのではないかと研究者は推測します。和紙産業のギルド神として、天日鷲神を新たにお迎えしたとしておきます。これを高越寺の社僧(修験者・山伏)たちが広めていきます。こうして天日鷲神への信仰は和紙生産・販売の中心地であった麻値郡・美馬郡に急速に広がっていきます。すると、天日鷲神(忌部神)を祭る神社の本社を名乗る寺社がいくつもで出来ます。こうして、古代の忌部神社が、どこにあったのかをめぐる紛争が起きます。1740年頃には、次の三社が忌部本社であると主張するようになります。
A 美馬郡貞光
B 麻植郡川田
C 麻植郡山崎

吉野川沿いの美馬郡貞光や麻植郡山崎(吉野川市山川町山崎)は、生産された和紙の集積地として発展します。川田で忌部神社本社が復活されると「忌部神社は我社なり」と、貞光と山崎の神社も名乗りを上げます。研究者が注目するのは、争論に参加していた貞光・川田・山崎の三カ所は和紙の生産・販売の拠点でもあったことです。そこには、紙祖としての天日鷲神の本社(忌部神社)の地位を獲得することで和紙の生産・販売をめぐっての優位性を確保しようとする思惑があったと研究者は指摘します。
 三社の争いに対して、阿波藩は川田の種穂社が本社と認め、貞光と山崎の神主は追放ということで決着させます。こうして政治的には川田の種穂神社が藩から忌部神社のお墨付きをもらったことになります。
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                 種穂忌部神社(山川町川田)
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                  種穂忌部神社の説明版
(もともとは多那穂大権現と称したと記されるので山伏によって開かれた神社だったことがうかがえる。)
 この論争の中で、各神社は自己の主帳を正当化するために根拠のない伝承を持ちだしたり、古代文献をねじまげる解釈をしたり、さらには裏づけになる遺品を偽造したりして、事実とはかけはなれた「由緒書」の世界を作りあげています。自分たちにとって都合のよい「あるべき歴史」の作りあげです。近世後半になると、プロの偽書制作者が現れ、依頼者の求めに応じて偽書が大量に作成される時代になっていたは以前に「椿井文書」でお話ししました。
18世紀という時代の麻値郡について、まとめておきます。
①和紙の生産地としては川田が中心であったが、山間部の三木が新興の生産地として発展していた。
②さらに山崎や美馬郡の貞光も和紙集散地として発展していた。
③これらの和紙産業の地は、和紙の先祖神である忌部神信仰を持つようになり、和紙の生産・販売をめぐっての地域間の対立が生まれていた
④地域間の経済対立を背景に、「あるべき地域の歴史」をめぐって忌部神社本社論争を生みだした。

この時の江戸時代後半(18世紀末)の忌部本社の所在地論争の争点を見ておきましょう。
A 永井精古の西麻植村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)説
古代阿波国全体の郡郷配置を、最初に論じた上で、忌部神社は、古代の麻植郡忌部郷の平野部にあったことを主張。その上に立って、忌部郷は麻植郡東部の平野地帯だったとし、西麻値村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)に比定
B 多田直清の鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)説
吉野川下流域南岸の麻植郡・名西郡の古代以来の景観復元を現地調査を行った上で、忌部郷と忌部神社を麻植郡東部の平野地帯に求め、鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)に比定。
A永井・B多田の説の前提条件としては
①古代の郷は律令国家が班田制を実施している水田が拡がる平野部にあったこと
②水田のない山間部には、古代の郷は置かれなかったこと、忌部神社も山間部にはないこと
これが忌部神社を平野地帯の鴨島地域に比定した前提条件でした。
C 野口年長の山川町山崎説
 野口年長は古代からさまざまな文献を駆使して阿波の歴史を広い側面からとらえようとした人です。 その見地から、古代忌部郷が山崎にあったとして神社も山川町山崎に比定。山の世界が発達するのは中世以後のことで、古代の忌部郷をみる際には山の世界を組み入れないこと。
野口の論は、忌部問題について押さえなければならない条件を明確にしていること、その条件も現在の歴史学の水準からみても妥当なものだと研究者は評します。しかし、文献史料がなく、位置確定にはいたらず、古代忌部社をめぐっての結論は出ませんでした。

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山崎の忌部神社
明治維新前後に忌部神社論争に関わったのが、久富憲明と生島繁高です。
D 久富の山崎神社説 
 古代忌部郷を麻植郡山間部(種野山)を中心に広がっている郷とし、古代忌部神社を山崎の忌部社に比定。
E 生島の川田種穂神社説 
 古代忌部郷を種野山を中心に比定し、古代忌部社は川田の種穂神社に比定
江戸時代の3人が比定地を平野部にしていたのに、明治のふたりは古代忌部郷を山間部に比定しています。それまでの古代忌部郷・忌部神社は平野部に限定して比定しなければならないという大原則を無視する論が明治になると出されるようになったのはどうしてなのでしょうか?                  

その背景には、種野山の三木家文書の強い影響があったようです。 
種野山は、水田はありませんが多くの山の産物を生み出す社会で、京都の冷泉家が地頭職を持ち、貴重な史料が数多く残されていました。その意味では、三木文書は中世の種野山という山の世界のあり方をしめす、全国的にみてもすぐれた中世文書と研究者は評します。しかし、この文書には18世紀後半になって三木家の先祖が南北朝期にさかのぼる古代忌部氏の系譜を引く在地領主であったことをしめすために偽作文書が混入されていると研究者は指摘します。その経緯を見ておきます。
18世紀後半になると麻植山間部の三木村が川田を追う新興の和紙生産地として成長をとげるようになります。
三木村は中世には三木名と呼ばれ、その中心に座るのが三木家でした。ところが忌部神の本社をめぐる争いがあった頃には、三木本家は衰退していたようです。それに代わって18世紀後半には分家が三代にわたって三木村庄屋役に就きます。この間に三木村は和紙の生産地として大きな発展をとげていきます。さらに三木家の分家は明治維新まで和紙の生産・販売を手がけ、販路を大阪までに拡げ大きな富を築き、本家の三木家を凌駕していくようになります。
寛政期(18世紀末)の文書に、三木家の由緒を紹介したものがあります。

三木家文書表紙

当時、三木家本家は当主と嫡男が他界したため、後継者を親戚の天田家から養子として迎えることになりました。この際に、三木家の女性たちと天田家当主・天田武之丞が、三木家の再興のために由緒に関する複数の文書を作成し、郡代等への提出書類の根拠(説明資料)としています。当時の三木家本家はたいへん苦しい状況にありました。かつては「阿波忌部」の末裔として、また「阿波山岳武士」として威風を誇っていました。ところが18世紀の終わりごろに土地取引に絡む不正事件の監督責任を問われた三木家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除、藩主御目見等)を失います。その結果、三木家は経済的にも打撃を受け、それに当主の他界・嫡男の早世などが重なり、苦しい状況に追い込まれます。この苦境から三木家を立て直すために、三木家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ天田家から恒太を跡取り養子として迎え、庄屋・天田武之丞を後見人とします。三木家由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠でした。そこで三木村の庄屋武之丞は本家の三木家救済のために、それまであった文書に新規偽作文書をつけ加えて文書の再編成します。そのねらいは、三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明することにありました。こうして、三木家が阿波忌部氏の末裔であることを示す書類が何通か紛れ込んだと研究者は指摘します。その例を見ておきましょう。まず本物とされる太政官符です。

この文書は従来は、次のように説明されてきました。
三木家麁服古文書で最も古いものは、1260年の亀山天皇大嘗祭である。麁服(あらたえ)は、南北朝動乱で調進が中断されるまで、代替りの都度神祇官より太政官へ宣旨し、太政官より太政官符・官宣旨が阿波国司に対して発せられ、国司はそれぞれの写しをもって殿人三木忌部氏に麁服を依頼した。

ここで確認しておきたいのは、これらの文書は本物ではなく京から阿波国司に送られてきた太政官符の写しであることです。


三木文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符


               三木家文書 文保二年(1218)
九月廿六日の大政官符
大嘗祭における荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央から従五位下の斎部(忌部)宿禰親能と神部二人が派遣されています。しかし、阿波忌部氏か荒妙を貢進したことは書かれていません。また、三木氏もここには出てきません。ここからは分かるのは、次の4点です。
①大嘗祭の麁服(荒妙)貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②中央の斎部(忌部)氏が使いとして登場しているので。この時期まで存続していたこと
③ここには、阿波忌部氏も三木氏も登場しないこと
④この太政官符の写しが残っているのは三木家であること。(阿波忌部氏の本貫は平地部の忌部郷)
逆に見ると平安時代末までには、阿波忌部と麁服貢進の関係は失われていたことになります。それに代わって作成を担当するようになったのが三木氏ということです。だから太政官符が三木家に大切に保管されてきたのです。そして、この文書からは「三木氏=阿波忌部氏の末裔」であることは証明できません。そこで新たに作られたのが次の文書群だと研究者は指摘します。

三木家文書 偽文書
            近世に作成され偽書とされる中世文書
く正慶元年(1332年)にいただいた太政官符案。光厳天皇の大嘗会に関するもの
 下す   勅使御殿人三木右近胤
右 彼の右近胤においては、往古より勅使御殿人として課役を致す之上は、向後更に長老等の濫妨を致すべからざる之由、御勅使殿仰せ下され被候也。乃て執建件のごとし、
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
  勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
意訳変換しておくと
  勅使御殿人の三木右近胤に次の通り下す
右近胤は、古くより勅使御殿人として課役(麁服貢進)を果たしてきた。今後も長老等がその職務の遂行を妨害しないように、(京の)御勅使殿より仰せ下された。執建件のごとし。
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
 勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
ここには勅使神祇権少副である中央の斎部(忌部)氏勅使御殿人」の三木右近胤(三木家)に対して課役(麁服)を貢納するために身分保障していることが記されています。先ほど見たように太政官符には三木氏は登場しません。これがあって、はじめて「三木氏=斎部氏の子孫」が証明されます。しかし、この文書には次のような疑問点があるようです。
①「勅使御殿人」「長老」と云う用語は中世に使われたものではなく、近世の和紙生産者ギルドの長として使われたものであること
②14世紀初めには、「勅使神祇権少副の斎部」氏は姿を消していたこと
③書いているのが地元の「御代官」で、それを認めているのが中央の忌部氏というおかしな形式で、
太政官符よりは、格がはるかに下がること。
④三木家の職務遂行を妨害する勢力があったこと

三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
偽書が作成される経緯については、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017)」に詳しく記されていますので、そちらを御覧ください。

江戸時代には家の先祖や村の歴史を美化するために由緒書などを偽作することは当たり前のように行われていました。
Amazon.co.jp: 椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) : 馬部 隆弘: 本

延喜式内社をめぐる争論などでは、自社を有利にするための偽文書が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されるようになっていきます。久富・生島の論も、その延長線上にあると研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①古代の麁服(あらたえ)貢納は、律令行政システムの「神祇官(中央の忌部(斎部)氏 → 阿波国衙 → 麻植郡衙 → 阿波忌部」という指示ルートで動いていた
②しかし、中世になると中央忌部氏が衰退して新たに神祇官に就いた氏族は、阿波に直接使者を派遣して麁服を確保するようになる。
③その際に、麁服制作に当たったのは古代の阿波忌部氏ではなく、山間部の種野山の三木家であった
④三木家にはこの時の太政官符が残されているが、これは三木家が阿波忌部氏の子孫であることを証明するものではなかった
⑤そこで江戸時代後半に三木家が危機的な状況に陥ったのを救うために、三木家が古代忌部氏の末裔であることを阿波藩に討ったえでることになった時に、「三木家=古代忌部氏の末裔」を証明するいくつかの偽文書が紛れ込まされた。
⑥それが後に、「三木家=古代忌部氏」となり一般に拡がった。
阿波忌部氏年表

明治維新を迎えると、明治政府は復古政策のもと『延喜式』に記された古代式内社の復活を目指します。
その結果、阿波でもどこにあるかわからなくなっていた式内社忌部神社の所在地決定が求められます。それに対応することになったのが名東県の役人としてに出仕していた小杉𥁕邨です。彼は式内忌部社を麻植郡山崎の忌部社に決定します。これに対して美馬郡貞光から異論がだされ論争となります。
 これは十八世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃です。藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返し」で、再燃するという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。結果は山崎は敗れ、貞光に忌部社は移座されることになります。ところがその後、貞光側の内紛もあり、結局は「中立地帯」の徳島市に移座されることになります。
この論争で小杉は、三木家文書の忌部関係文書を根拠にして、古代忌部郷を種野山という山間部を中心に広がるとしました。つまり「忌部神社=山崎説」です。政治的な決着では、この説は否定されたのですが学問的には、この説はその後の研究者達に受けいれられていき、定説として定着します。これに対して、幕末の野口の原則であった「忌部郷・忌部神社は条里制が施行されていた平地にある」を無視したもので、「学問的には成りたたない論になっている」と研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017年
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前回は古代の阿波忌部氏についてつぎのようにまとめました。
①阿波忌部氏は、忌部郷だけでなく麻植郡一体に勢力を持っていた
②阿波忌部氏の有力者は、忌部山型ドームを石室に持つ古墳を造営するなど一族意識を持っていた。
③阿波忌部は、大嘗祭に際して中央忌部氏を通じて「荒妙(あらたえ)服」を納めた
④しかし、具体的な内容について記した史料はほどんどなく不明な点が多い。
⑤11世紀になると律令体制が弛緩して、地方の政治体制も不安定になって、朝廷にも力がなくな り大嘗祭も簡略化されていった。
⑥同時に、中央の斎部(忌部)氏や阿波忌部氏も衰退し、その足取りさえつかめなくなる
今回は中世の阿波忌部氏について、次の2点に焦点を当てて見ていきたいと思います。
A「阿波忌部氏」が古代から中世まで一貫して続いていたのかどうか
B「阿波忌部氏の氏役」とされる大嘗祭の荒妙織進についても不変であったのか
テキストは「福家 清司   中世の忌部氏について 講座麻植を学ぶ35P」です。


最初に研究者が確認するのは「阿波忌部氏」と「中央の斎部氏」は別物だということです。
忌部氏の職務分担表

前回もお話ししたように地方の斎部氏は、もともとは中央の斎部氏の部民的な存在でした。それが職務を通じて結びつきを強め「擬似的血縁関係」を形成して一族意識を持つようになります。両者は、もともとは別物だったのです。それを裏付けるのが、中央「忌部氏」が、延暦22年(803)、貞観11年(869)の2度に渡って朝廷に提出している「忌部」から「斎部」への改姓申請です。「斎部氏」は中央豪族の「忌部氏」です。これに対して地方忌部は「斎部」には改姓していません。つまり「阿波忌部」を「斎部」と表記するのは適当でないと研究者は指摘します。
  従来の中世の阿波忌部氏像を見ていくことにします。
徳島県教育委員会編「阿波の中世文書」(1981年)「三木家文書」の解説には、次のように記されています。
「京都の斎部氏には氏姓制時代のままに氏上が氏長ないし氏長者として置かれ、全忌部氏族に対してある種の支配力を行使していたことは驚くべきことです。」

「①斎部氏長者の場合は中央氏族の長が地方氏族を統属させていた古代の遺制を南北朝時代にまで残すものであり、神事にかかわることとはいえ、まことに驚嘆すべきことです。」

「袖判化押の主=①斎部氏長者」と見て、この解説は書かれたようです。しかし、この袖判の主を斎部氏長者とする根拠史料はありませんし、斎部氏に氏長者がいたことを示す史料もないと研究者は指摘します。それでは鎌倉時代末期の中央の斎部(忌部)氏の実態はどうだったのでしょうか? それを次の史料で見ておきましょう。
【史料A】『万一記」正安三年(1301)九月十一日条(『古事類苑』官位部六「神祗官 中臣忌部」)

今日被発遣伊勢幣之間也、神祗権大副忌部親顕息女、昨日他界、働親顕父子三人軽服、今一人触機、此外京都無忌部氏之由、伯卿中之、因姦種々沙汰、可被延引之由有沙汰、爰忌部氏沙汰出之由親顕申之、的所被発遣也

  意訳変換しておくと
今日、伊勢斎宮関連の神事に神祗権大副忌部親顕息女が出発する予定であったが、昨日他界した。そのため親顕父子三人は喪に服し、今一人も差し障りがある。この外に京都に忌部氏はいない。伯卿はこのことを伝えて、種々沙汰によって、伊勢への出発を延期するように願い出た。

【史料B】『伯家部類』正安二年八月(『古事類苑』官位部六「神祗官 神部」)

左右京職使正六位上斎部宿而重□、五畿内使正六位上斎部宿而重延、東海道使従五位下斎部宿而□□、北陸道使正六位上斎部宿爾親有、山陽道使従五位下斎部宿爾親経、

史料Aからは、京都市中の斎部氏一族は4人しかいなかったこと、そのため伊勢斎宮関連の神事派遣などの公務にも影響が生じていたことが分かります。同じ年の史料Bには、合計五名の斎部氏の名前が挙がっています。この内、一人目と二人目の「五畿内使正六位上斎部宿而重延」は同一人物のようです。そうすると京都にいた斎部氏の実数は4名になります。これが当時の斎部氏の成人男子全員と研究者は考えています。そうだとすれば先ほど見た「京都の斎部氏には氏姓制時代のままに氏上が氏長ないし氏長者として置かれ、全忌部氏族に対してある種の支配力を行使していたことは驚くべきことです。」という記述は見直しが必要となります。
室町時代の大嘗祭の記録は『親長卿御記』「文正元年自九月大嘗会雑事」の中に膨大な記録として残されています。ところがここには斎部氏の活動は、ほとんど出てきません。そして後世の史料12には次のように記されています。
【史料C】『大嘗会儀式具釈』六(『古事類苑』官位部六「神砥官忌部代」  元文二年(一七三八)

忌部ハ、中臣卜同ジク、神祗官ノ伴部ニテ、幣畠ヲ斑チ、其外ノ神事ニモ関カリ勤ムル者ナリ、必ズ斎部氏ナルガ故二、中古二至リテハ、其職ノ沙汰二及バズ、只斎部氏ノ人ナレバ、忌部ノ役二充用ユ、今ノ世ハ用ユベキ斎部氏ナキガ故二、他氏ノ人ヲ以テ代トス、当日忌部代トシテ出仕セルハ、宣條、神祗大祐紀春清両人ナリ、

  意訳変換しておくと
忌部(斎部)氏は、中臣氏と同じように神祗官の職務を担当し、その外にも神事にも関わっていた氏族であった。ところが中世になると、その職務を担当することがなくなった。今は斎部氏がいなくなったので、他氏がこれに換わって職務を担当している。大嘗祭の当日に忌部代として出仕するのは、宣條、神祗大祐紀春清の両人である

ここからは当時の人には斎部氏が、次のように認識されていたことが分かります。
①忌部氏はもともとは神祇官として朝廷の神事に関わっていた
②それが中世になると神祗官僚としての出番がなくなり姿を消した。
③元文2年(1738)には「斎部氏」絶えて、他の氏族が神事を担当していた
ここでは近世半ば、京都の斎部氏は神事にも関わることなく、氏族としても姿を消していたことを押さえておきます。

鎌倉末期の正慶元年(1322)の大嘗祭を見ておきましょう。
  【史料D】『宮主秘事口伝』正慶元年(1322)。
荒妙和妙御服者、兼日官方催促也、笈正慶大祀之時、号三河国無沙汰不備進、只竹籠許置案、希代之珍事、臨期之違乱也、
ここには「号三河国無沙汰不備進、只竹籠許置案三河国」とあり、三河からの和妙を調達することできなくて、竹籠を置いて儀式を行ったとあります。このように武士の世の中になると朝廷も経済的に行き詰まり、かつての盛時の規模では実施できなくなったことがうかがえます。また、地方からの由加物なども調進ができなくなり、簡素化が進んだことがうかがえます。これは阿波からの荒妙についても同じなようです。

【史料D】『大嘗会本義』元禄2年(1689)(神道大系編纂会編『神道大系二十巻朝儀 祭祀五 践碓大嘗祭』).
凡大嘗会ハ百四代後土御門院文正元年十一月十三日ノ時被行、其後中絶スル事二百廿三年二及ベリ。

「その後、中絶スルこと223年に及んだ」とあるので、大嘗祭が文正元年(1466)の後土御門天皇から貞享四年(1687)の東山天皇まで200年以上も中断していたことが分かります。当然、阿波からの麁服(荒妙)の貢納もこの期間はなかったことになります。

それでは中世の阿波忌部氏の置かれた状況は、どうだったのでしょうか?
まず『仲資王記』の建久五年(1194)五月十二日条裏書き」を見ておきましょう。この史料は明治2年(1870)成立の生島繁高『忌部社考略記』にも引用されているので、古くから知られている史料のようです。。
【史料E】『仲資王記』の建久五年(1194)五月十二日条裏書き」

阿波国忌部久家、還補氏長者下文依官人致貞申状、今日成下了、件忌部者、大祀之時、織進荒妙御衣之氏云々、致貞、度々為彼使存子細是由

意訳変換しておくと

阿波国の忌部久家を、氏長者に任ずるようにとの推薦依頼が神祇官の致貞から出されたので、これを認める認可状を下す。この件については忌部は、大祀(大嘗祭)の時に、荒妙御衣を貢納する氏族であり、神祇官の致貞は、度々阿波に使者を派遣しており、阿波の事情に詳しい。

この史料からは、次のような情報が読み取れます。
①阿波忌部久家が「氏長者」に選任されたこと
②氏長者は官人の申状に基づいて、神祗伯が推薦したこと
③推薦した神祇官は阿波の事情に精通していたこと
氏長者に任命された忌部久家は、阿波忌部氏の統率者だったと研究者は考えています。この忌部久家が氏長者に選任されるためには、官人致貞の推挙に基づいて神祗伯による補任という手続きが必要であったことが分かります。このような手続きを経て、中央の神祗伯が阿波忌部氏の氏長者の選任権を掌握していたことになります。ここからは次のようなシステム変化が見えてきます。
A 古代の律令体制下 阿波忌部 → 麻植郡衙 → 阿波国衙 → 神祇官
B 中世鎌倉時代初期 「氏人」である阿波忌部氏→ 氏長者 → 神祇官人 →神祇官(伯) 

中央の神祗伯が神祗官人や氏長者を介して、「氏人」である阿波忌部氏を統率下に置くシステムができあがっていたことを押さえておきます。同時に神祇官の役職が忌部(忌部)氏ではなくなっています。
同時に鎌倉時代末期までは、阿波忌部氏の痕跡は追いかけられますが、それ以後は史料的には追いかけられないことを押さえておきます。そして、阿波忌部氏と忌部神社の行方は分からなくなるようです。
私は山川町に「山川町忌部」という地名が残っているので、ここが古代の忌部郷だと思っていましたが、どうもそうではないようです。
忌部荘は江戸時代の編纂物である『応仁武鑑』に「忌部庄三百町」と見えるのが唯一の記録です。
 これを受けて沖野氏は忌部荘について、かつて次のように記していました。

「種野山国衛・川島保・高越寺荘及び美馬郡の穴吹荘・八田荘を含んだ広域荘園で、これはもともと忌部神社の社領であったものが、そのまま忌部荘と総称して持賢の私領としたものであるまいか。その理由は次の通り。
美馬郡の穴吹荘・八田荘はこれを麻植領といって、忌部神社の宮司麻植氏の私領として伝領していたことは天文二十一年の三好康長感状に明らか。周辺はすべて皇室領であるから、忌部神社の社領は早くから皇室領に移されていて、忌部神社の宮司の私領のみが美馬郡の穴吹荘・八田荘として伝領せられたと考えられよう。」

ここでは「麻植や美馬などを含む広域荘園があり、それが忌部神社の社領であった」とされています。これが検討されることなく、かつては一般に拡がっていました。しかし、現在の研究者はこれを「今日の荘園研究に照らすと納得し難いもの」と評します。「山川町忌部」は、忌部氏の拠点(本貫地)とされてきましたが、現在の荘園研究の成果の上では、そこには忌部氏の活動は見えてこないことを押さえておきます。
次に三木家文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符を見ておきましょう。

「太政官符 阿波国司…件人差荒妙御衣使発遣如件…」

まず私が疑問に思うのは、太政官符がどうして三木家に残っているのかと云うことです。官府は、中央から国衙に下された命令書です。それが三木家にあるのは不自然です。これは後ほど考えることにして先に進みます。大嘗祭の荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央の忌部氏も派遣されています。ここからは、三木家が荒妙を制作したことは窺えますが、阿波忌部氏が荒妙を貢進したとは書かれていません。三木家と阿波忌部氏をつなぐ線がありません。つまり、阿波忌部氏の姿が見えてこないのです。先ほど見た『仲資王記』建久五年(1194)の記事とあわせ考えると、次のような事が見えて来ます
①大嘗祭の荒妙貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②阿波忌部氏がこの時期まで存続していた可能性があること
③しかし、この時期には阿波忌部は荒妙貢進は行っていなかったこと、
④替わって、三木家が荒妙を制作していたこと
つまり、平安時代末までには阿波忌部と荒妙貢進の関係は失われていたと研究者は考えています。鎌倉末期まではかろうじて続いていた阿波と大嘗祭とのかかわりも、南北朝期以後には大嘗祭時代が行われなくなるので、阿波からの荒妙奉納も姿を消します。
   次に三木氏が担当する以前の麻殖郡現地の氏長者と氏人との関係を見ておきましょう。
【史料F】
左辯官下 阿波国
 応早令織進荒妙御衣事
右権大納言藤原朝臣実泰宣、奉勅大嘗会主基所料、宜仰彼国、依例以忌部氏人、令織備附神祗官之使、早以進上者、国宜承知、依宣行之、会期有限、不得延怠、
永仁六年九月 日   右大史中原朝臣在判
右少排藤原朝臣在判
意訳変換しておくと
阿波の辯官に命じる
 荒妙御衣の作成について、右権大納言の藤原朝臣実泰が命じることは、大嘗会の主基の担当は、先例に従って忌部氏人に命じる、ついては神祗官の使者を阿波に派遣して、この決定を伝えること。会期有限、不得延怠、
永仁六年九月 日   右大史中原朝臣在判
右少排藤原朝臣在判
この文書は、永仁6年(1298)の後伏見天皇の大嘗祭に際に、阿波国に対して「忌部氏人」に、荒妙を織りまいらせしむことを命じた太政官の宣旨の写しです。正式の文書は、在京の阿波守家で保管され、その写しが「阿波国衙 → 麻殖郡衛 → 守護小笠原氏の代官」というルートで交付され、それらの写本が氏長者・氏人(三木家?)にもたらされたと研究者は考えています。三木家文書として今日まで伝来した官宣旨や太政官符は、どれもそうした写本のようです。内容的には朝廷の伝統的様式を踏まえたものであり、十分に信頼できるものと研究者は評します。
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三木家の麁服
今回はこのくらいにして、最初のテーマに従ってまとめておきます。
A「阿波忌部氏」が古代から中世まで一貫して続いていたのかどうか
B「阿波忌部氏の氏役」とされる大嘗祭の荒妙織進についても不変であったのか

①古代の大嘗祭の麁服(荒妙)貢納は「阿波忌部氏 → 麻植郡司 → 阿波国氏 → 神祇官」という律令システムで運ばれていた。
②そんな中で、律令体制の弛緩と共に上記システムは機能しなくなり、中央斎部も阿波忌部も衰退した。
③斎部(忌部)氏が衰退後に神祇官となり大嘗祭を運営することになった氏族は、新たなシステムを作り出す必要性に立たされた。
④規模を縮小し続けられた大嘗祭では、神祇官は阿波に使者を派遣し、麁服制作集団を確保した。
⑤新たに麁服を作ることにになった集団は、古代の忌部氏とはなんら関係のない集団であった。
⑤それも15世紀半ばに大嘗祭自体が中断すると、阿波と麁服制作との関係は途絶えた。
⑥江戸時代になって大嘗祭が復活したときには、麁服を作る集団もなく阿波には制作依頼も来なかった。
⑦こうして、忌部氏とその氏寺である忌部神社の痕跡すら消えて、それがどこだったのかも分からなくなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司   中世の忌部氏について 講座麻植を学ぶ
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前回は中央の忌部氏と地方忌部氏の関係を次のようにまとめました。

中央忌部氏と地方忌部氏

今回は阿波忌部氏の活動痕跡を史料で追いかけて見ようと思います。テキストは「福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P」です。

阿波忌部氏が最初に登場する史料は「正倉院御物絶銘」と「平城宮跡出土木簡」です。
阿波忌部氏の初見木簡

上は、天平四年(732)に、麻植郡川島郷少格楮里の戸主忌部為麻呂が調として「黄施一疋」を納入したが記されています。これは生糸による織物ですから、阿波忌部氏が生糸の生産にも従事していたことがうかがえます。
 下の木簡には、麻植郡川島郷の忌部足嶋が庸米として米六斗を納めたと記します。ここでも阿波忌部氏が麻・生糸以外に米作にも従事していたことが分かります。ここからは奈良時代の天平年間には麻植郡川島郷内には忌部為麻呂を戸主とする課戸が成立していたことが分かります。『古語拾遺』に忌部氏とのかかわりで麻植の郡名由来が語られたり、後世の史料に「麻植忌部」と称されるように、阿波忌部氏の故郷が麻植郡であったことが裏付けられます。

このふたつの史料からは、阿波忌部氏が川島郷にも住んでいたことも分かります。
奈良時代の麻植郡には「忌部郷」「呉島郷」「川島郷」「射立郷」の4つの郷がありました。忌部郷以外にも阿波忌部氏は居住範囲を拡げていたようです。
 ここで研修者が指摘するのは、古代の郷里編成や戸籍への記載は、口分田を支給し、租庸調等を徴収し、兵士役の徴兵のためのものでした。そのため口分田がないところには賦課は出来ないので、郷は作られません。つまり、平野部とその周辺地域のみに郷は置かれました。口分田がない山間地域などは戸籍は作られず、徴税も行われなかったのです。そういう意味では、阿波忌部氏の居住地域は麻植郡の平野部とその周辺地域に限定すべきと研究者は指摘します。

 延喜2年(902)「阿波国板野郡田上郷戸籍断簡」には合計478名の人名が載せられています。

阿波国板野郡田上郷戸籍断簡


この戸籍は偽籍で、実態を伝えるものではありませんが8名の忌部姓の人物が記されています。また、寛治四年(1090)「三好郡司解」には「三好郡傍吏少領忌部近光」と忌部姓の人物が見えます。このように十世紀には婚姻・移住等様々な理由によって、忌部姓の者が麻植郡以外にも居住するようになっていたことがうかがえます。
阿波忌部氏が、どんな歴史的性格の氏族であったかを見ていくことにします。
『記紀』神話では「粟国忌部遠祖天日鷲所作木綿(ゆう)」とあって、阿波忌部氏が「麻」「楮(こうぞ)」の栽培・生産技術に長けた氏族とします。また『古語拾遺』にも阿波忌部氏は「殖麻穀種」「当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物」と同じような内容が書かれています。『記紀』神話・『古語拾遺』の中の阿波忌部氏はついては、中央忌部氏が伝えた氏族伝承の中に出てくる阿波忌部氏の姿です。その姿はあくまでも中央忌部氏の立場から見た阿波忌部氏の姿であることに留意しなければならないと研究者は評します。
では、「中央忌部氏の目を通さない阿波忌部氏」の姿とは、どんなものなのでしょうか?
考古学の立場からアプローチしたのが天羽利夫の研究を再度見ておきましょう。
麻植郡内に分布する古墳を分析・検討し、次のように指摘します。
①麻植郡の忌部山型石室をもつ古墳の首長たちが、後の「阿波忌部氏」と系譜的につながる氏族である
②この氏族は渡来系の氏族で、鉄器生産に卓越した氏族であった可能性が高い
郡里廃寺 段の塚穴

この考古学的な見解は、今までの「麻の栽培・製造=阿波忌部氏」という評価とは大きく異なるものです。
【史料】『仲資記』建久五年(1253)6月11日条裏書き。

中臣連静依臣、また静依大人という。浪速の高津宮に、天下治しらし天皇命の御世、山田縣主を賜わりて、仕へ奉りきなり、この静依臣、①栗国麻直縣主の祖、忌部首玉代の女、奴那佐加比売に要て、生める子、静見臣、次に静富臣、次に和加岐奴比売、次に建忍比古

文中①の「栗国」は「粟国」、「麻直」は「麻植」の誤記と研究者は判断します。この記事は古代の山田縣主中臣連静依と麻植縣主忌部首玉代の娘との婚姻を伝えるものです。その年代は「浪速高津宮」の天皇(仁徳)の時のとされます。この年代自体は、信用できませんが①の「粟(阿波)国麻植縣主の祖である忌部首玉代の娘・那佐加比売」という記事は具体的で、内容的にも不自然でありません。そこで、系帳作成の際に、何らかの記録や伝承を参照して書いたものと研究者は推測します。そうすると律令制度以前の麻植郡(評)は、粟凡直氏が国造であった粟国に属し、朝廷の直轄地として縣に編成され、忌部首氏がその縣主となっていた次のような関係だった可能性が出てきます。
「粟(阿波)=粟凡直氏が国造」
「麻植郡(評)=忌部首氏が縣主」
「粟国麻直縣主」という古色蒼然とした表現のために研究者からは「信憑性に問題あり」とされる史料です。それは別にしても、この史料が作られた奈良時代には、忌部氏が麻植郡の「縣主」と記されています。ここからは阿波忌部氏が郡司クラスの氏族として理解されていたことがうかがえます。

史料 「続日本紀」神護景雲2年(768)7月乙西日条   
阿波国麻殖郡人外従七位下忌部連方麻呂、従五位上忌部連須美等十一人賜姓宿爾、大初位忌部越麻呂等十四人賜姓連

 意訳変換しておくと
阿波国麻殖郡の外従七位下・忌部連方麻呂、従五位上・忌部連須美など11人に宿爾の姓を賜う、大初位・忌部越麻呂等14人には連を賜う

ここからは奈良時代後半の神護景雲2年(768)に阿波忌部氏に、新たな姓(かばね)が授けられたことが分かります。それは2つのグループに分けられます。
A 前者の「連」姓から「宿爾」姓に改姓した11名のグループ
B 後者の初めて「連」姓を与えられた14名のグループ
Aは、従七位下、従五位上の外位で、地方としては比較的高位の位階を持った集団で、中央斎部(忌部)氏と同じ「宿禰」姓が与えられています。つまり、朝廷から厚遇されたグループ
Bは初位という低い位階で、初めて「連」姓を与えられたグループ
ここには両者の優劣が、はっきりと官位に出ています。この格差は阿波忌部氏の大嘗祭における役割の軽重から来るものと研究者は推測します。そうすると、Aの厚遇を受けたグループは、経験豊かな長老グループで、Bの「連」姓グループは初めて大嘗祭の由加物等を調進したグループで、若手、後継者グループということでしょうか。このうちAの長老グループの11名は、当然戸籍上では戸主として載せられていたはずです。それに対してBは、その息子達もいたはずです。そうすると阿波忌部氏の氏族集団として、戸籍上に正式に位置づけられた人数(戸主)としては「11名+α」ということになります。
 以前にお話した国宝の「円珍(智証大師)系図」は、讃岐の因支首氏が和気氏に改姓申請のために政府に提出するために作られた系図で、地元の那珂郡で作られたものが円珍の手元に残っていました。この系図には改姓を認められた者の45名の名前が記されています。ここからは那珂郡と多度郡に45人の因支首氏がいたことが分かります。ちなみに、今の小家族制の戸籍と違って、この時代の戸籍上は、百人もの大家族がひとつの戸籍で管理されていました。ここでは大嘗祭の荒妙・由加物等の調進に対する褒賞として、阿波忌部氏に位階・姓の授与が行われていたことを押さえておきます。

大嘗祭 [978-4-585-21057-3] - 4,180円 : 株式会社勉誠社 : BENSEI.JP

それでは阿波忌部氏は、大嘗祭にどんな役割を担っていたのでしょうか?

大嘗祭は天皇即位後最初に行われる新嘗祭のことです。新嘗祭が二日間であるのに対し、四日間と長く、神事の場も大嘗祭の場合は、臨時に設置される斎場で行うなど、はるかに規模が大きく「大祀(だいし)」と称されていました。「践詐大嘗祭」に際しては「悠紀(ゆき)国」「主基(すき)国」については神占いで選ばれて、米粟などを栽培・貢進しました。この時に「悠紀国」「主基国」は、畿内以外の周辺国が割り当てられました。ここからはもともと大和政権への服属儀礼がベースとなったとする説が有力です。
それがどのように記されているのかを『延喜式』の記載で見ておきましょう。

阿波国所献色布一端。木綿六斤。年魚十五缶。蒜英根合漬十五缶。乾羊蹄。躊鴎。橘子各十五籠。巳上忌部所作。阿波国忌部所織色妙服。神語所謂阿良多倍是也。預於神祗官設備。納以細籠。置於案上。四角立賢木着木綿。忌部一人執着木綿之賢木前行。四人昇案。並着木綿髯一。末時以前供物到朱雀門下。神服部在前如初。阿波国忌部引色服案。出自神祗官。就給服案後。立定待内弁畢。衛門府開南三門。如元目儀。神祗官一人引神服男女等。到於大嘗宮膳殿。置酒柏出。又神祗官左右引両国供物参入。(略)到大嘗宮南門外。即悠紀左廻。主記右廻。共到北門。神祗官引神服宿祢。入酋絵服案於悠紀殿神座上。次忌部官一人入尖屁服案於同座上。詑共引出。乃両国献物各収盛殿。詑衛門府開門。

ここには阿波国は「悠紀国」「主基国」の選定とは関係なく、那賀郡・麻植部から「由加物」として各種産物が調進されたこと、その他に、麻植郡の忌部から「阿良多倍(あらたえ)服」(荒妙:麁服:色服)が納められることになっています。
「あらたえ」とは何なのか、 伊勢神宮で年2回行われるの「神御衣祭」で見ておきましょう。
神御衣祭では天照大御神に「和妙(にぎたえ)」「荒妙(あらたえ)」の2種の神御衣(かんみそ、神様がお召しになる衣)が捧げられます。「妙」は布、和妙は目が細かくやわらかな絹布、荒妙は目が粗くかたい麻布です。大嘗祭に調進される麻織物、麁服(あらたえ)の「あら」とは「向こうが透けて見えるという意味」とされます。「大宝律令」の「神祇令」には、朝廷の祭祀をつかさどる神祇官が関与する国家的祭祀として「神衣(かんみその)祭」が挙げられています。「延喜式」には御料(ごりょう、神々や天皇、貴人が使用する物。衣服や飲食物など)の品目、数量や祭儀の詳細が記されています。神御衣祭は、大御神に新たな「お召しもの」を奉ることにより、神威のさらなる高まりを願うものだったようです。

愛知県田原市の神宮神御衣御料所で紡がれた絹糸
「三河赤引糸(みかわあかびきいと)」350匁(1.3㎏)

しかし、阿波忌部氏が荒妙(あらたえ)を納めたことを記した史料はほとんどなく、実態はよく分からないようです。阿波から荒妙(麁服)が奉納されていたことが確認できる最後は長和元年(1012)の三条天皇の大嘗祭です。11世紀になると律令体制が弛緩して、地方の政治体制も不安定になって、朝廷にも力がなくなり大嘗祭も簡略化されていたようです。
平安末期の11世紀前後の大嘗祭の準備が、どのように行われていたかを史料で見ておきましょう。
史料A『小右記』長和元年( 1012)7月5日条。

抜穂事、神服色妙御服事等、早仰国司可令申請、以国解先経奏聞可定申之由、

意訳変換しておくと
抜穂式について、神服色妙の御服などの作成を、早々に国司に命じて、準備を整えさせるように命じた。

史料B 『小右記』長和元(1012)年8月17日条。

以近江阿波国解並神祗官勘申式文等奉左府(略)阿波国中、色妙御服去年織進了、不可重織事申請子細在解状、又三河国糸事、大略同阿波、中納言俊賢云、件両国所中可然、不似近江者、相府有同之気、予申云、阿波色妙御服三河神服糸等、以当年織物可被充用欺

史料C 『兵範記』仁安3年(1168)9月4日条(『古事類苑』神祗部大嘗祭由加物使」)

神祗官差文、 一枚大嘗会神服使、正六位上神服政景、神部二人、一枚③荒妙御衣使、正六位上少史伊岐致頼、神部二人、一枚由加物使等ズ紀伊・淡路(中略)
阿波国少史伊岐致頼、神部二人、一枚戸座使、少史伊岐致頼、神部二人、

上の3つの史料からは次のようなことが分かります。
①11・12世紀段階でも『延喜式』の規定通りに、大嘗祭の準備品として阿波国司に対し、由加物・荒妙・戸座童の調進を命じていたこと
②そのための中央から使者を派遣していたが、そこに中央の斎部(斎部)氏は出てこないこと。
③史料C(仁安三年(1168)には、③「荒妙御衣使」として「伊岐氏」が出てくること。ここからは斎部氏以外の氏族が荒妙貢進に携わるようになっていたこと、つまり中央の斎部(忌部)氏の姿が見えなくなっていることを押さえておきます。
【史料D】『山塊記」建暦元年(1184)8月22日条は、源平合戦の争乱の最中の大嘗祭になります。
予間云、阿波国荒妙神服事、平家在四国、例往返不通、又鎮西不通、有限事等如何、併曰、此事尤可有沙汰事也、未及文書沙汰之間未注出、委注出可経御覧也、

意訳変換しておくと
予間が云うには、阿波国から納められる大嘗祭用の荒妙神服について、平家が四国を支配し、海上交通や鎮西との交通も途絶えていると。いかなる対応をすればよいのか。併せて、このことについての指示もない。

【史料E】「三長記』建暦元年(1184)9月6日条
三河神服、阿波荒妙御衣、三カ国由加物、戸座童使差文等上了、

史料Dからは、源平合戦の騒乱のために交通路が遮断されて、阿波の「荒妙神服」を確保する手立てがないこと、つまり大嘗祭準備が困難になっていることがうかがえます。しかし、同年の史料Eからは、旧来通りの由加物・三河和妙・阿波荒妙・戸座童等の調達ができたことが記されています。この時点でも、源平合戦の中でも大嘗祭は行われ、阿波からの荒妙は納められていたことが分かります。

しかし、平安期の「延久2年(1070)6月28日「太政官符案」(『後二条師通記』)」からは、阿波忌部氏の衰退が見えてきます。
応国司向神祗官受取二月祈念。六月。十二月月次等祭幣物事
忌部神(忌部神社)
天石門別八倉比売神
右検案内、祈念。月次祭者、邦国之大典也、凡畷欲令歳穴不起、時令不徳、然則件祭幣吊、国司一人率祢宜。祝部等、向神祗言可受取之由、先洛後"付柄誠個畳、雨如司者、頃怠不肯定受、徒納官庫、先工為塵埃、誠雖有巳尖之名、殆似無尚饗之賞、如在之札、豊以可然、論之物儀尤為違例、左大臣宣、奉勅、買仰彼国、件幣串送付国司、令奉箕本社、即取社請文、勘会公文者、国冨承知、依宣行之、符到奉行、正四位下左中弁兼安芸介藤原朝臣 左大史正六位上紀朝臣
延久二年六月十八日
意訳変換しておくと
太政官符 阿波国司へ
国司が神祗官から二月祈念・六月・十二月月次等祭物事を受け取ることについて
 忌部神
 天石門別八倉比売神
祈念・月次祭は、国家の大典である。そのため国家が祭祀を行ってきた、それぞれの国から祢宜や祝部などを派遣して、京都の神祗官に出向いて神への捧げ物を受け取ることになっている。ところがその定めにもかかわらずに、(この二社からは)受取に来ないので、いたづらに官庫に保管されたまま、空しく塵となっている。このようなことは誠に嘆かわしいことであると左大臣からの通達を受けた。ついては、阿波国主に命じる。貴国の「忌部神」「天石門別八倉比売神」の神社に対して即刻、受取に来るように伝えよ
正四位下左中弁兼安芸介藤原朝臣    左大史正六位上紀朝臣
       延久二年(1070)六月廿八日
この史料は、2月祈念祭と6月・12月の月次祭の弊物が①忌部神と②天石門別八倉比売神(あめのいわとわけやくらひめしゃ)から納められていないので、早く納めるように阿波国司に督促したものです。

延喜式神名帳阿波


延喜式神名帳阿波2
延喜式の阿波の式内社
この奉弊は各国の大社に対して行われたものですから、阿波国では「忌部神と天石門別八倉比売神」の2社に加えて、大麻社の3社のみが対象になります。その中の大麻社は督促されていません。これは二社だけが「弊物がいたずらに官庫に眠り、空しく塵埃となる」状態であったこよになります。大麻社は国司に率いられた祢宜(ねぎ)・祝部(ほふりべ)一人が、中央の神祗官に出向いて弊物を規定通りに納めていたからでしょう。
どうして、①忌部神と②天石門別八倉比売神は、規定通りの祭祀・神事を行わなかったのでしょうか。
もし、阿波忌部氏の氏族結合が強く、経済的基盤もしっかりとしていれば氏神の祭礼がおろそかにされることはないはずです。ここからは延久2年(1070)頃になると忌部氏の団結力が緩み、経済的にも衰退し、氏神の祭礼も行われなくなっていたことがうかがえます。その時期は中央の斎部(忌部)氏が衰退し、姿を消して行くのと重なります。ここからは、11世紀前半には、律令体制の衰退から大嘗祭も規模が縮小され、中央と地方の忌部氏も衰退し、奉納は行われなくなっていたと研究者は考えています。
  以上をまとめておきます
①阿波忌部氏は、忌部郷だけでなく麻植郡一体に勢力を持っていた
②阿波忌部氏の有力者は、忌部山型ドームを石室に持つ古墳を造営するなど一族意識を持っていた。
③阿波忌部は、大嘗祭に際して中央忌部氏を通じて「荒妙(あらたえ)服」を納めた
④しかし、具体的な内容について記した史料はほどんどなく不明な点が多い。
⑤11世紀になると律令体制が弛緩して、地方の政治体制も不安定になって、朝廷にも力がなくな り大嘗祭も簡略化されていった。
⑥同時に、中央の斎部(忌部)氏や阿波忌部氏も衰退し、その足取りさえつかめなくなる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P
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徳島県民手帳』の「資料編(徳島県の沿革)」には次のように記されています。

「古代、忌部氏が、吉野川流域を開拓したとき、粟がよく実ったので、この地域を粟の国といい」

ここには忌部氏の功績によって、吉野川流域の開発と粟の栽培が行われたので「粟の空」と呼ばれるようになったと書かれています。しかし、かつては阿波国は「粟国造」の「粟(阿波)凡直氏」が阿波国始祖だったので粟(阿波)とされるようになったと語られてきたように思います。徳島県では、粟氏から忌部氏への建国始祖が変更中なのかもしれません。そんなわけで、今回は史料に出てくる阿波忌部氏と中央の斎部(忌部)氏の関係を見ていくことにします。テキストは「福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P」です。

斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上される : ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 忌部氏については、斎部広成(いんべのひろなり)が807年に天皇に提出した『古語拾遺』に詳しく記されています。彼は紀記に記されていない忌部氏独自の歴史を述べた後で、神祇面で中臣氏がしゃしゃり出すぎると不平を言っています。この書が書かれた目的は、ここにあったようです。
 『古語拾遺』の中には、次のような「忌部氏=麻植開拓」伝説が次のように記されています。

天日鷲命之孫、造木綿及麻並織布古語、阿良多倍、依令天富命率天日鷲之孫、求肥暁地遣阿波国、殖麻穀種其裔今在彼国、当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物所以郡名為麻殖之縁也、天富命更求沃壌分阿波忌部率往東土、播殖麻穀好麻所生、故謂之結城郡古語、麻謂之総也、今為上総下総二国是也、阿波忌部所居、便名安房郡、今安房国是也、

   読み下すと次のようになります。
天日鷲命の孫、木綿及び麻井びに織布〔古語、阿良多倍(あらたえ)〕を造れり。天富命をして、天日鷲命の孫を率て、肥饒地を求めて阿波国に遣はして、穀・麻の種を殖ゑしむ。其の裔、今彼の国に在り。大嘗の年に当りて、木綿・麻布、及び種々の物を貢る。所以に郡の名を麻殖と為る縁也。(『古語拾遺』新選日本古典文庫 七七~八〇百( 現代思想社 一九七六年)
要約すると、
天日鷲命の孫をが豊穣な阿波国にやって来て、穀・麻を植えて入植したこと。その子孫が、大嘗祭の年には、木綿・麻布など貢納品を納めていること。故に、彼らが住む郡を「麻植(おえ)」よ呼ぶ。

ここからは麻植郡が神により忌部氏に約束された聖地であり、その本貫地であることが記されています。この「建国伝説」は、後世に大きな影響を残します。
実は「古語拾遺」には、この部分の前に次のような文章があります。
太玉命所率神名目①天日鷲命阿波国忌部祖也、②手置帆負命讃岐国忌部祖也 ③彦狭知命紀伊国忌部祖也 ④櫛明玉命出雲国玉作祖也 ⑤天目一筒命筑紫、伊勢両国忌部祖也
(中略)妖気既晴、無都橿原、経常帝宅、働令天富命太玉命之孫率手置帆負、彦狭知二神之孫以斎斧斎鐘鍋、始採山材構立正殿所謂底都磐根宮柱布都之利立、高天乃原爾博風高之利氏阜孫命乃美豆乃御殿子造奉仕也故其裔今在紀伊国名草郡御木色香二郷古語、正殿謂之色香採在斎部所居謂之御木造殿斎部所玉、矛盾、木綿、麻等、櫛明玉命之孫造御祈玉古語美保伎玉、
天日鷲命之孫、造木綿及麻並織布古語、阿良多倍、依令天富命率天日鷲之孫、求肥暁地遣阿波国、殖麻穀種其裔今在彼国、当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物所以郡名為麻殖之縁也、天富命更求沃壌分阿波忌部率往東土、播殖麻穀好麻所生、故謂之結城郡古語、麻謂之総也、今為上総下総二国是也、阿波忌部所居、便名安房郡、今安房国是也、
ここには天太玉命を祖神とする中央忌部が、阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢などの地方忌部を率いたし、それぞれの始祖神を次のように記します。
忌部一族の祖神は天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)
①阿波忌部氏 天日鷲命(あめのひわしのみこと)、
②讃岐忌部氏 手置帆負命(たおきほおいのみこと)、
③紀伊忌部氏 彦狭知命(ひこさしりのみこと)、
④出雲国玉作 櫛明玉命 
⑤筑紫、伊勢両国 天目一筒命
⑥安房忌部氏 天富命(あめのとみのみこと)、
「天富命をして、斎部(忌部)の諸氏を率て、種々の神宝・鏡・玉・矛盾・木綿・麻等を作らしむ。」とあり、地方の忌部氏が「笠・盾・金(金属)・綿・玉」などの祭礼用具を「業務分担」しながら作って、中央忌部(忌部)に納めていたことが分かります。
 忌部氏がどのような仕事をしたかについては、天岩戸のシーンに次のように記します。
①銅を取ってきて鏡を鋳造する
②麻を植えて青幣帛(あおにぎて)を作る
③カジノキを植えて白幣帛(しらにぎて)を作る
④布を織る
⑤玉を作る
⑥木材を採取し、神殿や笠・盾・矛を作る
⑦刀・斧・鉄鐸を作る
⑧榊を取ってきて鏡・幣帛・玉を懸け、称詞を唱える 
ここでは忌部氏が祭祀に関わる一切を作る指揮を執り、祭祀を行う主役だったと主張しています。注目しておきたいのは神殿まで作る木工・大工集団も抱えていたようです。木は植えると一晩で成長したと云います。各地にカジノキ・楮・麻などを植えて育成するために、広大な山林資源を管理していたことがうかがえます。このような祭礼儀式に必要な金属加工技術や織物技術は列島にはありませんでした。忌部氏も渡来系であったと研究者は考えています。
以上から地方の忌部氏集団は、中央の忌部氏に従い、朝廷の祭礼儀式に関係する祭具や建築物の建設などを担当する技術者集団を構成していたことがうかがえます。


忌部氏分布図
                   地方忌部氏の分布図

これを裏付けるのが『日本書紀』第二の一書の次の所です。

即以①紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作笠者.②彦狭知神為作盾者・③天目一箇神為作金者.④天日鷲神為作木綿者.⑤櫛明玉神為作玉者.(以下略)率手置帆負、彦狭知、二神之孫、以二斎斧斎紺、始採山材・構立正殿

ここに書かれている地方忌部の職務分担を整理すると次のようになります。
 
忌部氏の職務分担表
 
    
  日本書紀の記述からも、笠・盾・金(金属)・綿・玉などの祭礼用具が、各忌部氏によって「業務分担」されて作成したこと、また、紀伊と讃岐の忌部は、木材の切り出しや正殿建築等を通じて密接に結び付いていたことが記されています。また、筑紫や伊勢の忌部が金属器の製造に関係しています。これは、神具としての金属器の製造で、沖ノ島の祭祀遺跡にみられるような、金属製(金・銀・銅)ひながた品の製作などもあったと研究者は考えています。ここからは、地方忌部は中央忌部に率いられ、各種の神具の生産に従事してたことが分かります。ここで押さえておきたいのは、中央に貢納品を納めていたのは、阿波忌部だけではなかったことです。

『延喜式』の臨時祭、梓木の条には、次のように記されています。

凡柿木千二百四十四竿。讃岐国十一月以前差二綱丁進納。

ここには、讃岐国から毎年11月に、柿の木の矛竿が1244本も貢納されていたことが記されています。多くの竿を納めるので讃岐は別名で竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるほどです。この竿(さお)は、武器としても使用されたことが考えられます。先ほど見た日本書紀には「手置帆負(讃岐忌部)・彦狭知(紀伊忌部)の二神の子孫は、神から下賜された斧で木を伐り山材で正殿を建てた」とありました。讃岐や紀伊の忌部氏が山林開発者であったことがうかがえます。

中央忌部(斎部)氏が朝廷の儀式に深く関わっていたことは『日本後記』大同元(806)年8月10日条からも裏付けられます。

中臣忌部両氏各有相訴。中臣氏云、忌部者、本造幣畠、不中祝詞、然則不可以忌部氏為幣畠使、忌部氏云、奉幣祈祷、是忌部之職也、然則以忌部氏、為幣畠使、以中臣氏可預祓使、彼此相論、各有所拠、是日勅命、拠日本書記、天照大神閉天磐戸之時、中臣連遠祖天児屋命、忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇真坂樹、而上枝懸八坂瑣之五百御統、中枝懸八腿鏡、下枝懸青和弊白和弊、相興致祈祷者、然則至祈祷事、中臣忌部並可相預、又祈念月次祭者、中臣宣祝詞、忌部班幣串、践詐之日、中臣奉天神寿詞、忌部上神璽鏡創、六月十二月晦日大祓者、中臣上御祓麻、東西文部上祓刀、読祓詞詑、中臣宣祓詞、常祀之外、須向諸社供幣畠者、皆取五位以上卜食者充之、亘常祀之外、奉幣之使、取用両氏、必当相半、自余之事、専依令條、
 
意訳変換しておくと
(古くからの神祇官である)中臣氏と忌部氏が互いに、その分担をめぐって争った。中臣氏が云うには「忌部は、もともとは幣畠の作成担当で、祝詞には関与しなかった。よって忌部はあくまで幣畠使である」と。これに対して忌部氏が云うには「奉幣し祈祷するのが、忌部の職である。」と。そこで(大同元年8月10日の)の勅裁で次のように決められた。
以下、次のように記されています。
①大同元年頃、神祗官人の忌部氏と中臣氏は、神祗官の職務分担をめぐって対立し、相手を提訴した。
②訴訟については、同年8月10日に勅裁が次のように下された。
③『日本書紀』の記載に基づいて、祈祷については中臣氏と斎部(忌部)の両者が従事すること
④祈念祭・月次(つきなみ)祭については、中臣氏が祝詞を宣し、忌部氏が幣畠を班つこと
⑤大嘗祭については、中臣氏が寿詞を奉り、忌部氏が神璽鏡剣(しんじきょうけん)を奉ること
ここからは大同元(806)年頃には中央忌部氏は、中臣氏と対立して窮地に立たされていたことがうかがえます。
三条天皇の大嘗祭関係の記事を収める『権記』には、次のように記します。

又、云はく、「大嘗会の事、其の子細、式を作る。仁和寺より伝へ取る。四条納言、之を見て云はく、『寛平に作す所か』と。角りて彼の納言、之を『寛平式』と号す。其の故に、元慶・仁和の例、注文に在りと云ふ。其の中に取るべき事有り。廻立殿に御す後、悠紀殿に還御する間、小忌の中少将一人、左右に候ずる事、両三、存す」と云々。即ち先日、見給ふる事有る文を申すなり。近きは忌部、鏡。鋼を奉ること、天長以来、其の事無き由、件の書を見ゆるか、と。

最後の部分に「先日に見た文書には、かつては忌部(斎部)氏が、鏡・鋼を奉じたが、天長年間以来、これがなくなっている」と記されています。ここからは大同元年の勅裁では、中央忌部氏は神璽・鏡鋼奉献ていたが、約30年後の天長の頃には、行われなくなっていたことが分かります。9世紀中頃の天長年間(824~833年)になると、中央忌部氏が大嘗祭に鏡鋼を奉ることがなくなっていたことを押さえておきます。これは中央忌部氏が存続の危機に瀕していたことを示します。
斎部氏への改姓と『古語拾遺』が書かれた時期と、忌部氏の衰退時期は一致します。
それは9世紀前半と云うことです。中央忌部氏はもともと「忌部」を名乗っていましたが、延暦22年880)に「斎部」と改姓します。この改姓理由を分かりやすく云うと「自分たちは地方の忌部緒氏とはちがうんだ。朝廷の儀式を担当してきた伝統的な神祗官なのだ。地方の忌部氏と一緒にしないでくれ」ということでしょうか。言い換えると「地方忌部氏との差別化」のために、それまでの忌部姓から斎部姓に改姓したようです。これと斎部広成が『古語拾遺』を書いた時期は一致します。
       古語拾遺は、平城天皇の求めに応じて大同二(806)年に斎部広成が提出したものとされます。
当時の朝廷祭祀は大化の改新の功労者が中臣氏が主導権を握り、斎部(忌部)氏は衰退気味でした。このような中で、広成は忌部氏が祭祀を司る正当性を訴えます。その心情は、序の「蓄憤(積もり積もった憤懣)をのべまく欲す」という言葉によく表されています。日本書紀の情報を下敷きにして、独自の語源解釈を展開します。例えば、天岩戸の場面で大活躍するのは忌部氏の遠祖太玉命です。
古語拾遺には、次のような2つの目的があったと研究者は指摘します。
①同じ神祗官人である中臣氏との対抗関係で劣勢に置かれていたことに対する己の正当性
②地方の緒斎部氏との差別化を図ること
それでは中央忌部氏と地方忌部氏は、どんな関係だったのでしょうか?
 津田左右吉は地方忌部氏を「部民(べのたみ)」として、次のように規定します。
①朝廷に特殊の地位と職掌を持つ伴造の家が、地方においてそれに隷属する部下を有した
②その部下は、主家と同じ氏の名を称した。
③それらは主家と同じ職掌のものではなかった。
④それらは主家と血族を同じくするものではなかった。
  以上の規定に従って地方忌部氏を次のように理解します。
⑤律令制以前から阿波など六国(阿波・讃岐・紀伊・出雲。筑紫。伊勢)に忌部氏支配下の人々がいたこと。
⑥中央の忌部氏と地方の忌部は、互いに同族と考えていない。
⑦朝廷が祭祀のために中央の忌部氏や地方の忌部を定めた。
この津田氏の考え方が、今でも大筋としては認められているようです。

庚午の年に、わが国最初の戸籍として作成された「庚午年籍」には、紀伊忌部氏の起源が「忌部姓」とされています。ここからは中央忌部氏の「部民」として位置づけられていたことが分かります。これは讃岐や阿波の地方忌部氏においても同じだったはずです。つまり、庚午年籍において、正式に讃岐や阿波の忌部氏は誕生したことを押さえておきます。
例えば空海を生み出した讃岐善通寺の佐伯直氏の場合を見てみましょう。

佐伯直氏

ここからは部民や直として地方に設置された氏族が、職能を通じて中央氏族と結びつき、先祖を同じくする一族として「疑似血縁的紐帯」を形作るようになっていたことが分かります。しかし、実際には、彼らには血縁関係はなかったと研究者は考えています。忌部氏も佐伯氏と同じような「疑似血縁共同体意識=一族意識」で結ばれていたこと、しかし、中央と地方では大きな違いがあったことを押さえておきます。そして、中央の忌部(斎部氏)が衰退すると、地方斎部氏との関係も次第に薄れていきます。そうすると斎部氏に代わって、大嘗祭の準備品を整えなければならなくなった神祇官氏族は、地方忌部に替わる新たなチャンネルを確保するようになったと研究者は考えています。
以上をまとめておきます。
①中央斎部(忌部)氏が、自分の職能や果たしてきた役割を記録したものが古語拾遺である。
②古語拾遺が書かれた背景には、朝廷儀式をめぐる神祇官としての斎部(忌部)氏がライバルである中臣氏に押されて、次第に影が薄くなっていたことが背景にある。
③その打開のために、斎部氏の果たしてきた役割と、地方忌部との違いを明確にするというねらいの下に古語拾遺は書かれた。
④忌部氏は、朝廷儀式に使う祭礼器具などの準備を担当し、それを地方の忌部氏に分担して準備させていた。
⑤中央の忌部氏と地方忌部は、もともとは別集団であるが祭礼用具準備という職務を通じて「疑似血縁集団化して一族意識を持つようになった。
⑥しかし、中央の斎部氏が衰退していくと、この関係は維持できなくなり、地方忌部も祭礼用具や貢納品を準備することはなくなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P
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古代の阿波忌部氏について、研究者は次のように考えているようです。
①古代の大嘗祭は「太政官→阿波国司→麻植郡司→忌部氏」という律令体制の行政ルートを通じて、麻植郡の忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われた。
②しかし、律令体制が不安定となると、中央の斎部(忌部)氏も衰退し、このルートが機能しなくなった。
③そこで中央の神祗官は、荒妙・由加物の確保のために「阿波忌部」を直接的に配下に置いて掌握するシステムを作り出した。
④そのシステムが、「神祗伯家」→神祗官人(斎部氏か)→「左右長者」→「氏人」である。
⑤中世になると阿波忌部に替わって「氏人」が荒妙の織進や由加物の調進を行うようになった。

「阿波忌部」については、研究者の多くはその本貫地を麻植郡とし、氏神の忌部神社もその周辺にあったと考えていることを前回は見てきました。今回は、考古学者が「阿波忌部」の本貫地に作られた忌部山古墳群を通して、古代の麻植郡をどのように考えているのかを見ていくことにします。
テキストは「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。  

徳島県でも6世紀中葉頃になると、それまでの竪穴式石室に替わって、朝鮮半島から伝わってきた横穴式石室を埋葬施設に持つ円墳が登場してくるようになります。竪穴式石室は基本的に首長一人の埋葬ですが、横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳のほとんどが10m前後の規模の小さな円墳で、家族墓として複数の追葬が行われるようになります。

阿波古墳編年表
上の徳島の古墳変遷図を見ると、吉野川流域の麻植郡については、次のような情報が読み取れます。
①3世紀から5世紀の前方後円墳に代表される首長墓がないこと。
②6世紀代(10期)になって、円墳で横穴式石室をもつ古墳が登場してくること
つまり、麻植郡は4・5世紀代には、古墳が造られていない「古墳空白地帯」なのです。これは強い力をもつ豪族たちがいなかった地域であった地帯とも言えそうです。

麻植郡域に横穴式石室の古墳が築造されるようになるのは6世紀になってからです。
その代表格が下図の2の忌部山古墳群や4の峰八古墳群、5の鳶ケ巣古墳群になるようです。

忌部山古墳群
麻植の3忌部山古墳群・4峰八古墳群・ 5鳶ヶ巣古墳群

地図を見れば分かるように、山川町忌部の背後の標高200mの山の中にあります。そして、その麓に、山崎忌部神社が鎮座し、その里が山川町忌部になります。「里から見える見える霊山に祖霊は帰っていく。その山や谷が霊山であり、霊域となる。それを奉るために社殿が作られる。」という民俗学者の言葉通りのレイアウトになっています。この里が阿波忌部の本貫地であったことが古墳からもうかがえます。注意しておきたいのは、高越山の麓ではないことです。

200m前後の高い山の上に古墳が作られるのは徳島ではあまり例がありません。徳島県の高所造営の代表的例を挙げると、次の2つです。
①三好郡東みよし町の丹田古墳(全長約25mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室)で標高約220m
②徳島市名東町の八人塚古墳(約全長60mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室?)でや標高130m
国史跡丹田古墳の世界」-1♪ | すえドン♪の四方山話 - 楽天ブログ
丹田古墳(東みよし町)
山の上に作られた古墳は4世紀代の前期古墳で、尾根の先端部にあって、そこからは平地の集落が見下ろせる位置にあります。つまり首長墓で政治的なモニュメントとして作られています。麻植の忌部山古墳群や峰八古墳群、鳶ケ巣古墳群が高所に造られたのは、前期古墳の首長墓とは性格がちがいますが、家族墓として一族の存在誇示する意図がうかがえます。忌部山古墳群は『和名類緊抄』の郷名「忌部」に、峰八古墳群と鳶ケ巣古墳群は郷名「川嶋」の集落に比定されます。ここには、忌部氏と、隣接した川島にもうひとつの有力者集団がいたことがうかがえます。
忌部山古墳群をもう少し詳しく見ておきましょう。
忌部山古墳群1

            図4 忌部山古墳群の測量図 『忌部山古墳群』(1983年)より

この古墳群は、吉野川市山川町山崎字忌部山123番地の標高約240mにあり、『麻植郡誌』にも載っていて古くから知られた古墳群です。
忌部山2号墳
現在の忌部山2号墳


忌部山2号墳の羨道部2
調査時の忌部山古墳2号墳
1976年から3年間の調査で分かったことは、次の通りです。
①5基とも円墳で、墳丘規模は、直径10m前後、高さ2、5m前後で、墳丘規模に大きな格差はない。
②忌部山の尾根に沿って、最高部244mから1号墳、2号墳、3号墳と北方向へと下る稜線上にある。
③尾根上に並ぶ3基の古墳から、南東側の斜面約20m下に4号墳、さらに北東側に12m隔てて5号墳がある。
④ここからは、忌部山古墳群は、頂上部の1~3号墳グループと4~5墳グループに2つに分類できる
⑤忌部山古墳群は全て横穴式石室で、1号墳だけは横穴式石室に隣接して竪穴式の小石室があり、これは追葬用の埋葬施設。
⑥石室を比較すると、1号墳を最大として、次いで2号墳、3・4・5号墳が一回り小さい。
⑦築造順序は、1号墳→2号墳・3号墳 → 4号墳 → 5号墳で、6世紀半ば前後に前後して造られた。    

各古墳石室の開口方向から推測すると、一番上の1号墳から下っていく墓道と2号墳の墓道が繋がり、3号墳の南側を下って3号墳の墓道と繋がり、4号墳の西側から南側を廻って4号墳の石室前へと繋がり、さらに5号墳の石室開口部へと繋がって里へと下っていく墓道があったと研究者は考えています。


忌部山古墳群の横穴式石室は、大きな特徴を持っていると研究者は指摘します。
徳島県の他エリアの横穴式石室は長方形の石室で、天井部は水平で、全体は箱型の石室です。これが全国標準タイプです。ところが忌部山の古墳は、石室をドーム状に積み上げています。


忌部山2号墳の羨道部
      忌部山2号墳の石室と羨道部 ドーム状に高く積み上げられている

石室の底辺部は、入口から奥壁に至る壁面は緩やかな曲線を描き、側壁と奥壁の接点も角張ることはなく丸みを帯びています。天井部は水平ではなく、玄室入り口部と奥壁側から互いに持ち送りしながら、石室ほぼ中央部が最高部になるよう積み上げています。これが特徴です。全国的に見るとドーム状に築かれた横穴式石室は各地にあるようですが、忌部山型石室のように天井まで持ち送りのドーム状にする例はほとんどないようです。こうしたドーム状石室は、忌部山型石室と呼ばれているようです。

境谷古墳のドーム状石室.2jpg
            境谷古墳(山川町境谷)のドーム状石室

この忌部山型石室が麻殖郡内には18基あります。ここからは麻植郡内では、古墳造営に際して独特の基準があり、それを守ろうとする集団間の絆が強かったことがうかがえます。別の言い方をすれば「麻植郡式の葬送儀礼ルール」があったと言えます。そのような集団のひとつが山川町忌部を拠点とする勢力だったことになります。
 それでは忌部山型石室のルーツはどこなのでしょうか?
そのことを探る上で参考になるのが美馬の段ノ塚穴古墳群のようです。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳の石室 ドーム状に高く積み上げられている

これを探るのは次回にして、以上をまとめておきます。
①山川町山崎は忌部の地名が残り、史料的にも「阿波忌部」の本貫地であったことがうかがえる
②山崎の忌部の里の上には、忌部神社が鎮座し、さらに山の上には忌部山古墳群がある。
③忌部山古墳軍は、里の阿波忌部の家族墓として6世紀中頃に、継続して造られたもので、忌部氏の集団がいたことがうかがえる。
④忌部古墳群には、ドーム状石室という独特の構造が見られ、他エリアとは一線を画する出自や交易活動を行っていたことがうかがえる。
②ドーム状石室という点では、麻植と美馬の勢力は共通点を持ち、麻植の影響を受けて美馬でも造り始められたと研究者は考えている。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」
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徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
郡里廃寺(こおざとはいじ)復元図
郡里廃寺跡は,もともとは立光寺跡と呼ばれていたようです。
「立光寺」というのは、七堂伽藍を備えた大寺院が存在していたという地元の伝承(『郡里町史』1957)により名付けられたものです。何度かの発掘調査で全体像が明らかになってきて、今は国の史跡指定も受けています。
郡里廃寺跡 徳島県美馬市美馬町 | みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"

郡里廃寺跡が所在する美馬市美馬町周辺は,古墳時代後期~律令期にかけての遺跡が数多く分布しています。その遺跡の内容は,阿波国府周辺を凌ぐほどです。そのため『郡里町史』(1957)は、阿波国には,元々文献から確認できる粟国と長国のほかに,記録にはないが美馬国とでもいうべき国が存在していたという阿波三国説を提唱しています。
段の塚穴
段の塚穴
 阿波三国説の根拠となった遺跡を、見ておきましょう。
まず古墳時代について郡里廃寺跡の周辺には,横穴式石室の玄室の天井を斜めに持ち送ってドーム状にする特徴的な「段の塚穴型石室」をもつ古墳が数多くみられます。この古墳は石室構造が特徴的なだけでなく,分布状態にも特徴があります。

郡里廃寺 段の塚穴
段の塚穴型古墳の分布図
この石室を持つ古墳は,旧美馬郡の吉野川流域に限られて分布することが分かります。古墳時代後期(6世紀後半)には、この分布地域に一定のまとまりが形成されていたことをしめします。そして、この分布範囲は後の美馬郡の範囲と重なります。ここからは、古墳時代後期に形成された地域的まとまりが、美馬郡となっていったことが推測できます。そして、古墳末期になって作られるのが、石室全長約13mの県内最大の横穴式石室を持つ太鼓塚古墳です。ここに葬られた国造一族の子孫たちが、程なくして造営したのが郡里廃寺だと研究者は考えています。
 
1善通寺有岡古墳群地図
佐伯氏の先祖が葬られたと考えられる前方後円墳群
 比較のために讃岐山脈を越えた讃岐の多度郡の佐伯氏と古墳・氏寺の関係を見ておきましょう。
①古墳時代後期の野田院古墳から末期の王墓山古墳まで、首長墓である前方後円墳を築き続けた。
②7世紀後半には、国造から多度郡の郡司となり、条里制や南海道・城山城造営を果たした。
③四国学院内を通過する南海道の南側(旧善通寺西高校グランド)内の善通寺南遺跡が、多度郡の郡衙跡と推定される
④そのような功績の上で、佐伯氏は氏寺として仲村廃寺や善通寺を建立した。

郡里廃寺周辺の地割りや地名などから当時の状況を推測できる手がかりを集めてみましょう。
郡里廃寺2
郡里廃寺周辺の遺跡
①郡里廃寺跡付近では,撫養街道が逆L字の階段状に折れ曲がる。これは条里地割りの影響によるものと思われる。
②郡里廃寺跡の名称の由来ともなっている「郡里」の地名は,郡の役所である郡衙が置かれた土地にちなむ地名であり,周辺に郡衙の存在が想定される
③「駅」「馬次」の地名も郡里廃寺跡の周辺には残っていて、古代の駅家の存在が推定できる
 このように郡里廃寺跡周辺にも,条里地割り,郡衙,駅家など古代の郡の中心地の要素が残っています。ここから郡里が古代美馬郡の中心地であった可能性が高いと研究者は考えています。そして,郡衙の近くに郡里廃寺跡があるということは、佐伯氏と善通寺のように、郡里廃寺が郡を治めた氏族の氏寺として建立されたことになります。

それは、郡里を拠点として美馬王国を治めていたのは、どんな勢力だったのでしょうか?
 
郡里が阿波忌部氏の拠点であったという研究者もいます。
 郡里廃寺からは、まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦と同じ木型(同笵)からつくられたもの見つかっていることは以前にお話ししました。
弘安寺軒丸瓦の同氾
       4つの同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)

弘安寺(まんのう町)出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」

弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      郡里廃寺の瓦 上側中央が弘安寺と同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、両者に何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
郡里廃寺の造営一族については、次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  播磨からきたのか、讃岐からきたのは別にしても佐伯氏の氏寺だと云うのです。ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説を以前にお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏を継続して建立された寺院です。
美馬郡の一族がなんらかの関係で讃岐の佐伯氏と、関係を持ち人とモノと技術の交流を行っていたことは考えられます。そうだとすれば、それは讃岐山脈の峠道を越えてのことになります。例えば「美馬王国」では、弥生時代から讃岐からの塩が運び込まれていたのかもしれません。そのために、美馬王国は、善通寺王国に「出張所」を構え、讃岐から塩や鉄類などを調達していたことが考えられます。その代価として善通寺王国にもたらされたのは「朱丹生(水銀)」だったというのが、今の私の仮説です。
 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制の中では郡司となり、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった多度郡の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。

 善通寺の大麻山周辺に残されている大麻神社や忌部神社は、阿波忌部氏の「讃岐進出の痕跡」と云われてきました。しかし、視点を変えると、佐伯氏と美馬王国の主との連携を示す痕跡と見ることも出来そうです。ここまで見てきて感じるのは、古代の美馬には忌部氏の痕跡がないことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木本 誠二   郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯
*                                     阿波学会紀要 第55号 2009年
郡里町(1957):『郡里町史』.

 
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金毘羅神とは何かと問われると、このように答えなさいと云う問答集が江戸時代初期に金光院院主の手で作られています。そこには、金毘羅とはインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、天部の武将姿に「変身」して仏教を護るようになったと説明されています。 日本にやってきたクンピーラは、薬師如来を護る十二神将の一人とされ、また般若守護十六善神の一人ともな武将姿で現れるようになります。彼は時には、夜叉神王と呼ばれ、夜叉を従え、また時には自らも大夜叉身と変化自由に変身します。仏様たちを護る頼れるスーパーヒーローなのです。 このような内容が、真言密教の難解な教義と共に延々と述べられています。
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「神が人を作ったのではない、人が神を創ったのだ」という有名な言葉からすると、この金毘羅神を創り出した人物の頭の中には、原型があったはずです。「インドの鰐神=クンピーラ」では、あまりに遠い存在です。身近に「あの神様の化身が金毘羅か」と思わせ納得させる「しかけ」があったはずです。
1 クンピーラmaxresdefault

 この謎に迫った研究者たちは、次のような「仮説」を出します

 「仏教では人間に危害を加える悪神を仏教擁護の善神に仕立てあげて、これを祀った。その讃岐版が金毘羅神である」

 松尾寺の僧侶は中讃を中心に、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンピーラ信仰を始めた。

「実質的には初代金光院院主である宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」

「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
 羽床氏「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)
つまり、「讃留霊王伝説に登場する悪魚」が、金毘羅神(クンピーラ)に「変身」したというのです
Древнерусское солнцепоклонство. Прерванная история русов ...
 クンピーラはガンジス河にすむワニの化身とも、南海にすむ巨魚の化身ともいわれ、魚身で蛇形、尾に宝石を蔵していたとされます。金毘羅信仰は中讃の悪退治伝説をベースに作り出されたというのです。30年ほど前に、この文章を読んだときには、何を言っているのか分かりませんでした。今までの金毘羅大権現に関する由緒とは、まったくちがうので受けいれることが出来なかったというのが正直な所かもしれません。しかし、いろいろな資料を読む内に、次第にその内容が私にも理解できるようになってきました。整理の意味も含めてまとめておくことにします。
  讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。

この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。「大魚退治伝説」は、神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族が伝えてきた伝説です。これについては、以前に全文を紹介しましたので省略します。
この伝説については、研究者は次のような点を指摘しています
①紀記に、神櫛王は登場するが「悪魚退治伝説」はない。
②「讃留霊王の悪魚退治伝説」は、中世に讃岐で作られたローカルストーリーである。
③ この伝説が最初に登場するのは『綾氏系図』である。
④ 作成目的は讃岐最初の国主・讃留霊王の子孫が綾氏であることを顕彰する役割がある
⑤「伝説」であると当時に、綾氏が坂出の福江から川津を経て大束川沿いに綾郡へ進出した「痕跡」も含まれているのではないかと考える研究者もいる。
⑦「綾氏の氏寺」と云われる法勲寺が、綾氏の祖先法要の中核寺院であった
⑧法勲寺の修験道者が綾氏団結のために、作り出したのが「悪魚退治伝説」ではないか。
 悪魚伝説が作られた法勲寺跡を見てみましょう。
 現在の法勲寺は昭和になって再建させたものですが、その金堂周辺には大きな礎石がいくつか残っています。また、奈良時代から室町時代までのいろいろの古瓦が出でいますので、奈良時代から室町時代まで寺院がここにあったことが分かります。
 中世になると綾氏の一族は、香西・羽床・大野・福家・西隆寺・豊田・作田・柴野・新居・植松・阿野などの、各地の在郷武士に分かれて活躍します。綾氏から分立した武士をまとめていくためにも、かつてはおなじ綾氏の流れをくむ一族であるという同族意識を持つことは、武士集団にとっては大切なことでした。
 阿波の高越山周辺の忌部氏の「一族結束法」を、以前に次のように紹介しました。
高越山周辺を支配した中世武士集団は、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
ここからは忌部氏の団結のありようが次のように見えてきます
①一族の精神的連帯の場として山川町の忌部神社があった
②年に2回は忌部族が集まり定期会合・食事会を開いた
③その仕掛け人は高越山の修験者であった
阿波忌部氏のような一族団結のしくみを法勲寺(後には島田寺)の社僧(修験者)も作り上げていたはずです。
1 讃留霊王1
それの儀式やしくみを推測して、ストーリー化してみましょう。
 讃留霊王(武卵王)を共通の祖先とする綾氏一族は、毎年法勲寺へ集まってきて会合を開き、食事を共にすることで疑似血縁意識を養います。それに先立つ前に、儀式的な讃留霊王への祭礼儀式が行われます。そのためには聖なる場所やモニュメントが必要です。そこで、法勲寺の僧侶たちは近くの円墳を讃留霊王の墓とします。ここで集まった一族に悪魚退治伝説が語られ、儀式が執り行われます。そして、法勲寺に帰り食事を共にします。こうして自分たちは讃留霊王から始まる綾氏を共通の先祖に持つ一族の一員なのだという思いを武士団の棟梁たちは強くしたのではないでしょうか。こうして、法勲寺を出発点にした悪魚退治伝説は次第に広まります。
①下法勲寺山王の讃留霊王塚と讃留霊王神社
②東坂元本谷の讃留霊王神社
③陶猿尾の讃留霊王塚
②の東坂元本谷には現在、讃留霊王神社が建っています。
③の陶猿尾では、小さな小石を積み上げてつくった讃留霊王塚とよばれる壇状遺構が残ります。そして「讃留霊王(さるれおう)塚」から「猿尾(さるお)」の地名となって残っています。この他にも「讃王(さんおう)様」と呼ばれる祠が各地に残っています。このように悪魚退治伝説は、丸亀平野を中心に各地に広がった形跡があります。
1讃留霊王2

 このような装置を考え、演出したのは法勲寺の修験者たちです
彼らをただの「山伏」と考えるのは、大きな間違いです。彼らの中には、高野山で何年も修行と学問を積んだ高僧たちがいたのです。彼らは全国から集まってくる僧侶と情報交換にある当時最高の知識人でもありました。
「悪魚退治伝説」と「金毘羅神」を結びつけたのは誰でしょうか?
 小松の荘松尾寺(現琴平町)には、法勲寺の真言密教僧侶修験者と親交のある者がいました。法勲寺を中心に広がる悪魚退治の伝説を見て、このが悪魚を善神に仕立てて祀るということを実行に移した修験者です。悪魚退治伝説の舞台は坂出市の福江の海浜ですが、それが法勲寺の僧侶によって内陸の地にもちこまれ、さらに形を変えて象頭山に入っていったのです。それが金毘羅神だというのです。
  推論とだけでお話をしてきましたが、史料的な裏付けをしておきましょう。  金毘羅さんで一番古い史料は元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札です。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ
金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった
と云われてきました。しかし、近年の調査の中で、金毘羅さんにこれより古い史料はないことが明らかとなってきました。これは「再建」ではなく「創建」の棟札と読むべきであると研究者は考えるようになっています。つまり、元亀四年(1573)に金比羅堂が初めて建てられ、そこの新たな本尊として金比羅神が祀られたということです。これが金毘羅神のデビューとなるようです。
それでは棟札の造営主・宥雅とは何者なのでしょうか?
  この宥雅は謎の人物でした。金毘羅堂建立主で、松尾寺別当金光院の初代院主なのに金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物なのです。彼を排除する何らかの理由があるのだろうと研究者は考えてきましたが、よく分かりませんでした。
 宥雅については、文政十二年(1829)の『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)によれば、
宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、
 御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去
 故二御一代之 烈に不入云」
意訳
宥雅上人は、西長尾城主長尾大隅守高家の甥で、僧門に入ったのがいつだかは分からない。伯父の高家が長宗我部元親と争った際に、高家を加勢したが、戦い不利になり、当山の旧記や宝物を持ち出して泉州の堺へ落ち延びた。このため宥雅は金光院院主の列には入れない

 とあって、
①長宗我部元親の讃岐侵攻時の西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥
②長宗我部侵入時に堺に亡命
③そのために金光院院主の列伝からは排除された
と記されています。金毘羅創設記の歴史を語る場合に
「宥雅が史料を持ち出したので何も残っていない」
と今まで云われてきた所以です。
 ここからは長尾家の支援を受けながら金毘羅神を創りだし、金比羅堂を創建した宥雅は、その直後に「亡命」に追い込まれたことが分かります。
その後、高松の無量寿院から宥雅に関する「控訴史料」が見つかります 
堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の院主に復帰しようとして、訴訟を起こすのです。彼にしてみれば、長宗我部がいなくなったのだから自分が建てた金比羅堂に帰って院主に復帰できるはずだという主張です。その際に、控訴史料として自分の正当性を主張するために、いろいろな文書を書写させています。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのです。その結果、宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。このことについては、以前お話ししましたので要約します。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
①「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための文書加筆(偽造)
②松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏として、その垂迹を金毘羅神とする。その際に金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記す。
③「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」など寄進状五通(偽文書)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと泊付けねつ造

この創設工作の中で、宥雅が出会ったのが「神魚」だったのではないかと研究者は考えているようです。
 法勲寺系伝説が「悪魚」としているのに高松の無量寿院の縁起は「神魚」と記しているようです。宥雅は「宥範=金比羅堂開祖」工作を行っている中で、宥範が書き残した「神魚」に出会い、これを金毘羅神を結びつけのではないかというのです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものとします。
 つまり宥雅が参考にしたのは法勲寺の「悪魚退治伝説でなく、それに先行する『宥範縁起』中の無量寿院系の伝説」だとします。そして、宥範の晩年を送った生地の櫛梨神社に伝わる「大魚退治伝説」は、この『宥範縁起』から流伝したものと考えるのです。整理しておきましょう。
①「悪魚退治伝説」は 法勲寺 →  宥雅の金比羅堂
②「神魚伝説」  は 高松の無量寿院の建立縁起 → 宥範 → 宥雅の金比羅堂
ルートは異なりますが、宥雅が金毘羅(クンピーラ)の「発明者」であることには変わりありません。
 金毘羅神とは何かと問われて「神魚(悪魚)が金毘羅神のルーツだ」と答えれば、当時の中讃の人々は納得したのではないでしょうか。何も知らない神を持ち出してきても、民衆は振り向きもしません。信仰の核には「ナルホドナ」と思わせるものが必要なのです。高野山で修行積んだ修験者でもあった宥雅は、そのあたりもよく分かった「山伏」でもあったのです。そして、彼に続く山伏たちは、江戸時代になると数多くの「流行神」を江戸の町で「創作」するようになります。その先駆け的な存在が宥雅であったとしておきましょう。

 宥雅のその後は、どうなったのでしょうか。
これも以前にお話ししましたので結論だけ。生駒家に訴え出て、金毘羅への復帰運動を展開しますが、結局帰国はかなわなかったようです。しかし、彼が控訴のために書写させた文書は残りました。これなければ、金毘羅神がどのように創り出されてきたのかも分からずじまいに終わったのでしょう。
最後にまとめておきます
①讃留霊王の悪魚退治伝説は「綾氏系図」とともに中世に法勲寺の修験者が作成した。
②讃留霊王顕彰のためのイヴェントや儀式も法勲寺の手により行われるようになった
③綾氏を出自とする武家棟梁は、「悪魚退治伝説」で疑似血縁関係を意識し組織化された。
④綾氏系の武士団によって「悪魚退治伝説」は中讃に広がった
⑤新しい宗教施設を象頭山に創設しようとしていた長尾家出身の宥雅は、地元では有名であった「善通寺の中興の祖」とされるる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための工作を行っていた。
⑥その工作過程で高松の無量寿院の建立縁起に登場する「神魚」に出会う
⑦宥雅は「神魚(悪魚)」を金毘羅神として新しい金比羅堂に祀ることにした。
⑧こうして、松尾寺の守護神として「金毘羅神」が招来され、後には本家の松尾寺を凌駕するようになる。
⑨宥雅は、土佐の長宗我部侵攻の際に、堺に亡命した。後に帰国運動を起こすが認められなかった。
⑩自分の創りだした金毘羅神は、長宗我部元親の下で「讃岐の鎮守府」と金光院が管理していくことになる。
⑪時の権力者の宗教政策を担うことを植え付けられた金光院は、生駒・松平と時の支配者との関係をうまくとり、保護を受けて発展していく

以上です おつきあいいただき、ありがとうございました。

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