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             田野々集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
かつて阿波のソラの村々のお堂をめぐる端山八十八ヶ所巡礼を行っていたことがあります。その時に訪ねたお堂や庚申塔などからは修験者(山伏)の痕跡を色濃く感じました。そのことについては以前にお話ししました。今回は江戸時代の修験者たちが藩から保護され、村人からは信頼されていた存在であったことを見ていくことにします。

山嶽仏教に始まる修験道は、中世になると熊野山の先達として活発な動きを見せるようになります。彼らは地域に講社を作り、熊野に案内したり、代参することで信徒を増やして行きました。このスタイルが後には、伊勢神宮・多賀神社・愛宕神社・出雲大社などにも導入されていきます。修験道は、山を登り、多くの神社を数多く参詣することによって超人間的な呪術を身につけていると信じられ、病気・不幸・災難の一切から免かれるためのプチ修行を一般信者も行うようになります。このプチ修行は、勤勉な農民の信仰心を捕らえ、各地で講が生まれるようになります。こうして近世後半に開かれた剣山には、先達に誘引された信者達がお山開きになると大勢やってくるようになります。僧侶に世俗的地位と経済基盤を奪われた神主の中にも、山伏的な祈祷師として信仰を集める者も現れます。
 修験道ではイスラム教のメッカ巡礼と同じように「本山参り」が重要な「信仰告白」でした。それを誘引する先達が、修験者(山伏)です。やがて山伏や神主を中心とする講社が作られ、団体で参詣するようになります。さらに順番で代表が参拝する「代参」というスタイルになり、伊勢講・金比羅講などが生まれます。講中で資金を積立て、くじ引きで当たった者が代表で本山参りを行います。伊勢参りなどは二〇人、三〇人で団体行動をしています。また、本山(宮)の修復・拡張などのときには、この講社が集金(勧進)マシーンとしての機能を大きな発揮しました。
例えば、池田町史568Pには、中世の畑栗寺という山伏寺のことが紹介されています
この寺がどこにあったかは分からないようですが、池田町内の棟付帳には、山伏が10戸以上登録されています。その内の玉蔵院を見ておきましょう。(明暦四年池田村棟付帳」)
明暦四年池田村棟付帳」 阿波池田の山伏寺

この史料からは次のようなことが読みとれます
①玉蔵院は、58歳の山伏(修験者)で、快蔵(24歳)と きち(12歳)の男の子がいること
②妻や娘などの女性は記されていない。実際には女子の下人も何人かいた
③石高は5石あるので、自作農クラスの農地を持っていたこと。
③下人は2人で、その内の一人は草履取りで、彼らによって農業経営が行われていたこと
④さらに小家下人一戸がいたこと。
ここからは、農地をもった山伏が「ざうりとり(草履取り)」を従えるという特別な存在で、ムラの宗教行事では指導的な役割を果たす姿が見えてきます。それは普通の百姓よりも、遙かに身分が高い特別な存在に見えたはずです。ここでは山伏が卑下される存在ではなく、村人からリスペクトされる存在であったことを押さえておきます。卑下されるようになるのは、明治維新の神仏分離以後のことのようです。

もうひとり、27歳という若い御蔵山伏の快次郎を見ていくことにします。
 意訳変換しておくと
小家 宝仙    27歳
この者の先祖は明学院で、延宝2年の棟付張には親藤左衛門の家族として登録され、山伏となり賦役免除となったと記されている。この家は代々、山伏業で渡世を営む家で、取調に対してその旨を述べている。本人と惣領が夫役御免になっていて、同家多りとも夫役被仰付旨被仰渡侯(「文化八年西山村「棟付帳」)
 もう一人の山伏宝仙も、山伏という理由で本人と惣領が夫役御免の特権を得ています。こうしてみると棟付帳に載っている山伏は、例外なく夫役御免扱いの特権を得ています。ここからは阿波藩の保護を受けた山伏が一般農民の信頼を受け優遇され、村々で指導的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 しかし、だれでもが山伏になれたわけではありません。
山伏なるには、やはり修行が必要でした。山嶽修行の期間や、本山への参拝回数によって、その呪術にも差があるとされました。また、本山からも大先達・中、小先達と位階がつけられます。そのためには本山から免許状を受ける必要がありました。これには金銭的な負担が伴いました。つまり、山伏は困窮した人達の階層に属していたのではなく、ある程度の経済力と身分を持った人達であったことがうかがえます。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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