以前に浄土真宗の伊予への布教活動が停滞したのは、禅宗寺院の存在が大きかったという説を紹介しました。それなら禅宗寺院が伊予で勢力を維持できたのはどうしてなのでしょうか。今回は、禅宗のふたつの宗派が伊予にどのようにしてやってきて、どう根付いていったのかを見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 (地域社会と真宗 千葉乗隆著作集第2巻2001年)所収」です。
①讃岐国では真宗・真言の両者が、ほぼ同勢力で二者で全体の9割近くになる。
②阿波国では、旧仏教の真言宗が圧倒的に多い。
③土佐国においては真宗・日蓮宗・真言宗の順序となっている。
④伊予国では、河野氏の保護を受けた禅宗が他の諸宗を圧倒しているが、真言も多い。
⑤四国に共通しているのは、真言宗がどこも大きな勢力を持っていた
⑥四国の新興仏教としては、禅宗・日蓮宗・真宗の3教団である。
新興の浄土・禅・日蓮の各教団は、旧仏教諸宗勢力を攻撃・排除しながら教勢を伸ばしたようです。
四国への新仏教の教線拡大ルートしては、つぎのようなコースを研究者は考えています。
①堺港より紀伊水道を通って、阿波の撫養・徳島へ②堺から瀬戸内海航路で、讃岐の坂出、伊予の新居浜、高浜へ③堺から南下して土佐の各港へ④中国地方の安芸・備後・周防から、讃岐・伊予の各港へ⑤北九州から伊予の西部の各港へ
この中でも①が近畿から最短のコースになります。古代南海道もこのコースでした。新仏教も①のルートで、四国東部の阿波国へ進出し展開したと研究者は考えているようです。
四国への禅宗教団の進出の始まりは、臨済宗が阿波の守護細川氏一族を保護者として獲得したことに始まるようです。
その流れを年表化してみましょう。
その流れを年表化してみましょう。
暦応二年(1339)
阿波の守護細川和氏が、夢窓疎石を招いて居館のある秋月に補陀寺建立。和氏のあとをついだ頼春・頼之も、引き続いて補陀寺の維持経営を援助。貞治二年(1363)
細川頼之は前代頼春の菩提供養のために、補陀寺の近くに光勝院建立。至徳二年(1385)
細川頼之は美馬郡岩倉に宝冠寺を建立し、絶海中津を招く。補陀寺の疎石のあとをついだ黙翁妙誠は妙幢寺を別立。補陀寺に住んでいた大道一以は、細川氏春の招きで淡路に安国寺建立
このように阿波守護の細川氏の保護を得た臨済宗教団が、阿波の補陀寺を中心に拠点を形成していきます。
次に臨済宗の伊予への教線拡大の拠点寺を見ておきましょう。
伊予でも阿波と同じころの14世紀に、
伊予でも阿波と同じころの14世紀に、
①伊予北部に観念寺と善応寺が鉄牛景印・正堂士顕によって開かれ、越智・河野氏の保護獲得。②伊予南部の宇和島では、常定寺が国塘重淵によって、中部の温泉郡川内村には安国寺が春屋妙砲によって営まれ、ややおくれて南部には、寂本空によって興福寺が大野氏の保護の下に開かれます。
臨済宗の法系
これらの諸寺を、越智・河野・大野氏などの在地領主層がパトロンとなってささえることで、臨済教団は周辺に教線を拡大していきます。ちなみに、これらの伊予臨済教団の教線ルートは、備後・周防・出雲等の中国地方から伸びてきた禅僧によって開拓されています。臨済宗には、いろいろなネットワークがあったことがうかがえます。その背後には活発な「海民」たちの活動がうかがえます。芸予初頭や豊後海道を舞台とした交易活動
つぎに曹洞宗教団の展開について見ておきましょう。
阿波では、
①坐山紹理(1268ー1325)が川西村に城満寺開基②全奄一蘭(1455頃)が那賀郡長生村に佳谷寺開基③金岡用兼が永世年間に(1504ー21)に細川成行の招請によって桂林寺・慈雲寺建立④一蘭の弟子雪心真昭は、その南方の土佐に予岳寺を建立
四国最古の禅寺 城満寺
伊予では⑤永享年間(1429ー41) 周防・豊後での曹洞宗盛況をうけて、周防龍文寺の仲翁守邦が奈良谷に龍沢寺建立⑥応仁年間(1467ー70) 備中の車光寺より大功円忠がきて伊予西部に高昌寺建立⑦文明年間(1469~87) 備中より玄室守腋がきて安楽寺建立
龍沢寺
こうしてみてみると禅宗の曹洞・臨済の両教団は、阿波・伊予では14世紀頃から他国からの導師を招くことによって拠点寺院が姿を現していきます。ところが讃岐と土佐では、禅宗寺院が建立されません。これはどうしてなのでしょうか?
これについては、研究者は次のように推察します。
①阿波・伊予両国においては細川・越智・河野・大野氏などの在地領主を保護者に獲得して、その強力な支援を得たこと。②讃岐・土佐は、善通寺・観音寺・竹林寺・最御崎寺・金剛頂寺・金剛福寺など、真言宗勢力が巨大で、真言系の修験者や聖達による民間信仰が根付いていたこと。そのため進出の余地が見出せなかったこと③阿波・伊予は、鎌倉新興仏教の先進地域である近畿や中国西部・九州に地理に近く、活発な交流があったこと
このように阿波・伊予では臨済・曹洞の両禅宗教団が寺院数を増やしていきます。しかし、禅宗の信徒は在地領主層や繁栄する港の商人や海運業者などが中心で、農村の村々まで浸透することはなかったようです。そのため農民の間では、修験者や聖・山伏などによるマジカルな真言宗信仰が根強く行われていました。つまり、港町では禅宗、その背後の農村部では真宗修験者たちの活動という色分けが見られるようになったことになります。
戦国時代の戦乱による社会混乱の波の中で、パトロンである武士階層が没落すると、禅宗寺院の多くは廃寺か真言宗化か、どちらかの道をたどることになります。例えば、四国の中ではいちはやく禅宗が進出した阿波では、次のような言葉が残されています。
「むかし阿波国より天下を持たるにより、武辺を本意とたなミ申ゆへ、禅宗に御なり候、壱人も余之宗なく候」
天下持ちの阿波守護など上層部の武士団の間に普及していた禅宗が、パトロンである守護細川一族の没落で、その寺が衰退していった様が記されています。
さらに、天正3年(1575)に、三好氏が法華宗を阿波に強制しようとして、反発する諸派が法華騒動を起こします。
これをきっかけに、真言宗勢力が勢いを盛り返します。こうして、それまで阿波最大の禅寺として発展してきた補陀寺は経営困難となって、光勝院と合併します。その他にも、宝冠寺は廃寺、桂林寺は真言宗に転宗するなど、細川氏の衰退と共に阿波禅宗教団は衰退の道を歩むことになります。
一方、伊予では阿波の法華騒動とか、真言宗の反撃というような危機がありませんでした。
そのため海岸部の武士階層、上層商人層僧からしだいに、港のヒンターランドである農村部の有力者の間に時間を掛けて浸透し、教線を拡大していくことになります。
以上をまとめておくと
①四国で禅宗が伝播・定着したのは阿波と伊予で、讃岐・土佐には布教ラインを伸ばすことが出来なかった。
②阿波では守護細川氏の保護を受けて、禅宗寺院が建立された時期もあったが、細川氏が衰退するとパトロンを失った禅宗寺院も同じ道をたどった。
③伊予では、河野氏などのパトロン保護が長期に渡って続き、その期間に港から背後の農村部への教線拡大に成功し、地域に根付いていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 (地域社会と真宗 千葉乗隆著作集第2巻2001年)所収」
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土佐の中世寺院 土佐での真宗の教線拡大には、堺商人と一条氏の力があった。
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