瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:阿波法華騒動

 以前に浄土真宗の伊予への布教活動が停滞したのは、禅宗寺院の存在が大きかったという説を紹介しました。それなら禅宗寺院が伊予で勢力を維持できたのはどうしてなのでしょうか。今回は、禅宗のふたつの宗派が伊予にどのようにしてやってきて、どう根付いていったのかを見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 (地域社会と真宗 千葉乗隆著作集第2巻2001年)所収」です。
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  近世初期になると、四国各宗派の勢力分布はほぼ固定します。それを各県毎にまとめたのが次の表です。
近世四国の宗派別寺院数

この表からは、次のようなことが分かります。
①讃岐国では真宗・真言の両者が、ほぼ同勢力で二者で全体の9割近くになる。
②阿波国では、旧仏教の真言宗が圧倒的に多い。
③土佐国においては真宗・日蓮宗・真言宗の順序となっている。
④伊予国では、河野氏の保護を受けた禅宗が他の諸宗を圧倒しているが、真言も多い。
⑤四国に共通しているのは、真言宗がどこも大きな勢力を持っていた
⑥四国の新興仏教としては、禅宗・日蓮宗・真宗の3教団である。
新興の浄土・禅・日蓮の各教団は、旧仏教諸宗勢力を攻撃・排除しながら教勢を伸ばしたようです。

四国への新仏教の教線拡大ルートしては、つぎのようなコースを研究者は考えています。
①堺港より紀伊水道を通って、阿波の撫養・徳島へ
②堺から瀬戸内海航路で、讃岐の坂出、伊予の新居浜、高浜へ
③堺から南下して土佐の各港へ
④中国地方の安芸・備後・周防から、讃岐・伊予の各港へ
⑤北九州から伊予の西部の各港へ
この中でも①が近畿から最短のコースになります。古代南海道もこのコースでした。新仏教も①のルートで、四国東部の阿波国へ進出し展開したと研究者は考えているようです。

四国への禅宗教団の進出の始まりは、臨済宗が阿波の守護細川氏一族を保護者として獲得したことに始まるようです。
その流れを年表化してみましょう。
暦応二年(1339) 
阿波の守護細川和氏が、夢窓疎石を招いて居館のある秋月に補陀寺建立。和氏のあとをついだ頼春・頼之も、引き続いて補陀寺の維持経営を援助。
貞治二年(1363) 
細川頼之は前代頼春の菩提供養のために、補陀寺の近くに光勝院建立。
至徳二年(1385) 
細川頼之は美馬郡岩倉に宝冠寺を建立し、絶海中津を招く。補陀寺の疎石のあとをついだ黙翁妙誠は妙幢寺を別立。補陀寺に住んでいた大道一以は、細川氏春の招きで淡路に安国寺建立
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このように阿波守護の細川氏の保護を得た臨済宗教団が、阿波の補陀寺を中心に拠点を形成していきます。
次に臨済宗の伊予への教線拡大の拠点寺を見ておきましょう。
伊予でも阿波と同じころの14世紀に、
①伊予北部に観念寺と善応寺が鉄牛景印・正堂士顕によって開かれ、越智・河野氏の保護獲得。
②伊予南部の宇和島では、常定寺が国塘重淵によって、中部の温泉郡川内村には安国寺が春屋妙砲によって営まれ、ややおくれて南部には、寂本空によって興福寺が大野氏の保護の下に開かれます。
データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム
臨済宗の法系
これらの諸寺を、越智・河野・大野氏などの在地領主層がパトロンとなってささえることで、臨済教団は周辺に教線を拡大していきます。ちなみに、これらの伊予臨済教団の教線ルートは、備後・周防・出雲等の中国地方から伸びてきた禅僧によって開拓されています。臨済宗には、いろいろなネットワークがあったことがうかがえます。その背後には活発な「海民」たちの活動がうかがえます。

古代の瀬戸内海航路
芸予初頭や豊後海道を舞台とした交易活動

つぎに曹洞宗教団の展開について見ておきましょう
阿波では、
①坐山紹理(1268ー1325)が川西村に城満寺開基
②全奄一蘭(1455頃)が那賀郡長生村に佳谷寺開基
③金岡用兼が永世年間に(1504ー21)に細川成行の招請によって桂林寺・慈雲寺建立
④一蘭の弟子雪心真昭は、その南方の土佐に予岳寺を建立
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四国最古の禅寺 城満寺
伊予では
⑤永享年間(1429ー41) 周防・豊後での曹洞宗盛況をうけて、周防龍文寺の仲翁守邦が奈良谷に龍沢寺建立
⑥応仁年間(1467ー70) 備中の車光寺より大功円忠がきて伊予西部に高昌寺建立
⑦文明年間(1469~87) 備中より玄室守腋がきて安楽寺建立
卍禹門山 龍澤寺|愛媛県西予市 - 八百万の神
龍沢寺
こうしてみてみると禅宗の曹洞・臨済の両教団は、阿波・伊予では14世紀頃から他国からの導師を招くことによって拠点寺院が姿を現していきます。
ところが讃岐と土佐では、禅宗寺院が建立されません。これはどうしてなのでしょうか? 
これについては、研究者は次のように推察します。
①阿波・伊予両国においては細川・越智・河野・大野氏などの在地領主を保護者に獲得して、その強力な支援を得たこと。
②讃岐・土佐は、善通寺・観音寺・竹林寺・最御崎寺・金剛頂寺・金剛福寺など、真言宗勢力が巨大で、真言系の修験者や聖達による民間信仰が根付いていたこと。そのため進出の余地が見出せなかったこと
③阿波・伊予は、鎌倉新興仏教の先進地域である近畿や中国西部・九州に地理に近く、活発な交流があったこと
このように阿波・伊予では臨済・曹洞の両禅宗教団が寺院数を増やしていきます。しかし、禅宗の信徒は在地領主層や繁栄する港の商人や海運業者などが中心で、農村の村々まで浸透することはなかったようです。そのため農民の間では、修験者や聖・山伏などによるマジカルな真言宗信仰が根強く行われていました。つまり、港町では禅宗、その背後の農村部では真宗修験者たちの活動という色分けが見られるようになったことになります。
 戦国時代の戦乱による社会混乱の波の中で、パトロンである武士階層が没落すると、禅宗寺院の多くは廃寺か真言宗化か、どちらかの道をたどることになります。例えば、四国の中ではいちはやく禅宗が進出した阿波では、次のような言葉が残されています。

「むかし阿波国より天下を持たるにより、武辺を本意とたなミ申ゆへ、禅宗に御なり候、壱人も余之宗なく候」

天下持ちの阿波守護など上層部の武士団の間に普及していた禅宗が、パトロンである守護細川一族の没落で、その寺が衰退していった様が記されています。
さらに、天正3年(1575)に、三好氏が法華宗を阿波に強制しようとして、反発する諸派が法華騒動を起こします。
これをきっかけに、真言宗勢力が勢いを盛り返します。こうして、それまで阿波最大の禅寺として発展してきた補陀寺は経営困難となって、光勝院と合併します。その他にも、宝冠寺は廃寺、桂林寺は真言宗に転宗するなど、細川氏の衰退と共に阿波禅宗教団は衰退の道を歩むことになります。
 一方、伊予では阿波の法華騒動とか、真言宗の反撃というような危機がありませんでした。
そのため海岸部の武士階層、上層商人層僧からしだいに、港のヒンターランドである農村部の有力者の間に時間を掛けて浸透し、教線を拡大していくことになります。

以上をまとめておくと
①四国で禅宗が伝播・定着したのは阿波と伊予で、讃岐・土佐には布教ラインを伸ばすことが出来なかった。
②阿波では守護細川氏の保護を受けて、禅宗寺院が建立された時期もあったが、細川氏が衰退するとパトロンを失った禅宗寺院も同じ道をたどった。
③伊予では、河野氏などのパトロン保護が長期に渡って続き、その期間に港から背後の農村部への教線拡大に成功し、地域に根付いていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  

 阿波の霊山と修験道史をまとめた田中善龍は、高越山と忌部十八坊の関係について、かつて次のように記しました。

  高越山周辺地域には、古代に中央から忌部氏の移住があった。さらに、中世にはその後裔と自称する家族による支配があり、彼らは忌部神社のある山崎の地(吉野川市山川町)などで寄り合いを開いた。これら忌部氏、ないしはその後裔と称する集団は、忌部神社を精神的連帯の核としたが、この神社の別当だったのが高越山頂にある高越寺だった。このような阿波忌部の聖地を前提とするのが、地方的な修験である忌部修験であり、大滝山系真言修験と対立関係にあった。

 そして「忌部修験」の内で現存するものは、吉野川市、美馬市、美馬郡、三好市にあり、室町時代に連帯組織を形成したこと、その中でもつるぎ町半田の神宮寺が中心であり、忌部神社を共通の聖地としていたとします。

私も田中氏の説にもとづいて、高越山=忌部修験の聖地と考えてきました。しかし、近年になっていろいろな批判が出ているようです。どこが問題なのか、何が批判されているのかを見ていくことにします。テキストは 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店 です。
 長谷川賢二の批判点は、以下の四点です。
第1に、高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについて、
この根拠となる史料が示されていない。「あたりまえ」の前提とされている。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、一八坊の相互関係(山伏結合としての実態)や個々の内部構造も、史料から明らかにされていない。
第2に、つるぎ町半田の神宮寺が「忌部十八坊」の中心だったという点について。
 田中説を進めると半田町の神宮寺は、山崎に鎮座する忌部神社の「神宮寺」ということになる。また、忌部神社と高越山とが一体であるなら、神宮寺は高越山が遥拝可能な場所か、高越山周辺にあるのが自然だろう。しかし、半田町にある神宮寺は、いずれの条件も満たさない。高越山をセンターとするはずの山伏集団が、そこから離れた場所に中核寺院をもつのも不自然で疑問に思わざるえない。
以上、忌部修験をめぐる田中の所説には、論拠の不明確さや論理の不整合があり、
忌部神社 ー 高越山 ー「忌部十八坊」

をつなぐ明確なつながりは見えてこないとします。議論の前提として忌部修験の存在が語られていて、それがいかなる存在だったのかが語られていないとします。そこで、長谷川賢二氏は史料をして語らしめるという実証史学の原点に戻ります。「忌部十八坊」について記された史料を見ていくことから再出発します
忌部修験に関する根本史料は①『願勝寺系譜』と②『麻殖系譜」とされます。
①『願勝寺系譜』には、九代神党の項に
「安和二年巳己九月十九日、忌部十八坊ヲ定メ」
②『麻殖系譜』には基光・徳光の項に、それぞれ次のようにあります。
「安和三年己巳九月卜九日、忌部神社ハ坊ヲ別」
「忌部授社本社ノ別当、皆福ノ一字無キ寺ハ、福ノ一字ヲ加エテ寺号ヲ改メシム」
と記され、 一八か寺の名が挙げられています。しかし、これだけなのです。実態は何もわかりません。

1『願勝寺系譜』とは、どんな史料なのでしょうか。
美馬町には、浄土真宗興正寺派の讃岐への布教センターとなった安楽寺や、その分院が大きな屋根を並べる寺町というエリアがあります。このその寺町の一角にあるのが真言宗の願勝寺です。この寺には『願勝寺系譜』という文書が残されています。歴代住持の事績集成という形をとった寺史で、文禄二年(1594)の奥書があるようです。従来は、これが全面的に信頼され同時代史料的な価値が認められてきたようです。
その中に天正三(1575)年に発生した「法華騒動」が記されています。その概略は、阿波国支配の実権を掌握していた三好長治が、国内に日蓮宗への改宗を強制したため、日蓮宗の教線が急速に拡大する。それに危機感を抱いて反発した真言宗など諸宗の僧侶が結集し、三好氏の拠点である勝瑞城下での宗論に至るというものです。史料を見てみましょう。

快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ、阿波へ帰リテ同意ノキ院ヲ訪ラヒ、阿波国ノ念行者多数ノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗へ対シ、不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遣ス処、妙同寺普伝上人返答延引ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト(中略)本行寺へ押入り騒動二及フ、共魁トナル人々ニハ大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、忌部郷忌部十八坊ヲ始、其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者ハ此事二与セスト雖、国中ノ騒動大方ナラス
意訳変換しておくと
願勝寺の快弁は、まず高野山で法華退治の一策を講じて、阿波へ帰ってきて、これに賛同する寺院を訪ねた。阿波国の多くの「念行者」や多数の山伏の賛同を得て、持妙院へ訴訟した。日蓮宗に対して、不当申立状を三尺坊に持参させて本行寺へ遣ったところ、妙同寺の普伝上人は、法華坊主を打殺スベシトという返答であった(中略)
 そこで本行寺へ押入り騒動に及んだ、共に立ち上がったメンバーは次の通りである。
大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、
しかし、忌部郷忌部十八坊ヲ始、その他の神宮寺別当附属の修験や神坊の行者は、この騒動に与しなかったが、国を揺るがす大騒動となった。
 ここには、願勝寺の快弁の活躍ぶりがまず描かれています。そして「法華退治ノ一策」への協力要請を受け人れた「念行者」を核とする山伏集団の蜂起と、それに対する「忌部十八坊」などの非協力があったとします。

長谷川賢二氏は『願勝寺系譜』のテキスト・クリニックを行います
①外見的には、書体が稚拙であり、16世紀末の古文書の書体ではないこと
②書き損じとそれに伴う訂正筒所がいくつかあること
③末尾には「法印権大僧都快盤」の署名と花押の位置関係が不自然なこと
以上から、現存本は16世紀末のものではないとの疑義を持ちます。もし、『願勝寺系譜』が文禄三年(1594)の作成としても、現在本は写本であると推察します。
次に、奥書の記載内容から、史料の性格を見ていきます。

右、福聚寺殿ョリ御尋二付、当院古来旧記取調、早速其概略ヲ写収候テ奉備高覧、預御感難有仕合候間、為後来之亀鑑控置候者也、

奥書によると「願勝寺系譜』は「福衆寺殿(峰須賀家政の父である正勝)」の求めに応じて、作成したものの控えであると記されています。ここからは、『願勝寺系譜』の原形は、蜂須賀氏の入国後間もない時期に書かれたことになります。ところが、本文中の記事には後世のことが何カ所か含まれていて、奥書の日付をそのまま信じるわけにはいかないようです。

 「奥書にある「文禄三年」は、現実的な年記ではなく、「古さ」を強調するための虚構である可能性が高い」

と長谷川賢二氏は指摘します。なお、前年の文禄二年は、願勝寺が脇城主稲田氏から美馬郡中諸寺の監督を命じられたとされる年です。美馬地域における願勝寺の卓越性の主張を込めた年紀の設定と研究者は考えているようです。

次に『願勝寺系譜』の歴代住職について見てみましょう。ここにも疑義があるといいます。
初代 福明 「阿波忌部ノ正統忌部玉垣ノ宿面ノ庶弟」
二代 福淵 「麻殖忌部布刀淵ノ三男」
三代 人福 「忌部大祭卜玉淵宿爾第ニノ庶子」
四代 実厳 「忌部麻殖正信ノニ男」
六代 智由 「母ハ阿波忌部石勝ノ女」
八代 智光 「忌部高光ノ庶弟」
九代 智党 「忌部氏人麻殖正種二寺」
10代 徳光 「忌部大祭主信光ノ一弟」
11代 随伝 「共姓モ忌部氏」
12代 了海 一麻殖I遠ノ一男」(随伝の項にあり)
14代 行智 「麻殖正径ノ次男」
16代 行真 「忌部大祭寺麻殖親光内室ノ弟」
21代 月心 「忌部大祭主麻殖利光ノ庶弟」
32代 鏡智 父は「忌部ノ祭主麻殖利光ノ家二客タリ」
33代 観月 「阿波忌部大輔成良ノ子田内ノ‐‥工門成直ノ後胤也」
34代 快念 「忌部人祭主麻殖因幡守ヲ頼」
35代 快弁 「麻殖因幡守猶子トログシ」
「忌部」姓、「麻殖」姓、「麻殖忌部」姓、「忌部麻殖」姓が同系とみられます。歴代住職18人のうち17人までが忌部氏との関係が記されています。当時は僧侶は妻帯できませんから世襲ではありません。この姓から住職は選ばれたとします。
『願勝寺系譜』に見られる忌部伝承は、多くの点で「麻殖系譜』と一致するようです。
『麻殖系譜』とは、忌部神社の祭祀に携わり「忌部大祭主」や「麻殖人宮司」などを務めた者が多数いたという麻殖氏なる一族(当然のように忌部氏を称した)の系図です。成立時期は分かりません。『願勝寺系譜』と「麻殖系譜』は、次の項目は一致します
①住職名
②「忌部十八坊」についての記事内容
③願勝寺の名の由来伝承
このように、両系譜の相関性は高いようです。

これは何を意味するのでしょうか・
その手がかりは『麻殖系譜』が式内忌部神社の所在地論争の際に資料として提出されたことにあるようです。この論争は、明治四年(1871)に政府が忌部神社の国幣中社へのランクアップを行おうとしたときに、次の2つの神社間でどちらが式内社の系譜を引く正統な忌部神社であるかめぐって、起こったものです
①麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の天日鷲神社
②美馬郡西端山村(つるぎ町貞光)の五所(御所)神社
最終的には、明治18年(1885) に、妥協案として新たに徳島市に社地が選定され、決着がつけられます。
 しかし、古代の阿波忌部の本拠は麻殖部でしたし『延喜式』巻10(神祗10 神名)には、「麻殖郡八座」の一つに「忌部神社」と明記されています。したがって、美馬郡から式内忌部神社の名乗りがあるのは奇妙なことです。
 ところが、これについては、貞観二年に美馬郡が分割され、三好部が置かれたという独特の解釈を加えた説が主張され、美馬郡鎮座説の根拠とされます。つまり美馬部を三好部とし、麻殖郡を分割して美馬・麻殖の2郡としたというのです。この考え方に従えば、式内忌部神社が美馬那であっても、もと麻殖郡であるから、問題ないということになります。その証拠として出されたのが『阿陽記」などの史書です。
これについて、山崎村鎮座説に立つ小杉檻椰(阿波出身の神学者)は、次のように述べて「阿陽記」は証拠としては無意味であると断じています。
「明文トスル所ノ阿陽記・国鏡ノ類ハ(中略)寛政(1789~1801)ノ比二雑録セシ俗書

 これに対して、美馬郡鎮座説を唱え、小杉と対決した細矢席雄(讃岐の田村神社権宮司)は、『阿陽記」等を「文禄(1592~96年―引用註)或ハ大和(1681~84年)ノ旧記」と主張したようです。
 結局は、麻殖郡分割による郡境変更説が古代史料によるものではなく、成立期も不明確な史料を盾にとったものであることを美馬郡鎮座説派も認めていたわけです。今日では『阿陽記』については、明和年間(1764~72年)の成立とされているようです。やはり、江戸時代中期の論争後に「創作」されたものだったのです。
 このような論争のなかで、「麻殖系譜』は西端山村側の証拠資料として提出されたものです。    
これには、次のような郡境変更説が記されています。まず、玉淵の項に
麻殖上郡・阿波寺郡ヲ合シテ美馬郡トス、麻内山ハ神領ナル故、麻殖中郡トシテ之ヲ別」

たとあります。「麻内山」は、別の項目では、「麻殖内山」と記されています。麻殖郡分割説を唱え、神領である地域(忌部神社を含む)のみが一部とされたという説明です。ここからは『麻殖系譜」は「式内忌部神社美馬郡鎮座説」の擁護のために書かれたことがうかがえます。
郡境変更説は「願勝寺系譜」にも受容されます。
『麻殖系譜』のような細かい記述はありませんが、願勝寺10代徳光の項に「麻殖下郡」という地名が記されます。これは麻殖郡の分割があったということをフォローする内容になります。
 また、先ほど見たように『願勝寺系譜』の忌部伝承が『麻殖系譜』と一致することあわせて考えると、その記述は式内忌部神社美馬郡鎮座説を前提としたものであることが見えてきます。しかも、全編にわたって忌部氏との関係などが記されています。初代福明の項には、玉垣宿爾について「阿波忌部ノ正統」とあり、麻殖氏系譜の正統性が強調されています。以上から長谷川賢二氏は次のように指摘します。

  「こうしたことから考えれば、美馬郡鎮座説の影響は、転写過程での部分的な潤色によるものではなく、『願勝寺系譜』全体の成立にかかわって意識的に取り込まれたものとすべきであろう。

式内忌部神社美馬郡鎮座説の正当化するために『願勝寺系譜』や『麻殖系譜』が書かれたものであるとすれば、それが唱えられ始めた時期に着目すれば、両系譜の成立期も自ずと分かってくるはずです。そこで、忌部神社論争の起点を確認します。 この明瞭な時期は、文化11年(1815)完成の藩供地誌『阿波志』に次のように記されています。

元文中、山崎・貞光両村祀官、相争忌部祠

ここからは元文年間(1736~41年)、麻殖郡山崎村と美馬郡貞光村の神職の間で、忌部神社の所在をめぐり争われていたことが分かります。つまり、近代以前にも忌部神社の所在をめぐる争論があったのです。
 このときの争論では、麻殖郡の種穂神社が忌部神社とされ、寛保三年(1743)完成の『阿波国神社御改帳』には「種穂忌部神社」と記載されています。しかし、種穂神社の神職だった中川氏に伝わった史料によれば、その後も問題は続いていたことがうかがえます。
 貞光村と西端山村は、近接しています。明治の忌部神社論争においては、貞光村の忌部旧跡も取り上げられ、西端山村と一体となって美馬郡鎮座説の焦点となった地域のようです。どうやら18世紀前半の忌部神社=貞光村説は、近代における西端山村説とほぼ同じエリアの中での式内忌部神社の所在地を廻る争論であったようです
 以上から美馬郡鎮座説を正当化する伝承が必要となったのは、18世紀前半のことのようです。
都境変更説が記された『阿陽記』の成立は18世紀後半とみられています。忌部神社をめぐる争論との関係からしても、納得がいく時期です。このようにみてくると、「願勝寺系譜』『麻殖系譜』の式内忌部神社美馬郡鎮座説を意識した記述は、争論との関係から定形化されるようになってきたと研究者は指摘します。ここからも『願勝寺系譜』を奥書の文禄三年(1594)に成立していたとは、見なせないというのが研究者の結論になるようです。
  『麻殖系譜』についても、近代の忌部神社論争時までには成立していて、論争に利用されました。
そのため、江戸時代の論争がはじまった18世紀前半には出来上がっていたようです。しかし、『願勝寺系譜』と比較して、その先後関係は分かりません。どちらにしても両系譜は、式内忌部神社をめぐる論争という、きわめて政治的な動きの中で書かれたものであるようです。そのため「創作された伝承」が含まれていることを、想定する必要があります。す。このことについて、長谷川賢二氏は次のように記します

  こうした史料に関する問題を考慮するなら、先に虚構と断定できないとした忌部修験についても、中世史の問題として議論するには慎重を要する。美馬郡鎮座説が本格的に展開する18世紀以後に、当該神社の社会基盤の広がりや権威を誇張するために名目的に創り出された可能性も含んでおく必要があるように思うのである。

以上をまとめておくと
①「忌部修験」は、イメージが先行して、それを証拠立てる史料がないこと
②「忌部修験」の根本史料である『願勝寺系譜』『麻殖系譜』は、式内忌部神社美馬郡鎮座説をフォローするために後世に書かれたもので、18世紀以前に遡るとは考え難いこと
③史料にもとづかないイメージを無理に組み立てても、研究の深化にはつながらないこと
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店


 
大滝山5
          
  なだらかに続く阿讃の山脈(やまなみ)は、どれが頂上か見分けのつきにくい山が続きます。その中で一番高い龍王山と相栗峠をはさんで、並び立つのが大滝山(946m)です。この山の北側周辺は、藩政期から高松藩からの寄進を受け、大滝寺のひろい社領として護られてきたために、上部はいまでもよく自然林が残されています。

大滝山2
 大滝山の最高点は神社裏のピーク(946m)です。しかし、残念ながら山頂付近はヒノキが大きく繁り何も見えないので、訪れる人はあまりありません。多くの人が目指すのは、県境尾根を西に進んだ三角点のある城ケ丸です。なだらかで整備された尾根道はには、大きなブナも見えます。讃岐の尾根道で見られるのはここだけではないでしょうか。他にもケヤキ、アカガシ、ヤマザクラなどが茂り、森林浴には最適です。香川県側は「大滝山自然休養林・県民いこいの森」として整備されていますので、森林浴には最適です。

大滝山4
 ここまで書いてきてハイキング案内のようになっていることに気付きました。
今日は、修験道の拠点寺院であった大滝寺について、見ていきたいと思います
ここには現在、山頂に西照神社とその下に大滝山がありますが、明治以前の神仏分離以前は、このふたつは一体の施設で、僧籍を持つ修験者が管理していたようです。
「大滝寺縁起」によると、
①奈良時代に行基菩薩が香川県塩江より来山、この寺を建立したこと、
②平安期の初め延暦十年(791)空海が来山、修行し、
③空海が西照大権現の尊像を彫刻し、法華経出現品を一石毎に一字記し堂の左右に納めた
と記します。
 「行基ー空海」開山というのは、真言寺院の一般的な創建由来ですが、郷土史家や地元の人達の中には、この「空海伝説」を積極的に肯定する人も多いようです。
 というのは、空海の書である
『三教指帰』の中の「阿州大滝岳に求聞の法を修め……」
とある大滝岳を、この大滝山とみなすからです。
縁起は、また天安三年(859)の聖宝の登山を力説します。現在、寺の西方にある高野槙は、聖宝お手植であることや、聖宝にちなんだ男女の厄除厄流の行事が行なわれていることが記されています。

西照神社1
 どちらにしても「聖」伝説が色濃く漂うお寺なのです。
 阿波の美馬町郡里に願勝寺というお寺があります。
古寺で、いくつもの文化財があり、寺独自の記念館も整備されています。
この寺には中世以来、大滝寺と深い法縁関係があったことを示す史料があります。戦国末期の文禄三年(1594)に書かれた「願勝寺歴代系譜」です。この系譜は、当時の住職快盤によって記されたものです。その第六代智由上人の項に、大滝寺に関する記述が見えます。
…後空海上人モ阿波二来り 当福明寺(願勝寺の旧名)二留錫シテ 護摩堂ヲ立テ 本尊不動明王ヲ自作、爾来真言密宗二改ムト云、其比、空海上人 阿波卜讃岐中山ナル大滝ノ峯ニ登り 国土安全ノ祈ヲナスノ処 不思議ノ老翁忽然卜現レ、我是汝が遠祖天忍日命ノ神使也卜。
 空海曰く 其神跡イヅレナルヤ。翁曰 即此処也卜 古塚ヲ七つ其形バ古十墓 変シテ古塚二入テ身ヲ隠ス扨コト故アラ卜此処 一草庵ヲ構 其霊ヲ祭ル 其草庵後 一大滝寺卜改 其神ヲ西照権現ト号ス・智由ノ弟子智信坊ヲ以テ此寺ノ法燈ヲ続カシム
中略……国司藤原道雄西照宮二神田ヲ寄附スト云。
 空海が願勝寺で修行後に大滝峯に登って「老翁」に出会い、西照権現を祀るためにそれまであった庵を大滝寺と改めたとします。ここからは、ふたつのお寺が修験道の流れをくむ寺で密接な関係にあったことがうかがえます。
大滝山3
 もうひとつは、天正三年(1575)の阿波法華騒動です。
これは「中世阿波宗教史 最大の騒動」といわれれます。
騒動のきっかけは、戦国大名の三好長治が日蓮宗に熱烈に帰依して、阿波国内の一般庶民にまで、法華に改宗を強制したことに始まります。彼は堺の妙国寺の僧三百余人を阿波に派遣し、他宗寺院に改宗の折伏を働きかけたのです。この時に、最も果敢に抵抗を示したのが真言山伏たちでした。三千人の山伏達が、三好氏の居城勝瑞の城下で大デモンストレーションを行います。

三好2
「願勝寺歴代系譜」には、その時の様子が次のように記されています
第二十五代快弁上人の項に、
 …又五郎勧メニヨリ長治公(義賢の子息)日蓮宗二帰依シ 同三年(天正三年)ニハ 阿波国中生レ子迄一人モ残ラス日蓮宗ニナシ 法花(華)経ヲ戴カセント泉州堺ノ妙国寺、経王寺、酒塩寺ノ三ケ寺ヲ阿波へ招待シテ 本行寺二住セシメ、法華坊主三百人南方北方手分シテ 士農工商ノ隔ナク残ラス法華経ヲ戴キ 法華宗トナルノ時、滝寺ノ上人ハ 上命辞シ難シト直二改宗シテ法華宗ノ弟子トナル。
 願勝寺快弁ハ 法華坊主ヲ相手トシテ問答ヲナスト雖、時ノ権威二当り難シト弟子三人ヲ連テ其夜二立退キ高野山二登り法華退治ノ計議ヲナス。此時阿波国中二真言坊主ハ願勝寺ノ外ナシト上方迄モ風聞ス。
 快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ。阿波へ帰りテ同意ノ寺院ヲ訪ラヒ密事ヲ談シ、阿波国ノ念行者数多クノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗対シ不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遺ス処、妙国寺普伝上人返答延引、ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト我々三千余人ノ坊主ハ 此度ノ法華ノ為ニスト無鉢二本行寺へ押入り騒動二及フ。
 其魁トナル人々二ハ 大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻植曾川山、牛ノ島ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大粟ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノ至願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大唐国寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮華寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ。
 忌部郷忌部十八坊ヲ始 其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者共ハ 此事二与セズト雖、国中ノ騒動大方ナラス、是事ヲ聞テ三好家ノ大老篠原自遁馳来リ、種々曖ヒニヨツテ妙国寺、経王寺、酒塩寺等ヲ初メ此外三百人法華坊主ヲ森志麻守請取テ船ニテ上方へ送リケレハ、篠原自遁真言宗ノ寺々ヲ呼出シ、夫レ元ノ宗旨ヲ守ルベシトノ厳 命ニヨツテー旦(其騒動治リ……(後略)
 この中の法華教反対運動の中心として活動した寺院の中に、大滝寺の下寺的存在であるお寺がいくつかあるようです。それらの中に、先ほど見た願勝寺や脇町方面からの登山口の岩倉の地にあった白水寺(岩倉の坊)があります。これらの反対運動の背後に、大滝寺があったことがうかがえます。同時に、大滝山が中世の修験道山伏の一中心でもあったことも分かります。

三好氏1

 一方で、修験道でも「忌部十八坊」や「滝寺ノ上人」は、反対運動に参加しなかったようです。これは忌部十八坊が修験道の世界において、大滝山の系統と別系統であり、対立関係にあったことを示しているのではないかと研究者は指摘します。忌部十八坊は「忌部氏」を祀る地方的な修験道であり、中央(高野山)と連がる大滝山とは、相入れない一面をもっていたようです。

大滝山集落1
 ちなみに、大滝修験道と忌部修験道(高越山)には、こんな話が残っています。
大滝山と高越山は仲が悪く、再三にわたり「石合戦」をしたというのです。
高越山から投げた石が大滝寺の床下にあるとか、脇町や隣接の阿波町のあちこちに残っているという話が伝わっています。また逆に、大滝山から投げた石は、高越山まで届かず「拝原」と呼ぶ地にあるとかいわれます。この石合戦の背景には、大滝山と高越山をそれぞれ拠点とする山伏が修験道の世界では属する集団を別にして仲が悪かったということなのでしょう。
 岩倉の白水寺は江戸時代には愛行院と称し、この地方の修験道の一方の旗頭でした。
『阿波志』には
「愛行院、岩倉村に在り白水寺と称す、天文約書に見ゆ。泉あり白くして甘し、優婆塞居る、租及び丁役を除す」
と課役が免じられていたようです。白水寺は「願勝寺歴代系譜」のほか、高越山の概で記した天文約書にも見えているので、中世以降には、大滝寺に代わって修験道の世界で活躍したお寺であったようです。

大滝寺2
  江戸時代の大滝寺は? 
 大滝寺は寺伝によると、江戸時代にはこの地方の支配者稲田氏から禄を与えられます。
その他にも、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林として寄附されていました。さらに同藩から供米として五十石を与えられていたと記します。
 その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
大滝寺3
 
しかし、明治の神仏分離によってお寺と神社は分けられ、お寺は下に下ろされました。そして、多数あったという伽藍の建築物も地に帰り、ケヤキ、アカガシ、ヤマザクラやブナなどの巨木が茂る神域として私たちを迎えてくれます。

参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
 

 

                                     

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