「四国遍路形成史 山岳信仰の後に、弘法大師伝説はやってきた」の中で、四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが現在の定説になっていると紹介しました。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
それでは、四国霊場の成立を考古学者たちは、どのように考えているのでしょう。
今回のテキストは、「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」四国霊場と山岳信仰 岩田書院です。
 阿波徳島藩により描かれた「阿波国大絵図」寛永十八年(1641)を見てみましょう

太龍寺 阿波国絵図
東側から俯瞰した構図で、中央を左奥から手前中央に流れるのが那賀川になるようです。その那賀川の両側の山の上には伽藍が見えます。
右(北側)が、20番札所の鶴林寺で、
左(南側)の二層の建物が描かれているのが太龍寺
です。そして、各村々の名前が記され、それをつなぐ道も赤く描かれています。ふたつの寺院をつなぐ道も見えます。これは札所寺院と札所寺院をつなぐ道(遍路道)を描いたものしては、最古のもののようです。山岳寺院を結ぶネットワークが早くからあったことがうかがえます。
 地図上に見える「かも道」は賀茂村(現、加戊町)から太龍寺の参詣道です。現在の遍路道以前の「古遍路道」で、中世にまでさかのぼることが分かってきました。
太龍寺 かも道

勝浦川から鶴林寺への参拝道である「鶴林寺道」には、南北朝期の町石(明徳二年(1391)が11基が残されています。つまり、南北朝時代には、鶴林寺への参拝道が整備されていたことを示します。
誰によって整備されたかは後ほど見ることにして、もう少しこの丁石を見ていきます。この丁石は「無傷」ではありません。近世になって「遍路」のための丁石として再利用され、全ての町石に新しい丁数が刻まれたのです。
   例えば明徳二年造立銘の「十二町」の丁石は、他の面に「五丁」と刻まれています。(写真1)
太龍寺 鶴林寺丁石

南北朝期の丁石が、いつ遍路道の丁石に転用され、新たな丁数が彫られたのかは分かりません。一つの手がかりとして、鶴林寺に参詣する別ルート(勝浦町棚野集落からの参詣道)には、地元の福良与兵衛により道の整備とともに建てられた享保3年(1718)銘の丁石が立ち並びます。この道の整備と併せて、周辺部の遍路道も整備されたようです。その際に南北朝期の町石にも、新しい丁数が彫られて転用されたと研究者は考えているようです。

 南北朝期の町石は、四国では鶴林寺と太龍寺への参詣道(遍路道)の二ヵ所でしか見つかっていません。

太龍寺 鶴林寺道2

このことは、中世から山岳寺院であったと云われる鶴林寺や太龍寺のルーツを考える上では重要な材料になるようです。
 例えば、この丁石がどこで作られたかを探ると、地元で作られたものではないことが分かってきました。丁石は、兵庫県の六甲山系花岡岩「御影石」が使われていたのです。わざわざ船に乗せて、大阪湾から紀伊水道・四国東海岸をめぐる物資の流通ルートに乗って運ばれてきたようです。この背後からは、当時の人とモノの流れがうかがえます。
 鶴林寺の遍路道の八丁石の背面には、願主の名前が刻まれています
  「七町 貞治五年 六月廿四日 真道願主 清原氏賓

願主の清原氏実とは何者でしょうか
この人物が、鶴林寺への参拝道の整備を行った信者の一人のようです。彼は、観応二年(1351)に那賀川下流南岸の阿南市宝田町から長生町にかけての竹原荘の地頭職に赴任していた周参見(清原姓)氏とされます。紀伊側の資料から、紀州牟婁郡で熊野水軍を率いた海の武士団(熊野海賊衆)の棟梁だったことが分かります。清原氏実の名は「泉福寺文書」に、文和三年(1354)竹原荘への土地の寄進に関わる文書にも出てくるようです。
   つまり、この八丁石は紀伊熊野からやって来て、竹原荘地頭職になった清原氏実によって寄進されたものということになります。さらに、阿南市那賀川町の三昧庵にある町石にも「十二町」「清原氏賓」の銘が刻まれています〔勝浦郡志〕。
 中世の那賀川河口には熊野からやってきた武士団(海賊)が拠点を構え、精力を上流に伸ばしていたことがうかがえます。

太龍寺 鶴林寺道

 少し想像力を飛躍させ、筆を走らせてみます。
海賊衆は、古代の「海の民」が分業した軍事勢力で、平時は船団をもち交易活動も行います。那賀川流域は木材の産地で、古代から奈良や京都の運ばれ、寺院建築などに用いられていました。阿波を拠点に畿内に勢力を伸ばす三好氏の経済基盤は、堺港における木材販売でした。阿波における木材販売の占める位置は、大きかったのです。紀伊熊野も木材の産地です。そこからやってきた清原氏実は、那賀川流域の森林価値を充分に分かっていたはずです。
 それを己の手中に収めるための方策を考えたはずです。
古代に森林管理センターとして機能するようになったのは、国府の建てた山岳寺院です。山岳寺院の経済的な役割については、以前に「仲寺廃寺」でお話しましたので省略します。
 勢力のある山岳寺院はいくつもの坊を列ね、大学として、医療センターなど様々は機能を持っていました。紀伊からやってきた外来勢力の清原氏実も、地元に根付いていくためには鶴林寺や太龍寺のもつ力を利用することを考えたはずです。
 もしかしたら、これらの寺院の僧侶の中には熊野修験者として阿波に定着した一族出身の僧侶もいたかもしれません。どちらにしても残された丁石からは、熊野海賊衆と那賀川流域の山岳寺院との関係が見えてきます。
太龍寺 地図

丁石以外にも紀伊の海賊(海の武士団)棟梁と目される「願主清原氏実」が残した痕跡としては、次のようなものがあるようです
①観応2年(1351)に竹原荘の地頭職を得た安宅氏が文和3年(1354)に再興したと伝えられる泉八幡宮、
②泉八幡宮周辺の本庄城跡
③泰地氏の城館跡と考えられている中郷城跡(泰地城)
 紀伊の小山家文書や安宅家文書など中には、小松島市・阿南市周辺の所領地名も記されています。
ここからは次のような事が分かります。
①那賀川流域では、熊野海賊衆と呼ばれた紀南武士が河口を中心に活動していた。
②彼らは、荘園支配以外にも海上交易を活発に行っていた。
③彼は鶴林寺や太龍寺などの山岳寺院を保護・信仰していた
④山岳寺院は熊野行者の活動拠点でもあった。
四国霊場成立前の那賀川流域には、政治・軍事組織として熊野海賊の姿と、宗教的な存在としての熊野修験者の姿が重なって見えてきます。
 太龍寺への古遍路道を見てみましょう 
太龍寺 かも道

太龍寺への現在の遍路道は、阿南市大井町から那賀川を渡り、水井から若杉集落を通過し太龍寺に至るルート②です。
しかし、中世の道は、阿南市加茂町から参拝する道「かも道」でした。貞享四年(1687)に真念が著した『四国辺路道指南』には、次のように紹介されています。
「これより太龍寺まで一里半、道は近道なり。師御行脚のすじは、加茂村、其のほど二里、旧跡も有り」
この中の「旧跡」とあるのが、南北朝期に建てられた町石と研究者は考えているようです。この「かも道」に建つ[太龍寺の丁石]は、鶴林寺の町石と同形式のものが19基残っています。その内の41丁石には[貞治六年 願主 道円]と刻まれています。そして、この願主の道円も紀州の人と言われます。
  「かも道」からは、発掘調査で経塚と考えられる列石を伴うマウンドが出土し、
①経筒の外容器に使った12世紀頃の東播磨系須恵器甕片
②室町時代の「阿波型板碑≒正面に阿弥陀如来を線刻」
が38丁石のすぐそばの斜面から出土しています
東播磨の須恵器甕も丁石と一緒に船で運ばれてきたのでしょう。
太龍寺 遍路道発掘

 同じように播磨産の石造物を、この周辺で探すと
①海陽町の木内家墓所の、正面に半浮き彫りの地蔵菩薩を配し、石柱上部に二線をめぐらした石造物
②由岐町の「九州型板碑」と呼ばれる形式の板碑も、六甲山系の花崗岩使用
③徳島県東海岸沿の六甲山系の花岡岩を石材とする五輪塔をはじめ多くの石造物
があるようです。
  ここから
「鶴林寺や太龍寺の参詣道に播磨から持ち込まれた町石は、紀伊水道の海上交通路を抑えた熊野水軍との関わりの中でもたらされたもの」
と研究者は考えているようです。

太龍寺 遍路道
最初に紹介した「四国霊場2段階成立説」を、最後に再度確認しましょう。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
  つまり、ここに示されているのは①の段階です。そして、鶴林寺や太龍寺の南北朝の丁石や「かも道」は、中世の辺路巡礼の遺物と研究者は考えているようです。
 那賀川流域に熊野海賊の支配エリアがあり、その保護を山岳寺院が受けていたこと、そして山岳寺院は熊野行者たち山岳修験者の宗教的な拠点として機能していたことを示しているようです。
参考文献
「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」
                四国霊場と山岳信仰 岩田書院