瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:阿讃交流史

借耕牛講演会ポスター

上記の郷土史講座で借耕牛について、お話しした内容を使った資料と一緒にアップしておきます。

借耕牛 落合橋

     今日お話しするのは、この牛についてです。この牛は美合の谷川うどんさんの上にある落合橋の欄干にいます。阿讃の峠を越えて行き来したことにちなんで私は勝手にこの牛を「阿讃くん」とよんでいます。私の中の設定では「黒毛で5歳の牡」となっています。どうして、そう思っているのかはおいおい話すことにします。阿讃君は美合の橋にレリーフとして、どのようにして登場したのでしょうか。その背景を探ってみることにします

5借耕牛 写真峠jpg

この写真は、徳島と讃岐を結ぶ峠道です。そこを牛が並んで歩いていきます。いったどこに向かっているのでしょうか。
借耕牛7

峠から里に下りてきました。ここでも牛が並んで歩いて行きます。どこへ行くのか、ヒントになる文章を見てみましょう。
 先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江) 
 今から約100年ほど前、昭和初期の岩部のことが書かれています。岩部は現在の塩江温泉のあたりです。ここに牛追いに追われて、相栗峠を越えて阿波から牛がやってきたことが分かります。やってきた牛の姿を見ておきます。

借耕牛 岩部

塩江の岩部の集落にやってきた旅姿の牛です。上の俳句を私流に意訳しておきます。
 阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。

 この牛が私には最初に見た「阿讃君」に思えてくるのです。

借耕牛9
「借耕牛探訪記」より
首には鈴、背中には牛と人の弁当。足には藁沓を履いています。蹄を傷つけないようにするためです。ぶら下げているのは、草鞋の替えのようです。こうして峠を越えた牛たちは、讃岐の里の集落に集まってきました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
借耕牛の集合地 左が美合、右が塩入
地元の仲介人の庭先に、牛が集められています。この写真の左が美合、右が塩入です。牛がやってきたのは、塩江だけではありません。まんのう町にもやってきたことを押さえておきます。
ところで最近、こんなシーンが映画撮影のために再現されました。 

借耕牛 黒い牛ロケシーン

 借耕牛を描いた映画「黒の牛」のロケシーンです。ロケ地は三豊市山本町河内の大喜多邸です。大喜多邸は、三豊一の大地主でした。その蔵並みをバック幟が立てられて、その下で野菜などが売られていいます。小屋の下には、牛たちが集まっています。こんなシーンが美合や塩入や財田の戸川は、見られたのでしょう。それでは、集まった牛たちは、この後どうなるのでしょうか 

借耕牛のせり
借耕牛のせり
 牛がつながれて、その周りで人が相談しているように見えます。何をしているのでしょうか? 
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」

 俳句の中には「歩かせ値決め」というフレーズがひっかかります。現在の肉牛の競りならば、歩かせる必要はありません。講牛として使うためには、実際に歩かしてみて、指示通りに動くかどうかも見定めていたことがうかがえます。

借耕牛 せり2

競りが終わったようです。笑顔で手打ちをしています。真ん中の人が「中追いさんやばくろ」と呼ばれる仲介人です。その前が競り落とした人物のようです。
どんな条件で競り落とされたのでしょうか。契約書を見ておきましょう。
借耕牛借用書2


表題は耕牛連帯借用書とあります。
①は牛の毛色や年齢です。 5歳の雄牛です。
 牛の評価額です。 2百円とあります。
②レンタル料 9斗とあります。10斗=米2俵(120㎏)=20円 地方公務員の初任給75円。1ヶ月のレンタル料は、新採公務員の給料1/4ほどで、現価格に換算すると4~5万円程度になります。牛の価格は200円ですから、初任給の3ヶ月分くらいで60万強になります。
③レンタル期間です 昭和3年は今から約100年前です。満濃池のユル抜きが時期から 代掻きはじまり田植えまでの約1ヶ月になります
④レンタル料の受渡日時と場所です。 夏の場合は、7月の牛の返却時ではなく、収穫の終わった年末に支払われていたことが分かります。秋にもやってきていたので、収穫後の年度末に支払われていたようです。
契約書の左側です。
借耕牛借用書3

意訳変換したものを並べておきます。
⑤借り主は木田郡三谷村犬の馬場の片山小次郎
⑥世話人(仲介人・ばくろ)が塩江安原村の小早川波路
⑦貸し主(牛の所有者)が安原村の藤原良平です。
以上からは、塩江安原村の藤原さんの牛が、木田郡三谷村の片山さんに、約1ヶ月、約米2表でレンタルされたことになります。この牛の場合、讃岐の牛です。
今度は、戦後の契約書を見ておきましょう。

借耕牛 契約書戦後
         昭和30年頃の借耕牛契約書
 耕作牛賃金契約書とあります。前側の一金がレンタル料金です。空白部分に金額を書き込んだのでしょう。後は「盗難補償金見積額」とあります。盗難や死んだときの補償金のようです。この契約書で注目したいのは、「金」とあることです。ここからはレンタル料がお金で支払われるようになっていたことが分かります。
それでは、いつ頃に米からお金に替わったのでしょうか? 
借耕牛 現金へ
借耕牛のレンタル料の米から現金への変化時期
横軸が年代、縦軸が各集落をあらわします。例えば、貞安では、大正初めに現金払いになったことが分かります。現金化が一番遅かったのが、滝久保集落で昭和10年頃です。昭和初年には、半数以上はレンタル料は米から貨幣になっていたようです。ここからは米俵を牛が背負って帰っていたという話は、昭和初年までのことだったことが分かります。
天川神社前1935年 

こうして牛たちは、土器川や金倉川・財田川沿いの街道を通って、各村々にやってきます。牛たちを待っていたのは、こんな現実でした。

借耕牛 荒起こし

荒起こしが終わり、田んぼに水が入ると代掻きです。
牛耕代掻き 詫間町

ある老人は、当時のことを次のように振り返っています。
           もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。        「借耕牛探訪記57P」

休みなく三軒でこき使うのも、讃岐の百姓も貧しく、生きていくために必死だったのでしょう。何事も光と影はできます。
 中にはこんな話も伝わっています。
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」
「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」
 こうして牛たちは、レンタル先で田んぼの代掻きなど、6月初旬から1ヶ月ほど働きます。代掻きがおわる7月になると、牛たちは集合場所まで追われていきます。そこで借り主に返されるのです。

DSC00661借り子牛
別れを告げ阿波に帰る借耕牛 (塩江町岩部)

牛の手綱を返された飼い主は、牛を追って、阿讃の峠を目指します。この写真は、借耕牛を見送る写真です。向こうの家並みが岩部の集落のようです。迎えにきた持ち主や追手に連れられて、阿波に帰っていきます。私が気になるのは、右端で見送る人です。蓑笠姿です。ここまで牛を連れてきた借り主のようにも見えます。1ヶ月、働いてくれた牛への感謝を込めて見送っているように見えます。

借耕牛に関わる人たちのつながりを整理しておきます。

借耕牛取引図3

一番上が牛を貸す方の農家です。口元行者というのが、讃岐ではばくろ、阿波ではといやと呼ばれる仲介者です。阿波にバクロが訪ねていって、「わしにまかせてくれ」と委任状をもらいます。そして、美合や塩入などに牛を連れていく期日を決めます。ここでは貸方と借り方の農家が直接に契約を結ぶのではなくて、その間に業者(ばくろ・といや)がいたことを押さえておきます。そこで、競りにかけられ、借り主が決まり契約書が交わされるというシステムです。
 この場合に、牛を連れて行くのを地元行者に任せることもあったようです。そのため何頭もの牛をつれて、峠を越えてくる「おいこ」の姿も見られました。しかし、多くは、牛の飼い主が美合や塩入まで牛を追ってきたのです。彼らは、飲み屋で散財するのでなく持参の麦弁当を食べて、お土産を買って帰路についたのです。牛を貸した後、無事に1ヶ月後には帰ってこいよと祈念しながら 麦弁当を木陰で食べる姿が思い浮かびます。 第一部終了 休憩

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

借耕牛探訪記

借耕牛の研究

下記の通り、借耕牛についてお話しすることになりました。小学生達も参加するようなので、できるだけ分かりやすく、そして楽しく話したいと思います。借耕牛に、興味のある方で、時間の余裕のあるかたの参加を歓迎します。

借耕牛講演会ポスター
借耕牛 落合橋

借耕牛7

借耕牛 美合落合橋の欄干

借耕牛登場の背景

借耕牛 12

借耕牛のせり

借耕牛借用書2

借耕牛8

借耕牛の阿波供給地

借耕牛3
借耕牛 通過峠

借耕牛取引図3

借耕牛見送り 美合

借耕牛5

借耕牛6

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 6 阿讃国境地図

まんのう町美合や勝浦あたりでは、阿波へ行くのも、隣村へ行くのも、どうしても峠を越えねばなりませんでした。阿波との阿讃山脈にも多くの峠があったことが、江戸時代の絵図を見ていると分かります。
4 阿波国絵図3     5

東から、龍王山から大川山の間にも寒風越、三頭越、二双峠、滝の奥越、真鈴峠と5つの峠が記されています。このうち二双峠は、峠を越えてからもう一度立石峠を経て阿波へ下っていく道でした。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 讃岐の隣村へ越えて行く峠には、塩江町の只の股へ越える浅木原峠、塩江町・綾上町方面へ越える雨島峠、綾上町の牛の子堂に出る焼尾峠、綾上町の角の内に出る首切峠などがあります。このほかにも名もない峠は多くあり、峠を越え人やモノが行き来したのでしょう。
モノの多くは、
行商人のもたらしたもの、
一種の宗教人が漂泊しながら携えてきたもの、
金毘羅参りの人々がもたらしたもの
などがあったようです。琴南町誌の中から各峠について書かれていることを拾い上げてみます。
阿波国大地図 琴南の峠1

美合の奥のソラの人たちは、阿波の貞光にはよく買物に行ったようです。その際に使うのが、寒風越でした。峠の頂上まで来ると、急に寒い風が吹いてくるので寒風峠と呼ばれるようになったといいます。
竜王山(讃岐山脈)・大川山 少し近付いてきました。

 この峠の山続きに蛇の道というところがありました。道が曲がりくねっていて、ところどころがくぼんでいて、それは大蛇が通った跡だろうと話ながら歩いたそうです。
 三頭越は、阿波からの金毘羅参りの人々が通った峠です。
三頭越え ハイキングルート

その登り口に大師堂があります。その川向かいは、昔、茶堂があった跡で、金昆羅参詣者が休憩したところです。大師堂には以前にお話した道作り坊主の了念が建立したという陸中二十四輩の石像があります。これは了念が、生国が陸中であるために建てたものだと伝えられます。道作り坊主の了念については、以前にお話ししましたので省略します。
三頭越え 久保谷の大師堂

 滝の奥越は、土器川の源流で今は「源流碑」が建てられています。ここから阿波の滝寺へ下りて行く道が続きます。滝寺へは、養蚕が盛んであった時代は、美合の農家の人々もこの峠を越えて参詣に行ったようです。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 勝浦から真鈴峠へ行く途中に四つ足堂があります。
かつては、このお堂では湯茶の接待があったといいます。そして一軒の茶店があって、うどん、酒、たばこぐらいは売っていたようです。
 真鈴峠を越えると三野町へ入りますが、峠を越えると大屋敷の剣山神社があり、牛追い達は、ここで休んでいたようです。
 真鈴峠の頂上近くに清水がわき出ていて、もとは真清水峠と呼んでいたようです。旅人は、この峠で一杯の清水にのどをうるおしました。大屋敷は水が乏しいので、昔はそばを持って来てこの水と交換していたという話が残っています。

 勝浦や美合高松の城下へ出るには焼尾峠を越えました。
峠を越えてから粉所の新名を経て、山田へ出て岡本で高松街道に出て高松へ向かったいたようです。あるいは焼尾峠から陶へ出て行くルートも使われました。しかし、焼尾峠は恐ろしい峠で、追いはぎも出たし、妖怪の話もあったと云います。
 二双峠は頂上にニソの社があります。
ニソの社というのは、もとも祖先の霊のこもる森のことです。峠を越えて行く旧道は、谷川に沿ってどんづまりまで行き、それから急坂をよじ登ったといいます。

立石越(二双越)

山中の村では、病人が出来るとふごの中に雨戸を載せて、その上に寝せたり座らせたりして連れて行きました。荷物を運送していた者に、ダチンカツギ(駄賃担ぎ)と呼ばれた人たちがいました。これは荷物を背に負うて運んだり、オウコ又はトンガリ棒で運びました。車が行けるところは、トウカイヤが車に載せて運びます。どの集落にも一軒か二軒ぐらいはあって、そこへ頼んでいました。

明神などが店を並べて市街地のようになったのは、近代になってからのようです。
まんのう町明神地区の町並み

それまでは日用品や雑貨。米、醤油などを売る店がぽつぽつとあっただけでした。正月がくると正月買物、盆がくると盆買物に町に下りていきます。そんな時には、ふだんの仕事に使うオウコよりは、ややきゃしやできれいに仕上げたオウコを持って行ったものだと云います。正月には砂糖、下駄、足袋など、盆にはそうめんや浴衣地などを買って来ます。
 衣類などは自分の家で織っていたので、わざわざ買うことはありませんでした。機織りをしなくなってからは、阿波から反物を売りに来るようになりました。
魚は、家に婚礼、厄ばらいなどの宴会がある場合は、わぎわざ琴平の町へ買いに行きました。
常は琴平・坂出などから魚の行商人が来ていたようです。魚屋が出来たのは近年になってからのことです。それでブエンの魚も容易に手に入るようになっりました。魚屋が出来た初めのころは、ブエンの魚はなくて、店には竹の皮で編んだかごの中の塩鰯とか、女竹に通しためざしなどを売っていたと云います。

塩は、専売になる前は坂出・宇多津方面からも、また阿波の貞光からも売りに来ていたと云います。
塩は漬物用にも大量に買いましたが、牛を飼っている農家でもたくさん買っていたようです。農家では、 塩の下に桶を置いていました。それはニガリを取るためです。ニガリは正月前に豆腐をつくるために必要でした。今では豆腐をつくる家もなくなってしまいました。明神などには豆腐屋ができたからでしょうか。
明神から奥のソラの集落に行商人がやってくると、懇意にしている大百姓や地主の家に泊まっていました。
阿波から正月にやって来るデコマワシも馴染みの家に泊まって村落の家々を廻りました。物もらいは、秋の終わりから冬の初めによく来ました。お米が出来て豊かな季節だったので、そんなころを見はからって来ていたののでしょう。物もらいは、行商人と違ってどこの家でも泊めてくれません。そこで無住の庵とか焼き場の中のコツドウ(輿堂)などに泊まつていました。
阿波の山間部は米が少ないので、馬が美合まで来て米を積んで帰えりました。
米を二俵半ぐらい鞍の両側につけます。これを運ぶのは運送用の馬でなくて農耕用の馬だったと云います。伊予からは、秋祭りや正月の前になると障子紙を売りに来ました。大抵の家では障子紙を買って貼り替えをします。年に一度というのがきまりであったようです。
真鈴あたりからは、建築材料である真竹を明神まで売りに来ました。竹は、車が産地まで入らねば運搬が難しかったのです。土器川に沿って水車屋も何軒かありましたが、廃業して米屋となったり、今ではうどん屋となって有名になった店もあります。
讃岐うどん「谷川米穀店」香川県仲多度郡まんのう町 - 讃岐うどんやラーメン食べ歩きと、旅のブログ

美合の皆野には、一軒の油屋がありました。
菜種をしぼって各地の店へ油を卸していた。しばり粕はタマと言い、馬に載せて周辺の農家の畑へ売りに行きます。よい肥料として歓迎されたようです。油は一日に二石しめるのが一人前だといわれました。
人々は油徳利を持って油を買いに行きます。そして灯明や揚げ物の油として使いました。菜種をしばるのが普通でしたが、辛子の種でも油をとっていたと云います。
内田には薬を行商とする家がありました。
この家には五人ぐらいの行商人がいて、阿波のソラの村へ行商に行っていました。イレ(入)クスリとかカエ(替)クスリといって、富山の薬売りと同じような商いを行っていたようです。農閑期の秋から年末に出かけて行って、先方の農家へ薬を置いて、毎年入れ替えてくるのきます。後には、高松の薬屋から千金丹、万金丹、五龍園などをうけて来て、それを入れ替えに行くようになったと云います。

水車屋も、油屋や薬の行商もなくなり阿讃の峠を越える人は、だんだん少なくなりました。そのほかに、今はなくなってしまったものに紺屋があります。これは内田に二軒あって、機織りが盛んであった時代に、女たちはそこへ行って糸を染めて来ました。ソラに近い美合あたりの人は、峠を越えて阿波の郡里・重清などの紺屋に行ったとようです。
 内田の吉田寺のお大師さんの市は、琴南の人々にとっては最もにぎやかで楽しみの多いものだったようです。
江戸期の記録によると、簑売り、ヤリ屋、餅、うどんなどの店が出ています。それらの店の中には、内田の地に定住する者もあって、だんだんと集落は一つの町並みとして発達していったようです。
参考文献
琴南町誌 民俗

4 阿波国絵図3     5

讃岐と阿波の境を東西に走っている阿讃山脈は、まんのう町(旧琴南町)域の県境付近が最も高く、東に竜王山、西に大川山がそびえる県境尾根です。江戸時代には、この山脈(やまなみ)が、人々の交通を阻害していました。しかし、自然の障壁よりも、人の自由な交流を強く規制したのは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人」についての協定だったと云われます。
 徳島藩では、寛永19(1642)年の大飢饉以後、ますます増加した農民の逃散に対をなんとか防ごうとして、いろいろな対策を出しますが、効果がなかったようです。そこで慶安2(1649)年5月14日に、阿波藩と高松藩との間で、百姓の走人(逃散)についての相互協定が結ばれます。「讃岐松平右京様被二仰合一条数之写」(阿波藩資料)によると、 協定は一八条からなります。内容は、寛永21(1644)年より以後に逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したものです。
第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。
第16条では、「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では、「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」
特に18条は結婚と養子を禁止した厳しいものです。この走人協定の目的は、百姓を村に縛りつけて労働力を確保しようとする江戸時代の藩政の常套手段です。「移動の自由」を認めていたら封建制は維持できません。
阿波国大地図 琴南の峠1

 讃岐の砂糖産業の発展して、阿波から砂糖車を絞るための大型の牛をつれた「かりこ」たちが阿讃の峠を越えてやって来て、砂糖小屋で働いていたと、いろいろな本には書いてあります。
しかし、阿波からの労働力の受入が禁止されていたとすれば、これをどう考えればいいのでしょうか。
 また阿讃国境の峠の往来は、管理されていたのでしょうか。番所などがあり、自由な往来が禁止されていたのなら、多くの阿波の人たちが商売や金毘羅詣でにやってきたというのも怪しくなってきます。
DSC08485

  勝浦村奥には真鈴の集落があります。
ここから真鈴峠を越えて阿波に入ると瀧口には、徳島藩の番所があったことが絵図からも分かります。また、何か事件があると重清越番所が置かれました。しかし、領民の通行はほとんど規制されなかったようです。商人や馬方は自由に往来し、百姓も日帰りの旅は黙認されていたようである。両国境の往来の自由がうかがえる資料を見てみましょう

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文化四(1807)年6月20日、勝浦村の多賀次郎が、阿波の勢力村の内田池で、溺死しかかるという事件が起きています。
この事件について勢力村の取立役与惣次が、次のような手紙を、勝浦村の庄屋佐野直太郎に送っています(「牛田文書」)。
一筆致二啓上一候。大暑の潮に御座候得共、弥御健勝に可被成二御勤一旨、珍重に奉存候。然は其御村熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す仁、三人連にて用事に付、昨日当国へ罷越候趣、然る処当村内田池の縁を通り懸り、暑さに堪え兼ね水を浴び候迪、多賀次郎と申仁、落込申すに付、池水抜放し筏井桐を張り、大勢相並び相い入り申す内、右鹿蔵と申仁、知らせに被二罷帰一候由、
 其内追々相入り、尋ね当り引揚け、医師等相配り、彼是手当致候得共、何分大切に相見え申す折柄、 親類中数人被罷越・様々介抱被致候得共、 何分大切に付召連帰り養生仕度候間、指返呉候様被二申出候に付、 今少々養生被致候様申述候へ共、誠に怪我の義にて何の子細も無御座事故、片時も早く召連帰度、被指帰呉候様に、達て被申出候に付、無拠、乍大切中指帰し申候。
前段の通り何の子細も無御座親類中召連被帰候義にて、当方役所へも不申出、内分にて右様取計申候。然共大切の容然にて連れ被帰候事に候へば、兎角助命の程無覚東奉存候。依之内分の取計には候へ共、御他領の御事故、当地にての有し姿の運、為御承知内々得御意度、如斯御座候。恐怪謹言。
               阿州勢力村取立 与惣次
六月十一日
  讃州勝浦村政所 佐野直太郎様
意訳して見ると
一筆啓上します。大暑の時期ですが健勝でございましょうか。
早々ですが、そちらの村の熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す者が三人連で、昨日当国へ参りました。そして当村の内田池を通りかかり、暑さに堪え兼ねて水を浴びをしていましたところ、多賀次郎と申す者が、池に落ちました。そこで、池の水を抜いて筏を浮かべ、大勢で並んで探しました。
それを鹿蔵と申す者が、そちらに知らせに帰ることになりました。捜索を続けていると、人らしき感触があったので引揚け、医師を呼び、手当を致しましたが危篤状態です。親類の数人に来ていただいて、何分大切に連帰り養生した方がよいと医者も申します。
中略
 親類が連れ帰ることについては、当方の役所へも届けずに、内分に取計うつもりです。しかし、容態は良くはないので動かせば、せっかく助かりかけた命も覚束なくなる恐れはあります。内分の取計ですので、他領の御事故ですので御承知していただければ幸いです。恐怪謹言。                      

このあと勢力村の取立(村役人)与惣次が心配したように、多賀次郎は亡くなります。佐野直太郎はこのことを伝えると共に、勢力村の与惣次に深謝する手紙を送っています。それの控えが残っているようです。
 百姓にとって池の水を、最も大切にしなければならない6月末に池の水を抜いて、多賀次郎を助け上げ、十分に養生するように申し出てくれた勢力村の人々の好意を、活かすことができなかったようです。勝浦村の人々の脳裏には、これ以上の迷惑を掛けることを恐れるとともに「御国の御作法」である「走人協定」が重くのしかかっていたのかもしれません。
 ここからは勝浦の百姓3人が自由に阿波に移動できている様子がうかがえます。しかし、正式な裁きになった場合には、厳しい取り調べを受け処罰されることになったようです。そこで、国境を越えた村役人同士は、お上には届け出ずに「内済」で済ませる道を選んだようです。つまり、法的には禁止されているが、国境の往来について取り締まりや規制は行っていない状態だったようです。手形を求められると云うこともなかったのでしょう。
以上を確認すると
  江戸初期の慶安二年(1649)に、阿波の蜂須賀藩と讃岐の高松藩の間で走人協定が結ばれた。それ以後、百姓の移住はもちろん、短期間の雇入れも、婚姻も表向きは認められなかった。しかし、商人の往米は自由であり、金毘羅詣りの往来も認められていた。
ということになるようです。
もうひとつ旧美合村には、阿波との特別の関係が認められていたようです。 
6 阿讃国境地図

阿波の三好郡と美馬郡は、上郡と呼ばれ、地形や地質上から水田ができにくい土地柄で、畑作地帯でした。藩政時代になって、帰農した武士で土着する者が多く、讃岐の国境近くにまで集落が開かれるようになります。しかし、穀類よりも煙草などの商品作物優先で食糧が少なく特に米が不足がちでした。
 徳島藩は、表高25、2万石、実高は45万石あったと云われます。その実高を生み出したのは、吉野川下流域の藍作りでした。徳島藩では商品作物としての藍作りを奨励し、米作りを抑える政策をとります。そのため阿波の上郡一帯の人々は、阿波国内から米を買い付けることが難しい状況になります。ちなみに藍や煙草栽培で、経済力を付けた百姓達上層部の米需要は高くなります。彼らは、国境を越えた讃岐の米に期待し、依存するようになります。
勝浦や中道村は、年貢は金納だった
一方、高松藩の宇多津の米蔵から遠く離れていて、交通も不便であった阿野郡南の川東村では約130石、鵜足郡の勝浦村では約20石、中通村では約10石の米が、金納(平手形納)されるようになります。

例えば鵜足郡の造田村は、水利や地性が悪く良質の米が取れなかったので、毎年200石の年貢米を現米買納の形で金納していました。これらの村々は、米や雑穀を売り払い、藩の定めた米価で金納しなければならなかったのです。しかし、それだけの米の販売先が周辺にはありません。これを買ってくれるのは、阿讃山脈の向こうの三好郡と美馬郡の米問屋たちです。そのために米と雑穀は、峠を越えて、阿波の上郡へ売られていきます。これを高松藩は容認していたようです。
高松藩の食料政策は?                                                 
 高松藩では、年貢米と領民の食糧を確保し、領内での米価の安定を図らなければなりません。それに失敗すれば一揆や打ち壊しが起きます。そのために通用米や雑穀の藩外への流出については、厳重な取り締りを行うとともに、他藩米の流入についても関心を払っていたようです。
文化四(1807)年9月、高松藩は、「御領分中他所米売買停止」の御触れを出し、これに対して、勝浦村庄屋佐野直太郎が、次の誓約書を差し出しています。
他所米取扱候義御停止の趣、
兼て被二仰渡一も有レ之候に付、当村端々に至迄、厳敷申渡御座候。此度又々被レ入二御念一の被二仰渡一候につき、 尚又村中入念吟味仕候得共、右様の者決て無二御座一候。若隠置、外方より相知候へば、私共如何様の御咎にても可レ被二仰付一候。為二後日一例て如レ件。
文化四却年九月                  佐野直太郎
               市 郎
               甚 八
               加兵衛
中手恒左衛門様
岡田金五郎様
秋元加三郎様
意訳すると
他所との米取扱停止の件について
このことについて、当村でも村の端々にまで伝えて、申し渡しました。この度の件について、村中で入念に吟味いたしましたが、このような者が決して出ぬようにします。もし、そのようなことがあれば、私共はどんな御咎もお受けする覚悟でございます。何とぞ、今までのように特例認可をして頂けるようにお願いします
文書内容が抽象的で意味が掴みにくいのですが、当時の状況から補足して解釈すると、
①文化四年の作柄が豊作で、領内の米価下落傾向にあった
②そのため他所からの米の買付業者が横行した
③対応策として、他所との米取扱停止の通達を高松藩が出した。
ということでしょうか。しかし、これでは年貢米を金納している「まんのう町国境の村々」は、やっていけません。そのために、事情を説明し特別許可を認めてもらうのが従来からのパターンだったようです。この時も、申請者には阿波の業者への販売許可が下りたようです。
 特例が認められた村では「刻越問屋」の発行した証明書を添えて、年貢量と同じだけの米の売却が許されました。しかし、これに便乗して通用米を「他所売り」するものが、多数いたようです。実際に認められた以上の石高の米が、美合地区から阿波の上郡に運ばれていたようです。
馬方とは - コトバンク

讃岐で売られた米を阿波へ運ぶ峠道の主役は、阿波の馬方たちでした。
三頭・二双・真鈴の峠を越えて讃岐に入り、買い付けた米を引き取るために阿波の馬方は吉野上村の木ノ崎にあった高松藩の口銭番所の近くまで姿を見せていたようです。流石に、ここには高松藩の番所があったので、ここから北には足が伸ばせなかったようです。

 阿讃の峠道は決して安全なものでなかったので、絶えず道普請が行われていたようです。
文政10(1827)年秋、勝浦村の八峯に新しい掛道が造られます。触頭の加兵衛と、徳兵衛。仁左衛門・銀太が中心になり、阿波の馬方数人が手伝って完成させたようです。新道ができると、阿波からの米買いの馬方が、次々と通るようになります。
 これに対して八峯免の与市右衛門と弥平が、通行の峠馬や馬方に、畑を踏み荒らされると訴え出ています。勝浦には阿波美馬・郡里の真宗興正寺派安楽寺の末寺長善寺がありました。この寺が土器川沿いに興正寺派が教線を伸ばしていく拠点の寺院となったことは以前にお話ししました。大きな茅葺きの本堂があったのですが、最近更地になっていました。
 与市右衛門と弥平が、馬に畑を踏み荒らされるとが訴え出られた長善寺の院住や御林上守の岡坂甚四郎は、なんとか内済にするよう尽力しますが話はまとまりません。そこで、冬も迫った11月23日に大庄屋の西村市太夫がやってきて言い分を聞きます。「畑が踏み荒らされると御年貢が納められない」という主張に屈して、
「新掛道の入口であるあど坂という所へ、幅一間から一間半の水ぬきを掘り、両縁を石台にしてささら橋(小橋)を掛け、牛馬を通さない」

ようにすることで両者を和解させました。
 そして今後のことは、八峯免全員の協議で決めるよう説得します。
市大夫は最後に
「あど坂から少し入った所に百姓自分林がるわな、ここを下し山(木を切り降ろす)時に、木馬が通るには土橋があった方が便利なわな。その時はみんなで協議して土橋にしたらええがな」

と、一本釘を打つことも忘れなかったようです。ささら橋は、間もなく土橋に架け替えられて、馬方の鈴の音が絶えることのない馬方道になったと伝えられます。
馬子唄」と「馬方節」 - 江差追分フリークのブログ

文政12(1829)年から、川東村の馬廻り橋の架替え工事が始められ、天保2(1831)年12月に、普請が終わっています。
この際の橋の工事帳(馬廻橋村々奇進銀入目指引丼他村当村人足留帳:「稲毛文書」)には、
「総人夫 595人 総費用 608匁8分」

とあります。その中には阿波馬方分として 銀62匁が含まれています。総費用の1/10は、阿波の馬方が負担したことが分かります。
 ここからは次のような事が分かります。
①19世紀になると経済的な発展に伴い阿讃交易も活発化し、金毘羅詣の人々の増加と共に峠道を越える人や馬は急増した。
②しかし、峠道は以前のままで狭く悪路で危険な箇所が数多くあった
③それを地元の有力者が少しずつ改修・整備した。
④それには阿波の馬方からの寄進も寄せられていた。
二双越

   立石峠(二双越)には、いまはモトクロス場が出来て休みの日はバイクの爆音が空に響く峠になっています。かつて、馬を曳いて峠越えをしていた馬方が見たら腰を抜かすかもしれません。峠を阿波分に少し下りた、高さ二層を超す立派な庚申仏と、地蔵仏が建ています。

二双越の地蔵

地蔵尊は像高1.32mで、小さい地蔵尊を左の手に抱き、右の手に錫杖を持っています。高さ1,8mの三段の台石の正面から左右にかけて、阿讃両国の関係者の名前が刻まれています。
二双越の地蔵2

小さい地蔵を抱いた石像には嘉永六(1853)年十月吉日の文字が読み取れます。金毘羅大権現に金堂(現旭社)が姿を現し、周辺の石畳や灯籠などの整備が進み参道の景色が一変し、それまでにも増して参拝客が増えていく頃です。ここを通る馬方は、この二尊像に朝夕に祈りを捧げ、峠道を越えていったのかもしれません。

立石越

 この当時までは、三頭峠よりも二双越や勝浦経由の真鈴越えが阿波の馬方達にはよく利用されていたのではないかと、私は考えています。古い絵図を見ると三頭越えが描かれていないものもありますが、立石峠(二双越)は、必ず描かれています。三頭越えが活発に利用されるようになるのは、以前にお話しした幕末から明治維新にかかての智典の三頭越街道の整備以後なのではないかと思うようになってきました。
立石越(二双越)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

明治元年に、阿波の若者が金毘羅さんに「武者修行」にやってきています。
『慶応四(1868)辰のとし 無神月 箸蔵寺金毘羅参詣道中記並に諸造用ひかえ』と記され記録が、麻植郡美郷村東山の後藤田家に残されています。金毘羅さんの参拝ついでに、讃岐の道場を訪ねた記録です。見てみましょう。

6 阿讃国境地図
 無神月廿三日早朝出立、
川又(美郷村)より川田(山川町)通りにまかりこし 
市久保(山川町西川田)にてわらじととのえ、岩津(阿波町)渡し(吉野川の渡し)越す、このころ時雨にあいおおいに心配いたし九ッ(正午)ごろより天気晴れ安心いたし候。
それより脇町を通り新馬場より塩田荏大夫に出合い川原町まで同道いたし候、川原町追分、南がわの茶屋にて支度いたし候、さいはふくろさよりなり、おかかふとりよるもの、子供三皆女なり。
 それより郡里へ通、沼田原に山頭山御祭、かけ馬、角力おおはずみ、それより昼間光明寺にて紙を買う代壱匁(銀銭単位)なり、それより箸蔵山へ登り候、ふもとにて日暮れにあい及び候、箸蔵寺へ着いたし、上の間十枚敷へ通り、岩倉村人、土州人、くみあわせ弐十人ばかり、なかに岩倉の娘、穴ばち摺ばち取りまぜ六人はなはだぶきりょうものなり
  意訳すると
慶応4年10月23日の早朝に美郷村東山を出発。
川田(山川町)を抜けて、市久保(山川町西川田)で草鞋を整えて、岩津(阿波町)の川渡場で吉野川を越える。このころまで時雨も上がり、九ッ(正午)には天気も晴れてきた。脇町を通り、新馬場で塩田荏大夫に出合い川原町まで一緒に同道した。川原町追分の南がわの茶屋で食事をとった。おかずは「ふくろさより」で、おかみは太っていて、子供3人はみんな女であった。
 ここから郡里へ入ったが、沼田原で山頭山の御祭に出会った。草競馬や、角力で大賑わいであった。さらに昼間の光明寺で紙を買った。代は壱匁(銀銭単位)であった。 昼間から箸蔵寺へは登りになるが、ふもとで日が暮れて、暗くなって箸蔵寺に就いた。案内されたのは上の間の10畳ほどの部屋で、ここに岩倉村や土佐の人たち20人ほどの相部屋となった。岩倉村の娘達は不器量であった。
 この剣士(?)は、城下町に住む武士ではないようです。田舎で剣術を習っている若者のようですが年齢などは分かりません。食べ物と女性への関心は強そうなので、まだまだ人間的にも修行中の若者のようです。
さて、初日の記録からは次のような事が分かります。
①旧暦の9月に慶応は明治に改元されています。出発日は慶応4年10月23日と、記されていて明治の元号を使っていません。ちなみにグレゴリオ暦では1868年10月23日が明治への改元日になります。どちらにしても、明治になったばかり激動の時代の金毘羅さん詣りです。どんな変化が見られるのか楽しみです。

②箸蔵までのルートは次の通りです。
美郷川又 → 山川 → 岩津で渡船 → 脇町 → 郡里 → 昼間 → 箸蔵寺

岩津の渡船で吉野川を渡り、撫養街道を西へ進んで行き、夕暮れに箸蔵寺に着いています。脇町方面からだと郡里から三頭越えで美合に下りた方が近道だとおもうのですが、箸蔵経由のコースを取っています。 
③これは箸蔵寺が参拝者へのサービスとして、宿を無量で提供していたことがあるのかもしれません。この日も20人ばかりの人たちが、箸蔵寺の用意した部屋を利用しています。その中には娘達もいたようです。娘達の旅とは、どんな目的だったのか気になります。
箸蔵街道をたどる道 3 | みかんやさんのブログ

 箸蔵寺は、江戸時代後半になってから
「金毘羅さんの奥社・金比羅詣での両詣り」

をキャッチフレーズに、金比羅詣客を呼び込むための経営戦略を打ち出し、急速に寺勢を伸ばします。その際に活躍したのが、箸蔵寺周辺を拠点としていた修験者(山伏)たちです。彼らは先達として、参拝客を誘引すると共に、箸蔵街道の整備や勧進活動も行います。その結果、
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 石仏越 → 財田・山脇

をたどる箸蔵街道がこのエリアの阿讃峠道の主要ルートになります。それが明治の猪ノ鼻峠を越える四国新道につながっていきます。
4 阿波国図 15

10月24日前半 箸蔵寺から金毘羅さん参拝までへ
翌日廿四日出立いたし、土州もの三人連れ同道にて荒戸様を下り、荒戸越え道の左手に小さき池あり、いちえん、はちす(蓮)なり、その池に十八、九の娘、米を洗い候、彼(彼女の意)に、この蓮根に穴あるやと尋ね候えば甚だ不興の鉢(体)なり。
 それより同処ヒサノヤ利太郎宅にて休足(休息)いたし候、ゆべし(柚餅子)にて茶をくれ候、さいは白髪こぶ、竹わ、ふ、なり、小皿つけなり、おかか随分手取り(やりて)なり。
半道(一里の半分)行き追上村小さき茶屋あり、川より西、小百姓とおぼしき南に弐拾五、六女、同年ほどの男だんだんくどきを言い甚だ困り入り候おもむきにあい見え候。

 彼所より拾丁ばかり参り候えば小さき菓子物みせに三拾ばかり夫婦あり、この所にてわらじ弐足代壱匁三分にて買い求め、それより阿波町へ指しかかり象頭山参詣(金毘羅まいりのこと)方々拝見広大なり。
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
意訳すると
翌日24日に箸蔵寺を出発する。途中は昨夜同宿した土佐の三人連れと同道して、山脇集落から荒戸に下った。荒戸越えの道筋の左手に小さな池があり、一面に蓮が咲いていた。その池に十八、九の娘が米を洗っていたので「その蓮根に穴はあるのか」と尋ねると、不機嫌そうな仕草をした。
 荒戸のヒサノヤ利太郎宅で昼食休憩し、ゆべし(柚餅子)と茶を飲んだ。おかずは白髪こぶ、竹輪、ふ、なり、小皿つけであった。女将は随分のやり手だった。
 半道(2㎞)ほどいくと追上村に小さな茶屋があった。そこから川より西側で、小百姓らしい身なりの25歳前後の女が、同じ年頃の男に言い寄られて、困っている様子に見えた。
そこから10丁程進むと小さな菓子物店を、30歳ほどの夫婦が経営してた。ここで、わらじ2足代壱匁三分で買い求めた。そこから金毘羅さんの阿波町へ入り、象頭山参詣(金毘羅まいり)を果たした。いろいろなところを拝見したが広大である。
ここでも女性に、ついつい目が行ってしまうのを止められないようです。金毘羅への道は
箸蔵街道を 箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 山脇 → 荒戸 → 追上 → 樅の木峠 → 買田 → 阿波町

を経て、阿波街道のゴールである阿波町に入っています。金毘羅参拝の報告については、極めて簡略です。江戸時期の庶民の残した旅行記の大半は、途中までの行程は記しますが、その神社や寺社の内部を詳しく記す物はほとんどありません。それがどうしてなのか、私にはよく分かりません。
 旧高松街道 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
10月24日後半 高松街道を金毘羅さんから栗熊まで
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
髙松街道 高篠 祓川から見坂峠2
はらい川(土器川)周辺の髙松街道

それより八栗寺へこころざし参り候ところ、はらい川を越え候ところ五十ばかりの男、道連れになり、いろいろ、はなしいたし、それよりなごり坂(残念坂)へさしかかりこの坂、名残坂とは如何して言う、いわくこの坂、名残坂と申すは諸国の人々、金毘羅内金山寺町等にて段々、がいに狂いいたし帰るさいに、この坂より見返り、この坂、越え候得ば一向あい見え申さず候故なりという

 それより少し行く道のこの手に木村と申す太家あり、それより栗熊村へ指し懸り山路岩太郎と申す剣者の内へまかりいで あいたのみ候えば十七、八の前髪たちいで父、岩太郎居合わさず候故、ことわり申され、それより三丁半東、同村桜屋吉郎内へ参り泊り候処、
加茂村の者老人下駄商用に参り泊り合わせ申し候。
 その夜、村中の若もの四、五人参り、色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄るり、色々あるにあられぬたわむれ。おもしろしく 
さて桜屋ふとんうすく小さし、
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
意訳すると
 それより榎井に入り、土佐占領軍の駐屯地を過ぎ、西山豊之進殿宅へうかがった。内室(奥さん)が出てきて云うには道場主の豊之進は、土佐の駐屯地へ詰めていて、夕方に帰ってくるかどうかも分からないとのことで、御気の毒に存じますとのこと。それならばと山神権吉様宅へうかがうことを告げると、剣者が1人いるだけとのことで諦めることにする。
残念坂からの象頭山 浮世絵
狭間の残念坂からの象頭山金毘羅

 狭間の残念坂を越えて、高松の八栗寺へ向かおうと、はらい川(土器川)を越えた所で五十歳ほどの男と道連れになり、いろいろな話をした。それによると、今から登る坂をなごり坂(残念坂)と呼ぶのはどうしてか知っているかと聞かれる。男が云うには「この坂を名残坂(残念坂)というのは、諸国の人々が金毘羅の色街・金山寺町で精進落としと称し、酒に酔い、大いに羽目を外して、帰る際に、この坂より今一度金毘羅さんを見返りる。しかし、この坂を越えれば平素の顔にもどっている。だから残念坂というそうだ。
打越坂 見返坂 残念坂.jpg金毘羅参詣名所図会
     見返坂(残念坂)金毘羅参詣名所図会
 
狭間より少し行くと木村という大きな家がある。さらに行き栗熊村の山路岩太郎という剣者の家を訪ね、手合わせを頼むが出てきたのは十七、八の前髪の若者で「父、岩太郎は不在です」と断られた。仕方なく、三丁半東の、同村桜屋吉郎の宿に泊る。加茂村老人で下駄商用も泊り合わせたので、その夜、村中の若もの四、五人がやってきて色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄瑠璃などで戯れ時を過ごした。桜屋のふとんは薄く小さい。そこで一句
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
  当時の琴平は、土佐軍占領下にあり土佐兵が、天領だった榎井に進駐していました。新時代の情勢変化などに興味を持つ者であれば、その辺りのことも記録に残すと思うのですが「土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ」と通り過ぎるだけです。この辺りが武士ではないので当事者意識がなく、緊張感もないのかなあと思えてきます。
 当時の金毘羅をめぐる情勢を見ておくと、
この年の初めには、土佐軍が金毘羅を軍事占領し、土佐軍の支配下に置かれます。そして金毘羅金光院に軍用金差出を命じます。そして、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城・高松藩征伐と続くのです。土佐藩軍政下の金毘羅の様子を知りたかったのですが、そのことには一切触れられません。ノンポリのようです。ちなみに金毘羅が土佐藩鎮撫から倉敷県管轄となるのは、翌年のことです。
 彼は榎井の道場を訪ねていますが、榎井だけでも2軒の道場があったようです。幕末には武士だけでなく、庶民にも武道熱が高まり、城下町の道場以外の郡部にも道場があったことが分かります。この日は3軒の道場を訪ねますが、手合わせは適いませんでした。夜は栗熊の宿で、同宿者や村の若者と若者らしく他愛もないものに興じて時を過ごしています。④以外は、私は初めて見るものです。
① 咄(はなし)さいもん、
②あほだら経
③ちょんがり
④浄瑠璃」を楽しんだといいます。
辞書で調べてみることにします。
①は浪花節のことのようです。「江戸末期、大坂に起こった、三味線を伴奏とする大衆的な語り物。明治以降盛んになった。説経祭文(さいもん)から転化したもので、ちょんがれ節、うかれ節などとも呼ばれていた。語られる内容は多くは軍談・講釈・伝記など」と記されます。当時の流行のはしりだったようです。③も浪花節の変種のようです。
②は江戸時代中期に、乞食坊主が街頭で行なった時事風刺の滑稽な俗謡。「ちょぼくれ」ともいわれ、ほら貝などを伴奏にし,戸ごとに銭を請うたとあります。
  旅の目的が道場巡りから演芸交流になっているようで、他人事ながら心配になってきます。

10月25日はいか(羽床)村。
上総琵之助先生方へ参りあい頼み候ところ、おりよく兄弟両三人居合わせ段々取り持ちくれ御業(わぎ)つけくだされ兄弟稽古いたしくれ、また御茶漬くだされ色々御留めくだされ家内壱統、情深き人々なり、それより滝宮参詣いたし、
それより未(陶)村不慶丈太夫先生へ参り、是は高松領随一短槍名人なり、おりあしく居合わさずそれより五丁ばかり北山手に上田四郎兵衛先生方へ参り候処、居合わせ候得共  ??   」』と、以下紙が敗れ造用ある。
意訳すると
配香村(羽床村)の鞍馬一刀流 上総荏之進先生の道場を訪ね、お手合わせを頼むと折良く、兄弟3人が在宅で、稽古をつけてくれた。また稽古の後はお茶漬けまでいただくなど、情け深い家族であった。その後、滝宮神社の参拝後に、陶村の不慶丈太夫先生の道場を訪ねた。先生は高松領随一の短槍名人だが不在であったので、そこから五丁ばかり北にある上田四郎兵衛先生方を訪ねた・・・・・・』

ここまでで「以下紙が敗れ造用」とあります。記録はここまでのようです。この旅で訪ねた道場を挙げると、次のようになります。
讃州那賀郡金毘羅榎井町   西山豊之進
              山上権六
        栗熊村   山路岩太郎
配香村(羽床村)鞍馬一刀流 上総荏之進
              上総辰之助
              津田久之助
  未(陶)村 直神影流  不慶丈太夫
     同        上田四郎兵衛
幕末の讃岐にも郡部には、これだけの道場があり庶民が武術に腕を磨いていたことが分かります。しかし、明治維新の政治的な変動や緊張感は伝わってくるものがありません。阿波や讃岐の庶民にとって、明治の激動は遠い世界の事だったのかもしれないと思えてもきます。
 後藤田氏は、5年後の明治6年にも金毘羅まいりを行っています。その良きに残した記録には、
「こうしておまいりができるのは、一つには天の助け、二つには先祖恵みの功によりなりあがたき仕合わせに存じ奉り候』
と結んでいます。

参考文献       
猪井達雄       阿波吉野川筋からのこんぴら参り古記録  ことひら39号 昭和59年

5借耕牛 写真峠jpg
        阿讃の峠を越える借耕牛
阿波の美馬,三好地方で「米牛」と呼ばれる借耕牛の習慣は,江戸中期から始まったとされています。
農耕用の牛は一年中、働き場所があるわけではありません。春秋の二李,(田植期と収穫期)のみが出番です。そこで、美馬・三好両郡の山分で水田に乏しいソラの農家が,自分の家の役牛を農耕用として讃岐の農家へ貸します。そのお礼に、おいしい「讃岐米」の俵を背に積んで帰ってきました。今回は借耕牛(米牛)について見ていくことにします。テキストは「借耕牛の研究」四国農事試験場報告6号381P~(1962年)」です。これは、PDFfileでダウンロード可能です。

借耕牛が成立するには次のような背景がありました。

借耕牛登場の背景
これに対して、阿波には山の上に広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。

借耕牛 美馬郡の腕山牧場
阿波のソラの集落には広い放牧場があった。 
また、美馬や三好地方の田植は5月ですが、西讃地方の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったようです。

 そこで、この間を橋渡しする仲介業者が現れるようになります。

借耕牛取引図3

貸方の阿波農家と,借り方の讃岐農家の間に入って牛の仲介する博労を美馬郡では俗称「といや」、さぬきでは「ばくろ」と呼んでいました。「といや」が中に立って牛を連れて行く場所と日時を決めます。
それが讃岐側の塩江の岩部、まんのう町の美合や塩入、財田の戸川でした。そこに借り手と貸し手と牛が集まってきます。ここで仲介人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で讃岐側の借主が牛をつれて帰りました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
  このような光景が、まんのう町の塩入や美合でも見られたのです。

山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年発行)には、塩江の岩部の当時の様子が次のように書かれています。 
 先のとがった管笠をかむって ワラ沓をはいて 上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから牛はやってきた
朝 登校の途中でこの牛の群れに出会うと わたしたちは小さい溝を飛び超えて 山手の方に身を避けた 牛の群れが立てた往還のものすごい土ぼこりを 山から吹きおろした青嵐が次々と香東川の清流の中へ消していった
借耕牛 12
 讃岐にやってきた阿波の牛

 岩部(塩江温泉周辺)の里は一ぺんに活気づいた 牛追いさん 受け取り人 世話人(口入れ人) 牛馬商が集まってきて 道も橋も牛と人で一ぱいになった うどん屋も 宿屋も 料理屋も押し合いへし合いで 昼のうちから三味線の音が聞こえ 唄声が流れた
 
借耕牛 美合
美合(まんのう町)に集結した牛たち
借耕牛のせり
競りにかけられる牛たち

 田植えが済んで牛が帰るころは もうかんかん照りの真夏であった 借耕牛は米牛とも呼ばれ 米を何俵ももらって帰ったものだ 塩ざかなを角に掛けた いわゆる「角みやげ」をもらった牛もいる 
 かわいそうに使いぬかれて やせ衰えた牛もいる 讃岐でお産をして可愛い子牛と一しょに帰る牛もいた  
 それらが帰ってしまうと 岩部の里は 一ぺんに静かになって 長い冬がやって来るのであった
どうして阿波からの借耕牛がやってくるようになったのか?

借耕牛 美合落合橋の欄干
美合(まんのう町)の落合橋の欄干
ここには次のような発展段階があるようです。
5借耕牛 発展段階
①江戸時代に、阿波の男達が農繁期に「カルコ」として出稼ぎにやってきていた。
②幕末期に讃岐の砂糖製造が軌道に乗ると、砂糖絞りのための牛の需要が増大した。これには小さな讃岐牛は不適で、大型で力のある阿波牛が適していた。
③「カルコ」たちが牛を連れてやってきて、砂糖絞り車で働き始めた。
 借耕牛以前に「人間の労働力移動(出稼ぎ) → 砂糖牛の移動」という段階があったようです。

明治になって借耕牛が増えたのは、どうしてでしょうか?

借耕牛 増加の背景

次のような背景を研究者は考えているようです。
1 阿波側の藍栽培の衰退
阿波の特産品と云えばでした。しかし、明治34年からの合成藍の輸入で急速に衰退します。その結果、藍輸送用の牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
 2 代わって明治になって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
葉煙草には、牛堆肥が最良の肥料です。牛肥を得るために、煙草農家は和牛飼育を始めます。こうして三好郡の役牛数は増加します。藍の衰退による「役牛大量失業」と葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。例えばまんのう町の美合には

煙草作りの牛肥確保のために、讃岐の牛を農閑期に預かっていた

という古老の話が残っています。明治15年頃の話ですが、阿波側は田植えを早く済ませると零細農家の男達もは讃岐へ出稼ぎに行っていたのは、先ほど紹介したとおりです。彼らは牛のいない農家です。そのため田植えが終わって帰る時に、讃岐の雇主の牛を預かって帰り、夏草で牛を飼い堆肥を作って、秋に牛を返すときに自分も働いて帰っていたというのです。牛の飼い賃としては、米・綿・砂糖・煮干しをもらったそうです。
 3 讃岐の農業事情 砂糖・綿花が香川から姿を消すのが明治末。
 藍が衰退したように外国からの輸入で、サトウキビや綿花の栽培も経営が行き詰まります。そこで、綿花や砂糖黍が作られていた土地が再び水田化され、米麦集約栽培の単調な農業経営へ変わって行きます。さらに、満濃池の増築など農業水利の整備で、畑の水田化も進み水田面積が急増します。こうして、牛耕需要は高まります。江戸時代から借耕牛を利用していた家の周辺でも「うちも来年からは、お願いしたい」という声が中継人に寄せられるようになります。

    4 阿波の畜力事情   牛馬の所有率が高い阿波の農家 

借耕牛 阿波の牛馬普及率

上表からは、江戸時代の文化年間(1789~)の阿波の和牛普及率は7~9割で高いことが分かります。特に、ソラの集落では各農家が早くから牛馬のいずれかを買っていました。その背景は、藍による資本蓄積が進んだ明和時期(1770年)に普及率が急増したことがうかがえます。藍バブルで儲けたお金を牛の購入という生産性の向上に着実に投資したようです。
     それに比べて西讃地方の牛普及率はどうでしょうか?

西讃府誌 牛馬普及率

西讃地方の牛馬普及率(西讃府誌

    普及率が高い三野郡でも5割に達していません。平均4割程度で、阿波に比べると牛馬の普及率が半分程度であったことが分かります。この「格差」が牛の移動をもたらした要因のひとつのようです。
  それでは、どのくらいの牛が峠を越えて讃岐に出稼ぎにやってきていたのでしょうか
 
5借耕牛 阿波貸し出し頭数

ここには最盛期の昭和10(1935)年と戦後昭和34(1959)年の三好郡と美馬郡の各村ごとの牛の飼育頭数と貸出牛数が記されています。ここからは次のような事が分かります。
①三好郡と美馬郡でそれぞれ1800頭前後で、合計約3500頭が借耕牛として阿讃の峠を越えていた。
②香川県の美合村や安原村からも借耕牛が出ていた
③三好郡で貸出率が高いのは、三縄・井内谷・箸蔵で7割を越えている
④美馬郡で貸出率が高いのは、端山や一宇でソラに近い村の方が高い傾向が見られる。
 「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになった明治になると、借耕牛は急激に増えたようです。そして、戦前直前の1940年頃には毎年約4000頭が阿讃の峠を越えて讃岐にやって来たようです。それは美馬三好両郡で飼育されていた牛の頭数の約半数になるようです。

最盛期の借耕牛の移動を図示化したものです

借耕牛の阿波供給地
借耕牛の移動図

  ここからは、阿波のどの地域からどの峠を越えて、讃岐のどの地域へ借耕牛が貸し出されたかが分かります。そして、次のような牛の移動ルートが見えてきます。
①美馬郡 → 相栗峠→岩部口(高松氏塩江町)
     → 三頭峠→美合(まんのう町)
     → 香川郡 高松平野
②三好郡  →東山峠 →塩入(まんのう町)→綾歌郡
                   →男山峠 →山脇(まんのう町) →仲多度郡
      →箸蔵街道 →財田(三豊市財田町)→三豊郡
 阿波西部の2つの郡から阿讃の峠道を越えた牛たちは、里の宿場に集結し、讃岐の借り手の家に引き取られていきます。

借耕牛 通過峠
(数字は、夏秋の合計)

戦前には約4000前後だったのが,高度経済成長期には約500頭まで激減します。それは耕耘機が現れたからです。いわゆる「農業の機械化」で、水田から牛の姿は消えていきます。

借耕牛のレンタル契約は?

借耕牛借用書2
昭和3(1928)年の借耕牛借用書右部分

借耕牛借用書3
借用契約書左部分
春は6月上旬から7月の半夏(はんげ)の頃まで1ケ月間
秋は11月上旬から12月上旬までの1ケ月間で,
給金として米俵二俵(8斗前後)を背に積んで帰りました。
5借耕牛 賃料の現金化移行写真峠jpg

しかし、上8を見ると分かるように大正時代になると、どの地域でも米から現金に変わっていったことが分かります。貨幣経済が本格的に浸透が、このあたりだったことがうかがえます。
春は1ケ月間,丈夫な牛で最高9,000円~最低4.000円
秋は1ケ月は,丈夫な牛で8,000円弱い牛で約4,000円
借耕牛 レンタル料推移

それでも、手ぶらで帰すのは様にならないので、帰りの牛の弁当として「よまし麦」を牛の荷肩に積むようになったようです。

借耕牛見送り 美合
阿波に帰る牛たちを見送る(まんのう町美合)
  こんな借耕牛の姿が見られたのも1960年頃まででした。農業の機械化が進み耕耘機が登場すると牛耕の時代は終わります。牛たちは田んぼから静かに姿を消しました。そして阿讃の峠を越える牛の姿もなくなったのです。
先ほど紹介した小野蒙古風の「句集 借耕牛」に載せられた句を紹介します  
  借耕牛 青峡下る草鞋ばき
  借耕牛 糶(せ)られつ緑陰に尿太し
  糶る牛 歩かせ値ぎめの指を握りあう
  幾青嶺超え来し牛か澄む瞳して
  牛貸して腰の弁当涼しみ喰う
借耕牛 落合橋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
2024年6月9日改訂版

讃岐に多い真宗。
その中でも興正寺派の割合が多いのが大きな特徴と言われています。
わが家も興正寺派。集落の常会ではいまだに正信偈のお勤めをする習慣が残ります。そんな讃岐への真宗布教の拠点のとなったのが阿波の安楽寺。かねてより気になっていたお寺を原付ツーリングで訪ねてみました。
美馬市 観光情報|寺町
   安楽寺
吉野川北岸の河岸段丘上に、寺町と呼ばれる大きな寺院が集まる所があります。三頭山をバックに少し高くなった段丘上に立つのが安楽寺。かつては、洪水の時にはこのあたりまで浸水したこともあったようです。吉野川を遡る川船が、寺の前まで寄せられたような雰囲気がします。 新緑の中 赤い門が出迎えてくれました。
イメージ 2
安楽寺の赤門

四国各地から真宗を治めるために集った学僧の修行の寺でもあったようです。
この門から「赤門寺」と呼ばれていたようです。
桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」

境内は手入れが行き届いた整然とした空間で気持ちよくお参りができました。
本堂前の像は誰?
安楽寺本堂 文化遺産オンライン

親鸞です。私のイメージしている親鸞にぴったりときました。こんな姿で、旅支度した僧侶が布教のために阿讃の峠を越えていったのかな。
ベンチに座りながら教線拡大のために、使命を賭けた僧たちの足取りを考えていました。
徳島県美馬市美馬町の観光!? | 速報 嘆きのオウム安楽寺

阿波にある安楽寺の末寺はすべて古野川の流域にあります。阿讃の山向こうはかつての琴南・仲南・財田町の讃岐の山里にあたります。この山越のルートを伝道師たちは越えて行きました。国境を越えるといえば大変なように思えますが、かつては頻繁な行き来があったようです。このためか中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は、山に近い所に多いようです。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像します。しかし、この時代の真宗寺院は、むしろ「道場」と呼ばれていました。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
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そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。



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