滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 奉納順①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年②阿野郡南条組(綾川町) 「子・卯・午・酉」の年③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町) 「申・巳・中・亥」の年④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町) 「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。
那珂郡七箇村組の組織表
坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。
中世阿野北条の郷名
寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
一 踊順左之通一 滝宮二社 七月二十五日一 前日廿四日 神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、寛政三亥年十二月高屋村 久次郎神谷村政所 恒蔵青海村政所兼務 渡辺五郎右衛門右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。
阿野郡北絵図(江戸時代前期)
ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分神谷村 五社大明神 同 村 立寺氏部村 鉾宮大明神 林田村 祇園宮江尻村 広瀬大明神 鴨 村 加茂大明神西庄村 別宮大明神〆 八ケ所
高屋村先備之分高屋村 春日大明神 同 村 崇徳天皇同 村 塩釜大大明神 同 村 遍照院林田村 惣社大明神 同 村 弁才天坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神〆 八ケ所
青海村先備之分青海村 白峯寺 同 村 崇徳天皇同 村 春日大明神 同 村 荒神同 村 厳島大明神 林田村 牛頭天皇福江村 魚御堂〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村②滝宮天満宮は、青海村③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)
以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部 林田 西庄 江尻 坂出 福江② 笠鉾 壱本 加茂村 但、上花色水引金揮、一 ほら貝吹 拾弐人 此人数増減御座候、神封左に在り一 日の丸 壱本 神谷村念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、一 半月 壱本 青海村一 長刀振 弐人 神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、③大打物役 二十四人 神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、一 入場太鼓打 壱人 神谷村 但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、一 太鼓持 壱人 同村 但、木綿薫物着用、一 同鼓打 神谷村 高屋村
但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、一 笛吹 弐人 但、右同断、一 下知 壱人 高屋村
但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、一 本太鼓打 壱人 高屋村 神谷村
但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、一 同 供 壱人 後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、④ 小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村
但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、⑤ 警固 三拾人 高屋村 神谷村 青海村
但、帷子絹、羽織・袴着用、杖⑥ 鉦打 五拾八人 高屋村 神谷村 青海村
但、単物帷子、羽織立付着用、⑦ 輪踊 百二十人 高屋村 神谷村 青海村
但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、⑧ 固役 大政所 小政所
但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵 拾弐本 氏部 林田 西庄 江尻 坂出 福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)
②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役 二十四人 神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。
両者に挟まれるようにあった龍燈寺
滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札
滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り関連記事