江戸時代の高松藩では、次の四つの踊組が滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)に風流念仏踊を奉納していました。 奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年②阿野郡南条組(綾川町) 「子・卯・午・酉」の年③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町) 「賞・巳・中・亥」の年④那珂郡七箇村組(まんのう町) 「丑・辰・未・戊」の年
この中の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、全体では3グループで三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。。
前回は、19世紀初頭に起きた北条踊りを巡る争論の調停書を見ながら、北条念仏踊りについて、次のようにまとめておきました。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②これらの10ヶ村で担当役割や人数や各寺社への奉納順が決められていたこと。
③7月25日の滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社25ヶ所へ奉納が行われていたこと
④役割配分や奉納順をめぐって争論が起きたが、それを調停する中で運営ルールが形成されたこと
⑤北条組の主導権を握っていたのは、青海・高屋・神谷村の三ヶ村であったこと
⑥その傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
⑦以上からは、北条念仏踊りは神谷神社周辺の中世在郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったこと
⑧そのプロデュースに、滝宮(牛頭天王)社の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしていたこと
阿野郡北条 高屋・青海村
調停書が出されて約10年後の文政元(1818)年7月の書簡史料には、次のように記されています。
一筆啓上仕候、然者、滝宮御神事念仏踊当年順番御座候、前倒之通来廿五日踊人数召連滝宮江人込御神事相勤候様仕度奉存候、御苦労二奉存候得共、各様も彼地者勿論郡内御出掛被成可被下候、右為可得其意如此御座候、以上、高屋 善太郎神谷 熊三郎青海 良左衛門七月十二日渡辺与兵衛 様渡辺七郎左衛門 様尚々、村々仲満共出勤の義并に出来之幡・笠鉾等、才領与頭相添、来二十四日朝正六ツ時神谷村神社へ相揃候様御触可被下候、又、道橋損の分亡被仰付可被下候、
意訳変換しておくと
①一筆啓上仕候、滝宮の神事念仏踊の当年の当番に当たっています。つきましては従来通り、7月25日に踊り込み員数を引き連れて、滝宮神前での奉納を相務めるよう準備しております。ご多用な所ではありますが、みなみな様はもちろん、郡内から多くの人がご覧いただけるよう、御案内いたします。以上、高屋 善太郎神谷 熊三郎青海 良左衛門なお、村々から参加者や幡・笠鉾など、道具類などについては組頭などが付き添うことになっています。24日早朝六ツ時に、神谷村神社に習合するように触書を廻しています。又、滝宮に向かう街道や橋などの損傷があれば修繕するように仰せつけ下さい。
滝宮への踊り込みは7月25日です。その2週間前の7月12日に、高屋・神谷・青海の各村庄屋の連名で大庄屋の渡邉家へ送られた書簡です。準備状況と、当日の出発時刻が大庄屋に報告されています。また、滝宮への街道で道路や橋に破損がある場合には、修理するように依頼しています。まさに、村々を挙げて一大イヴェントで、参加者には晴れ姿であったことがうかがえます。
この報告に対しての大庄屋渡辺家からの指示書が次の書簡です。
②以廻申入候、然者、三ケ庄念仏踊当年者順年二付、踊候段申出候、依之先例の通滝宮始村々江各御出勤可有之候、且定例出来り之幟・傘鉾も才領与頭相添、来二十四日正六ツ時神谷氏宮迄御指出可有候并に念仏踊通行の道橋等損有之候ハバ取繕等の分前々の通御取計可有候、一 先年ヨリ右踊者、三日ニ踊済来候所、近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも無益之失脚不少義二付、当年ヨリ滝宮江者之中入込、未明ヨり踊始候様致度候、兼テ三ケ村江者、右之趣申付御座候、各ニも朝七ツ時迄二御出揃可有之候、為其如此申入候渡辺与兵衛七月十四日鴨 氏部 林田 西庄 江尻 福江 坂出 御供所右村々政所中
意訳変換しておくと
③各庄屋からの書簡報告で以下のことを確認した。当年の滝宮への踊り込みは三ケ庄(高屋・神谷・青海)が順年で、先例の通り、滝宮や各村々への村社への奉納準備が進められていること。これについては、従来通りの幟・傘鉾を準備し、これに組頭が従うこと、24日六ツ時(明け方4時)に神谷神社に集合すること、念仏踊が通行する道や橋の修繕整備などを行う事。
一 もともと北条組の念仏踊は、各村社への踊りも含めて3日間で終了していた。それが近年になって4日かかるようになってきた。巡回日数が一日延びると費用も増大する。その対応策として今年からは夜中に滝宮入りして、未明から踊り始めることとする。(そして、滝宮から帰った後で、予定神社の巡回を確実にこなすことにする。)このことについては、かねてより三ケ村へは伝えてある。他の八村の政所(庄屋)も朝七ツ時(午前3時頃)には集合いただきたい。
以上のように、この年は滝宮での念仏踊の日程の短縮が図られたこことを押さえておきます。
3ケ村庄屋からの書簡を確認した上で、従来と異なる日程変更を申しつけています。
それは、従来からの踊り奉納は次のように決められていました。
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行い、その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
ところが「近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも・・・」と、3日でおこなっていた巡回が4日かかるようになったようです。これは、各村で行われる風流念仏踊り奉納が、庶民の楽しみでもあり、なかなか「打ち止め」できずに伸びたことが考えられます。
以前に見たように高松藩から大政所の心得として下された項目の中に、「村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮すること」とありました。渡邉家の大政所は、これを忠実に守ろうとしたようです。そのために、未明3時頃に集合して、滝宮に入って早朝から踊って、阿野郡に帰ってから、その日のうちに奉納先寺社を確実に巡回できるようにしようとしたようです。
そのため未明から踊り始めること、そのため当日の神谷神社への集合が変更したことの確認を再度、責任村の三ヶ村の庄屋に通達しています。
ここからは風流念仏踊りが庶民の楽しみで、できるだけ長く踊っていた、見ていたいという気持ちが強かったことがうかがえます。もともとは雨乞いのためではなく、各郷村で踊られていた風流踊りだったのです。人々にとって、楽しみな踊りで雨乞いに関係なく踊られていたからこそ起きることです。雨乞いのために踊られると言い始めるのは、史料では近代になってからです。
それでは、雨乞いはどこが行っていたのでしょうか?
高松藩の公式な雨乞祈祷寺院は、白峯寺でした。最初に高松藩が白峰寺に雨乞いを命じた記事は、宝暦12年(1762)のものです。雨が降らず「郷中難儀」しているので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。こうして白峯寺には、雨乞い祈願の霊地として善如龍王社が祭られるようになります。
白峯寺の善女龍王社
19世紀になると、阿野郡北条の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言二月和泉覚左衛門奥光作左衛門三木孫之丞宮井伝左衛門富家長二郎渡部与兵衛片山佐兵衛水原半十郎植松武兵衛久本熊之進喜田伝六寺嶋弥《兵衛》平漆原隆左衛門植田与人郎古木佐右衛門山崎正蔵蓮井太郎二郎富岡小左衛門口下辰蔵竹内惣助白峯寺様
意訳変換しておくと
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
こうして、白峰寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。そして周辺の村々からの奉納物や寄進物が集まるようになります。
ここで確認しておきたいのは、北条念仏踊ももともとは雨乞い踊りではなかったということです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献