弘法大師・丹生・高野大明神像(重文 金剛峯寺蔵)
高野山は、もともとは地主神・丹生津比売命のものであったのを、空海に譲渡したという話があります。この「丹生津比売命の高野山譲渡説」を、今回は見ていくことにします。高野山譲渡説を要約すると次のようになります。
空海は唐から投げた三鈷杵を探していたとき、 一人の猟師と出会い、ついで山人にみちびかれて高野由にのぼり、その山人からこの地を譲られた。そして、山上に三鈷杵をみつけだし、伽藍を建立するにふさわしいところをえたと大いに喜んだ。
この物語のように、いまも壇上伽藍の御社には丹生・高野両明神が祀られ、御影堂まえに「三鈷の松」があります。そのため、高野山に参詣して、この話を聞くとすんなりと受け止められます。
丹生明神からの譲渡説を、最初に記すのは『遺告二十五ケ条』で、以下のように記します。
万事連無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(かしこ)を看る。山の裏の路の邊りに女神有り。名づけて丹生津姫命と曰う。其の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝に託して曰く。
「妾は神道に在って、威福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国韓命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。願わくば、永世に献じて仰信の情を表す」と云々。如今、件の地の中に所有開田を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、足れなり。
『定本全集』第七 355~356P)
意訳変換しておくと
さまざまな仕事に追われて暇はなかったが、春と秋に必ず一度は高野山を訪れた。高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
これが「丹生津姫命の高野山譲渡説」が最初に出てくる史料です。これに「飛行三鈷杵」が合体された形で最初に出てくるのが『金剛峯寺建立修行縁起』になります。
金剛峯寺建立修行縁起
この書は「康保五年(968)戊辰6月14日 仁海僧正作」とありますが、実際に書いたのは、仁海の師・雅真のようです。雅真は高野山の初代検校で、天暦6(952)年6月に、落雷によって焼失した奥院の御廟を復興させた人物でもあります。その際に、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。その背景には、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うための、交換条件だったというのです。その交換条件とは、次の2つです。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること
この点について、触れた史料は何もありません。ただ、それがうかがい知れる史料はあるようです。空海の書簡を集めた『高野雑筆集』巻上に、高野山上の伽藍建設に着手するにあたって、以下の通り紀伊の有力者に援助を依頼した書簡があります。それを見ていくことにします。
①古人言えること有り。胡馬北に向い、越鳥南に栗くうと。西日東に更(かえ)り、東雲西に復る 物的叩、自ら爾(しか)り、人において何ぞ無らん。②之を先人の説に聞くに、我が遠祖遣馬(佐伯)宿禰は、是れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。③所以(ゆえ)に尋ね謁(まみ)えんと欲すること久し。然れども左右物の碍げあって志願を遂げず。消息何をかを曰わんや④今、法に依って修禅の一院を建立せんと思欲う。彼の国高野の原、尤とも教旨に允えり。⑤故に表を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して符を下したまい詑(おわ)んぬ。⑥故に表を以って一両の草案を造立せんが為に、しばらく弟子の僧泰範・実恵等を差しつかわして彼の処に発向せしむ。⑦伏して乞う。仏法を護持せんがために、方円相い済わば幸甚、幸甚。⑧貧道、来年秋月に必ず参ぜん。披調いまだ間あらず。珍重、珍重。謹んで状す。(『定本企集』第七 100~101P)
意訳変換しておくと
②先人の説によると、私(空海)の先祖である大遣馬宿禰(佐伯直)は、あなたの国の祖である大名草彦のわかれです③一度訪ねたいと久しく考えているが、あれこれさまたげがあつて、なかなか志を遂げられず、申し訳なく想っていること、④いま密教の教えに基づいて修禅の一院(密教道場)を建立したいと考えている。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えている⑤そのような訳で、上表文をしたため、天皇にに高野山下賜をお願いしたところ、早速に慈悲の心をもって許可の大政官符を下された、⑥そこでまずは草庵を造立するために、弟子の泰範・実恵を高野に派遣する、⑦ついては仏法護持のために、僧俗あいともに高野山の開創に助力たまわりたい、⑧私(空海)は、来年の秋には必ず高野に参りたいと考えている、
この手紙からは、空海の心情や行動がうかがえます。
まず、この手紙がいつ書かれたかを、研究者は押さえていきます。
この手紙には、日付もあて名もありません。そこで、研究者は本文から書かれた上限と下限が次のように推測します。まず、上限については、
「故に人を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して、符を下したまい祀んぬ。」
「故に人を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して、符を下したまい祀んぬ。」
ここに出てくるの表(上表文)・允許・符などの用語から、「弘仁7年(816)6月19日に提出した上表文と、下賜を維持した紀伊国司宛ての7月8日大政官符を踏まえた上で書かれていることが分かります。以上から、手紙が書かれた上限は、816年の7月頃とします。
次に下限は、次の文章に注目します。
貧道(空海)、来年秋月に必ず参ぜん。
空海が高野山へはじめて高野山に入ったのは、弘仁9年(818)の冬、11月16日のことです。12月日付の某宛て書状には、次のように記されています。
貧道、黙念せんがんに、去月(11月)十六日此の峯に来住す。山高く雪深くして、人跡一通じ難し。(『定本全集』第七 127P)
ここからは空海が11月16日に高野山に入山したこと、深い雪に遭って苦労されたことが分かります。同時に、有力者への手紙が書かれたのは、勅許後すぐの816年7月から8月にかけてのことだったことが推測できます。
次に、この手紙は誰にあてて出されたものなのかを見ていくことにします。
この問題を解く手がかりは、本文の次の部分にあります。
我が遠祖人遣馬(佐伯)宿禰は、足れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。
ここには「大名草彦」は、空海の佐伯直氏と先祖を同じくすると記します。大名草彦を先祖にもつ氏族の記録は、次の3つがあります。
①『新撰姓氏禄(しんせんせいしろく)』 弘仁6年(815)7月成立②『紀伊国国造次第』③『国造次第』 貞観16年(874)頃成立
研究者がここで注目するのは、どれもが紀伊国造家の紀直氏系譜を記す史料であることです。例えば③『国造次第』を見ておきましょう。
国造次第日前(ひのくま)国太神宮、天降しし時、天路根(あめのみちね)従臣として仕え始め、即ち厳かに崇め奉るなり。仍て国造の任を賜る。今、員観―六年甲午歳を以て、本書巳(すでに)に損するに依りて改めて写書す。国造正六位上広世直第一 天道根第二 比古麻 天道根の男第三 鬼刀爾第四 久志多麻 鬼刀爾の男 又名目菅第五 山成国土記ニ在リ 大名草比古(彦) 久志多麻の男第六 迂遅比古 大名草比古の男第七 舟本 迂遅比古の弟第八 夜郎賀志彦 舟本の男第九 日本記に在り 等与美々 夜郎賀志彦旗に久志多麻(『新接姓氏録の研究』 考証篇第四 216~217P)
五代目に「大名草比古(彦)」の名があります。この「大名草比古」は、紀直氏の実質的な始祖とされます。
それでは「大名草彦」にはじまる紀伊国造家とは、どんな氏族だったのでしょうか。
それでは「大名草彦」にはじまる紀伊国造家とは、どんな氏族だったのでしょうか。
紀氏は、現在の和歌山市を拠点にした豪族です。その信仰拠点の紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮です。
日前神宮と國懸神宮
①日前神宮の祭神は、日前大神で天照大神の別名だとされ、神体は日像鏡(ひかたのかがみ)で、思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)(鏡作連の祖)も祭られている。②國懸神宮は國懸大神を祭り、神体は日矛鏡で、玉祖命(たまのおやのみこと)(玉造部氏の祖)と明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)(神功皇后の祖)が祭られている。この二つの鏡は天照大神の八咫鏡と同じものだとされ、社伝にはこれらの鏡を作ったときの逸話が伝えられている。
この両神宮を奉斎するのが紀伊国造家です。天照大神の鏡と同等を主張しているので、天孫族より古い氏族だったことがうかがえます。紀伊国造家は、天道根命(あめのみちねのみこと)の嫡流を主張します。天道根は『先代旧事本紀』にある饒速日とともに来た32神の一人で、『姓氏録』には火明命の後裔とされます。ちなみに、国造制度が廃止された後に国造が許されたのは出雲と紀伊国造家だけでした。
両神宮の周りにかつてあった秋月古墳群が国造家の墓所とされます。
紀伊氏の残した古墳群について要約しておきます。
①秋月遺跡と、紀の川対岸の鳴滝遺跡・楠見遺跡から出土した土器は韓国、釜山の東を流れる洛東江流域に多数出土する
②池島遺跡は庄内期に吉備型甕が多く出る旧大和川沿いの集落のひとつで、古墳時代には滑石製品を作る玉造りの工房や窯跡も多く残っていて、丹後・出雲との関連がうかがえる。
③紀氏でいちばん大きな集団は600基を数える岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群で、安定して古墳を作り続ける。
④秋月に続く最初の前方後円墳は4世紀後半の花山8号墳で、割竹式木棺・粘土槨の埋葬施設をもち、続く古墳群も九州の柄鏡形である。
⑤紀北には5郡、名草・伊都・那賀・有田・海部があるが、その地名は北部九州に由来するものばかり。
④秋月に続く最初の前方後円墳は4世紀後半の花山8号墳で、割竹式木棺・粘土槨の埋葬施設をもち、続く古墳群も九州の柄鏡形である。
⑤紀北には5郡、名草・伊都・那賀・有田・海部があるが、その地名は北部九州に由来するものばかり。
紀伊の郡名
⑥5世紀になると紀ノ川北岸のグループが隆盛し、鳴滝遺跡には大型倉庫群跡が出現する。これは物資貯蔵施設で、大阪難波の法円坂遺跡と同様施設がある。
⑥5世紀になると紀ノ川北岸のグループが隆盛し、鳴滝遺跡には大型倉庫群跡が出現する。これは物資貯蔵施設で、大阪難波の法円坂遺跡と同様施設がある。
⑦5世紀後半の車駕之古址(しゃかのこし)古墳(86㍍)からは朝鮮製金勾玉が、大谷古墳(67㍍)からは阿蘇溶結凝灰岩の組合式家形石棺が出てる。
⑧6世紀代の岩橋千塚では、大日山35号墳(86㍍6世紀前半)以下、数基の大型古墳が続けて作られる。
⑨この岩橋千塚勢力の中心は紀直(きのあたい)氏だった。
⑩紀南には日高・牟婁の二郡があり、有田川から南の沿岸地域には、由良町・美浜町・印南町・吉備町と若狭や瀬戸内の地名が並ぶ。
⑧6世紀代の岩橋千塚では、大日山35号墳(86㍍6世紀前半)以下、数基の大型古墳が続けて作られる。
⑨この岩橋千塚勢力の中心は紀直(きのあたい)氏だった。
⑩紀南には日高・牟婁の二郡があり、有田川から南の沿岸地域には、由良町・美浜町・印南町・吉備町と若狭や瀬戸内の地名が並ぶ。
⑪紀氏は鉄の確保のために、瀬戸内海南ルートを開き、讃岐や伊予にも拠点を開き、洛東江流域との交易を行った。
以上からは、紀伊氏が古墳時代からヤマト政権において、瀬戸内海の海上支配を通じて、朝鮮半島の伽耶諸国との外港・交易の中心にいたことがうかがえます。ギリシャのポリスが地中海に植民活動を展開し、ネアポリスを開いて行ったように、紀伊氏も活発な海上交易活動を展開したことが、残された古墳や地名からもうかがえます。独自に朝鮮半島とのつながりを持っていた紀氏は「我こそが王」という感覚を持っていたかもしれません。それが紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮の由緒に。痕跡として残されているとしておきます。
「大名草彦」を先祖にもつ氏族として丹生祝家(にゅうのほうりけ)もいます。
以上からは、紀伊氏が古墳時代からヤマト政権において、瀬戸内海の海上支配を通じて、朝鮮半島の伽耶諸国との外港・交易の中心にいたことがうかがえます。ギリシャのポリスが地中海に植民活動を展開し、ネアポリスを開いて行ったように、紀伊氏も活発な海上交易活動を展開したことが、残された古墳や地名からもうかがえます。独自に朝鮮半島とのつながりを持っていた紀氏は「我こそが王」という感覚を持っていたかもしれません。それが紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮の由緒に。痕跡として残されているとしておきます。
「大名草彦」を先祖にもつ氏族として丹生祝家(にゅうのほうりけ)もいます。
延暦19年(800)9月16日の日付のある『丹生祝氏文』には、次のように記されています。
始祖は天魂命(あまのむすびのみこと)、次に高御魂命(たかむすびのみこと)の祖、次に血早魂命(中臣の祖)、次に安魂命(やすむすびのみこと)(門部連などの祖)、次に神魂命(紀伊氏の祖)、次に最兄(おほえ)に座す宇遅比古命(うちひこのみこと)の別の①豊耳命(とよみみのみこと)、国主の神(紀伊氏)の女児阿牟田刀自(あむだのとじ)を娶りて生める②児子牟久君(こむくのきみ)が児等、紀伊国伊都郡に伴える侍へる③丹生真人(にうのまひと)の大丹生直丹生祝(あたいにうのほうり)・丹生相見・神奴等の三姓を始め、丹生津比売の大御神(おおみかみ)・高野大明神、及び百余の大御神達の神奴(かむやっこ)と仕へ奉らしめ了へぬ(以下略)(『田中車著作集』22 463P)
ここには、次のようなことが書かれています。
①大名草彦の男・宇遅比古命と三代あとの豊耳命の名が出てくること②豊耳命が伊都那の阿牟田(=奄田)に住んでいた有力家族の女を娶って生れたのが「子牟久君(こむくのきみ)」であること③子牟久君から丹生祝・丹生相見らがわかれ、それぞれ丹生津比売命・高野明神・百余の大御神たちを祭祀するようになった
これを『国造次第』などを参照しながら、丹生視家の系図を研究者は次のように復元します
丹生祝家復元系図(ゴシックは実在が確実視される人物)
以上をまとめておくと
①「大名草彦」を先祖にもつ氏族に、紀直氏と丹生祝家とがあったこと
②紀直氏と丹生祝家が先祖を同じくすることは、丹生津比売命がいまの社地・天野に鎮座するまでの事跡、および丹生津比売命にたいする祭礼の面からも、跡づけることができる。
木造丹生明神坐像では、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とのかかわりは、いつ、どんな経緯ではじまったのでしょうか。まず、丹生津比売命の名が出てくる最古の文献である「播磨国風上記逸文」を見ておきましょう。
息長帯日女命(神功皇后)は、新羅の国を平定しようとして播磨の国に下られたとき、多くの神々に戦勝を析願された。そのとき、イザナギ・イザナミ神の子である爾保都比売斜(にほつひめのみこと)は、国造の石坂比売命(いしざかひめのみこと)に神がかりして、「私をよく祀つてくれるならば、よき験を出して新羅の国を平らげてあげましょう」と教え、よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。白三后は、その赤土を天の逆枠に塗って神舟の艦と舶先にたて、また神舟の裳にも赤上を塗り、御軍の着衣も赤土で染めて出かけたところ、前をさえぎるものなく、無事新羅を平定することができた。帰国後、皇后は爾保都比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(現高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。 (日本古典文学大系2『風土記』482~483P)
要約しておくと
①神功皇后の「三韓征伐」の際に、播磨で戦勝祈願を行った。
②その際に出された「丹生(朱銀)」によって戦勝した。
③そこで神功皇后は、丹生津比売命を紀伊の藤代の峯に祀った。
その祭祀を任されたのが、紀伊氏ということになります。
丹生大明神
ここで注意しておきたいのは、丹生津比売命がもともとは、丹生(朱砂=水銀)の神であったことです。
「風土記』は、和銅6年(713)の元明天皇の詔にもとづいて編纂されたとされるので、この丹生津比売命が紀伊国に祀られるようになった話は、8世紀はじめには出来上がっていたことになります。このことを踏まえた上で研究者は、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とヤマト政権の関係を、次のようにまとめます。
①神功皇后の「三韓征伐」の際に、播磨で戦勝祈願を行った。
②その際に出された「丹生(朱銀)」によって戦勝した。
③そこで神功皇后は、丹生津比売命を紀伊の藤代の峯に祀った。
その祭祀を任されたのが、紀伊氏ということになります。
丹生大明神
ここで注意しておきたいのは、丹生津比売命がもともとは、丹生(朱砂=水銀)の神であったことです。
「風土記』は、和銅6年(713)の元明天皇の詔にもとづいて編纂されたとされるので、この丹生津比売命が紀伊国に祀られるようになった話は、8世紀はじめには出来上がっていたことになります。このことを踏まえた上で研究者は、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とヤマト政権の関係を、次のようにまとめます。
ここでは、丹生津比売命の祭祀権が、おなじ先祖をもつ紀伊国造家から丹生祝家に移ったことを押さえておきます。それでは最初の疑問に還ります。①新羅征討に功績のあった丹生津比売命は、紀直氏(紀伊国造家)に奉ぜらて、紀伊の国名草郡の玉津島に上陸し、国造家によって祭祀されていた。②その後、紀伊国造家は勢力を拡大するために、伊都郡の有力豪族であった阿牟田(=奄田)と婚姻関係をむすんだ。③その結果、丹生津比売命はこの婚姻によって出生した丹生祝家によって、丹生都比売神社(かつらぎ町上天野)にも祀られることになり、奄田の丹生酒殿社に遷座した。④さらに、紀ノ川をさかのぼって大和国の十市・巨勢・宇智部をめぐり、また紀ノ川をくだつて紀伊の国にもどり、那賀・在一有一田・日高郡を遊行し、最後に現在の天野に鎮座した
「空海が手紙を出し援助を請うた相手」として考えられるのは、次の一族になります。
①紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏②丹生祝家・丹生氏
地理的にみると、①の紀直氏は高野山から少し遠すぎるようです。それに対して、高野山山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していた②の丹生祝家に援助を請うたとみた方が自然と研究者は考えます。当時の高野山は原生林の山で、たどりつくことさえも難渋をきわめました。その山中に伽藍を建てるというのは、地元の人達からすれば正気の沙汰とは思えなかったかもしれません。道の整備から始まり、工事宿舎の建設、建築資材の運搬・工事、それにたずさわる人たちの食糧確保と運搬など、組織的な取組ができないと前に進まないことばかりです。ヒマラヤ登山に例えると、資材運送のためには現地のシェルパたちの協力なしでは、目的地にも到達できません。空海が第一にとりくんだことは、地元の有力者の協力を取り付けることであったはずです。そうだとすれば、丹生津比売命=丹牛祝家の援助を得るために、空海は当初から細心の注意を払いながら動いたはずです。しかし、空海には援助をとりつける目算があったと研究者は推測します。
それが空海の佐伯直氏と紀直氏の「疑似同族意識」です。
紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、空海の生家である讃岐の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、海上交易を行っていたこと、は以前にお話ししました。そうだとすれば、紀直氏と佐伯直氏は、海上交易ネットワークを通じて交流があった可能性が出てきます。さらに、空海の母の出身氏族である阿刀氏も大和川沿いの河川交易を掌握していた一族ともされます。 こうして見ると「紀伊の紀直氏=讃岐の佐伯直氏=畿内の阿刀氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。こうした事情を知っている空海は、「紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏や丹生祝家・丹生氏」に、「頭を下げれば必ず支援は受けられる」という目算があったのかもしれません。
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵
丹生津比売命は、高野山の壇上伽藍にいつから祀られていたのか
丹生津比売命は、高野山の壇上伽藍にいつから祀られていたのか
この問題を考える際には、次の点を抑えておく必要があります。
A 高野山には空海がやって来る以前から、丹生津比売命を祀る祠があったことB その祠を目印として、空海は伽藍整地プランを立てたこと。
Aについては、高野山一帯が、丹生津比売命を祭祀していた丹生氏の狩猟の場であったと従来は云われてきました。しかし、高野山は赤土(朱砂=水銀)の採掘地でもあったことが近年分かっています。思い出して欲しいのは、丹生津比売命が初めて登場する播磨風土記です。そこには、次のように記していました。(要約)
(播磨で)よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。そのおかげで無事新羅を平定することができので、神功皇后は帰国後、丹生津比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。(日本古典文学大系2『風土記』482~483P)
ここではもともとは丹生津比売命は、朱砂(水銀=丹生)の神だったことを再確認したいと思います。なのです。それが採掘地に祀られていても何の不思議もありません。ここから見えてくることは、高野山は水銀採掘地で、それを丹生祝家が管理・採掘していたということです。とすれば、高野山山上は、当時は原始林の未開地ではなくなります。丹生祝家の水銀鉱山が展開する「鉱山都市」であったことになります。里からの生活物資の荷揚げのための道路も整備されていたはずですし、鉱山労働者を伽藍整地の人夫に転用することも容易です。人夫達の飯場を新たに建設する必要もありません。
若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
空海が若き日の山林修行中に、高野山山上で見たものは、丹生祝家のもとで稼働する高野山鉱山だったというのが私の仮説です。そのような状況を知った上で、空海は高野山に伽藍を建設しようとします。空海の高野山伽藍建設のひとつの目的は水銀確保にあったという説にもなります。どちらにしても、空海は高野山開山は、丹生氏の物心両面にわたる援助を受けていたことになります。
高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのは、天徳年間(957~61)のことです。
これは天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失したことと関連があると研究者は考えています。高野山の初代検校であった雅真が御廟を復興し、その左に丹生・高野明神を祀ります。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の実際の著者とされているのが雅真です。彼は丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うとともに、次の2つの交換条件を出したと研究者は推測します。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること
②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること
この裏には、空海の時代から一世紀以上のあいだ、丹生祝一族から提供された物心両面にわたる援助に酬いるためであったのでしょう。こうして「丹生・高野両明神による高野山譲渡説 + 飛行三鈷杵」が生まれます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師をめぐる人々―紀氏― 印度學佛教學研究第四十二巻第一号平成五年十二月