瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:雅真

 狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
弘法大師・丹生・高野大明神像(重文 金剛峯寺蔵)
高野山は、もともとは地主神・丹生津比売命のものであったのを、空海に譲渡したという話があります。この「丹生津比売命の高野山譲渡説」を、今回は見ていくことにします。
高野山譲渡説を要約すると次のようになります。

空海は唐から投げた三鈷杵を探していたとき、 一人の猟師と出会い、ついで山人にみちびかれて高野由にのぼり、その山人からこの地を譲られた。そして、山上に三鈷杵をみつけだし、伽藍を建立するにふさわしいところをえたと大いに喜んだ。

この物語のように、いまも壇上伽藍の御社には丹生・高野両明神が祀られ、御影堂まえに「三鈷の松」があります。そのため、高野山に参詣して、この話を聞くとすんなりと受け止められます。

 丹生明神からの譲渡説を、最初に記すのは『遺告二十五ケ条』で、以下のように記します。

万事連無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(かしこ)を看る。山の裏の路の邊りに女神有り。名づけて丹生津姫命と曰う。其の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝に託して曰く。
 「妾は神道に在って、威福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国韓命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。願わくば、永世に献じて仰信の情を表す」と云々。如今、件の地の中に所有開田を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、足れなり。
   『定本全集』第七  355~356P)

意訳変換しておくと
さまざまな仕事に追われて暇はなかったが、春と秋に必ず一度は高野山を訪れた。高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
 「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
 いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
これが「丹生津姫命の高野山譲渡説」が最初に出てくる史料です。これに「飛行三鈷杵」が合体された形で最初に出てくるのが『金剛峯寺建立修行縁起』になります。
写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
金剛峯寺建立修行縁起

この書は「康保五年(968)戊辰6月14日  仁海僧正作」とありますが、実際に書いたのは、仁海の師・雅真のようです。雅真は高野山の初代検校で、天暦6(952)年6月に、落雷によって焼失した奥院の御廟を復興させた人物でもあります。その際に、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。その背景には、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うための、交換条件だったというのです。その交換条件とは、次の2つです。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること
②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること
 
丹生神社本殿た「木造丹生明神坐像

          九度山町丹生神社本殿安置の「木造丹生明神坐像」
それでは、丹生・高野両明神を祀っていた氏族とは、どんな一族だったのでしょうか?
 この点について、触れた史料は何もありません。ただ、それがうかがい知れる史料はあるようです。空海の書簡を集めた『高野雑筆集』巻上に、高野山上の伽藍建設に着手するにあたって、以下の通り紀伊の有力者に援助を依頼した書簡があります。それを見ていくことにします。
①古人言えること有り。胡馬北に向い、越鳥南に栗くうと。西日東に更(かえ)り、東雲西に復る 物的叩、自ら爾(しか)り、人において何ぞ無らん。
②之を先人の説に聞くに、我が遠祖遣馬(佐伯)宿禰は、是れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。
③所以(ゆえ)に尋ね謁(まみ)えんと欲すること久し。然れども左右物の碍げあって志願を遂げず。消息何をかを曰わんや
④今、法に依って修禅の一院を建立せんと思欲う。彼の国高野の原、尤とも教旨に允えり。
⑤故に表を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して符を下したまい詑(おわ)んぬ。
⑥故に表を以って一両の草案を造立せんが為に、しばらく弟子の僧泰範・実恵等を差しつかわして彼の処に発向せしむ。
⑦伏して乞う。仏法を護持せんがために、方円相い済わば幸甚、幸甚。
⑧貧道、来年秋月に必ず参ぜん。披調いまだ間あらず。珍重、珍重。謹んで状す。
(『定本企集』第七 100~101P)
意訳変換しておくと
②先人の説によると、私(空海)の先祖である大遣馬宿禰(佐伯直)は、あなたの国の祖である大名草彦のわかれです
③一度訪ねたいと久しく考えているが、あれこれさまたげがあつて、なかなか志を遂げられず、申し訳なく想っていること、
④いま密教の教えに基づいて修禅の一院(密教道場)を建立したいと考えている。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えている
⑤そのような訳で、上表文をしたため、天皇にに高野山下賜をお願いしたところ、早速に慈悲の心をもって許可の大政官符を下された、
⑥そこでまずは草庵を造立するために、弟子の泰範・実恵を高野に派遣する、
⑦ついては仏法護持のために、僧俗あいともに高野山の開創に助力たまわりたい、
⑧私(空海)は、来年の秋には必ず高野に参りたいと考えている、
この手紙からは、空海の心情や行動がうかがえます。

まず、この手紙がいつ書かれたかを、研究者は押さえていきます。
この手紙には、日付もあて名もありません。そこで、研究者は本文から書かれた上限と下限が次のように推測します。まず、上限については、

「故に人を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して、符を下したまい祀んぬ。」

ここに出てくるの表(上表文)・允許・符などの用語から、「弘仁7年(816)6月19日に提出した上表文と、下賜を維持した紀伊国司宛ての7月8日大政官符を踏まえた上で書かれていることが分かります。以上から、手紙が書かれた上限は、816年の7月頃とします。
 次に下限は、次の文章に注目します。

貧道(空海)、来年秋月に必ず参ぜん。

空海が高野山へはじめて高野山に入ったのは、弘仁9年(818)の冬、11月16日のことです。12月日付の某宛て書状には、次のように記されています。
貧道、黙念せんがんに、去月(11月)十六日此の峯に来住す。山高く雪深くして、人跡一通じ難し。(『定本全集』第七  127P)
ここからは空海が11月16日に高野山に入山したこと、深い雪に遭って苦労されたことが分かります。同時に、有力者への手紙が書かれたのは、勅許後すぐの816年7月から8月にかけてのことだったことが推測できます。

次に、この手紙は誰にあてて出されたものなのかを見ていくことにします。
この問題を解く手がかりは、本文の次の部分にあります。

我が遠祖人遣馬(佐伯)宿禰は、足れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。

ここには「大名草彦」は、空海の佐伯直氏と先祖を同じくすると記します。大名草彦を先祖にもつ氏族の記録は、次の3つがあります。
①『新撰姓氏禄(しんせんせいしろく)』    弘仁6年(815)7月成立
②『紀伊国国造次第』              
③『国造次第』      貞観16年(874)頃成立
研究者がここで注目するのは、どれもが紀伊国造家の紀直氏系譜を記す史料であることです。例えば③『国造次第』を見ておきましょう。
国造次第
 日前(ひのくま)国太神宮、天降しし時、天路根(あめのみちね)従臣として仕え始め、即ち厳かに崇め奉るなり。仍て国造の任を賜る。今、員観―六年甲午歳を以て、本書巳(すでに)に損するに依りて改めて写書す。
国造正六位上広世直
第一 天道根
第二 比古麻 天道根の男
第三 鬼刀爾  
第四 久志多麻 鬼刀爾の男 又名目菅
第五 山成国土記ニ在リ  大名草比古(彦) 久志多麻の男
第六 迂遅比古    大名草比古の男
第七 舟本    迂遅比古の弟
第八 夜郎賀志彦 舟本の男
第九 日本記に在り 等与美々 夜郎賀志彦
旗に久志多麻
(『新接姓氏録の研究』 考証篇第四  216~217P)

五代目に「大名草比古(彦)」の名があります。この「大名草比古」は、紀直氏の実質的な始祖とされます。
それでは「大名草彦」にはじまる紀伊国造家とは、どんな氏族だったのでしょうか。
 紀氏は、現在の和歌山市を拠点にした豪族です。その信仰拠点の紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮です。
日前神宮と國懸神宮
①日前神宮の祭神は、日前大神で天照大神の別名だとされ、神体は日像鏡(ひかたのかがみ)で、思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)(鏡作連の祖)も祭られている。
②國懸神宮は國懸大神を祭り、神体は日矛鏡で、玉祖命(たまのおやのみこと)(玉造部氏の祖)と明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)(神功皇后の祖)が祭られている。この二つの鏡は天照大神の八咫鏡と同じものだとされ、社伝にはこれらの鏡を作ったときの逸話が伝えられている。

この両神宮を奉斎するのが紀伊国造家です。天照大神の鏡と同等を主張しているので、天孫族より古い氏族だったことがうかがえます。紀伊国造家は、天道根命(あめのみちねのみこと)の嫡流を主張します。天道根は『先代旧事本紀』にある饒速日とともに来た32神の一人で、『姓氏録』には火明命の後裔とされます。ちなみに、国造制度が廃止された後に国造が許されたのは出雲と紀伊国造家だけでした。

 両神宮の周りにかつてあった秋月古墳群が国造家の墓所とされます。
紀伊氏の古墳
和歌山市周辺の古代地形復元と紀伊氏の古墳分布図

紀伊氏の残した古墳群について要約しておきます。
①秋月遺跡と、紀の川対岸の鳴滝遺跡・楠見遺跡から出土した土器は韓国、釜山の東を流れる洛東江流域に多数出土する
②池島遺跡は庄内期に吉備型甕が多く出る旧大和川沿いの集落のひとつで、古墳時代には滑石製品を作る玉造りの工房や窯跡も多く残っていて、丹後・出雲との関連がうかがえる。
③紀氏でいちばん大きな集団は600基を数える岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群で、安定して古墳を作り続ける。
④秋月に続く最初の前方後円墳は4世紀後半の花山8号墳で、割竹式木棺・粘土槨の埋葬施設をもち、続く古墳群も九州の柄鏡形である。
⑤紀北には5郡、名草・伊都・那賀・有田・海部があるが、その地名は北部九州に由来するものばかり。


木の国の古代・中世
紀伊の郡名

⑥5世紀になると紀ノ川北岸のグループが隆盛し、鳴滝遺跡には大型倉庫群跡が出現する。これは物資貯蔵施設で、大阪難波の法円坂遺跡と同様施設がある。
⑦5世紀後半の車駕之古址(しゃかのこし)古墳(86㍍)からは朝鮮製金勾玉が、大谷古墳(67㍍)からは阿蘇溶結凝灰岩の組合式家形石棺が出てる。

紀国造家の実像をさぐる 岩橋千塚古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」126)
⑧6世紀代の岩橋千塚では、大日山35号墳(86㍍6世紀前半)以下、数基の大型古墳が続けて作られる。
⑨この岩橋千塚勢力の中心は紀直(きのあたい)氏だった。
⑩紀南には日高・牟婁の二郡があり、有田川から南の沿岸地域には、由良町・美浜町・印南町・吉備町と若狭や瀬戸内の地名が並ぶ。
⑪紀氏は鉄の確保のために、瀬戸内海南ルートを開き、讃岐や伊予にも拠点を開き、洛東江流域との交易を行った。
以上からは、紀伊氏が古墳時代からヤマト政権において、瀬戸内海の海上支配を通じて、朝鮮半島の伽耶諸国との外港・交易の中心にいたことがうかがえます。ギリシャのポリスが地中海に植民活動を展開し、ネアポリスを開いて行ったように、紀伊氏も活発な海上交易活動を展開したことが、残された古墳や地名からもうかがえます。独自に朝鮮半島とのつながりを持っていた紀氏は「我こそが王」という感覚を持っていたかもしれません。それが紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮の由緒に。痕跡として残されているとしておきます。

「大名草彦」を先祖にもつ氏族として丹生祝家(にゅうのほうりけ)もいます。
延暦19年(800)9月16日の日付のある『丹生祝氏文』には、次のように記されています。
始祖は天魂命(あまのむすびのみこと)、次に高御魂命(たかむすびのみこと)の祖、次に血早魂命(中臣の祖)、次に安魂命(やすむすびのみこと)(門部連などの祖)、次に神魂命(紀伊氏の祖)、次に最兄(おほえ)に座す宇遅比古命(うちひこのみこと)の別の①豊耳命(とよみみのみこと)、国主の神(紀伊氏)の女児阿牟田刀自(あむだのとじ)を娶りて生める②児子牟久君(こむくのきみ)が児等、紀伊国伊都郡に伴える侍へる③丹生真人(にうのまひと)の大丹生直丹生祝(あたいにうのほうり)・丹生相見・神奴等の三姓を始め、丹生津比売の大御神(おおみかみ)・高野大明神、及び百余の大御神達の神奴(かむやっこ)と仕へ奉らしめ了へぬ(以下略)
                (『田中車著作集』22 463P)
ここには、次のようなことが書かれています。
①大名草彦の男・宇遅比古命と三代あとの豊耳命の名が出てくること
②豊耳命が伊都那の阿牟田(=奄田)に住んでいた有力家族の女を娶って生れたのが「子牟久君(こむくのきみ)」であること
③子牟久君から丹生祝・丹生相見らがわかれ、それぞれ丹生津比売命・高野明神・百余の大御神たちを祭祀するようになった
これを『国造次第』などを参照しながら、丹生視家の系図を研究者は次のように復元します
丹生祝家系図
丹生祝家復元系図(ゴシックは実在が確実視される人物)

以上をまとめておくと
①「大名草彦」を先祖にもつ氏族に、紀直氏と丹生祝家とがあったこと
②紀直氏と丹生祝家が先祖を同じくすることは、丹生津比売命がいまの社地・天野に鎮座するまでの事跡、および丹生津比売命にたいする祭礼の面からも、跡づけることができる。

丹生神社本殿の木造丹生明神坐像
               木造丹生明神坐像

では、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とのかかわりは、いつ、どんな経緯ではじまったのでしょうか。
まず、丹生津比売命の名が出てくる最古の文献である「播磨国風上記逸文」を見ておきましょう。
息長帯日女命(神功皇后)は、新羅の国を平定しようとして播磨の国に下られたとき、多くの神々に戦勝を析願された。そのとき、イザナギ・イザナミ神の子である爾保都比売斜(にほつひめのみこと)は、国造の石坂比売命(いしざかひめのみこと)に神がかりして、「私をよく祀つてくれるならば、よき験を出して新羅の国を平らげてあげましょう」と教え、よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。白三后は、その赤土を天の逆枠に塗って神舟の艦と舶先にたて、また神舟の裳にも赤上を塗り、御軍の着衣も赤土で染めて出かけたところ、前をさえぎるものなく、無事新羅を平定することができた。帰国後、皇后は爾保都比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(現高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。         (日本古典文学大系2『風土記』482~483P)
要約しておくと
①神功皇后の「三韓征伐」の際に、播磨で戦勝祈願を行った。
②その際に出された「丹生(朱銀)」によって戦勝した。
③そこで神功皇后は、丹生津比売命を紀伊の藤代の峯に祀った。
その祭祀を任されたのが、紀伊氏ということになります。

本地垂迹資料便覧
丹生大明神

ここで注意しておきたいのは、丹生津比売命がもともとは、丹生(朱砂=水銀)の神であったことです。
「風土記』は、和銅6年(713)の元明天皇の詔にもとづいて編纂されたとされるので、この丹生津比売命が紀伊国に祀られるようになった話は、8世紀はじめには出来上がっていたことになります。このことを踏まえた上で研究者は、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とヤマト政権の関係を、次のようにまとめます。
①新羅征討に功績のあった丹生津比売命は、紀直氏(紀伊国造家)に奉ぜらて、紀伊の国名草郡の玉津島に上陸し、国造家によって祭祀されていた。
②その後、紀伊国造家は勢力を拡大するために、伊都郡の有力豪族であった阿牟田(=奄田)と婚姻関係をむすんだ。
③その結果、丹生津比売命はこの婚姻によって出生した丹生祝家によって、丹生都比売神社(かつらぎ町上天野)にも祀られることになり、奄田の丹生酒殿社に遷座した。
④さらに、紀ノ川をさかのぼって大和国の十市・巨勢・宇智部をめぐり、また紀ノ川をくだつて紀伊の国にもどり、那賀・在一有一田・日高郡を遊行し、最後に現在の天野に鎮座した
ここでは、丹生津比売命の祭祀権が、おなじ先祖をもつ紀伊国造家から丹生祝家に移ったことを押さえておきます。それでは最初の疑問に還ります。
「空海が手紙を出し援助を請うた相手」として考えられるのは、次の一族になります。
①紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏
②丹生祝家・丹生氏
地理的にみると、①の紀直氏は高野山から少し遠すぎるようです。それに対して、高野山山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していた②の丹生祝家に援助を請うたとみた方が自然と研究者は考えます。当時の高野山は原生林の山で、たどりつくことさえも難渋をきわめました。その山中に伽藍を建てるというのは、地元の人達からすれば正気の沙汰とは思えなかったかもしれません。道の整備から始まり、工事宿舎の建設、建築資材の運搬・工事、それにたずさわる人たちの食糧確保と運搬など、組織的な取組ができないと前に進まないことばかりです。ヒマラヤ登山に例えると、資材運送のためには現地のシェルパたちの協力なしでは、目的地にも到達できません。空海が第一にとりくんだことは、地元の有力者の協力を取り付けることであったはずです。そうだとすれば、丹生津比売命=丹牛祝家の援助を得るために、空海は当初から細心の注意を払いながら動いたはずです。しかし、空海には援助をとりつける目算があったと研究者は推測します。

瀬戸内海の紀伊氏拠点
瀬戸内海の紀伊氏関係の拠点分布図
それが空海の佐伯直氏と紀直氏の「疑似同族意識」です。
紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、空海の生家である讃岐の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、海上交易を行っていたこと、は以前にお話ししました。そうだとすれば、紀直氏と佐伯直氏は、海上交易ネットワークを通じて交流があった可能性が出てきます。さらに、空海の母の出身氏族である阿刀氏も大和川沿いの河川交易を掌握していた一族ともされます。   こうして見ると「紀伊の紀直氏=讃岐の佐伯直氏=畿内の阿刀氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。こうした事情を知っている空海は、「紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏や丹生祝家・丹生氏」に、「頭を下げれば必ず支援は受けられる」という目算があったのかもしれません。

丹生明神と狩場明神
            重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生津比
売命は、高野山の壇上伽藍にいつから祀られていたのか
この問題を考える際には、次の点を抑えておく必要があります。
A 高野山には空海がやって来る以前から、丹生津比売命を祀る祠があったこと
B その祠を目印として、空海は伽藍整地プランを立てたこと。
Aについては、高野山一帯が、丹生津比売命を祭祀していた丹生氏の狩猟の場であったと従来は云われてきました。しかし、高野山は赤土(朱砂=水銀)の採掘地でもあったことが近年分かっています。思い出して欲しいのは、丹生津比売命が初めて登場する播磨風土記です。そこには、次のように記していました。(要約)
(播磨で)よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。そのおかげで無事新羅を平定することができので、神功皇后は帰国後、丹生津比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。(日本古典文学大系2『風土記』482~483P)

ここではもともとは丹生津比売命は、朱砂(水銀=丹生)の神だったことを再確認したいと思います。なのです。それが採掘地に祀られていても何の不思議もありません。ここから見えてくることは、高野山は水銀採掘地で、それを丹生祝家が管理・採掘していたということです。とすれば、高野山山上は、当時は原始林の未開地ではなくなります。丹生祝家の水銀鉱山が展開する「鉱山都市」であったことになります。里からの生活物資の荷揚げのための道路も整備されていたはずですし、鉱山労働者を伽藍整地の人夫に転用することも容易です。人夫達の飯場を新たに建設する必要もありません。



若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
 それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
 また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山
②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
水銀と丹生神社の関係図


空海が若き日の山林修行中に、高野山山上で見たものは、丹生祝家のもとで稼働する高野山鉱山だったというのが私の仮説です。そのような状況を知った上で、空海は高野山に伽藍を建設しようとします。空海の高野山伽藍建設のひとつの目的は水銀確保にあったという説にもなります。どちらにしても、空海は高野山開山は、丹生氏の物心両面にわたる援助を受けていたことになります。

高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのは、天徳年間(957~61)のことです。
これは天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失したことと関連があると研究者は考えています。高野山の初代検校であった雅真が御廟を復興し、その左に丹生・高野明神を祀ります。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の実際の著者とされているのが雅真です。彼は丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うとともに、次の2つの交換条件を出したと研究者は推測します。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること
②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること

この裏には、空海の時代から一世紀以上のあいだ、丹生祝一族から提供された物心両面にわたる援助に酬いるためであったのでしょう。こうして「丹生・高野両明神による高野山譲渡説 + 飛行三鈷杵」が生まれます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武内孝善 弘法大師をめぐる人々―紀氏― 印度學佛教學研究第四十二巻第一号平成五年十二月

         

  
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
関連記事
東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

このページのトップヘ