戦国時代に戦禍に遭って衰退していた善通寺は、近世になって復興への歩みをはじめます。その際に、おおきな事件として、それまでの法脈を換えたことです。その立役者が浄厳であることは、以前にお話ししました。今回は、彼が善女龍王の勧進と雨乞信仰ももたらしたことを見ていくことにします。
浄厳がもたらしたもののもうひとつが、雨乞祈祷と善如(女)龍王の勧進です。
高野山の善如(女)龍王 高野山は男神
「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。
浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、浄厳が善通寺に招かれて経典広義を行った時に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を、浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王のようです。
善通寺の善女龍王社(善通寺東院)
それを裏付けるのが、本堂の西側にある善女龍王の小さな社です。この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡で、調査報告書には、
「貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札」
が出てきたことが報告されています。最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。これは浄厳によって善女龍王信仰による雨乞祈祷の方法がもたらされたという記録を裏付けるものです。逆に言うと、それまで讃岐には真言密教系の公的な雨乞修法は行われていなかったことになります。
善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められた約80件の雨乞文書が残されています。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。
京都神仙苑の雨乞お札
浄厳評伝の中には、高松藩主松平頼重関係が次のように記されていました。延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述する。
松平頼重と浄厳の関係について見ておきましょう。
浄厳が善通寺を訪れたことを聞いた頼重(隠居名:源英公)は、彼を高松城下へ招請します。そして、翌年1679年正月に謁見、以後、頼重は源英公は息女であった清凍院讃誉智相大姉とともに連日聴聞したようです。頼重は、2月には浄厳のために石清尾八幡宮内に現証庵を建立し住まわせます。また、4月には、浄厳が老母見舞のために河内に帰省するに際には、高松藩の御用船を誂えて送迎しています。その信奉のようすは『行状記」に詳しく記されています。ここからは、 頼重が浄厳に深く帰依していたことがうかがえます。ちなみに頼重は、年少期には京都の門跡寺院に預けられて「小僧」生活を長く送っています。そのため宗教的な素養も深く、興味関心も強かったようです。
頼重の再招聘に応じて浄厳は、延宝八年(1680)3月に再び高松にやってきます。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
凶事とされていた彗星の出現を予測していた浄厳は、浄厳は、白河上皇の永保元年(1081)に大江匡房が金門鳥敏法厳修を奏上した際に、ただひとり安祥寺の厳覚律師だけが知っていて五大虚空蔵法を修された故事を頼重に語ります。これを聞いて頼重は、髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に従って同法を伝授させます。そして、五大虚空蔵尊像十幡を十ヶ寺に寄付し、正月・五月・九月に五大虚空蔵求富貴法を修行させるように命じます。これは以後、毎年の恒例となっていきます。そして、浄厳は河内の延命寺で金門鳥年法を七日間修し、それが彗星到来にともなう凶事を事なきことに済ませたとされます。こうして浄厳の讃岐での名声は、彗星到来を機にますます高まります。翌天和二年(1682)には、頼重62歳の厄除祈祷を行っています。
彗星到来の凶事を防ぐために「髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に命じて五大虚空蔵法を伝授し、尊像十幡を十ヶ寺に寄進した」とあります。
それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
五大虚空蔵菩薩
それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
秀吉の命で生駒氏が領主として入部した際に、讃岐領内十五の祈祷寺が決められていました。生駒騒動後には、讃岐は髙松藩と丸亀藩に分けられますが、「東讃十ヶ寺・西讃五ヶ寺」と呼ばれているので、高松藩領内では通称「十ケ寺」として東讃十ケ寺がこれを引き継いだようです。その「十ヶ寺」を挙げておきます。
阿弥陀院・地蔵院・白峯寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院
この筆頭は髙松城下町の石清尾八幡官別当寺であった阿弥陀院で、寺領高200石余、白峯寺がこれに次いで120石です。このほか、大般若会や雨乞い祈祷も、これら十ヶ寺の所役であったことは、以前にお話ししました。特に大般若経は阿弥陀院と白峯寺が月替りに参城して転読したようです。
虚空蔵菩薩像(白峯寺)
白峯寺に伝えられる絹本著色虚空蔵菩薩像(第104図)は、 松平頼重により始められた新規祈祷の本尊画像だと研究者は指摘します。
白峯寺の善女龍王
白峰寺の善如(女)龍王像(第105図・第106図)も雨乞祈祷の本尊として、浄厳の先例に拠って調えられたと研究者は考えています。確かに絵は男神の善如龍王で、女神の善女龍王ではありません。真言系雨乞修法の本尊は、男神像像の善如龍王から、女神の善女龍王に「進化」しますが、それが醍醐寺の宗教的戦略にあることは、以前にお話ししました。ここでは、善通寺や白峯寺などの雨乞本尊が男神の善如龍王で、高野山からの「直輸入」版であることを押さえておきます。これも、讃岐に善如龍王をもたらしたのが浄厳であることを裏付ける材料のひとつになります。白峯寺の善女龍王社
その後の浄厳の活躍ぶりを『行状記』は次のように記します。
浄厳の効験により、「天下の護持僧」として元禄四年(1691)に五代将軍綱吉から江戸湯島に霊雲寺を賜り天下の析願所となった
このように、讃岐に新安祥寺流の法脈が広がるのは、浄厳が頼重からその護持僧としての信任を得ていたことが大きく影響していることが分かります。髙松藩の浄厳保護と、善通寺の浄厳の安祥寺流への切り替えは同時進行で進んでいたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳 白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」
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