神泉苑
天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことは、空海の伝記類のほとんどが取り上げています。その伝記類の多くが、祈雨に際して、空海が請雨経法を修したと記します。これが「空海請雨伝承」と一般に呼ばれているものです。
鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』で、「神泉祈雨事」の部分を見ておきましょう。
淳和天皇の御宇天長元年に天下大に日でりす。公家勅を下して。大師を以て雨を祈らしめんとす。南都の守敏申て云守敏真言を学して同じう御願を祈らんに、我既に上臆なり。先承りて行ずべしと奏す。是によりて守敏に仰せて是を祈らしむ。七日の中に雨大に降。然どもわづかに京中をうるほし。いまだ洛外に及ぶ事なし。
重て大師をして神泉苑にして請雨経の法を修せしむ。七日の間 雨更にふらず。あやしみをなし。定に大観じ給ふに守敏呪力を以て、諸竜を水瓶の中に加持し龍たり。但北天竺のさかひ大雪山の北に。無熱池と云池あり。其中に竜王あり。善女と名付。独守敏が鈎召にもれたりと御覧じて公家に申請て。修法二七日のべられ。彼竜を神泉苑に勧請し給ふ。真言の奥旨を貴び 祈精の志を感じ 池中に形を現ず。金色の八寸の蛇。長九尺計なる蛇の頂にのれり。実恵。真済。真雅。真紹。堅恵。真暁。真然。此御弟子まのあたりみ給ふ。自余の人みる事あたはず。則此由を奏し給ふ。公家殊に驚嘆せさせ給ひて、和気の真綱を勅使にて、御幣種々の物を以て竜王に供祭せらる。密雲忽にあひたいして、甘雨まさに傍陀たり。三日の間やむ事なし。炎旱の憂へ永く消ぬ。上一大より下四元に至るまで。皆掌を合せ。頭をたれずと云事なし。公家勧賞ををこなはれ。少僧都にならせ給ひき。真言の道、崇めらるゝ事。是よりいよくさかんなり。大師茅草を結びて、竜の形を作り、壇上に立てをこなはせ給ひけるが。法成就の後、聖衆を奉送し給ひけるに、善女竜王をばやがて神泉苑の池に勧請し留奉らせ給ふて、竜花の下生、三会の暁まで、此国を守り、我法を守らせ給へと、御契約有ければ、今に至るまで跡を留て彼池にすみ給ふ。彼茅草の竜は、聖衆と共に虚にのぼりて、東をさして飛去。尾張国熱田の宮に留まり給ひぬ。彼社の珍事として、今に崇め給へりといへり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞軋にや。大師の言く、此竜王は。本是無熱池の竜王の類なり。慈悲有て人のために害心なし。此池深して竜王住給は七国土を守り給ふべし。若此竜王他界に移り給は七池浅く水すくなくして。国土あれ大さはがん。若然らん時は。我門徒たらん後生の弟子、公家に申さず共、祈精を加へて、竜王を請しとゞめ奉りて、国土をたすくべしといへり。今此所をみるに。水浅く池あせたり。をそらくは竜王他界に移り給へるかと疑がふべし。然ども請雨経の法ををこなはるゝ毎に。掲焉の霊験たえず。いまだ国を捨給はざるに似たり。(後略)
意訳変換しておくと
淳和天皇治政の天長元(824)年に天下は大旱魃に襲われた。公家は、弘法大師に命じて祈雨祈祷を行わせようとした。すると南都奈良の守敏も真言を学んでいるので、同じく雨乞祈祷を行わせてはどうかと勧めるものがいた。そして準備が既に出来ているということなので、先に守敏に祈祷を行わせた。すると七日後に、雨が大いに降った。しかし。わずかに京中を潤しただけで、洛外に及ぶことはなかった。
そこで弘法大師に、神泉苑での請雨経の法を行わせた。七日の間、修法を行ったが雨は降らない。どうして降らないのかと怪しんだところ、守敏が呪力で、雨を降らせる諸竜を水瓶の中に閉じ込めていたのだ。しかし、天竺(インド)の境堺の大雪山の北に、無熱池という池あった。その中に竜王がいた。その善女と名付けられた龍は、守敏も捕らえることができないでいた。
そこで、その善女龍王を神泉苑に勧請した。すると、真言の奥旨にを貴び、祈祷の志を感じ、池中にその姿を現した。それは、金色の八寸の蛇で、長九尺ほどの蛇の頂に乗っていた。実恵・真済・真雅・真紹・堅恵・真暁・真然などの御弟子たちは、その姿を目の当たりにした。しかし、その他の人々には見ることが出来なかった。すぐにそのさまを、奏上したところ、公家は驚嘆して、和気の真綱を勅使として、御幣など種々の物を竜王に供祭した。すると雲がたちまち広がり、待ち焦がれた慈雨が、三日の間やむ事なく降り続いた。こうして炎旱の憂いは、消え去った。上から下々の者に至るまで、皆な掌を合せ、頭をたれないものはいなかったという。これに対して、朝廷は空海に少僧都を贈られた。以後、真言の道が崇められる事は。ますます盛んとなった。大師は茅草を結んで、竜の形を作り、壇上に立て祈雨を行った。祈雨成就後は、善女竜王を神泉苑の池に勧請し、留まらせた。こうして未来永劫の三会の暁まで、この国を守り、我法を守らせ給へと、契約されたので、今に至るまで神泉苑の池に住んでいます。また茅草の竜は、聖衆と共に虚空に登って、東をさして飛去り、尾張国熱田の宮に留まるようになったと云う。熱田神宮の珍事として、今も崇拝を集めています。これこそが仏法東漸の先兆で、東海鎮護の奇瑞である。大師の云うには、この竜王は、もともとは無熱池の竜王の類である。しかし、慈悲があり、人のために害心がない。この池は深く、竜王が住めば国土を守ってくれる。もしこの竜王が他界に移ってしまえば池は浅くなり、水は少なくなって、国土は荒れ果て大きな害をもたらすであろう。もし、そうなった時には、我門徒たちは、後生の弟子、公家に申し出ることなく、祈祷を行い、竜王を留め、国土を守るべしと云った。今、この池を見ると、水深は浅くなり、池が荒れています。このままでは、竜王が他界に移ってしまう恐れがある。しかし、請雨経の修法を行う度に。霊験は絶えない。いまだこの国をうち捨てずに、守っていると言える。(後略)
この後は、神泉苑が大変荒れた状態になっているので、早く復旧すべきであると結んでいます。以上をまとめておくと
①天長元(824)年の旱魃の時に、空海と守敏が祈雨において験比べを行うことになった。
②その時に、空海が善如竜王を勧請して雨を降らせた
③神泉苑には今もその竜王が棲むことを説く話
空海請雨伝承は、この話が書かれた鎌倉時代の中頃には内容的にかなりボリュームのあるものになっていたことが分かります。これを、後世の伝記類はそのまま継承します。
空海請雨伝承が初めて登場した寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』と、比較しておきます。
天長年中有旱 皇帝勅和上 於神泉苑 令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任二少僧都
意訳変換しておくと
天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功により少僧都に任じられた
ここには、これ以上のことは何も書かれていません。空海と験比べをした守敏の名前も、神泉苑に棲む善如竜王も出てきません。伝説や民話は時代が下れば下るほど、いろいろな物がいろいろな人の思惑で付け加えられていくとされます。空海請雨伝承は、時間の経過とともに内容の上でかなり脚色が加えられ、話が大きく発展していったことを押さえておきます。空海請雨伝承の話の根幹は、天長元年に空海が神泉苑で雨乞を行い、それによって少僧都に任じられたということです。
この話は、長く史実と考えられてきましたが戦後になって、次のような異論が出されます。
佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します。
「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
佐々木氏が言うように、説話の成立にはそれが必要とされた歴史的な背景があったようです。次にその説話成立の背景を探ってみましょう。
空海による史実としての祈雨は、どのように記されているのか。
天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話については、研究者から疑問が出されています。しかし、全くの創作とは言えないようです。というのは、空海の祈雨が「日本紀略」にあるからです。『日本紀略』 天長四年五月二十六日の条に次のようにあります。
命二少僧都空海 請仏舎利裏 礼拝濯浴。亥後天陰雨降。数剋而止。湿地三寸。是則舎利霊験之所感応也。
意訳変換しておくと
空海を少僧都を命じる。空海は内裏に仏舎利を請じて、礼拝濯浴した。その結果、天が陰り雨が降った。数刻後に雨は止んだが、地面を三寸ほど湿地とするほどの雨であった。これは舎利の霊験とする所である。
この内裏で祈雨成就は、空海の偉業の一つとして数えられてもよい史実です。しかし、後世の伝記類はこれを取り上げようとはしません。こちらよりも神泉苑を重視します。それは神泉苑の方がストーリー性があり、ドラマチックな展開で、人々を惹きつける形になっているからかもしれません。神泉苑の請雨伝承は、時間とともに大きく成長していきます。南北朝期に成立した『太平記』では「神泉苑の事」として、さらに多くのモチーフが組み合わされていきます。このように、史実のほうが話としては発展を見ずに、伝承のほうが発展しているところが面白い所です。見方を変えると、後世の伝記類の書き手にとっては、空海が内裏で仏舎利を請じて祈雨を行ったという史実よりも、神泉苑で請雨経法を修したという伝承のほうがより重要だったようです。そこに、この伝承の持つ意味や成立の背景を解く鍵が隠されていると研究者は考えています。
今回はここまでです。以上をまとめておきます。
①天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話が空海請雨伝承として伝わっている。
②これは鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』の「神泉祈雨事」の内容が物語化されたものである。
③しかし、空海請雨伝承が初めて登場する寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』には、僅かな分量で記されているに過ぎない。
④『日本紀略』天長四年五月二十六日の条には、空海の雨乞修法を成功させ、その成功報酬として少僧都に命じられたと短く記す。しかも場所は、内裏である。
⑤後世の弘法大師伝説は、②を取り上げ、④は無視する。
この背景には、真言密教の戦略があったようです。それはまた次回に。
参考文献
藪元昌 善女龍王と清滝権現 雨乞儀礼の成立と展開所収