瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:雨乞祈祷

              
讃岐は記録を見ると、近世には約5年に1度は千魃が起きています。特に寛永3年(1626)・明和7年(1770)・寛政2年(1790)・文政6年(1823)が大千魃の年であったようです。この干魃に対して、藩専用の雨乞い祈祷寺院として、丸亀藩は善通寺を、多度津藩は弥谷寺を指定していました。それでは、高松藩の雨乞い寺院は、どこだったのでしょうか。

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白峯寺の善(女)龍王社

 白峯寺に紫陽花を見に行きました。

伽藍の中で一番上にある本堂と大師堂にお参りして、ついでに洞林院跡を見ておこうと思って東に伸びる道を辿ろうとすると堀に囲まれて「善如龍王」の小さな社がありました。
2善女龍王 神泉苑g
神泉で雨乞い祈祷を行う空海とそこに現れた子蛇(善如龍王)

善女龍王については、これまでも紹介しました。空海が平安京で、雨乞い祈祷を行った際に祈った水神とされます。姿は、時と共に次のように「進化」します。
当初は  表記は「善龍王」で、姿は「小さな蛇」
高野山で、表記は「善龍王」で、姿は「唐服姿の男子像にしっぽ」
醍醐寺で 表記は「善龍王」で、姿は「女神化」
この変化の背景には、雨乞い祈祷の主導権をめぐる醍醐寺の戦略があったことは、以前にお話ししました。ここでは醍醐寺によって女神化する以前には、龍王は「善如龍王」と表記され男神像として描かれていたことを思い出します。それでは白峯寺の龍王は、どうなのでしょうか。
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白峯寺の雨乞い水神は「善龍王」と書かれていた

社殿には「善如龍王」と書かれています。帰ってから白峰寺に残されている善如龍王の絵図を見てみると次の通りです。
白峯寺 善女龍王2
白峯寺の善如龍王(後に龍のしっぽが見える)
  唐の官僚衣装を身につけた男子像姿です。ここからは次のようなことが分かります。
①白峯寺では水神「善如龍王」に対して雨乞い祈祷が行われていた。
②水神は醍醐寺の「善女龍王」ではなく高野山スタイルの「善如龍王」であること
③これは白峯寺が高野山と直接的に結びつき、人とモノの交流が頻繁に行われいたために高野山の雨乞い方式が伝えられたことによる
善女龍王
女神化した醍醐寺系の善女龍王

2善女龍王の表記1

それでは白峯寺の雨乞祈祷は、どのように行われていたのでしょうか。
「白峯寺大留」・「白峯寺諸願留」の中に、高松藩が干魃に際して白峯寺に雨乞祈祷を行なわせている記事が多く出てきます。それを今回は見ていくことにします。テキストは「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
5善通寺
善通寺の善龍王社

白峯寺の最初の雨乞いの記事は、宝暦12年(1762)のものです。
崇徳上皇600年回忌の前年で、それに向けて白峰寺の伽藍整備計画が髙松藩藩主松平頼恭によって進められていた頃になります。
雨が降らず「郷中難儀」しているとので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。雨乞い中に少しの雨は降りますが、効果はなく雨乞祈祷は27日まで行われます。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。ちなみに、白峯寺の善如龍王社もこの時期に、境内に姿を見せるようです。

2善女龍王 高野山
高野山の善如龍王 (小さな尻尾が雲の中から見える)

文化3年(1806)には、5月7日に雨乞いが命じられます。
この時には翌日8日から10日朝まで祈祷が行われます。が、効果がありません。そこで髙松城下へ場所を移して、11日に大般若祈祷を勤めて、12日から雨乞祈祷を再開しています。15日になってようやく降りますが、それも「潤沢」ではなかったようです。そこで、白峰寺の法力だけでは不足とされたのでしょうか、22日からは五智院(阿弥陀院?)・地蔵寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院・白峯寺の十か寺が揃って雨乞祈祷を行っています。この十か寺は、各郡に一か寺ずつ置かれていた「五穀成就之御祈祷」に指定されていたお寺でもあるようです。
郡奉行からは、雨が降るまで雨乞い修法を行うように命じられています。エンドレス祈祷の始まりです。ようやく待望の雨が25日に降りますが「潤沢」ではありません。そこで白峯寺は27日に6月朔日までの降雨祈蒔修法を行う事を寺社役所と郷会所へ伝えています。さらに6月朔日には、引き続き修法を行うことにしています。しかし、その後も降雨はありません。6月19日には、再び十か寺へ26日までの雨乞修法を行うことになります。この時の十か寺の合同修法は、五智院へ他の九か寺が集まって実施されています。この時の干魃がいつまで続いたかはわかりません。雨乞いは、エンドレスであったことを押さえておきます。この時には、5月7日から始まって6月26日まで祈祷しても雨が降らずに、その後も続けられたようです。

2年後の文化5年にも6月22日に雨乞執行が命じられ、翌日の23日晩から行われています。この時は、28日晩から大風雨となったため、雨乞執行は期限通りに9日で終わっています。

文化14年の旱魃の時には郡奉行から、雨乞祈祷を行うように命じられています。
22日から白峰寺で祈祷が始まり、開始5日後の27日に降雨があっりました。そのため十か寺の合同雨乞祈祷は行われませんでした。
このように白峯寺は、高松藩の雨乞祈祷担当寺院でもあり、藩からの依頼に応えて雨乞祈祷が行われていたのです。

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白峯寺の善如龍王社

19世紀になると、地域の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化2(1805)年に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いがあり、5月から行っています。(「白峯寺大留」7-6)。
文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(報告書312P)
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、近隣の村々の有力者の支持や支援を受けることにつながって行きます。以前にお話しした弥谷寺でも、多度津藩の雨乞祈祷寺院になることで、大庄屋の支持を得て、彼らの墓碑が建てられ、いろいろな奉納物が寄進されるようになりました。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。
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白峯寺の善如龍王社

文化7(1810)年には、青海村単独での五穀豊穣・雨乞い祈祷の依頼がありました。

文化七午年十一月十一日、青海政所嘉左衛門殿致登山申様ハ、当秋己来雨天相続、此節麦作所仕付甚指支難渋仕候、依之大小政所評定之上二夜三日之間、五穀成就御祈稿修行頼来候所、折節院主出府仕居申候二付、義観房私用も有之二付致出府、示談仕、当十四日より十六日迄之間、常例之通二五大虚空蔵法修行仕候様、相決し、院主十二日二帰峰仕、十四日より十六日迄五大虚空蔵法修法仕、助呪等諸事例月之通、尤導師意楽二而止風雨之本尊大檀向之右之方江奉掛井修法申印明等相加江行法仕候、且又十五日中国二相当り朝大小政所井組頭共人九人斗致参詣、吸物酒井蕎麦切茶漬等致饗応候、但し役所向届方之義ハ勤方江相尋候処、郡方よりも申出不仕候旨二付、当山よりも役所江ハ届ヶ不仕候、

  意訳変換しておくと
文化七(1810)年11月11日に、青海村の政所嘉左衛門殿が登山してきて次のような依頼をした。この秋は雨天が続き、麦の成長がよくない。そこで、大小政所が集まって評定し、二夜三日間、五穀成就の祈祷修行をお願いすることになったという。
 しかし、院主が出府、義観房も私用で不在であることを告げ、相談した結果、十四日より十六日までの間、通例通りの五大虚空蔵法修行を行う事になった。院主は十二日帰峰し、十四日より十六日迄五大虚空蔵法を修法した。助呪などの諸事例は通例通りで、導師意楽が主催し、本尊大檀に向かって右側に奉掛や修法申印明などが位置して行法した。十五日朝には、大小政所や組頭たち九人が参詣し、吸物酒並びに蕎麦・切茶漬などを饗応した。但し、役所への届出については、藩の勤方に相談したところ、青海村単独の雨乞いなので必要なしとのことであった。そのため当山からは役所へは届けなかった。

ここらは「藩 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し「民衆化」していること。当初は雨乞い祈願であったものが、二毛作の麦も含めた「五穀豊穣」のための祈願と姿を変えながら「守備範囲」を広げていることがうかがえます。
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神泉苑の善女龍王朱印
文化10(1813)年の暮れにも、秋から降雨が少なく、溜池の水が減って麦・莱種子の生育がよくないとして、阿野郡北の大政所は「五穀成就雨乞」の祈祷を依頼しています。その翌年の文化11年4月に入っても雨が少なかったらしく、阿野郡北大政所の富家長三郎は白峯寺に出向いて、降雨祈蒔を願い出ています。この祈祷に続いて郡奉行からも引き続き祈祷を続けるよう命じられています。
 周辺の庄屋たちの依頼による祈祷活動を年表化しておきます。
文政3(1830)年「稲作虫指」のため「虫除五穀成就」の祈祷
文政7(1834)年 阿野郡北の大政所単独の祈願依頼。(要約)
青海村の政所嘉左衛間が白峯寺へきて、この秋以来雨天が続き、麦の作付けが困難になっているので、大・小政所が相談して、二夜三日の五穀成就の祈祷をお願いしたい。これに応えて、11月14日から16日に「修行」実施。15日には大・小政所と組頭8・9人が白峯寺へ参詣。
文政12(1839)年6月 阿野郡北の依頼で、「虫除五穀成就」の祈祷
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵

最後に、どんな祈祷が行われていたのかを見ておくことにします。

先ほど見た1810年の史料には「通例通りの五大虚空蔵法を修行」
とありました。ここからは「虚空蔵求聞持法」を唱えながら護摩が焚かれたことが考えられます。しかし、これだけではよく分かりません。
文化五(1809)年6月の記録には、次のように記されています。
敷地書状政所へも届け申候、於頓証寺例之通り水天供執行荘厳等。前々之通り衆徒皆参 
初夜申刻ョリ             出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

一十四日夜五ツ時少バラバラ雨降ル 真正
一廿七日、早てより終日日曇り五ツ時ホコリジメリニ降ル
一廿六日、香西植松武兵衛参詣〈西瓜大一酒二升/持参)
一廿七日西庄大政所参詣酒二升
一同日高屋政所来ル、初穂一メ
一廿八日晩方より日曇り夜九ツ時分より降出、翌十九日
終日大風雨二而、降雨廿八日栗原理兵衛、尾池彦太夫
二人同道二而参詣、右大風雨故、川越出来[  ]へ廿九日
滞留、翌晦日早て二帰ル
意訳変換しておくと
敷地書状を政所へも届け、頓証寺でいつものように水天供執行の荘厳を行う。 前例通りのメンバーが集まってくる 
初夜は申刻から祈祷が始まった。出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

24日 夜五ツ頃 ぱらぱらと小雨が降る 真正
27日 晴天から終日曇りに変わり、五ツ頃から埃を湿らす程度に降ル
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
 同日 高屋の政所も来る、初穂一〆
28日 晩方から曇り、夜九ツ時分から降り出す
29日 終日大風雨
右雨乞修行之届申
ここからは、祈祷が行われた場所や、白峯寺やその子院の住職が役割が分かります。実施場所については、私は善如龍王社の前で行われていたのかと推測していたのですが、そうではないようです。頓證寺を会場として荘厳したと記されています。頓證寺が白峰の公的な祈りの場であったことがうかがえます。
 面白いのは次の記録です。
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
里の村々の有力者が、雨乞い祈祷を見守るために参詣しています。その際に、酒2升やスイカを持参しています。雨乞い成就の際には、それなりのお礼が行われます。そして、積もり積もって、土地寄進や灯籠などの寄進につながったようです。
翌年の文化6年も雨不足だったようで、雨乞い祈祷が次のように行われています。(要約)
5月14日晩方から雨乞修行を頓証寺に壇を設け荘厳して、修法水天供を始めた
一導師   院主増明法印
一助呪   義観房   自光房 善能房   深賢房
十四日の朝方にぽろぽろ降り始め、夜分にも少し降った。十五日には恒例の五穀祭りに、大小政所も参詣のためにやってきた。大政所の青海政所へ雨乞修行のことについて申聞させた。十五日の晩方から十六日朝まで大雨となった。そのため十六日朝には檀を撤去し、朝より法楽理趣三味となった。(後略)
ここからは、雨乞い祈祷が頓證寺の境内の中に壇を築いて、荘厳して行われたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」

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5善通寺2
善通寺東院の巨楠
江戸時代の善通寺は、丸亀藩の祈祷所でもありました。そのため正月などには藩主の武運長久や息災延命、領内の五穀豊穣の祈祷などを行なって、祈祷札を年頭の挨拶に届けていた記録が残っています。その中に雨乞祈願の記録があります。
 善通寺の「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱の中には丸亀藩からの依頼を受けて善通寺の僧侶たちがが行った雨乞い祈祷の記録が、約80件ほあります。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)の約150年に約40回の雨請祈祷が行われており、およそ4年に一度の頻度で雨乞が行われていたようです。

5善通寺
善通寺境内の善女龍王社
 雨乞を行なった場所は、善通寺境内の善女龍王社か丸亀城内の鎮守亀山社・天神宮のどちらかです。そこで行われていた祈祷とはどんなものだったのかについては、以前お話ししましたので簡単に「復習」しておきます。

5善女龍王4jpg

祈りを捧げるのは、善女龍王です。
善女龍王は清滝大権現のことで、もとはインドの沙渇羅竜王という竜神の娘で仏教の守護神として長安の青竜寺の守護神として祀られていたとされます。空海は唐から帰朝後に、この神を高尾の神護寺に勧請して真言密教の発展を祈願し、この神が海を渡って日本へ来ます。そこで青竜の二字に「さんずい」をつけて清滝としたといわれます。つまり善女龍王は空海によって「清滝さん」となり、雨乞いの神として信仰をお集めるようになっていきました。

⑤善女龍王5
神泉苑で請雨法
善女龍王は、どんな姿をしているのでしょうか?

善女龍王 変化
善女龍王の変化
 弘法大師が天長元年(八二四)に神泉苑で請雨法を行ったとき愛宕山山上に顕れた善女竜王の姿を弟子に写させたといわれています。その姿は、善女竜王像や善女龍王龍王社という形で高野山に残っています。
5善女竜王社への行き方
高野山の善女龍王社
そして、善通寺の東院境内には今も善女龍王を祀った祠が池の中にあります。ここで雨乞い祈祷が行われていました。

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像 
三豊の真言宗寺院でも善通寺に習って雨請祈祷が行われるようになったようで、本山寺(豊中町本山)にも善女龍王像が祀られています。安置されている鎮守堂の材の墨書には「天文二年」(1547)とありますから、戦国時代の16世紀中頃には行われていたことがうかがえます。
5善女龍王

 威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)には江戸時代の善女龍王の画幅や木像があります。ここから善女龍王への信仰が広く民衆に広がっていたことがうかがえます。
5善女龍王45jpg

 地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっているので、19世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも知られていたことがわかります。
5善通寺22
綾子踊りの幟
今までのことをまとめて、その先の「仮説」まで記してみると次のようになります。
①空海によって善女龍王が将来され、清滝権現として雨乞祈祷信仰を集めるようになった。
②善通寺にも高野山を通じて招来し、丸亀藩の要請を受けて雨乞い祈祷が行われた。
③三豊地区の真言寺院でも善女龍王をまつる雨乞い祈祷が行われた
④祈祷で効果が無ければ、村挙げての「雨乞い踊り」も行われた
⑤讃岐の二宮である大水上神社では「エシマ踊り」が雨乞い踊りとして奉納された
⑥その流れを汲む風流踊りの一つが国無形文化財に指定されている綾子踊りである。

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