瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:雨滝城

        雨瀧山城 山頂主郭部1
雨瀧城山頂部主郭部
雨瀧山の頂上にある三角形状の曲輪C1は、近世城郭の本丸にあたる所になります。そのため最大の広さと強固な防禦装置群が構築されているようです。今回は、雨瀧山の主稜線上の防御施設を見ていきます。テキストは、「池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度」です。

まず、虎口とされる①の枡形Ca遺構を見ておきましょう。
雨瀧山城 山頂主郭部1拡大図
         雨瀧山城 山頂部主郭部拡大図
曲輪W2・S2方面からの通路は、曲輪C1の南側を回廊の様に通過します。その中央部辺りに、曲輪C1から南へ突出した①に枡形Ca遺構があります。この突出した地形を通過して曲輪C1へ入っていたようです。曲輪W2方面からCa台地へつづく通路には、横並びに三つ横矢ポイントが連続して並びます。同じように曲輪S2方面から①のCa台地につづく通路に対しても、曲輪C1南南東隅に石垣を使用した上下三段構造による大横矢拠点が待ち受けています。これら二方面からの通路に対して、曲輪C1には強固な防衛拠点の備えがあります。さらに突出させた台地地形構築から推測すると、ここが枡形形状の虎口遺構と研究者は考えているようです。
 もうひとつの虎口とされる②の枡形Cb遺構を見ていくことにします。
 曲輪N2方面からの通路の上に、帯状の空間地形Cbが見られます。曲輪N2からこのCbに登り、さらに東に回り込み、第2次大戦時に構築したと言われる監視所跡の切り込み(坂虎口)から、曲輪C1へ入るルートがあったと研究者は考えています。通路構築状況から見ると、通路の中間部にある帯状の空間地形Cbは、曲輪C1の枡形としての機能を果たし、尾根N方面に対する最終防衛拠点であったとことがうかがえます。
③ 曲輪C1大横矢拠点(堡塁か)
この横矢拠点は、S尾根方面から攻め寄せる敵を迎え撃つために、南南夷隅に石垣で上下三段構造の拠点を構築しています。一方、W尾根方面に対応する西隅は、竪堀と横堀を組み合わせた凸構造の構築がされています。最後の決戦場としての曲輪C1を守る防衛構造物と研究者は考えています。
以上から曲輪C1には、同一パターシ化された防衛構造物が配置されていて、縄張りには「ある一定の法則性」があり、かなり高度な築城技術が使用されていたことが分かると研究者は評価します。

本丸からに西尾根に続く曲輪W群を見ていきます。
雨瀧山城 山頂西部拡大図
雨瀧城 曲輪W群

曲輪W群は、西の寒川方面の尾根からの攻撃を想定しています。曲輪C1防衛のために、曲輪W群にはさまざまな築城技術の使用が見られます。まず曲輪W5直下の尾根地形上の斜面に、堀切状の凹地形を削り出しています。さらに凹地形の南北両端の斜面に竪堀を落としています。これらの一連の構築物は、敵による斜面上の回り込み攻撃を阻止します。正面突破の敵勢力に対しても、凹地形の西側土塁と曲輪W5からの上下2段による横矢迎撃で撃退する備えです。またこの凹地形は、西尾根正面に平虎口を開口させ、その左右を土塁で固めた枡形虎回の機能をもあわせ持つ防衛拠点となっています。
  主郭西部の防禦構造物には、北側斜面上の5本の竪堀があります。
①凹地形の北斜面を遮断する竪堀
②曲輪W5北斜面を遮断する竪堀
③曲輪W2北斜面を遮断する竪堀
④曲輪C1北斜面を遮断する竪堀の西4本
で、北斜面上を攻め登る敵を阻止します。
以上の構造は、この城郭の中では最高の技巧性を見せる遺構だと研究者は評価します。

 南尾根の曲輪S群の虎口と通路について、見ていくことにします。
雨瀧山城 山頂南主郭部1拡大図
雨瀧山城 曲輪S群
曲輪S群は、南方の柴谷尾根方向からの攻撃を想定しています。
この方面の攻防ポイントは堀切S10になります。堀切S10を守るために、まず曲輪S8・7・6が防衛拠点と配置されています。堀切S10から上の通路は、次の2つが考えられるようです
①枡形虎口Sbに入り、曲輪S4下の斜面上を北西へ直進、曲輪S3の「登り石垣?」ラインが斜面を下がってくる地点で突き当たり、そこを折り返して曲輪S4へ登るか
②「登り石垣」部分を越えて直接に曲輪S4へ登る通路が見えてくる。この通路を登る。
 この通路方法からすると、小空地S5は上下一体性のある枡形虎口遺構そのものです。上段の空地は下段の枡形空間にたいして、武者隠し的空間として機能します。さらに西尾根の枡形遺構と同じ様に、曲輪S4と併せると、ここにも上下三段構えの立体防禦装置があったと研究者は指摘します。

南方の曲輪S群には、西尾根曲輪W群には、見られなかった土塁構築があります。
曲輪S6は東斜面側の南北に立つ自然の大岩間に、貴重な土塁構築と枡形虎口Scが作られていますので、何か特別な空間のようです。曲輪S7・8では、虎口Sdが敢えて尾根筋を避けて、西側にずらしています。そして、曲輪S7.8を防禦機能上、一対とした空間として配置しています。そのねらいは、東尾根櫓台地区SEを突破し、なだれ込んできた敵を、ここで阻止するための軍事空間のようです。特に曲輪S8の形を回廊状にしているのは、尾根斜面を登ってくる敵兵に対して、迎撃のための砲列を敷く足場にするためだったと研究者は考えています。

最後に雨瀧山城が、いつ、誰によって、どのような目的で造営されたのかを見ておきましょう。
 私は先入観から安富氏が、阿波の三好勢力に対して造営したもので、16世紀初頭には原型的なモノが姿を見せ、それが土佐勢侵攻の脅威が高まる中で整備されたものと思っていました。さてどうなのでしょうか。
『雨滝城発掘調査概要』(1982年)の報告によると、山頂部曲輪群からは、礎石と瓦を使用した建物群が出土しています。瓦が出てくる山城は、讃岐ではあまり聞きません。全国の中世城郭で、礎石建物の出土事例の初見は、次のようになるようです。
①横山城の大永年間1520~天文年間1550年
②観音寺城では天文年間1530~永禄年間1558年
③四国では「土佐では16C後半以降」
 そうすると雨瀧山城に礎石建物が建てられたのは、元亀年間(1569)の寒川氏問題での緊張時か、それ以後と研究者は推測します。
 瓦については、『調査概要』や『織豊期城郭の瓦』(1944)の報告によると、瓦制作技法はコビキA手法や紋様等より、織豊期の系譜を持つ瓦と判定されています。とすると、秀吉のもとで、讃岐制圧部隊として活動した仙石氏や生駒氏による改修・増築などが考えられます。その遺構年代は天正13(1585)年前後と研究者は考えています。とすると、安富氏のものか、仙石氏のものかについての判定は微妙な問題になるようです。

 別の視点から見てみましょう。
雨瀧山城の遺構の中で、特に目立つのは8ヶ所ある枡形空間です。城郭遺跡の中で、枡形の構築年代が古いものを並べると次のようになります
①京都嵐山城  永正4(1507)年  『多聞院日記』香西又六元長」
②京都中尾城  天文18(1549)年 『万松院殿穴太記』将軍足利義晴」
③近江小谷城攻の陣城群 天正元年(1571)(織豊期城郭)」
④讃岐勝賀山城 天正7(1579)年   香西氏」
⑤備前国児山城 天正9(1581)年  『萩藩 閥閲録』(宇喜多与太郎基家の陣城 )
これらの城郭との枡形の比較検討からも、雨瀧山城の遺構は天正期頃のものと推測できます。
上記の城の枡形を雨瀧城のものと比べて見ましょう。
雨瀧山城 比較
細川系枡形技法
比較からは、京都嵐山城・讃岐勝賀山城・讃岐雨瀧山城の枡形形状が同類型であることが分かっています。
3つの城の枡形の共通点を見ておきましょう。共通点は、堀切内部の空間を土塁等で一部仕切って、切り離した枡形空地を創出して構築した独特の形の枡形であることです。堀切と枡形を併用した形状の事例は限られます。
 さらに三城郭の共通項を探すといずれも築城者が、香西氏と安富氏という細川京兆家の関係者であることです。ここからは「細川系築城技法」とよべる技法があり、それを持った土木築城集団が細川氏周辺にいたことが見えてきます。
 三城郭の構築年代を考えると、天文年間から天正初期という時代は、信長の上洛以前で、細川・三好の勢力が京畿を支配していた頃になります。畿内で用いられていた築城工法を、香西氏や安富氏は讃岐の城の改修や新築に採用したようです。

 天正3年香西元成が堺の新堀に新城を築城したことが『信長公記』には記されています。
この時期に、香西氏は旧地である京都嵐山城も改修した可能性が高いと研究者は考えています。そうすると香西氏の讃岐の新城と築城された勝賀山城の枡形遺構も天正期あたりの構築と云えそうです。これは三城郭の年代及び築城系譜とも一致します。

以上をまとめておきます。
① 雨瀧山城の東西両尾根上に対象にある「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構は、縄張り上で「パターン」を繰り返して使用している。
②畿内などで使用されている防禦施設(枡形)が採用されている。
③全体としても縄張りに「統一性」が見られる。
④雨瀧山城の縄張りは、築城時以前に「縄張図面」があった
⑤この縄張り構想は、細川系築城技法を持つ築城集団によってもたらされた。
そして、頂上の曲輪に建てられた礎石建物は、安富氏か織豊系大名のどちらが建てたものかは微妙な年代だが、建物配置状況や出土した織豊期瓦から織豊系大名によるものと研究者は判断します。具体的には、秀吉の命で天正13(1585)年に仙石氏が讃岐入国後に行った領国経営上の支城網群整備時に築城・改修された城郭群中の一城とします。仙石・生駒期になっても、讃岐の山城は改築・増強され軍事的機能を果たし続けていたのは、最近の勝賀城の発掘からも明らかになっています。
 ここからは、讃岐の中世山城の中には長宗我部元親や信長・秀吉の侵攻で陥落し、そのまま放置されたのではなく、改修・増築が行われ新たな軍事施設としてリメイクされていたことが改めて分かります。西長尾城や聖通寺山などの発掘から分かったことは、土佐軍は、旧来の山城に大幅な手を入れて増強していることです。それが東讃の雨瀧山城にもみえるようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度

雨瀧山 居館跡2
 雨瀧城 奧宮内居館跡

前々回は、東西尾根上の遺構をみて、雨瀧山城の城郭エリアを確認しました。前回は、居館跡や屋敷地群があった奥宮内エリアの建物群の配置などを見ました。
雨瀧山 居館跡奧宮内3

 居館跡とされる奥宮内を中心に「富田城下町」が形成されと研究者は考えているようです。
しかし、地図や現地を見る限りでは、私には見えてきません。研究者は何を材料にして「城下町復元」を行うのでしょうか。今回は、「城下町富田」の復元過程を見ていくことにします。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。

前回見たように、居館跡は雨瀧山城南側のふもとである奧宮内にあることは、前回にお話しした通りです。
まず、奥宮内を囲む外郭の大堀を次のように想定します。
居館跡東側の「げじょうだに」から「のぶはん」を経て津田川の合流点の「てさき」に走る大溝地形を外堀とします。そして改修した津田川に連結させて、両堀を外郭としたL字ラインの内側に、奥宮内谷居館群とさらに宮内・大船戸両地区を結合させて「戦国期城下町・富田」が形成されていたとします。
 また、城下町の最大の防御網は、東側の大堀遺構と南側の津田川になります。仮想敵勢力が攻め寄せてくるのは、この方向からであったと考えていたことがうかがえます。そうだとすれば、仮想敵勢力は、次のように考えられます。
①城主が安富氏であった時代には、阿波三好勢力や土佐の長宗我部元親
②城主が仙石氏や生駒氏であった時代には、土佐の長宗我部元親
 外郭の大堀に囲まれた城下集落
このエリアには地形を表現した地名には次のようなものがあります。

「ごい」・「みいけ(御池?)」・「いけじり(「池尻)」・「たなか(田中)」・「のぶはん」「げじょうだに(下所谷)」「いずみたに(和谷」・「おおぜつこ(大迫古)」・「てのく」・「西野原」・「うらんたに(裏の谷)」・「すぎのはん」・「しんがい(新開)」等

町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります
「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」等

これらの地名がある場所を下図で確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山城 商家町富田 
           雨滝城城下町
 河川港と港町
津田川に沿った付近には、「しもぐら」・「こふや」・「おおふなとじんじゃ」・「しんがい」等の地名が散在します。
「しもぐら」・「こふや」からは、川港倉庫群の存在
「おおふなとじんじゃ」からは、海上運行の祭祀した船頭や、船戸からは港があったことや、河川港とその港湾に働く人々がいたこともうかがえます。津田川を利用した河川交通の運航が行われ、この周辺には川港的機能を果たしていた「施設」があったと研究者は考えているようです。

雨瀧山城 城下町富田2 


富田荘の物産類が集結したのが船戸神社の下の「しもぐら」・「こふや」の川筋でしょう。ここからは富田庄の流通経済活動拠点とし、大船戸地区が考えられます。また宮内地区には、「本家」・「隠居」・「南屋敷」などの雨瀧山城や「守護代所」に関係した行政・統治機関の人々の居住地があったことが推測できます。
 経済活動の中心地としての津田川流域の大舟戸地区、
 政治的中心地としての富田神社周辺の宮内
それぞれ別の機能を持つ両地区を中心にして、「戦国期城下町」富田が出現したいたというのです。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する富田

確かに雨瀧山城の南側の富田エリアを巨視的に見ると、髙松平野の東の端にあたります。髙松平野に侵入しようとする勢力が、ここを拠点に勢力を養った例が古代にもありました。津田湾沿岸に古墳を築いた勢力は、ヤマト朝廷に近く、瀬戸内海南航路を紀伊の勢力と共に確保していたとされます。彼らは津田川を遡り、この富田の地で勢力を養い岩清尾・峰山勢力を圧倒していくようになります。その政治的シンボルが、この地にある富田茶臼山古墳とされます。古代においても、津田川は、津田港と富田を結ぶ基幹ルートであったことが推測できます。
雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。
讃岐富田荘の港は、一般的には鶴箸(鶴羽)浦か津田浦と考えられています。
雨瀧山城 安富氏と海上交易
兵庫北野関入船納帳に出てくる讃岐の17港
  津田湾周辺では鶴箸(羽)が記されている

鶴箸(鶴羽)浦と津田浦は近世にも繁栄していた港です。特に鶴箸には「江田=えだ」の地名を残す港湾遺構もあり、『納帳』にも出てきます。しかし、富田荘との荷物のやりとりには相地峠を越える必要があります。それを避けるために、津田川を利用し富田荘内に川船を接岸する方法が取られていたことが考えられます。とすれば津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があったはずだと研究者は指摘します。富田荘内を貫流する津田川(=富田川)に、「古枝=古江?」や「船井」などの川湊がいくつもあり、それが海岸線の後退に伴い、江戸期の「津田浦」の発展につながったとしておきましょう。

以上をまとめておきます

①雨瀧山城の居館跡は、奧宮内エリアを中心に「舟渡地区(津田川河岸) + 宮内地区(富田神社周辺)」までをエリアとして「城下町・富田」の町割りが行われていた。
②城下町富田の外堀は、「東の大溝遺構 + 南の津田川」であった。
③舟渡地区を中心に定期市が開かれ、川港もあり、ここが経済的な中心地であった。
④城下町富田は津田川を通じて、瀬戸内海東航路に接続していた。
⑤雨瀧山城西尾根筋の先端にある「船井」には、船井大権現と船井薬師があり、往時の繁栄と港湾の痕跡が推定できる。
⑥津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があった?

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 雨瀧山 遺構図全体2
  
雨瀧城の居館や屋敷地群は、どこにあったのでしょうか。
雨瀧山の南側の奥宮内を最有力候補と研究者は考えています。その居館跡を今回は見ておきましょう。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。
  奥宮内は、富田神社の鎮座する奥まった谷に位置します。
 奥宮が居館跡だったすると、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部に居館を置かずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたことになります。古代にも、交通の大動脈である瀬戸内海の入江である津田湾ではなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳を内陸部平野の富田に築いた古代首長がいました。津田川流域のこの平野は、戦略的な魅力があるのかもしれません。
雨瀧山 居館跡2
雨瀧城 奧宮内の居館跡
 奥宮内は、東側のげじょう谷の尾根筋と、てのく谷の尾根筋に挟まれた谷筋です。
ここには、宮内谷扇状地が形成されて、その先端に中池が築かれています。中池について、研究者は次のように考えています。もともとは、ここに土塁が築かれて、堀となっていた。それが後世にため池堤防に「転用」された。つまり、中池の堤防は、谷筋防衛のために遮断された大土塁であった云うのです。これを裏付けるように、平成6年のため池改修時の調査では、池の内部底土層の堆積が南北幅が5m程でしかなく、東西に細長い水堀であったことが確認できています。

雨瀧山 居館跡奧宮内1
        雨瀧城 奧宮内の居館跡(拡大図1)

奥宮内は、南に傾斜した扇状地上の地形の上に屋敷地跡が残ります。
全体は次の3地区に分けられます。
① 西尾根下の小さな谷地形(おおぜっこ)
② 東尾根下の小さな谷間(いずみだに)
③ この小さな谷地形が合流した小扇状地(中池・小池・さくらんぽ)地区
各地区の機能は、次のようになります。
①②のおおぜっこ・いずみだに両地区は、飲料水の確保と畑地として利用していた空間地
③の中池・小池・さくらんぼ地区は、屋敷地や倉庫地
雨瀧山 居館跡奧宮内3
雨瀧城 奧宮内の居館跡
中池に面したL字形平地は、館の「表」として公的機能を持つ守護代所の建物等があったところで、地図上のA・B・Cは領主の表での屋敷部分で、A・Bは領主の奥の居館部分の建物があったところと研究者は推測します。
さらに、屋敷地周辺について、次のように推察します。
・上部のさくらんぼ地区は、厩屋等の建物があったところ
・中池の堤防が西尾根に接するところと、尾根との間に残る小空地が虎口で、城門のあった可能性
・虎口の背後地のⅠA屋敷地に接するところは、枡形機能を果たす空間地
・居館内を警護する家人は、小池の西側と東側尾根先端部の高台曲輪に駐屯
以上のように、ここには居館全域の監視・防衛に最適な地点であったことが想定できます。

 もう一度、「げじょうだに」(=下城谷か?)周辺を見ておきましょう。

雨瀧山 居館跡2

ここには居館地の東側防衛のために、軍事色濃厚な遺構群があります。
① 大堀
城山の稜線より一気に下る「げじょう谷」が、緩傾斜した谷地形あたりの「のぶはん」地区を通過して、さらに宮内地区と森清地区の境「ゴイ」・「ミイケ」・「タナカ」・「スナゴ」・「テサキ」を通り、津田川へ流入する谷間地形が広がります。この南北を貫流する谷筋を、城郭遺構の防衛線の「大堀」と研究者は考えています。
 特に谷地形の西側縁(宮内地区)は、湿地及び泥田地形であったようです。日葡辞書には「sunago=砂、または砂をまきちらしたように」から、このあたりは河川敷のようであったらしく、それが「タナカ」・「ミイケ」の地名からもうかがえます。
②   奥宮内の居館推定地の東側の「のぶはん」とは、何でしょうか?「のぶ」と「はん」に分けて考えると、「のぶ」=伸ぶ・延ぶ=のびる=空間的に長くひろがるとの意味になります。日葡辞書でも「nobu=せいたけがのぶる」で、地形の状況を示す言葉の意味になるようです。稜線より一気に下る「げじょう谷」と、暖傾斜状谷地形の「のぶはん」の谷内部より稜線を見上げると、天空に向かって一直線の「げじょう谷」空間が走り、「空間的に長くひろがる」の言葉の意味どおりの地形となると研究者は考えているようです。
③ 首切り地蔵尾根
「のぶはん」東壁の尾根は、東側面に自然地形を壁面状に加工したようすが見られます。城郭防禦の遮断線としての尾根ラインを構築したようです。中段付近には、堀切と「首切り地蔵」のある曲輪等が二段構築されています。今はこの堀切りは、柴谷峠に抜ける山道が通過していますが、往時も道として使用していたと考えられ、曲輪の存在は堀切道を通過する敵にたいして、防衛拠点としての機能を持つところと研究者は考えているようです。

   以上見てきた通り、奧宮内は、雨瀧山の南の谷の奧に南面して配置されていたと推測されています。
このレイアウトは、津田方面の海上交易よりも南方に広がる内陸盆地に主眼を置いたかのように思えます。これ対して、西讃守護代の香川氏が多度津の現桃陵公園付近に居館を置き、その背後に天霧城を築いています。香西氏も内陸から次第に海際に進出して、勝賀城を築いています。そこには、交易湊を確保して瀬戸内海交易に参加していこうとする意欲がうかがえます。それに対して、海に背を向けて居館を置いた安富氏のねらいはどこにあったのでしょうか。考えられるとすれば、阿波三好氏への備えを主眼として作られた城なのかも知れません。
 また、安富氏は古髙松港(屋島)・志度・引田に加えて小豆島の各港の管理権を握っていた節もあります。そのための経済的な機能を各湊にあり、政治的な居館を津田湊に置く必要がなかったのかもしれません。この辺りが今の私には、よく分からないところです。

    雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。その権利を安富氏は持っていたようです。
 守護細川氏が在京であったために、讃岐の守護代たちも京都に詰めていたことは、以前にお話ししました。雨瀧山城の居館には安富氏の守護代事務所からさまざまな行政的な文書が届けられ、在郷武士たちの管理センターとして機能していました。津田湊を経て、京都と交易路も確保されていたのです。安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていました。
 しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えるようになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして安富氏を配下に繰り入れ、東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小
豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、小豆島は瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。その目の前にあったのが、この城になるようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度
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        雨瀧山城 説明看板

雨瀧城の主である安富氏については、守護細川氏のもとで東讃の守護代を務めていたことは、以前にお話ししました。文献史料から指摘されているのは、次の二点のようです。
①讃岐守護代家安富氏が讃岐に所領を与えられたこと
②安富氏が寒川郡七郷へ侵攻して雨瀧山・昼寝山押領をしたこと
政治的経過はある程度は分かるのですが、それを雨瀧山城と結びつけて論じたものは、あまりないようです。雨瀧山城を縄張研究の視点から城郭遺構を見直し、築城者までもを探ろうとする論文に出会いましたので紹介します。テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。今回は、雨瀧城の範囲と遺構を縄張図で見ていきます。

雨瀧山 遺構図全体
雨瀧城全体遺構図

 尾根上に残る遺構は、次の3つに分けられるようです。
1 寒川方面主尾根NW遺構群
2 火山方面主尾根E遺構群
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群
 雨瀧山山塊の背骨ラインを形成する尾根は、東から2の火山遺構群を経て、本丸のある雨瀧山山頂を通って、北西に伸びる寒川尾根遺構群から津田川(富田川)へ落ちていきます。津田川(富田川)へ落ちる尾根裾部付近には、造田の春日神社や「河川港」と見られる「船井」が残っています。

雨瀧山 遺構図全体2

ここからは、古代荘園時代から尾根筋が雨瀧山頂部と河川港などをつなぐ通路として利用していたことがうかがえます。中世の雨瀧山城を拠点とした勢力は、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部を本拠地とはせずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたようです。この城の築城者が何者か、また築城の意図がなんであったのかを解く糸口があると研究者は指摘します。交通の大動脈である瀬戸内海の入江でなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳がある内陸部平野を拠点とした意図はなんっだのでしょうか?  それについては、後に考えるとして、まずは遺構を見ながら雨瀧山城の範囲を確定しておきましょう。

まず津田川に落ち込んでいく西方尾根 寒川方面主尾根NW遺構群を見ていくことにします。

雨瀧山城 寒川方面遺構図
雨瀧城 寒川方面尾根上の遺構群

尾根に取り付いた攻め手を待ち受けているのは、狭い「一本橋(NWー4遺構)」です。尾根上の幅が約3m程の馬背状地形を、両側から空堀構築のように削り取り、その一部(幅約60㎝)を掘り残して、一本橋状(長さ約18m)に加工した痕跡があります。これを「一本橋=いっぽんばし」遺構と呼ぶようです。
   一本橋遺構とは、何なのでしょうか。
尾根上を攻撃してくる敵は、 一人ずつ一列縦隊で侵攻して来るのではなく、数人の集団で押し寄せてきます。一本橋装置は、一人ずつしか渡れません。隊列を崩して一列になる必要があります。そこを飛び道具で狙い撃つというしかけです。この遺構は、単に堀切と一本橋(土橋状)で、敵を遮断するというよりも、ここに敵を招き入れて迎撃することで、打撃を与えることを目的にしていると研究者は指摘します。そのために、橋を長くしているのです。単なる「土橋」ではなくて「一本橋」と呼ぶ由縁のようです。

雨瀧山城 寒川方面遺構図拡大
寒川方面尾根遺構図 拡大版
 空間地形NWー3遺構
一本橋を渡った所の空地(NWー3)は、「一本橋」の附属空間だと研究者は指摘します。この地点は、自然地形上のピーク地点で一本橋よりも、一段高い位置にあります。一本橋を敵兵が乗り越えてきた時には、坂を駆け上ってこの空間に飛び込んで来ます。それをここで待ち構える守備兵が周りから迎撃します。そのための陣地空間です。
ここに一本橋と陣地空間を配置したのは、偶然ではなく縄張り上の工夫と研究者は評価します。一本橋効果をより高めるために工夫された陣地割と云えます。 次のNWー2遺構は、堀切状遺構です。
その下の斜面にあるのが竪堀NWー5・6遺構です。
「馬の背」尾根上の「展望所」の下になります。このふたつの遺構は、NW1遺構方向に向けて、敵が尾根側面へ回り込むのを防ぐ竪堀のようです。竪堀NW5の東側面は、わざわざ土塁状に構築していて、城内側が優位になるように斜面上にしています。軍事的視点からも、ここが竪堀構築位置としては、最良地点だと研究者は評価します。
 堀切NW1遺構 西主尾根防禦の基幹となる堀切です。
 攻城側・城内守備側双方の接近戦が行われる所で、攻防戦の勝敗を左右する所です。守備側にとっては最後の遮断線であり、攻城側にとっても城郭主要部攻撃への拠点(西主尾根)の確保となり、双方ともに譲れない拠点になります。
以上、寒川方面の尾根上の遺構群を見てきましたが、主尾根防禦の構築物群に、「一本橋」・「陣地小空間」・「堀切」・の配列が確認できます。一定の「縄 張り技法」に基づく築城があったことがここからは分かります。
雨瀧山城 火山方面遺構図
            雨滝城 火山方面主尾根E遺構群(上図参照)
雨瀧山より火山に続く尾根は長く、何処までが雨瀧山系の尾根なのかよく分かりませんが、一般的にには柴谷峠辺りまでとされます。ただ尾根筋を、火山から雨瀧山へ向かって下っていくと、柴谷トンネルの上辺りの鞍部が、火山尾根の終点とも見えます。
この方面の防衛をどのように考えるか、または防禦物群の構築があったのかが、雨瀧山城の範囲を何処までとするかのポイントになります。
 一本橋(E5)遺構
火山に続く尾根筋がの傾斜地形の途中にも、「一本橋E5」があります。これは寒川方面主尾根にのNW4遺構と同じものです。ただこちらの遺構は、NW4よりもさらに規模が大きく、また弧状に湾曲させた形なので、さらに防禦機能を強化した「一本橋」に仕上がっているようです。この地点は、火山側へ登る傾斜地形上にあり、高低の逆転地で、防衛的には弱点地になります。その弱点を補完するための工夫として、一本橋を直線としないで、湾曲させる事で橋の上を走り抜けにくくして、守備側に射撃チャンスを確保しようとしたものと研究者は指摘します。そして「一本橋」があるこの地点を、雨瀧山城の東方面の城域をしめす遺構とします。ここから東に雨瀧山城は展開していたことになります。

雨瀧山城 火山方面遺構図拡大図
 雨滝城 火山方面主尾根E遺構群 拡大図
 空間地形E4遺構も、寒川方面主尾根で見られたNW3の遺構と同じ効果を狙った空間地形のようです。続くE3遺構も、小規模な「一本橋」遺構のようです。
 曲輪E2遺構 ここで城山から東へ続く尾根筋が、火山山系と分けられることになります。雨瀧山系の尾根筋を分ける象徴的なピーク地点とも云えます。頂上面は、曲輪としても十分な空間地形がありますが、現在は高圧線鉄塔が建っていて頂上地形状況はよく分かりません。位置や尾根筋上に孤立するピークの高さから、火山方面主尾根防衛の指揮所的機能を持つ曲輪であったと研究者は考えています。
以上からは、寒川方面の尾根防衛と同じように、こちらも「一本橋」で防衛する縄張り構造が見られ、縄張りに統一性があることがうかがえます。
雨瀧山城 東尾根
雨瀧山 東尾根筋柴谷峠方面遺構図
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群(上図)
富田地区と津田地区を結ぶ柴谷峠道は、今はトンネルで結ばれていますが、かつてはトンネル上に旧道があり、掘割地形となった峠に出ました。中世には、ここには城郭遺構である堀切があったはずです。当時ここは、城山尾根と火山尾根を遮断する大堀切だったと研究者は考えています。
雨瀧山城 津田浦方面尾根
雨滝城  津田浦方面泉聖天尾根NE遺構群(上図参照)
雨瀧山稜線SE4の小空地の北壁下から泉聖天が建っている元古墳に向けて伸びる尾根筋の間には、遺構は確認されていないないようです。しかし、元古墳のピークは、縄張りから考えると津田方面の戦闘指揮所としての曲輪があったと研究者は推測します。
① 屋敷地NE1遺構     岡
尾根先端裾部の東方向に下ったところに、通称「岡」と言われる屋敷地があります。この屋敷地周辺は、古代より開けたところで、屋敷地の南東側向かいに呉羽信仰の祭祀場があり、東下の海岸崖にも古墳とされる祭祀遺構が確認されています。この辺り一帯を、御座田と呼ぶので、古代からの集落地があったようです。この地区内で、屋敷地として一枚の広さと方形地形を見せる通称「岡」を特別な場所と見て、雨瀧山城に関連する屋敷地と研究者は考えています。
② 屋敷地NE2遺構  御殿
泉聖天が祀られている祠から東北方向に下ったところに、「御殿」と呼ばれる屋敷地があります。、ここは「岡」の地形と比べても、 一枚の広さや形状が狭く、周辺地形も手狭なので、屋敷地としての研究者の評価は少々劣るようです。
 地元の伝承では、ここに御殿があったとの説が有力なようです。
城門がここより移転して、現に火打山霊芝寺の門として残っているという研究者もいます。(『安富氏居館の謎』筑後正治)
 しかし、現在の寺門が雨瀧山城に関連する遺物かどうかは分かりません。調査結果からは、雨瀧山城の城門であるとする積極的な意見は見当たらないようです。むしろ江戸期に、藩主の別荘(御殿)を領地内の各地に設置していますが、そのひとつという意見の方が有力なようです。
③ 曲輪NE3遺構 ここは往時古代遺跡の前方後円墳でした。
今は、そこに泉聖天が建てられ、遺構調査はできないようです。先に述べたように、ここが戦闘指揮所として適所で、曲輪としての好地のようです。
 以上からは、この尾根筋を遮断する堀切は、構築時期に疑問が残り城郭遺構と判断できないと研究者は考えています。

 雨瀧山城の城郭プランがどの範囲まで及んでいるのかを見ました。
以上の防禦遺構から、雨瀧山城の範囲は、東西両尾根上の「一本橋」までと研究者は判断します。そして、津田方面では等利寺谷及び泉聖天古墳までとします。
 研究者が改めて注目するのは、「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構です。これは「ひとつのパターン」を繰り返して使用しています。現在では、パターン化は当たり前の工法ですが、中世ではそうではなかったようです。中世城郭での縄張りは、その場の地形にあった防禦構築物を、その場その場限りのものとして作っていくのが一般的です。ところが、雨瀧山城では、「あるパターン」の防禦構築物を繰り返して用いられています。また畿内などの他地域で使用されている「同一形状」の防禦施設が採用されています。そして、全体としても縄張りに「統一性」が見られます。
 ここからは、雨瀧山城の縄張りは、その場その場限りの発想ではなく、築城時以前に「縄張図面」があったこと。その構想とは、細川系築城技法を持つ者による縄張りだと研究者は指摘します。しかし、主郭部分には、織豊政権的な要素もあるようです。それは、また後に見ることにします。次回は、この城の主が生活した屋敷跡を見ていきたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度
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