瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:雲辺寺

秋がやって来たので原付ツーリング兼フィールドワークを再開しようと思って、その「調査先」選考のために阿波池田町史を読んでいます。その中に中世の中蓮寺のことが載せられていましたので読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは「池田町史220P 中蓮寺」です。

中蓮寺峰 香川用水記念館から
中蓮寺峰(財田の香川用水記念館より)
 ウキには中蓮寺峰について、次のように記されています。

 香川県と徳島県の県境にある山で、雲辺寺山から猪ノ鼻峠まで若狭峰(787m)と共に延びている峰である。平安時代に雲辺寺の隠居部屋として創営されたと云われている中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置にあった。しかし、戦国時代に長宗我部元親が阿波国に進攻した際に寺は焼撃ちに遭った為、現在は存在しない。中蓮寺峰の山名はこの寺の名前を戴いたものである。
  
中蓮寺越 

中蓮寺越の道(四国の道説明板)

私の今の関心のひとつが「中世の山林寺院と修験者」です。そういう視点で中蓮寺を見ると、この寺は東の中寺廃寺・尾背山と西の雲辺寺を結ぶ位置にあったことになります。中世の山林寺院は、孤立していたのではなく修験者や熊野業者・高野聖など廻国の宗教者によって結ばれネットーワーク化されていたことは以前にお話ししました。その例が尾背寺と萩原寺・善通寺の関係でした。そのネットワークの拠点の一つが中蓮寺ではないかというのが私の仮説です。
池田町史220Pには、中蓮寺について次のように記します。

この寺には、次のような話が伝わっている。①中蓮寺は雲辺寺の隠居寺で、雲辺寺より格が上であった。②本尊が金の鶏であったので、下野呂内地区では大正の初めごろまでを飼わなかった。廃寺になった原因は、猫を殺した住職がそのたたりで相ついで変死したためである。③七堂伽藍のあった立派な寺院であったが、④長宗我部元親の焼討にあって廃寺となった。⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門であった。

上のような伝承はありますが、それを裏付ける古記録や古文書は残っていないようです。 ここで押さえておきたいのは「中蓮寺は雲辺寺の隠居寺」であったということです。雲辺寺のネットワーク下にあったことがうかがえます。また、「⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門」とあります。相当に広い寺領を有していたことがうかがえます。
現在の三好市は田井の庄という広大な荘園で、その庄司が大西氏でした。この下野呂内も田井の庄に組み込まれ、白地城の大西氏の支配下にあったと研究者は考えています。それは近くに大西神社が鎮座することからも裏付けられます。

中蓮寺峰と金の卵

ここには中蓮寺の御神体が金の鶏であったので、下野呂内地区では鶏を飼ってはならないことになっていたことが記されています。寺の御神体というのもおかしな話ですが、当時は神仏混淆で社僧たちには何の違和感もなかったのでしょう。そのため明治の末年ごろまで実際に鶏を飼わなかったといいます。
池田町史下巻903Pには、次のような地元の人の回想が載せられています。

 かしわも食べん。
 昔は時計がないきん一番鶏が鳴いたら一時、二番鶏が鳴いたら二時、バラバラ鶏になったら夜が白んでいて六時ですわ。時を告げ鶏は神さんのお使いのように思とったんでしょうな。卵も食わなんだ。昔は肺結核を労症と言っとったが、労症が家に入ったら三人は死ぬと言われとりました。鶏はその労症のたんをすすっとるから、卵を食うたら労症になると親父からよう聞いた。 牛肉や卵を食わんのは、わしが十七、八になるころ、日露戦争ごろはそうだった。そういう考えのしみ込んでいる人がようけ生きしとりました。

ここからは、「中蓮寺の金の鶏」伝説が深く住民の心に根付いたいたことがうかがえます。下野呂内地区が中蓮寺の強い影響下にあったことが分かります。中蓮寺によって周辺が開発され、そこに人々が住み着いたことも考えられます。
 雲辺寺文書の嘉暦三(1305)年「田井ノ荘の荒野を賜う」とあります。この時に雲辺寺に寄進された「荒野」が雲辺寺の東側の上野呂内だとされます。そうすると、下野呂内も中蓮寺の寺領のような形で、その支配を受けていたかも知れません。
 それでは中蓮寺はどこにあったのでしょうか?

野呂内 中蓮寺跡
三好市野呂内 中蓮寺跡(池田町史下巻446P)

ウキには「中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置」とありました。

旧野呂地小学校に、いまはサウナができていますが、そこから開拓地として開かれた小谷にのぼっていくと三所大権現があります。敷地は二段になっていて、上段に小社が建って、下段は相当の広さの広場となっています。鐘楼の跡とされるあたりには礎石らしいもの、前庭には風化した凝灰岩の石仏と五輪塔が残っています。どちらもおそらく中世のものです。地元では、この付近一帯を中蓮寺と呼んでいます。これらの遺品を見ていくことにします。
中蓮寺跡周辺の遺物について、池田町史は次のように報告しています。

中蓮寺の五輪塔
中蓮寺の五輪塔(池田町史下巻450P)
①神社の庭に凝灰岩の約30㎝の仏像が風化して残されていて、付近には同じ凝灰岩の五輪塔の一部が散乱している。
②明治24年寄進の唐獅子一対と、明治41年の銘ある燈籠一対があり神社風である。 
③約50m下に相撲場と称する地名が残り、ここから幅約5mの参道がつづいている。
④参道両側に松の古木の並木が現在23本残っている。約2/3は枯れて株が残っているが、最近枯れた松の木の年輪を数えてみると350まで数えられたという。約四百年の古木であることがわかる。並木は初め約八十本から百本ぐらいあったものと推察される。
⑤中蓮寺跡の建物敷地に隣接した地点で、土地造成中に弥生式土器の破片と須恵器及び鎌倉期以後(安土桃山時代)のものと思われる備前焼のスリ鉢の破片を出土した。
⑥少し下に、 中蓮寺のお堂があった地点と言われるところがあり、空堂と呼ばれている。
ここからは次のような事がうかがえます。
①の仏像からは、ここが寺院跡であったこと。
②の明治時代寄進の唐獅子燈籠からは、明治維新の神仏分離後に神社化が進められ整備されたこと
③の「相撲場」からは祭りには相撲が奉納され、周辺の村々から人々が集まっていたこと
⑤の備前焼スリ臼については「口縁は、内面の線がびっしりつけられてなく、十条ごとに間隔をあけて引かれており、口縁が三重になっている様子などから安土桃山期のもの」と推定しています。弥生土器も出てきているので、弥生時代から阿讃を結ぶ峠越の交易路があり、その中継地の役割を果たす人々がいたことがうかがえます。
以上を総合してみると、次のルートで人とモノが移動していたことが見えて来ます。

池田→西山→洞草→下野呂内→空堂→中蓮寺→ 讃岐財田

中世に中蓮寺越を通じて運ばれたものとして考えられるのは次の通りです。
A 讃岐財田から池田へ 塩・陶器(備前焼)
B 池田から讃岐財田へ 木地物・太布・茶・砂金・朱水銀
阿州大西(三好市池田町)から讃岐へのルートとして「南海道記」は次の四つをあげています。
中通越  阿州大西より讃州増須(真鈴)へ六里。増須より西長尾へ三里
山脇越  阿州大西より讃州藤目へ六里、藤目より円(丸)亀へ六里
財田越  阿州大西貞光より讃州財田石野へ三里、白地より財田へは六里
海老救越 阿州大西より讃州和田へ三里、和田より杵田へ四里
右の外、山越の道ありと云へども荷馬の通らざる路は事に益なし
この内で中蓮寺越ルートは「財田越」にあたるのでしょう。このルートは縄文人たちが塩を求めて讃岐に下りていった時以来のルートだったのかもしれません。
次に下野呂内の三所大権現に残された棟札を見ておきましょう。
下野呂内 三所神社棟札
下野呂内の三所神社棟札(池田町史より)

社名 三所大権現
導師 箸蔵寺及密厳寺住職
年号 文化元年、文政六年、天保一三年、宝永七年
ここからは次のような情報が読み取れます。
①中蓮寺という名はない。江戸時代には寺院としては退転して、三所大権現に姿を変えた。
②導師を箸蔵寺の住職が務めているので、神仏混淆下では別当寺は箸蔵寺であったこと
三所大権現は、大きい社ではありませんが、明治初年まで相撲や競馬が行われて栄えていたようです。別当寺が箸蔵寺、権別当に箸蔵寺の末寺である密厳寺が当たっています。小規模神社であるため、神官はなく、氏子の頭屋が雑務を処理し、祭りの進行を取り仕切っていたようです。 中西一宮神社・川崎三所神社の棟札にも、遷宮大導師は雲辺寺と記します。池田町内のほとんどの神社は、雲辺寺か箸蔵寺が別当として管理にあたっていました。小規模の神社については、その末寺が権別当などの名で実際の管理にあたっていたようです。
 ここでは寺院が神社を支配し、祭礼にも仏式が取り入れられ、神社で般若心経が称えられていたことを押さえておきます。これは藩の強い支持があったからできたことです。神社側はこれに対して訴訟を起こしていますがすべて寺院側の勝利に終わっています。神社の氏子にこれが無理なく受け入れられた原因は、中世から表われていた仏教の民俗化とそれに伴う神仏混交の思想、さらに、宗門改めなどに見られる寺院の行政的性格の強化があったからでしょう。

中蓮寺の東にあった中世山林寺院の尾背寺(まんのう町春日)は、多くの僧坊がありました。
善通寺の杣山管理センターの役割を果たしていたこと、ここを拠点に廻国の修験者たちが写経をし、次の行場(目的地)目指して旅立っていったことは以前にお話ししました。その時に書かれた経典類が萩原寺地蔵院には残されています。その尾背山の西に位置したのが中蓮寺です。ここも大西氏出身の僧侶達が住職を務めながら、野呂内の開発や、森林管理、交易路修繕などにあたっていたことが考えられます。
鎌倉時代になると守護や荘園の本家や領家が、領内の安定、荘園経営の円滑などを願って、自己の尊ぶ神仏を領内に持ち込んだり、その地方の神社仏閣を修復したりするようになります。荘園が社寺保有の場合はもちろんですが、そうでなくとも、氏寺、氏神として勧請されることが多かったようです。
 例えば阿波守護として名西郡鳥坂城に入った佐々木経高は、承元二年(1208)頃に雲辺寺を再興しています。

雲辺寺千手観音
                  雲辺寺の千手観音坐像
寿永三年(1184)頃に、雲辺寺の千手観音坐像、毘沙門天立像が相ついで奉納されているので、雲辺寺が衰微していたとは思えません。佐々木経高の雲辺寺再興は、それから約30年後のことです。これは自らの守護の役目が十分果たせることを願っての寄進だったと研究者は推測します。
 承久の変の後、守護としてやってきた小笠原氏は現在の池田中学校に池田舘(大西城)を築いてここを守護所とします。そして城の東へ、自らの氏神である一ノ宮諏訪大明神を勧請して、諏訪大明神とします。これが城跡の東に残る諏訪神社です。小笠原氏は、その他にも各地の神社を創建したり、再建したと伝えられます。
 田井の庄の荘官であった大西氏も菩提寺だけでなく、各地域の祈祷寺を建立し、修験者たちを保護しています。大西氏も、村落の信頼を得るために、それらの寺社へ寄進をすることが有効だと考えていたのでしょう。それが支配の円滑化にもつながるので、「必要経費」であったのかもしれません。大西氏は荘内の多くの社寺へさまざまな寄進をし、荘民の信頼を得べく努めています。その例を挙げて見ると
① 一宮、二宮、三宮神社の再建
② 雲辺寺へ鰐口寄進
③ 三好町願成寺へ薬師如来座像寄進
④ 西山密厳寺へ大般若経20巻寄進
⑤ 山城の長福寺、梅宮神社等への寄進
このような寄進をしていることは、「惣」へ強い影響力を保つために、「惣」の信仰する社寺へ寄進をしたと研究者は考えています。こうした寄進を通じて、大西氏の一族は地域に根付いていきます。それを示すかのように、野呂内にも大西神社が鎮座します。
ところが、白地城が落ち大西氏が離散すると、多くの寺々は後援者を失い一挙に廃寺へと追いこまれていきます。
一方、雲辺寺は寺伝によると文禄二年(1593)蜂須賀篷庵(小六)の参拝登山の記事があります。ここからいち早く新しい支配者の支持をとりつけたことがうかがえます。三好町の願成寺は大西覚用の支援を受けて禅宗の寺院として栄えていました。覚用の死後、真言宗に改宗し、庶民の寺として生きかえります。このときに勧進活動を行うのが修験者や聖たちです。ある意味では、修験者や聖の勧進活動なしでは、寺院は生き残れなくなっていたのです。どちらにしても中世後半に多くの寺院が一挙に廃寺に追いこまれたことは確かなようです。
 ここでは新たに支配者としてやって来た蜂須賀家の保護を受けることの出来た雲辺寺は存続し、大西家に代わるパトロンを見つけられなかった中蓮寺は廃寺化したことを押さえておきます。

大西氏離散後の下野呂内
長宗我部元親の白地城占領は無血入城だったとされます。その際に大西一族が逃げ込んだ先として考えれるのが野呂内です。野呂内の伝承に、大西石見守 (大利城主)の弟大西角兵衛が隠れ住み、やがて長宗我部の軍に討ち取られる話などが残っていますが、それに似た事件はあったかもしれません。また長宗我部元親は、西讃に兵を送り込んでいく際には中蓮寺越えを利用したことが考えられます。箸蔵街道が主要街道として利用されるようになるのは近世以後のことで、中世には中蓮寺越が利用されていたと私は考えています。その街道の管理センターの役割を中蓮寺は果たしていたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 下野呂内小谷の戦後の開拓のことが「池田町史下巻953P 町民の回想」に載せられていましたので追補しておきます。
 (前略)
小谷の開拓地には、箸蔵村村長の横野繁太郎さんに勧められて入ったんです。開拓農家の組合長を横野さんがやめてからは、私がやらしてもらっています。入ったころは、まだ松やに採りよった。開墾せないかんのじゃけんど、松をまだ伐っとらんのじゃけん。県からは「開墾いくらした」と催足が来るけに、「何町何歩やりました」と報告して補助をもらう。昭和28年に会計検査があって、だいぶん油をしぼられました。開墾しとらんのに補助金がきとる。今まで出した分の面積を開墾するまでは浦助金出さんということになったんです。それでは困るから、栗畑を作ることにし、全部開墾せんでも、少しずつ開墾して栗植されば良いということで、穴うめをしました。
 道つくりに苦労し、ブルドーザが入るようになってから全山の開墾をやった、畑を作ったり、田を造成して、米ができたときは嬉しかったです。食料不足の時代ですから。その後、缶詰用の桃やら、アスパラガスなどやってみましたが成功せなんだ。栗は良くできて、私は栗の主みたいに言われました。郡内で一番早かったですからな。
現在、開拓地の七戸の中四戸が豚を大規模にやっています。自分の資本でないので面白くないと言っています。会社の委託飼育で、月に三〇万くれて、後で精算するんだそうです。飼料が高いですけんねえ。私は、栗と椎茸やっとりますが、このごろは一パック三十円くらいで、ただみたいなもんです。二百円もするときがあったんです。八、九十円もすれば採算が合うんじゃ。自分の木切って原木にしとるのやけど、原木買ってしたんでは引き合わん。
参考文献 池田町史220P 中蓮寺
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前回は、長宗我部元親の阿波侵攻を史料で押さえました。今回は、地元の池田町史には白地城の大西覚用の対応・抵抗がどのように書かれているかを見ていくことにします。テキストは「池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡」です。
三好氏系図.4jpg
  三好氏系図 長慶死後は、弟実休(義賢)の息子・長治が継承

三好氏を支えていた三好義賢、長慶が亡くなり、その後を継いだのが長治です。そんな中で元親に阿波進出の口実を与える事件が、阿波の南方と海瑞で同時に持ちあがります。
南方の事件は、元亀2年(1571)のことです。元親の末弟・島弥九郎親益が、病弱のため有馬の湯治に出かけた帰りに、海部郡奈佐の港に風浪をさけて停泊します。これを知った海部城主海部宗寿が、これを攻めて殺してしまいます。この時にちょうど海部城には、元親に滅された土佐安芸氏の遺臣が客分になっていました。彼らが旧主の敵討ちのために、この拳に出たようです。一方、海瑞では元親に討たれた土佐本山氏の一族が長治を頼って来ます。「志」には次のように記します。

「本山式部小輔主従七十三人阿波国へ行き(中略)勝瑞に至れば三好河内守長治大いに悦び、所領を与え一方の大将に定めぬ」

土佐の敗軍である本山氏を身内に招き入れることも、長宗我部元親を刺激します。こうして阿波と土佐の間で戦雲が広がります。ところが、軍記書には次のように記します。

「三好長治愚昧にして策なく「元親本山の遺臣を遣し、阿波に於て小輔を殺す」(「蠹簡集」)

蜂須賀藩時代になって書かれた軍記書は、どれも長治のことを「暴君・無能」と記します。しかし、これは以前にお話したように前政権担当者を悪く言って、現政権担当者を引き立たせようとする暦書の常套手段のひとつです。これをそのまま信じることは出来ません。しかし、長治の代になって三好政権に陰りが見え始めたことは事実です。有能な家臣の篠原長房を攻め殺し、阿波国内の混乱が続く中で、それを見透かしたように土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 天正三年(1575)、島弥九郎の事件を口実に、元親は宍喰に侵入し、海部城を攻めます。
この時に、海部宗寿は三好氏に従軍して讃岐へ出兵中で留守のために、簡単に落城したようです。土佐軍は、海部城を拠点として阿波南方の足がかりとして、由岐城、日和佐城、牟岐城を戦わずして次々と陥していきます。阿波の南方に侵入した長宗我部氏は、同時に阿波の西方への進出も開始します。目標となったのが四国中央にあたり、大西覚用が城主であった白地城です。
大西家系図 池田町史

大西家系図(池田町史)
長宗我部元親と大西覚用の関係はどうだったのでしょうか?
  池田町史は「上名藤川家家記」の内容を、次のように載せています。(意訳)

「藤川助兵衛長定が天神山城において侵入軍を撃退し主将嶋田善兵衛を討ち取り、その後も立川丹後守、佐川兵衛等の侵入軍を退け、その功により大西覚用より、信正、所窪を加増せられた」

ここには藤川氏が土佐軍の侵入を阻止し、その軍功に対して白地城の大西覚用から加増を受けたとします。しかし、実際には土佐軍は戦うことなく調略で、阿波国境の「山岳武士」たちを味方に付けていたことは以前に次のようにお話ししました。
A 阿波国西部の祖谷地方などの「山岳武士」たちを豊楽寺への信仰で組織し味方に引き入れていること。祖谷山衆も天正年間初期には、掌握していたこと。
B  『祖谷山旧記』には、長宗我部元親の指令に応じて祖谷山衆が「さたミつ(貞光)口」へ侵攻していること。
C 天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防戦の際の長宗我部元親の感状に木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞していること。つまり、木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことを裏付けられます。
 長宗我部元親は土佐国境の祖谷山衆を天正年間の初めには配下に置いていたと研究者は判断します。そうだとすると、阿波と土佐の国境附近では戦闘は行われず、無傷で土佐軍は大歩危・小歩危の難所を、祖谷山衆の手引きで越えたことになります。

 このあたりのことを「元親記」は、次のように記します。

天正四年、元親は大西(白地城周辺の地名)入りの評議をしたが、「大西への道筋は日本一の難所で、力態に越さるる所に之無く(中略)先ず覚用を繰りて見んとて(「元親記」)」、
ちょうど覚用の弟了秀が出家し、土佐国野根の万福寺住職であったので、この了秀を遣わして和議を申込ませた。

しかし、これを史料で確認することはできません。 以前に紹介した長宗我部元親が大西覚用を味方に引き入れるため栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。(意訳)
今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方を我が方に引き入れるように活動していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、恐慢謹言、
十一月廿三日       (長宗我部)元親(花押)
栗野殿人々御中
ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。
白地城周辺
白地城の西の粟野屋敷

このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
このような情勢を讃岐の香西成資の「南海通記」は、次のように記します。

 阿波国ノコト三好長治政ヲニシ国内ノ諸将威勢と謡ヒ、親族ノ者モ皆離れて長治ニ服せず。故ニ南方が羈縻ニ属す。大西ハ猶以テ土佐二近シ。隣国ノ好ヲ以テ土州二一意シハバ互いの悅之ニ過グベカラズ。今阿州の人心ヲ思フニ大西ニ事アリトモ誰カカッ合スペキヤ。却テ大西ヲラントスル者多カルベシ。コノ程ヲ思量シテ和親ノ約ヲナシ玉ハバムッマジキガ中ニモ猶ムツマジク成テ大西領地モ広マリ繁栄ナルベキコトコノ時ニアリ。

意訳変換しておくと
 阿波国については三好長治の代になって、国内諸将の支持を失い、親族も皆離れて長治に従わなくなった。そのため阿波南方は土佐軍に奪われてしまった。一方、白地城の大西覚用は、土佐国境に近く、長宗我部元親と隣国のよしみもあって、敵対関係はなかった。そこで大西覚用は次のように考えた「白地城が長宗我部元親に攻められても、三好氏が救ってくれることはないだろう。そうだとすると三好氏を捨て長宗我部元親と和睦するほうが、大西の領地も拡大し、繁栄する道につながる」

香西成資の南海通記は、長老の伝聞と阿波や土佐の軍記ものを参考に書かれたものなので、曖昧なことや誤謬も多いことは以前にお話ししました。この部分も阿波の編纂史に頼った記述内容となっています。しかし、当時の情勢をよくつかんでいるように思えます。町史などを記述する立場であれば、こういう記事に頼りたくなるのは当然だと思います。
 大西覚用の立場になって考えて見ると、三好長治の失政のため阿波の政局は混乱し、三好氏内部も二分して争う状況です。阿波南方の海部城は落城しましたが、三好氏はこの奪回に手をかそうとしません。こうした動きを見ると、三好氏に頼ることは危険に思えてきます。そこで頼りとするのが毛利氏と長宗我部元親です。大西覚用が元親と交渉を持つ一方で、中国の毛利氏に文書を送っていたことや、讃岐に独自の利権を持つようになっていたことは以前にお話ししました。こうして、大西覚用は戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。元親記には、大西覚用を味方に引き入れたときの長宗我部元親の反応を次のように記します。

「先此大西(白地城)さへ手に入候へば、阿讃伊予三ヶ国の辻にて何方へ取出すべきも自由なりとて、満足し給ひけり。」

 阿波・讃岐・伊予への進入路となる白地城の大西覚用を味方に付けたことの戦略的な重要性をよく認識しています。元親にとっては「大西覚用を手繰りてみん」という謀略の一環だったのでしょう。

阿波大西氏5

 ところが何があったのかはよくわかりませんが大西覚用は、長宗我部元親をすぐに裏切ります。
その寝返りの理由とされるのが、畿内の三好康長(笑岩)からの書状だとされます。当時畿内では、織田信長が「天下布武」に向けて足固めを行っていました。天下人に近づく信長に従って各地で転戦するようになったのが河内国高屋城主三好康長(笑岩)です。康長(笑岩)は、阿波国内の城持ち衆に、信長の意を汲んだ書簡を送りつけてきます。そこには次のように記されていました。

 来年(天正六年) 我信長公は大軍を挙げて阿波に出陣、土佐方へ奪取所の南方を取返し、阿波を安堵す。ついては阿波国中の城持衆は、力を合せて敵(土佐軍)に抵抗し、その領地を護り、信長軍の来軍に備えよ。

 大西覚用は、この書簡を受けて長宗我部元親を裏切り、三好側に寝返って戦いの準備を始めたとされます。
この決定で困難な立場になったのが人質として元親のもとにあった大西覚用の弟・上野介です。
普通だと切腹です。ところが元親は深謀を発揮して、上野介の一命を助けます。そのことを元親記は次のように記します。

「覚用に捨てられたる人質上野守は已に気遣に及ぶ。元親卿より上野方へ有使。身上心安致すべし。其方に対し毛頭別儀無之助置て上る。其より上野をば家人同前に心易居候へと宣て弓鉄砲を免じ鳥など打遊山せよと宜し也」

意訳変換しておくと

「兄の覚用に捨てられた人質上野守は、切腹を覚悟した。ところが元親卿よりの使者は、身上心安くすべし。その方に対しは何の責めも危害も加えない。これよりは上野を家人同様にあつかうので、そう心易よ。今まで通り、弓・鉄砲で鳥などを狩猟することも許す」

上野介はこの恩義に感激して、元親の西阿進攻に犬馬の労をいとわないことを誓います。そして白地城落城に大きな功績をあげたと軍記ものには詳しく活躍が記されます。そのため上野介はある意味では、英雄譚のように語られることになります。上野介が登場するシーンは、注意する必要があるようです。

天正五年(1577)3月 讃岐で毛利軍が丸亀平野南部の元吉城(櫛梨城)に入り、三好氏の率いる讃岐国衆と元吉合戦が戦われる4ヶ月前のことです。
勝瑞城を出奔して仁宇谷に拠った細川真之を攻めた三好長治が、逆に細川方の急襲で、長原で戦死してしまいます。
 長治戦死という事態を知った長宗我部元親は、このチャンスを見逃しません。上野介を道案内兼参謀として、西阿波に侵攻します。この様子を池田町史で見ておきましょう。

白地城では、年老いた頼武が、戦いに疲れ病弱の身を城内で起き伏していた。城主である頼武の子・大西覚用は、長宗我部軍の侵攻の近いことを知って、勝瑞の三好氏や、畿内の三好軍に援軍を求めた。しかし、勝瑞の三好方は長治の戦死でそれどころではなかった。信長の大軍をたのんで応援にかけつけるはずだった高屋城の三好康長(岩)も信長も、紀伊の雑賀党の鉄砲隊に悩まされて、身動きできない状況だった。

つまり、孤立無援のまま長宗我部元親と戦わなければならないことになります。
大西覚用は、土佐軍への迎撃体制を次のように整えたと池田町史は記します。
①白地域をとりまく城を移築し、有力な武将を配置した
②土佐の正面にあたる山城谷の尾城を移築して、弟大西京進穎信を城主とし、老臣寺野源左衛門を補佐させます。
③白地城をとりまくように大利城(城主大西石見守)、天神山塁、漆川城(城主大西左門衛尉頼光)、中西城(城主東條隠岐守)馬路城、佐野城、さらに三好町の東山城と守りを固めた。
④急を告げる狼煙の道が、三名の茶園の休場→天神山城→根津木越→越の田尾→田尾城→大利城→白地城と整備された。
一方、雲辺寺文書の中には、次のような年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状が残っています。

大西覚用から雲辺寺への借用書
  年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状
 馬数入候問四五日逗留候てかり申す可く候 くら(鞍)をきて下さるべく候 態此者参らせ候やがてやがて返し申す可く候 恐々謹言
閏七月十二日             (大西覚用) 覚(花押)
俊崇坊
雲辺寺 
意訳変換しておくと
 荷馬が緊急に必要なので四、五日逗留して借用(徴用)を申しつける。鞍を付けておいてくれれば、配下の者を使わし連れて帰る。馬は後日改めて返還する 恐々謹言
閏七月十二日
                                 (大西覚用)覚(花押)
俊崇坊参
雲辺寺 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日付が閏7月12日とあり、閏年が7月にあったのは天正3(1575)年で、白地落城の二年前
②そのころの大西氏は讃岐へ出兵しているので、そのための荷馬借用を命じるものか
③あるいは、土佐軍侵攻近しというので、そのための準備か
④雲辺寺に馬が何頭も飼育されていたこと
⑤馬の借用依頼文だが、一種の軍事微発ともとれる。
⑥当時の雲辺寺の責任者が「俊崇坊」で、坊連合による寺院運営が行われていたこと
⑦雲辺寺には自衛のために僧兵・軍馬がいて、大西覚用の影響下にあったこと
 この手紙によって馬が借りられたかどうかなどは分かりません。しかし、長宗我部元親との戦いに備えて、大西覚用が戦備を整えている様子がうかがえます。

これに対して、白地城攻略の先兵を命じられたのが大西覚用の弟大西上野介です。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
天正5年5月下句、土佐軍は味方に付けていた阿土国境の三名士(藤川大黒西宇三氏)の先導で国境の大難所も容易に通過して、白地山城と言われた田尾城に殺到します。土佐軍は、竹の水筒に、煎麦の粉(オチラシ)を糧食として腰に下げた歴戦の3000人余でした。 

阿波田尾城2 大西覚用
白地山(田尾)城
白地山(田尾)城の戦いについては、阿波や讃岐方の軍記ものである「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」等の軍記ものをまとめて、池田町史は次のように記します。

 第一日目
三千人の土佐軍は、三百人余の城兵が守る田尾城の南方正面から攻撃を開始した。しかし、このことあるを覚悟していた城方は鉄砲を並べ、矢を連ねてこれを防いだ。老いたりとは言え寺野源左衛門の用兵は見事に功を奏し、小城とあなどって攻めかけた土佐軍の戦死する者数を知らず、たちまちの尾根は屍の山を築き、後世まで屍の田尾と呼ばれるようになったほどだった。田尾城から屍の田尾に至る畑の中にも点々と戦死者お残っています。こうして土佐方の第一日目の攻撃は完全に失敗した。

阿波田尾城 大西覚用
阿波田尾城

 第二日目
上野介は、このままだと損害が大きくなるばかりであると考え、手からの夜襲を献策した。田尾城の北側は、険しい谷になっているので、恐らく、守りも手薄であろうと考えたのであるが、それ以上に、夜の戦いであれば、かねて意を通じてある城内の武士が土佐軍に味方して動き易くなるであろうと考えたのであろう。
 その夜、主力は火を並べて、正面からの夜翼の気配を見せ、上野介は五、六十名を引きつれ乾いた熱を手に手に搦手に回った。夜が更けて、正面の恒火も一つずつ消え、物音も静まって夜のしじまがやって来た。城中では第一日の勝利に、土佐軍は夜襲をあきらめたものと警戒を解き土張を枕にまどろむ者もあった。
阿波田尾城3 大西覚用
阿波田尾城

 夜半を過ぎたころ、搦手の上野介の兵士は、乾いた煙に火を放ち、どっとときの声をあげて城内へ殺到した。これに呼応して正面からも一時にかん声をあげて城内へ突入していった。城内では、もう夜はないものと安心していただけに、混乱の樹に達し、内通者の動きも混乱を一層大きくした。
 すっかり戦意を失った城内の兵は、勝手知った暗闇の退路を相川橋に向かって走った。わずかの兵に守られた右京進頼信と寺野源左衛門→相川橋にたどりつき、橋をこわして白地域に向かって退却していった。三千人の土佐軍は、これを追って相川橋方面へ進んだが、暗さは暗し、慣れない山道で、小谷に落ち、崖からころぶ者数を知らずという状況だった。ことに橋のこわされていることを知らない土佐軍が一度に相川橋に押し寄せたため、後から押されて伊川に落ちて溺れる者も多かったという。
 相川橋付近の狭い土地に三千の兵がひしめき、勝ち戦とは言え、土佐軍も一時混乱に陥っていたが、やがて主力を大和川に集結し、右翼を下川に、左翼を馬路付近に集め、白地本城攻撃の陣形をたてなおしていった。

白地城 大西覚用 池田町史
白地城(池田町史)
3日目

 一夜明けると白地城の中は大騒ぎとなった。これほど早く田尾城が落ちるとは思っていなかったのである。頼武は老弱であったので覚用が、さっそく土佐軍を迎えうつ軍議を開いた。ところが、「土佐方と和議を結ぶべし」という意見が出て軍議はまとまらず混乱に陥った。上野介の説得が開者によって広く将兵の間に浸透していたのであろう。
「元親公は決して大西を敵としているのでなく、めざすのは三好氏であり、勝瑞の十川存保である。それに、元親公は、普通であれば当然断罪に処せられているはずの上野介様を大切に扱われ、その上野介様は今度の戦いには参謀格で来ておられる。和議を結んでも決して悪いようにはなるまい。」という和平派の主張は将兵の耳に快く響いたに違いなかった。
 和平派が大勢を占めたため、大西覚用は小数の部下と家族をつれて増川(三好町)の東山城に逃れた。東山城も安住の地でな家族を増川に残し、弟長頼の居城である讃岐の城へ落ちて行ったのである。こうして、土佐軍は白地城を無血占領し、白地の台は元親の将兵が満ち満ちたのである。白地落城が伝わると佐野城も馬路城も、川崎城も戦わずして開城し、思い思いに落ちていった。
 白地城2

以上が「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」などに書かれていることをまとめたものです。田尾城攻防戦の様子がなどが見てきたように描かれています。しかし、これらは蜂須賀藩の時代になって書かれたもので「反長宗我部元親」「阿波郷土防衛戦」の色彩が強く出ていることは以前にお話ししました。ちなみに土佐側の史料や軍記ものには、白地城に至るまでに抵抗があったことは記されていません。これは讃岐における長宗我部元親の西讃侵攻時と同じです。侵略された側は、我が軍はこれだけの抵抗を行い多くの犠牲者を出したと記します。しかし、それは土佐側の史料には記されていません。実際に激しい抵抗があったのかどうかは分からないと研究者は考えています。それは、後の上野助の行動を見ると分かります。また大西覚用は後に、婚姻関係で結ばれていた讃岐の麻口城の近藤氏のもとに落ちのびていきます。その後は再度、長宗我部元親の下で働くことになるのです。もしここで大西覚用が激しい抵抗をした場合には、二度目の帰順は許されなかったと思います。
 「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親の基本戦術は、「兵力温存・長期戦になっても死者の数をできるだけ減らす」「交渉によって味方に付ける」であったことは以前にお話ししました。阿波や讃岐側の軍記ものの記述は、長宗我部元親の戦術に反するものです。
 こうして白地城をはじめ、阿波と伊子、土佐の大西方の城はすべて落城します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡
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ソラの集落の寺社とお堂と庚申塔を訪ねての原付ツーリングが続きます。今回は山城町の白川谷川沿いに、塩塚高原を越えて新宮へのソラの集落をたどるツーリングです。グーグル地図を見ると「小歩危展望台」が追加されています。寄っていくことにします。

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小歩危展望台
三好市では、こんな展望台をあっちこっちに作って、新名所にしようとしているようです。なかなか面白くて、外れがありません。

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 正面真下を吉野川が流れます。この方向から吉野川が見える展望台は初めてです。
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ホワイトウオーターの中を、ラフテングボートが下って行きます。
ここで、休憩して白川谷川に沿って塩塚高原を目指します。

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白川谷川
 開放的で明るい白川谷川をさかのぼって行きます。本殿と拝殿が国の登録有形文化財になっている大日孁(おおひるめ)神社があるのでお参りして行くことにします。川を渡って向こう側の小高い山の上にあるようです。
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当然、長い階段が待ち受けています。一瞬、引き返そうかと思いましたが、そんな失礼はできないと・・覚悟を決めて登り始めます。
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       大日孁(おおひるめ)神社 拝殿
そして姿を現したのがこの拝殿。神域の森の中にひっそりと鎮座して雰囲気があります。河原から運び上げた青石の基壇の上に、すっきりとした拝殿が建ちます。近づいてみます。
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向背虹梁には、見事な龍が巻き付いています。お参りを済ませて、説明版を確認します。
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拝殿の説明版

ここには次のような事が書かれています。
①創建当初は大蛇大明神
②神仏分離後の1874年に大日るめ神社と改名
③拝殿・本殿ともに、1898年に香川県三豊郡の宮大工高橋貞造・棟梁次田弥八の作
④拝殿は、細部まで高度で特徴的な彫刻が施されていること。
背後に回り込み本殿にもお参りします。
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       大日孁神社 本殿


こちらの彫刻も独創的です。手の込んだ造りです。説明版で確認します。
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本殿説明版

①二軒社流造の銅板葺
②尾垂木付の三手先で軒を伸ばして、腰組を出組で受けている。
③頭抜木鼻には人物面が、破風には龍が巻きつく
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大日孁神社本殿
拝殿と本殿に参拝して一番注目したいのは、讃岐三豊の大工が呼ばれて建立していることです。三豊の大工が土佐の嶺北地方で、仕事をしていたことは以前に次のように紹介しました。
  長宗我部元親の阿波への侵攻が本格化する天正八(1580)年の史料に次のように記されています。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。
 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎
この時の阿弥陀堂建立の大檀那は森右近尉、本願僧侶は宥秀です。彼らが招いたのが「讃州仁尾浦善五郎」のようです。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。ここからは、四国・讃岐山脈を越えて仁尾との間に日常的な交流があったことがうかがえます。讃岐西部-阿波西部-土佐中部のエリアは、仁尾商人や大工たちが入り込み、広く営業活動を展開していたようです。
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           本殿の三手先と彫刻
それが明治になっても、地域の小社を統合してあらたな社殿と拝殿を建てる際に、三豊の宮大工たちが招かれています。ここからは、近世を通じて三豊と阿波西部には日常的な交易活動が明治になっても続いていたことがうかがえます。そして三豊の宮大工は、「大蛇大明神」と呼ばれてきた神社のために、龍(蛇)のデザインで空間を埋めます。
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                 大日孁神社本殿の龍(蛇)のデザイン

 この神社も神仏混淆の時代には、別当寺の社僧が祭礼を担当していたはずです。彼らは真言系修験者でもありました。中世には、彼らと三豊の修験者も教学面などでつながっていたことを示す史料があります。
  三好市池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。
祖谷口の山所神社
三所神社の大般若経の説明版

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵」

ここからは、祖谷口の山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。
良恵は住持でなく聖のようです。与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。
仁尾覚城院
仁尾覚城院
 仁尾覚城院の大般若経書写事業には、雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。
与田寺氏の増吽で見たように、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるものです。覚城院と雲辺寺は、写経ネットワークがつながっていたことが分かります。その背景には、雲辺寺が天台・真言の両派の学問寺であったことあるようです。雲辺寺は、西土佐・三豊・新宮・土佐嶺北の学問寺で、写経センターであったと私は考えています。そして、雲辺寺で学んだ密教系僧侶は、「卒業」して各地の寺社に「赴任」していきます。こうして、雲辺寺(後には萩原寺)や覚城院を中心とする密教系修験者のつながりが形成されていたという見通しです。熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
 15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。
彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
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 社殿に背を向けて帰ろうとすると、眼に入ってきたのが鳥居の隣のお堂です。
最近改修されたようですが、神社の神域の中に建つ観音堂です。神仏分離以前には、これは当たり前の姿でした。それがこの国の伝統だったです。お堂にも参拝します。そして、ここに導いてくれたことを感謝します。
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  白川谷川をさらに上流に進み、とびの巣渓谷と仏子の分岐を右に折れて塩塚高原を目指します。

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仏子の水車
仏子の水車を越えて、原付を走らせます。10年以上乗っている娘のお下がりのバイクですが、喘ぎ喘ぎながらも急な登りを上がって行ってくれます。そして阿波側の最後の集落である落尾の家々が姿を見せ始めます。
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尾又のソラの鐘
ソラの鐘を見上げながら進むとお堂が姿を見せます。
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尾俣のお堂

隣には大きな銀杏。ここからはソラの集落がよく見えます。
尾俣からは植林された杉林の中を登っていきます。台風で落ちた枝などが林道に積もるように落ちています。暗い杉林の中を抜けると、塩塚高原に抜け出たようです。
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塩塚高原のススキ
快適なスカイラインを走って、展望の開けた所で原付を止めます。

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背後の山が雲辺寺です。そして、荘内半島から三豊平野がよく見えます。このエリアのソラの集落が三豊と「塩とお茶と修験者」によって
つながっていたことを改めて実感させてくれる眺めでした。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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