瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:青塚古墳


大野原の3つの古墳群の特徴を、調査報告書(2014年)は、次のように指摘します。

「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

6世紀後半から7世紀前半にかけて「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」と首長墳が築造し続けた大野原勢力の力の大きさがうかがえます。この時期は、中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に当たります。そして、築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期にも重なります。今回は、大野原に巨大古墳が造られる以前の観音寺エリアの動きを見ていくことにします。テキストは「丹羽佑一 大野原3墳(椀貸塚・平塚・角塚)の被葬者の性格 大野原古墳群1調査報告書2014年87P」です。

 まず、その前史として観音寺エリアの弥生時代の青銅器の出土状況を押さえておきます。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏

ここからは、三豊地区からは銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」が祭礼に用いられていたことが分かります。つまり、それぞれのグループで別々の祭儀方法だったということは、その伝来も別々の地域から手に入れたことになります。さらに云えば、観音寺北エリアには「3種の祭器」で別々の祭礼を行う3つの祭儀集団が混住していたことがうかがえます。ひとつのエリアに「3種の祭器」集団というのは、善通寺と観音寺くらいで全国的にも珍しいようです。ここでは、観音寺エリアでは弥生時代から多角的な交易関係が結ばれていたことを押さえておきます。
それでは、これらの集団の関係は「対抗的」だったのでしょうか、「三位一体的」だったのでしょうか?
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況
善通寺市の青銅器出土地

 善通寺市の瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口・中細形銅矛1口が同時に出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは、大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されていることから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀が行われていたと研究者は考えています。

旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡
道鏡に継承される銅剣・銅鐸
 同じように三豊平野中央部北エリア(財田川中流域)にも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルがちがう3集団がいたことが分かっています。これらの集団は、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成していたと研究者は考えているようです。
 一方、南エリアでは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。彼らはこの時点では、祭器を持つことが出来ずに北エリアに従属する小集団であったようです。ここでは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であったことを押さえておきます。
古墳編年 西讃

次に、観音寺エリアの古噴時代前半の展開を見ておきましょう。
 南エリア東縁の小丘陵にある赤岡山古墳群の第3号墳は、高さ3・5m、直径24mの墳丘規模で、入念な施工です。葺石、大型の天井石の竪穴式石室で、副葬品は彷製鏡1点の出土していますが、須恵器がないので、前期円墳に研究者は分類しています。しかし、この時期には北エリアには古噴は、まだ現れません。

青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南側の丘陵地帯にある青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が現れるのは、中期の青塚古墳です。

青塚古墳2
青塚古墳(観音寺市)古墳中期

一ノ谷池の西側のこんもりとした岡があり、小さな神社が鎮座しています。そこが青塚古墳の後円部になります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、地域における「祭祀センター」のようです。

青塚古墳旧測量図
青塚古墳測量図(観音寺市誌)

青塚古墳測量図
                     青塚古墳測量図(調査報告書)
①墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m、長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、今は前方部は失われている。
②後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡っていた。
③幅1、2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在
 青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者がヤマト志向でなく、九州勢力との密接な関係がうかがえます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと研究者は考えています。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺・有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
                   丸山古墳の石室と石棺

初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。

丸山古墳測量図

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳の石室測量図
 三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在がうかがえます。
母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳

後期に入ると三豊総合公園のある母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が現れます。
①盾形周濠(幅3~4m)を巡らし、
②墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lm
③瓢箪塚古墳は、中期の青塚古墳を継承する首長のもので、青塚 → 瓢箪塚と続く北エリア前方後円墳群の形成です。
④同時期の前方後円墳が善通寺市の王墓山古墳(墳長約46m)や菊塚

 近年の考古学は、ヤマト政権の成立を次のように考えるようになっています
①卑弥呼死後の倭国では、「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた
②その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められた。
③そして、国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けて手が結ばれた。
④そこでは、吉備も讃岐もその同盟下に入った。
そうすると早い時期に造られた前方後円墳群は、「ヤマト連合政権同盟」に参加した首長達のモニュメントとも言えます。
A 古墳時代初期 讃岐では瀬戸内海沿いに東から、津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せる
B 古墳墳中期  内陸部に進出し、平野を基盤にした豪族諸連合の統合が進む。そのモニュメントとして各平野最大の前方後円墳が築造される。
C 古墳後期   善通寺市域を除いて前方後円墳の築造が終わる。
つまり、前方後円墳は地域の豪族の連合を代表する首長墓として造られ始め、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わるというのが現在の定説です。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、後期になっても善通寺と同じテンポで前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、やっと前方後円墳は終了します。それに続いて横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
それが北エリアの母神山の三豊総合公園の中にある錐子塚古墳です。

母神)鑵子塚古墳 - 古墳マップ
鑵子塚古墳(古墳後期)
この古墳は、後期母神山古墳群の草分けとなります。前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、北エリアの豪族長の墓域は変わらなかったようです。
 ところが突然のように、墓域が南エリア(大野原)に移ります。錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。
それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 三豊平野では母神山に錐子塚が築造されたのを先駆けとして、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られ始めます。

1大野原古墳 比較図

 その中心が大野原3墳です。研究者は、横穴式石室の形式の展開と時間的・空間的位置関係(変遷と分布)を見ていくことで、その社会的性格を明らかにしていきます。  それは、次回に紹介します
以上をまとめておきます
①青銅器の出土状況からは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であった
②観音寺地区に前期前方後円墳は現れない。ヤマト連合国家の形成に関わっていない?
③最初の中期前方後円墳は青塚で、阿蘇溶結凝灰岩の石棺が使用されており九州色が強い、
④丸山古墳は、初期横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されている。
⑤丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓で、共に九州色が強い。
⑥古墳後期になると讃岐では善通寺地区の王墓山・菊塚以外には前方後円墳が造られなくなる
⑦ところが北エリアの母神山丘陵に青塚古墳を継承する首長糞として前方後円墳・瓢箪塚古墳が造られる。
⑧瓢箪塚古墳は、後期母神山古墳群の草分けで、以後は母神山が観音寺地区の墓域となり、有力者の墓が、前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へとスタイルを変えながら作り続けられる。
⑨それが6世紀後半になると、中央の蘇我氏の台頭と呼応するかのように、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  どうして讃岐に阿蘇石の石棺が運ばれてきたのか。 

「銭形砂絵」の画像検索結果

観音寺の琴弾八幡神社の裏の山からは有明海をバックに寛永通宝の砂絵が松林の中に描かれているのが見えます。広がる海は、燧灘。古代にはこの海を越えて九州から、重い石棺がはこばれてきたようです。三豊と九州との関係を色濃く示す古墳を訪ねて見ましょう。 

  丸山古墳2
 丸山古墳(観音寺市室本)

丸山古墳は燧灘を見下ろす丸山(標高50m)の頂上にあります。
西側は燧灘が広がり、遠浅の有明浜が南北に長く続きます。この丘に立つと自然と西に開けた燧灘を意識します。
この丘の上に、明治になって丸山神社(当時は「山祇殿社」)の社殿が建設されることになり、墳丘の南半分が削平され、石室が破壊され、石棺が現われたようです。
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 調査が行われたのは戦後になってからで、一時は前方後円墳とも言われました。しかし、何回かの調査の結果、径35m、高さ3.5mの中期円墳で、讃岐で最初に横穴式石室を採用した古墳とされるようになりました。出土品は葺石があり、円筒・衣蓋埴輪のほか馬形・鳥形・偶蹄目の動物埴輪が出ています。
丸山古墳横穴式石室
丸山古墳の横穴式石室
 副葬品には、鉄剣1、鉄刀1、鉄製品片(短甲片か?)があり、円筒埴輪片から5世紀中葉~後半の築造が考えられています。構造的には、扁平な板石や割石を小口積みで持ち送りした石室は、南北方位で「現存長4m×推定幅3.7m×高さ2.5m以上」と讃岐のこの時期のものとしてはかなり大きいものです。

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳石室実測図
この古墳の特徴的なのは、九州の影響が色々なところに見られることです。
例えば石室構造は肥後形に近く、複数人を埋葬する初期型の横穴式石室のようですが、その特徴である石障はありません。
丸山古墳 石棺
丸山古墳の石棺と石室
石棺は刳抜式舟形石棺(長さ192cm×幅105m)で、棺蓋は寄棟屋根型で短辺部の傾斜面にやや上向きの縄掛け突起が付いています。九州には舟形石棺と肥後系の横穴式石室が共存する古墳はないようです。そういう意味では「変な古墳」なのです

この古墳の変わっている点は?

 「阿蘇溶結凝灰岩 石棺」の画像検索結果
         刳り抜き式家型石棺(藤井寺市長持山古墳5C)・阿蘇溶結凝灰岩

この石棺は、讃岐の国分寺町の鷲の山石や津田火山石ではなく九州の阿蘇溶結凝灰岩が使われています。ちなみに当時の讃岐は、国分寺町の鷲の山石や津田火山石を用いた「石棺生産国」で、それを畿内や播磨・吉備にも「輸出」していました。ところがこの古墳の主は、讃岐産の石材ではなく阿蘇石製の石棺をわざわざ九州から運び込んで来ています。さらに、この古墳が作られた古墳時代中期半ばには、讃岐における石棺の製作は、ほぼ終わりかけています。いわば「流行遅れ」の石棺と最先端の横穴式石室という組み合わせになります。ヤマト政権よりも九州の同盟者を優先しているかのようにも思えます。この丸山古墳の被葬者と九州の勢力との関係とは、どんなものであったのか興味が湧きます。
青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南の丘陵にある青塚古墳

次に三豊平野の青塚古墳を見に行きましょう。
「観音寺市 青塚古墳」の画像検索結果
                     青塚
三豊の古代条里制の起点になった菩提山(標高312m)から舌状に北に伸びてくる丘陵台地の末端に青塚はあります。近くには一ノ谷をせき止めて作られた一の谷池があります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられていて、地域における祭祀センターの役割を果たしてきたことが分かります。

青塚古墳測量図
青塚古墳測量図

 青塚古墳は香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。
その気配が現在の地形からも見て取れます。前方部は上半が削平されていていますが、水田となっている周濠から考えれば、短いもので帆立貝型だったとされます。現状からは、墳丘の全長44m、後円部径30m、周濠の幅9mの前方後円墳がが考えられます。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、盗掘にあっているようです。
問題は石棺で、丸山古墳と同じ阿蘇溶結凝灰岩が使われていることです。
この古墳は立地、墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造された古墳だとされます。とすると丸山古墳とは同時期になります。あちらは横穴式石室で円墳、こちらは前方後円墳の帆立型形式ですが、九州から同じ石材が同時期に運ばれてきていることになります。 
 屋島の先端の長崎鼻古墳(高松市屋島)も同じ阿蘇石が石棺に使われています。  
この古墳は屋島の先端、長崎ノ鼻の標高50メートルにある全長45メートルの前方後円墳です。墳丘は3段に築成され、各段には墳丘が崩れないための葺石が葺かれています。目の前は瀬戸内海で、女木島や男木島がすごそばに見えます。立地から海上交通に関係の深い豪族の墓であろうと考えられていました。発掘するとまさに、その通りに後円部にある主体部から、阿蘇熔結凝灰岩製の舟形石棺が確認されました。これは観音寺市丸山古墳・青塚古墳に続く3例目となります。   
 この長崎鼻古墳は墳丘出土の遺物や舟形石棺の形状から、それよりも50年ほど古い5世紀初頭頃の古墳であるようです。ちなみに、この長崎鼻には幕末には高松藩によって砲台が築かれた場所でもあります。今もその砲台跡が古墳と共に残ります。 

このように讃岐の古墳に、九州の石棺が運び込まれています。

恐らく熊本県で作られて、それが讃岐に運ばれてきたということなのでしょう。どのような方法で、どんな人たちが、何のために九州からわざわざ石棺を運んできたのでしょうか。これらの古墳に眠る被葬者と、九州の勢力とはどんな関係にあったのでしょうか。いろいろな疑問が沸いてきます。

最初に見た丸山古墳と青塚古墳は、燧灘の西の端にあたります。両古墳のあたりは、『和名抄』の讃岐国刈田郡坂本郷や同郡紀伊郷の週称他の近くです。この「紀伊郷」との関係について岸俊男氏は次のように考えているようです。


 紀伊郷は紀氏との関係がある地名であること。紀氏とその同族が瀬戸内海の交通路を掌握して大和勢力の水軍として活躍した四国北岸の拠点の一つが紀伊郷である。

瀬戸内海の紀伊氏拠点

瀬戸内海における紀伊氏関係図
三豊の坂本郷や紀伊郷は、紀伊氏の瀬戸内海ルートの支配と関係があると研究者は考えています。         紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、特に吉備氏牽制のために、瀬戸内海南ルートの讃岐や伊予に勢力を培養し、朝鮮半島からの交易ルートを握っていたこと、空海の生家である善通寺の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、紀伊氏の下で海上交易を行っていたという説は以前にお話ししました。 こうして見ると「紀伊の紀直氏=善通寺の佐伯直氏=三豊の紀伊氏=肥後のX氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。このルートに乗って、先ほど見た阿蘇の石棺は運ばれてきたと私は考えています。

和歌山・大谷古墳
大谷古墳(和歌山市)の九州阿蘇産の石棺

そして、室本丸山や青塚と同じ時期に、紀伊国の和歌山市大谷古墳でも九州阿蘇の石による石棺がはるばると運ばれて使用されています。大谷古墳は、和歌山県では有数の古墳で、副葬遺物に朝鮮半島との関係が深いとされる品物を数多くもっていたことで知られています。

大谷古墳 クチコミ・アクセス・営業時間|和歌山市【フォートラベル】

これらのことは、青塚と室本丸山古墳の被葬者が、海上の交通と深くかかわっていたことを物語っています。
 これと同じ石棺は、愛媛県の松山市谷町の蓮華寺にもあります。出土した古墳は分かりませんが、近所から出たのでしょう。松山市といえば、のちに『日本書紀』や万葉の歌で熟田津とよばれる港がでてきます。そうした海上交通の拠点地を経て、船で肥後から讃岐にもたらされたとしておきます。五世紀後半の阿蘇山の石棺は、そんな瀬戸内海交易を伺わせてくれます。

もう少し大きい視点からこの古墳が作られた5世紀を見てみましょう
  5世紀後半と言えば文献的には「倭の五王」、考古学的には「巨大古墳の世紀」と言われます。大王墓は大和盆地から河内平野の古市と百舌鳥の地へと移動し、大山古墳(現仁徳陵)、土師ミサンザイ古墳など、超巨大前方後円墳が出現する時代です。それはヤマトの王権が確立する時代とも言えます。 

 大和王権の「支配の正当性」は、何だったのでしょうか?

 そのひとつは、鉄をはじめとする必需物資や先進技術・威信財を独占し、それを「地方に再分配とする公共機能」です。この政策を進める中で、ヤマト政権は、各地の首長に対する支配力を強めていきます。

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 4世紀からの多数の倭人の渡航は、半島南部の支配のためではなく、半島側の要請にもとづく軍事援助や、その見返りとして供給されるヒトとモノを独占的に手に入れることでした。そのためには、優れた海上輸送能力や軍事力をもつ勢力と手を組むのが一番手っ取り早い手段です。ヤマト政権は吉備王国を初めとする勢力と手を組み「朝鮮戦略」を進めます。
 その際に、重要となるのが朝鮮半島への交通ルートの確保です。
朝鮮半島からの人と物の輸送ルートである瀬戸内海の重要性は5世紀になると一層高まり、それを担った吉備の力はますます大きいものとなります。吉備の王達は古市・百舌鳥の大王墓に劣らぬ造山古墳や
作山古墳が姿を見せます。
   しかし、一方でヤマト政権は吉備勢力に頼らない次のような新たな瀬戸内海ルート開発も進めます。

大和(葛城氏) → 紀ノ川 → 和歌山(紀伊氏) → 瀬戸内海南岸(讃岐沖) → 松山(伊予) → 日向

 この新ルート開発をになったのが葛城氏配下の紀伊氏で、それに協力したのが日向の隼人たちではないかと考えられています。 

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 日向灘に面した西都原古墳群の示すものは?    

 5世紀には日向にも大形前方後円墳が次々と出現し、女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳が築造されます。女狭穂塚古墳は古市の仲ッ山古墳の3/5スケールの相似形の規格で、文献的にも応神の妃の一人に日向泉長姫が、仁徳の妃の一人に日向諸県君牛諸の娘髪長姫がいることを伝えています。

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 こうしたヤマト王権の日向重視の背景には、日向灘に開いた潟港を中継点として関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があったようです。また、この地域独特の墳墓である地下式横穴からは、大量の鉄製武器類が出土します。ここからも彼らが朝鮮半島への軍事力の主力部隊であったことがうかがえます。控えめに見ても、ヤマト王権の半島侵攻に重要な役割を担っていたといえます。日向地域がもつ重要性とその勢力の王権への同盟・参画が、のちに天孫降臨や神武東征神話を生む背景となったのではないかと考えられます。

イメージ 3

こうして、五世紀のヤマト王権(河内大王家)は「朝鮮への道」を独占的にることで王権を強化していきます。
それまでのヤマト政権の
都はヤマトとその周辺に置かれていました。ところが古市・百舌鳥に造墓した仲哀は、はるか関門海峡の長門穴門豊浦に都を造営します。応神は大和軽嶋明宮のほか吉備や難波大隅宮にも都したと記紀は伝えます。仁徳の難波高津宮、反正の丹比柴耐宮と難波津周辺への宮の造営が伝えられるのも、瀬戸内ルートの整備や河内平野の開発と無関係ではないようです。 
 瀬戸内海ルートで河内潟に入る外交使節や交易の船舶は、難波津や住吉津に近づくと右手に百舌の巨大な大王墓を目の当たりにします。難波宮京極殿の北西で発見された法円坂遺跡の立ち並ぶ巨大倉庫群は、まさに倭の五王時代の王権直轄のウォーターフロントの倉庫群といえます。川船で河内潟から大和川をさかのぼり、ヤマトを目指すと、今度は古市の大王墓群を通り抜けます。倭王の威容を海外に示すのに、これ以上の演出は当時はありません。

同時期に、三豊に九州からの石棺は運ばれてきます。

熊本で作られた石棺が讃岐に運ばれたのは瀬戸内海南岸ルートでしょう。そして、運ばれた豪族同士には「特別なつながり」があったことが考えられるます。その特別なつながりが何かと言えば、大和政権の「水軍の道」ではないでしょうか? それが「紀伊氏」の疑似血縁集団だったのかもしれません。どちらにしても、これらを結ぶ拠点には「大和政権の水軍を構成する集団」がいたことが考えられます。そして、三豊の被葬者の埋葬葬儀の際に九州の同盟勢力から古墳造営の技術者が派遣され、石棺も提供されたという推察が出来ます。また、同盟関係と言うよりも古代地中海における母都市と植民都市のような関係かもしれません。どちらにしろ「人や物」が瀬戸内海航路を用いて、活発に交流していたことを示す証です。
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以上をまとめておくと
①5世紀にヤマト政権は、紀伊氏による瀬戸内海南ルートの開発を進めた。
②これによって紀伊氏一族の水軍拠点が四国側に開かれた。
③三豊の紀伊郷もその名残りであることが考えられる。
④瀬戸内海南ルートは、日向の西都原の勢力を加えることによって大きな水軍力となった。
⑤この水軍力が対外的には、朝鮮半島との交易を有利に展開することにつながった。
⑥国内的には、同盟国であった吉備勢力の弱体化へつながった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

三豊の勢力は近畿よりも九州、そして朝鮮を向いていたのかもしれません。それが、その後の三豊の独自性につながる原点かもしれません。 九州から運ばれてきた石棺を見ながら、そんなことを考えました。




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