
「五色台」には白峰山(336.9m)、青峰(449.3m)、黄ノ蜂(174.9m)、紅峰(245m)、黒峰(375m)などが建ち並んでひとつの山塊となっています。根香寺は、その中の青峰(標高449.3m)の東斜面の標高350m地点に位置し、北東方向には瀬戸内海に浮かぶ女木島、男木島、豊島、小豆島などの島々を望むことができます。青峰の東に勝賀山(364.lm)、南側には五色台で一番高い大平山(478.9m)が連なります。青峰の北側には、黄ノ峰、紅峰、串ノ山に挟まれた生島湾があり、現在は県営野球場となっていますが、江戸時代は塩田が広がっていたようです。
根香寺古図(江戸時代後半)
今回は根香寺の伽藍変遷を、江戸時代の絵図で追いかけて見ようと思います。テキストは「片桐孝浩 根香寺の空間構成 根香寺調査報告書 教育委員会版23P」です。 まず研究者は、地形図で根香寺境内の置かれた位置を確認します。
根香寺は青峰の東側斜面、標高350mに位置しています。
青峰の北側からは北方向に延びる丘陵A北西方向に延びる丘陵B東方向に延びる丘陵C
青峰の南に位置する山塊からは、つぎの2つの丘陵が伸びています。
北方向に延びる丘陵D東方向に延びる丘陵E
これを見ると根香寺は、青峰と青堪北側から延びる丘陵B、丘陵Cと、青峰の南に位置する山塊から延びる丘陵Dに挟まれていることが分かります。ちょうど仁王門は、丘陵Dの先端付近に建っているようです。
今度は谷筋を見ておきましょう。
青峰北側から延びる丘陵Bと丘陵Cとに挟まれた谷筋A、また青峰と丘陵Dに谷筋Bがあります。谷筋Aの奥側には、谷頭池の役割を果たす根香池があります。また谷筋Bは、東から仁王門と境内の間を縫って入り組むようになっています。仁王門の建つ平坦地の東側は、谷筋Bが急峻で深く、 しかも広くなっています。 谷筋Bの最奥部にも、谷頭池があり以前は水田もあったようです。仁王門の建つ平坦部と本堂、大師堂などの諸堂が建つ部分との間の一段低くなった部分が谷筋Bになります。つまり、根香寺の境内は谷部Bを挟んで、仁王門の建つ平坦地と諸堂が建ちならぶ平坦地で形成されていることになるようです。
現香寺周辺の地形について記述したものに、根香寺所蔵の『青峰山根香寺略縁起』があります。
この縁起は根香寺の住職俊海が記したものなので、18世紀前半のものと考えられます。「青峰山根香寺略縁起』には、その地形について次のように記します。
「其往古は南ハ後夜谷、中ハ蓮花谷、北ハ毘沙門谷とて山上三流にわかれて」、「楼門ハ後夜谷の東南に聳へ、護世堂ハ北嶺に?たり、笠井郷の平賀に大門と称し伝ふるハ当山の惣門の跡なるのミ、蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」
意訳変換しておくと
「昔は南は後夜谷、真ん中は蓮花谷、北は北は毘沙門谷と、山上は三流(3つのエリア)に分かれていた」、「楼門は後夜谷の東南にあり、護世堂は北嶺にあり、笠井郷の平賀に大門と呼ばれる根香寺の惣門跡があった。蓮華谷の尾根続きは天神馬場と呼ばれていた」
ここからは江戸時代の根香寺は「後夜谷」「蓮華谷」「毘沙門谷」、の3つのエリアに分かれ、「北嶺」「天神馬場」と呼ばれていた場所があったことが分かります。
これを研究者は次のような手順で確定していきます
青峰山根香寺略縁起を絵図化した根香寺古図(左部)
これを研究者は次のような手順で確定していきます
①「天神馬場」は、昔からの言い伝えで、根香池の南東部の丘陵Cであること
②縁起に「蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」と、天神馬場に続く谷が丘陵Cの南側にある「谷部B=蓮華谷」
③「南ハ後夜谷、中ハ蓮華谷、北ハ毘沙門谷」とあるので、北側にある谷部Aが「毘沙門谷」
④南側の谷部Bの急峻な部分が「後夜谷」、
⑤谷部Bの奥側で、仁王門と諸堂の立ち並ぶ平坦との間にある谷部が「蓮華谷」
諸堂の配置変遷を、江戸時代に描かれた絵図で見ていきます。
比較する絵図は次の通りです
A 寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))C『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))D『讃岐国名勝図会』(嘉永6年(1853)
①中央に「観音」と書かれた本堂
②本堂に向かって右に「智證(証)堂」
③智証堂の前に鐘楼
④本坊千眼院には、中央に本堂、その向かって右に建物、左に桁行の長い建物
⑤白峰寺からの遍路道から延びる参道はには、石段あり
⑥階段際やその周囲には柵
B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
四国遍礼名所図会の根香寺
左下に白峯寺からの遍路道が伸びて来ます。しかし、境内入口に門はありません。その代わりに、門の礎石と考えられる「○」がいくつか書き込まれています。数えてみると「○」は12あります。どうやらこれが2間×3間の門跡だと研究者は推測します。門跡の左右には、藁葺の建物が2棟あります。門からの参道は、周囲の樹木の描かれ方から一旦下って、さらに階段を上っていくと諸堂がある平坦地に着きます。正面には、瓦葺で屋根が宝形造のやや大ぶりの建物左右に瓦葺で宝形造のやや小ぶりの建物手前右に鐘楼茅葺の建物、小さい社左側に建物が2棟あります。
左側奥の建物はかなり大きく、「庫裡」のようです。
「根来(香)寺」図の説明文には、「大師堂 本堂の側にあり、智証大師堂」と書かれているので、「大師堂」と「智証大師堂」を意識してかき分けていることが分かります。どうやら本堂の左右の堂が智証大師堂と弘法大師堂であったようです。
『金昆羅参詣名所図会』(1847年)では、
仁王門が復活しています。仁王門の手前左側に茅葺の建物があり、縁側で休む参拝者か、遍路が描かれています。これが茶屋のようです。「仁王門」を入ると一段低くなり、もう一度石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地になります。石段途中の右側平坦地には建物がありますが、これが説明文にある「茶堂」のようです。石段を上る平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「不動堂」が並びます。どれも宝形造で、「本堂」と「不動堂」がやや大ぶりの建物で、大師堂はやや小ぶりの建物です。ここでは智証大師堂が消えていることを押さえておきます。「大師堂」手前には「鐘楼」があり、「不動堂」左手前には「本坊」がひときわ大きく描かれ、繁栄ぶりがつたわってきます。本堂のある平坦地も含め、平坦地の縁部は石垣であったことも分かります。
次に『讃岐国名勝図会』では、
本尊千手観世音を安置する「本堂」「護摩堂」「祖師堂」「鎮守社」「茶堂」「地蔵堂」があると書かれているだけで、これら建物についての記述はありません。描かれた絵図を見ると、「白ミ子(白峰)道」から仁王門前の平坦地となり、仁王門に向かって左側と手前に建物があります。これは、金昆羅参詣名所図会にも描かれていたので、茶屋でしょう。「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地に着きます。石段途中の右側平坦地にある建物に「茶堂」と書かれています。その平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「五大ソン(五大堂)」がびます。不動堂が四天名王と併せて五大尊になったので名前が変わっています。全て宝形造で、「本堂」がやや大ぶりの建物で、「五大ソン」、「大師堂」はやや小ぶりの建物に描かれています。「大師堂」の手前には「鐘楼」があり、「五大ソン」左手前には「書院」などの建物があります。「鎮守社」は「井びに境内にあり」、「地蔵堂」は「坂中にあり」とあります。
以上が江戸時代に描かれた絵図に書かれた建物配置状況でした。
現在の根香寺伽藍配置図

根香寺建築物変遷表
まず「仁王門」前にあった茶屋はなくなって、今は駐車場になっています。根香寺住職からの聞き取りでは、「仁王門」前には、昭和25年頃まで茶屋があり、その西側に遍路宿が昭和33年頃まであったことが報告されています。かく堂宇のたつ境内の4つの平坦地について押さえておきます。
①「仁王門」のある平坦地②「仁王門」から一段低くなった平坦地③2段に分かれた石段途中の平坦地④石段を上った「大師堂」「五大堂」などの平坦地
これらの平坦地は現在と変わりありません。平坦地の縁辺には石垣が築かれているのも江戸時代と同じです。また、本堂の位置は変わっていますが、それ以外の「五大堂」「大師堂」などの建造物は、そのままの位置にあります。宝形造という建物構造も江戸時代のままのようです。

根香寺建築物変遷表
現在の建築物を見ておきましょう

根香寺王門仁王門
「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると「大師堂」と「五大堂」のある平坦地となります。石段途中の平坦地にあった茶堂も今はありません。代わって西側に「水かけ地蔵」、東側に「牛頭観音像」、「役行者像」があります。
役行者像(根香寺) 修験者の行場であったことを伝える
石段の上の平坦地に、「大師堂」と「五大堂」が横に並び、「大師堂」手前に「鐘楼」、三大堂」左には「庫裡」、「客殿」などの建物があります。また、「大師堂」の東側には「龍官地蔵尊」、「延命地蔵尊」があります。「大師堂」と「五大堂」の中央から更に石段を上ると、一段高くなった平坦地に回廊を持つ本堂と回廊途中に阿弥陀堂があります。
根香寺本堂
本堂について
名勝図会等では、本堂を中心にして向かって左手に五大堂(五大尊・不動堂)、右手に大師堂の三堂が並ぶレイアウトでした。それが昭和45年(1970)の30年毎の本尊千手観音の開帳の際に、旧本堂の上の敷地を造成し、木造の回廊を巡らせて、本堂をその中央上部に移築しました。さらに背面に収蔵庫を建設して、そこに本尊の千手観音を安置するようになったようです。解体修理の際には柱の根継ぎや床廻り、天丼廻り、軒廻り等の板材が取り替えられているようです。
名勝図会等では、本堂を中心にして向かって左手に五大堂(五大尊・不動堂)、右手に大師堂の三堂が並ぶレイアウトでした。それが昭和45年(1970)の30年毎の本尊千手観音の開帳の際に、旧本堂の上の敷地を造成し、木造の回廊を巡らせて、本堂をその中央上部に移築しました。さらに背面に収蔵庫を建設して、そこに本尊の千手観音を安置するようになったようです。解体修理の際には柱の根継ぎや床廻り、天丼廻り、軒廻り等の板材が取り替えられているようです。
根香寺本堂平面図
各部材は良質な檜材が多く、背面にも同様の暮股を組むなど、全体の様式にも手抜きがないと専門家は評価します。木鼻の繰り型や蛙股の形状も17世紀の作であるとします。しかし、向拝については、差し肘木や海老虹梁、手挟み、向拝頭貫、木鼻、暮股などは、宝暦4年(1754)の修覆後のもののようです。
大師堂については、弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』や嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』を見ると、三方に縁が組まれており、前面には向拝もありませでした。しかし、現在は大きく姿を変えているようです。これを研究者は次のように指摘します。
近代の修理で柱をはじめ相当量の取替が行われており、前面の増築改造を含め建物の改変もあり、旧来の形式が失われたものと思われる。建立年代については、肘木の形状や虹梁文様から、本堂向拝や山門と同時期と考えられる。また大師像休座には「寛政十戊午年」(1798)ほかの陰刻銘があるという。
根香寺大師堂平面図
以上をまとめておきます
①「本堂」「大師堂」「五大堂」「鐘楼」「仁王門」は、「本堂」が昭和41年に解体修理して移動している以外は、動いていない。
②「本堂」「大師堂」などの宝形造のスタイルも変わっていない。
③「大師堂」は、当初は「智証堂」で智証大師像を安置するものであったのが、江戸時代後期(1800年以降)には、弘法大師像を安置する大師堂に変化した
根香寺は青峰の東斜面に位置し、谷部B(蓮華谷)を挟んで立地し、そこに建てられている堂宇は江戸時代前半からほとんど変化なく現在に受け継がれているようです
〔参考文献】
















