瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:須恵器生産

十瓶山窯跡支群分布図2
十瓶山窯跡群 C地区が西村遺跡

西村遺跡は、国道32号綾南バイパス工事にともなう発掘調査で、古代から中世の須恵器・瓦窯跡と集落が一緒に出てきました。そのエリアは道路面なので、陶ローソン付近から東の長楽寺辺りまでに細長く広がる遺跡になります。
十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

西村遺跡が、どんな所に立地するのかを見ておきましょう。
 発掘調査によって遺構が確認された範囲は、東西1.1kmになり、遺構も連続しています。遺跡をふたつに分けるかたちで御寺川が東から西へ流れ、北条池の下で綾川と合流します。この谷の北側が、この地区の甘南備的存在である十瓶山から続く南麓斜面になります。谷の南側は、富川との間に挟まれ上面がほぼ平坦な台地(西村台地)が続きます。また谷の両側には御寺川に連なる小さな谷地形がいくつもあります。
 こうしてみると西村遺跡は、地形的には御寺川で西村北地区と山原・川北地区の2つに分けることができます。さらに小規模な谷筋で西村北(西部・中部・東部)に、後者は2群(山原地区・川北地区)に細区分します。西村遺跡は、これらの複合した遺跡群と捉えることができるようです。
各地区の遺構のあった時期を西から順番に、一覧表にしたものが下の表です。
十瓶山 西村遺跡推移標

 この表を見ると、西村北区中部からは西村1~2号窯跡が出土しています。その時期は、11世紀~13半ばまでで、それ以後に窯跡はありません。その東に当たる東部地区からは、窯跡が姿を消した後に建物群が姿を現しています。これをどう考えればいいのでしょうか?
発掘調査を指揮した廣瀬常雄氏は、西村遺跡について次のようにまとめています。
①西村遺跡の性格をよく表しているのは、掘立柱建物と窯跡(西村1~3号窯跡)であり、住居と生産遺構が時代別にあること
②時期的には、窯跡や粘土採掘坑(土坑群)を含めた生産遺構は5期(12世紀後葉)まで、それ以降に居住遺構が認められる。
③建物や溝の方位を規制する地割の存在と近世以前の耕作土の存在から、建物群の形成期には周辺が耕地化されていた。
 ここからは、もともとは西村遺跡は窯業生産地であったが、6期(12世紀末葉)以降は、須恵器生産を終えて周辺一帯の開墾を行い農村へと変貌していったことになります。つまり、窯業地帯から農村への転進が中世初頭に行われたという結論になります。

これに対して、違和感を持ったのが佐藤竜馬氏です。
今回は、西村遺跡を佐藤氏がどう捉えているのかを見ていきたいと思います。テキストは「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」です。
先ず佐藤氏は、「生産遺構」についての見直しから始めます。
  上表では12世紀後半に窯跡は消えますが、その後も「土坑群」と「焼土穴」は残っていたことが分かります。土坑穴は、須恵器の原料になる粘土を採集した穴跡で、「焼土穴」も窯の一種と考えられるようになりました。そうすると、西村遺跡では、その後も須恵器生産が続いていたことになります。
 もうひとつは西村遺跡西の特徴的土器とされる「瓦質土器」の存在です。
発掘当時のは穴窯やロストル式平窯しか知られておらず、「瓦質土器」が、どんな窯で焼かれたかは分かりませんでした。1990年代なって各地で、土師質や瓦質焼成の在地土器が「小型窯」で生産されていたことが分かってきました。改めて西村遺跡の遺構をみると、「焼土坑」や「カマド状遺構」とされてきたものが、実は「煙管状窯」であったことが分かってきました。
 西村遺跡からは、中世前期の焼土坑が19基出土しています。その内訳は、西村北地区西部3基、西村北地区山東部6基、山原地区5基、川北地区5基です。これらが煙管状窯だった可能性が高くなります。
「煙管状窯」とは、どんな窯なのでしょうか
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯
煙管(きせる)状窯
煙管状窯は、円筒形の窯体中位に火格子(ロストル)を設けることで上下に窯室(燃焼部・焼成部)を持つ垂直焔(昇焔)式の窯のようです。須恵器生産地では、燃焼部が窯体手前に袋状に延びたり、焼成部で絞り込まれるものがあります。これは燃焼部内のガス圧を高めて、焔を効率的に焼成部へ吹き上がらせるための工夫と研究者は考えています。

煙管状窯の系譜は、12世紀の東播磨系の窯では穴窯と焼成器種を分担・補完する窯であったことが分かっています。
そこでは須恵器椀・皿、稀に叩き成形の土師質釜が焼かれていて、穴窯と役割分担しながら使われていたようです。この窯で特徴的なのは、窯内の空間が狭いことです。これは窯全体が大型化していく傾向とは逆行します。「大量生産=効率化」と思えるのですが? 

十瓶山 西村 煙管状窯
煙管状窯

ところが、具体的な窯詰め方法を考えると、そうとも云えないようです。煙管状窯では空間利用が非常に効率的に行われていたようです。近・現代の垂直焔構造の窯では焼成部内に隙間なく製品を積み上げて、最上段を壁体よりもさらに上に盛り上げています。木野・伏見・市坂(京都府)、有爾(二重県)、御厩(香川県)などで、 このような窯詰方法が行われているようです。
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯

田中一廣氏の報告書は、次のように述べています。
「土器を並べて行き5段から6段程積みあげる。各々の土器は窯の中心において底面を合わせる様にして土器をきっちり詰め込む」

土師器皿を7000枚前後詰め込むことができたと報告されています。 研究者は、十瓶山窯の平均的規模の穴窯(焼成部長5.5m、幅1.3m)で試算しています。重ねられた1単位の個体数を平均15個程度ですので、床面に245単位を並べることができたとしても3675個が窯詰めができるだけです。これを焼土坑18の窯詰め量と比較すると、3倍程度にしかなりません。標準的な穴窯の焼成部床面積は7,15㎡です。焼土坑18の床面積はわずかに0,5㎡にしか過ぎません。面積比は14:1になります。しかし、窯詰め比率は3:1なのです。これは煙管状窯が焼成部内の空間をフルに活用できるのに対して、穴窯には「製品を積む高さにも限界が」あり、「窯体容積の割には生産力の低い窯であことに起因する」ことを研究者は指摘します。
 さらに、煙管状窯は容積が小さい上に垂直焔構造のために、害窯よりも燃料効率がよく、温度調節も簡単で、焼成時間も短時間化できたようです。燃料消費量の節約ばかりだけでなく、年間使用回数によっては、穴窯で焼くよりもコストがかからず利便性が高かったことが考えられます。ここからは煙管状窯を「小型」な窯とだけという視点では捉えられないと研究者は指摘します。
 西村遺跡の主生産品である須恵器椀などは低火度還元焔焼成品なので、煙管状窯で焼成する方があらゆる点で効率的だったと考えられます。
 焼土坑は、煙管状窯の基底部との共通点が多いようです。そのため削平された地上(半地上)式の煙管状窯と見倣してよいと研究者は考えます。
これらの焼土坑(煙管状窯)では、何が焼かれていたのでしょうか。
出土遺物で最も多いのは碗のようです。煙管状窯の操業期の12世紀後葉~13世紀後葉には、同じような形態・技法をもつ椀の多くは瓦質焼成です。ここから煙管状窯では、軟質焼成の須恵器椀が生産されていたことがうかがえます。

粘土採掘坑群 
 土坑群は、調査区内で8箇所で見つかっています。その立地は、谷筋に向う傾斜面の縁辺で地山が粘土層の地点です。土坑群が粘土採掘跡であったことの理由について、研究者は次のような点を挙げます。
①地形・地質に左右された立地
②形状・規模に規則性がないこと
③土器が出土した遺構が少なく、出土状況が多様であること
④掘削のために使われた道具が出土した事例があること
⑤窯業生産地に隣接し、操業時期的にも同時代であること
以上の理由から土坑群の多くは、粘上を採掘した跡とします。川北地区の土坑群8からは、多くの遺物が出てきました。これは、隣接する焼土坑18・19から焼土・土器の廃棄が行われたためで、粘土採掘坑が廃棄土坑に転用されたためと研究者は考えているようです。
遺構レイアウトを、山原地区で見ておきましょう。

十瓶山 西村遺跡 山原地区
西村遺跡山原地区の遺構配置

山原地区は、時期幅によって、次の4群に整理されています
①土坑群の掘削された11世紀中葉~13世紀中葉
②西村3号窯跡の操業期である12世紀前葉
③掘立柱建物・溝・墳墓・焼土坑のみられる12世紀末葉~13世紀前葉
④多量の遺物を含んだ廃棄土坑のみられる13世紀中葉
土坑群は継続期間が長く、③の遺構とは同時並行期間があります。出土した遺物は11世紀中葉~12世紀前葉で、建物・溝を破壊した土坑がないようです。ここからは土坑群の大半は③の遺構群の時期よりも前に掘られたもので、③の時期にも掘削が続きますが、次第に低調になったと研究者は考えているようです。以上から12世紀末葉~13世紀前葉の遺構とされています。

建物群は、建物34(J群)、建物35~37(k群)、建物38(i群)、建物39・40(m群)の4グループに分けられます。
建物の主軸は、真北方向を意識しているようで、周囲の地割とほぼ平行になります。建物の規模は15~25㎡前後のものが多く、西村北地区東部の建物群よりも小規模です。ただし建物群の全体が窺えるのは、中央にあるK群(35~37)だけです。K群には廂や床束などの構造的な差異はありませんが床面積45mの建物(建物37)があります。中型建物1棟と20m前後以下の小型建物2棟(35・36)と3つの建物で1セットです。建物の周囲に、雨落ち溝的な小溝が掘られています。建物群には時期差があるようで、K群が13世紀前葉、m群が12世紀末葉~13世紀初とされています。
 一方、研究者が注目するのは墳墓です。
k群に2基、やや離れた所に1基あります。輸入磁器や硯、さらに祭祀に使用されたとみられる小型足釜の出土破片数は、 k群やm群から出土しています。半耐久消費材や祭祀具からみると、m群やk群には高い階層の人々が住んでいたと研究者は考えているようです。
 
 焼土坑は建物40の中から、5基出ています。
焼土坑10はk群に、焼土坑11~14はm群に属しているようです。
このうち焼土坑10・12~14が煙管状窯とされています。焼士坑11は焼土(窯壁)や失敗品の廃棄土坑とされています。削平されていて、遺物はほとんど出土していませんが焼土坑10の周囲の遺構や包含層の遺物は13世紀前葉のものです。また焼土坑11からは12世紀末葉~13世紀初頭の須恵器椀が出土しているので、隣接する焼土坑12~14も同じ13世紀初頭前後を研究者は考えています。
 m群の煙管状窯は、同時期のものとされる建物40溝と13と関連性がうかがえるがある位置関係にあります。建物40と窯が同時にあったとすると、窯の覆い屋的な施設になる可能性があります。
 この他、御寺川の谷斜面に面した土坑5では、13世紀中葉の須恵器椀などが大量に破棄されていました。ここではヘラとみられる竹製工具も出土しています。こうした廃棄土坑があったことは、k群やm群の建物群が廃絶した後にも、付近で土器生産が行われていた可能性があると研究者は考えています。

  以上のように各地区を検討した後に、西村遺跡について研究者は次のようにまとめています。
①西村遺跡では、12世紀中葉~13世紀後葉の間の期間、地上式の煙管状窯b類が各地区に複数あった。ここでは、軟質焼成の須恵器椀・捏鉢、恵器壷や叩き成形の鍋が焼成されていた。
②建物群が初めて姿を見せるのは、川北地区(N群)で11世紀後葉のこと。他地区では12中葉以降に始まり、13世紀後葉になると衰退し、14世紀前葉をもって廃絶する。
③西村北地区東部では建物跡が重っているので、比較的長期間建て替えながら存在した。
④床面積25m以上の大きな建物1棟と、20㎡以下の小型建物1~2棟が同時併存したこと。
「屋敷墓」的な墳墓(土坑)が、それぞれの建物群にあります。ここからは、自立した単位(家族?)の存在が見えてきます。ここから研究者は、家族単位で窯が操業されいたと推測します。

以上から、中世前期の西村遺跡は12世紀中葉以降、急速に遺構群の形成が始まり、13世紀後葉には次第に廃絶に向うことが分かります。その操業単位については、建物群の構成や屋敷墓から見えるようにを自立した家族単位で行われていたと研究者は考えているようです。この時期の遺構は各単位(建物群)が煙管状窯を、いくつか持ち、原料となる粘土採掘場を共有で使うという姿が描けます。西村遺跡では「居住遺構」と「生産遺構」が不可分な関係を持ちながら消長した」と、研究者は記します。以上からは、13世紀中葉~14世紀前葉の西村遺跡は、軟質焼成の須恵器を中心にとした土器生産集団の活動の場であったと結論づけます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」




 須恵器 編年写真
須恵器編年
 讃岐で最初に須恵器生産が行われたのは、どこなのか?  須恵器窯が、どのようにして讃岐全体に広がっていったのか。また、須恵器生産のシステムは、どんなものであったのかなどを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」と「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」です。

須恵器 土師器

  五世紀前半頃に朝鮮半島南部から伝えられた須恵器生産は、それまで弥生土器や土師器とは全く系譜を異にする土器です。土師器が赤褐色、軟質であるのに対し、須恵器は青灰色・硬質です。これは土師器が野焼きによって酸化炎焼成されるのに対して、須恵器は穴窯と呼ばれる長大な構築窯で高温に還元炎焼成されるためです。この窯は、それまではわが国にはなかったもので、須恵器生産のために初めて構築窯が使われるようになります。
陶邑窯跡群 堺市
陶邑古窯址群(堺市)
この窯を使って大規模な須恵器生産工業地帯が作られるのが大阪南部に広がる陶邑古窯址群です。
ここは堺市の泉北ニュータウンの造成の際に発見された遺跡で、泉北丘陵一帯で焼かれた須恵器が各地に運び出されていたようです。朝鮮半島からの渡来人を、この地に定住させ官営窯工場地帯として整備します。平安時代までの約500年間で1000基近く者数の窯が次々とと築かれていき、日本最大の須恵器生産地に成長して行きます。これらの窯跡群は、『日本書紀』に「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられています。地方では、初期の須恵器窯跡が発見されることが少なかったために、陶邑古窯址群が独占的に須恵器を全国に供給したと考えられていたときもありました。しかし、福岡県や宮城県からも五世紀の須恵器窯跡が発見されるようになり、大坂の陶邑古窯址群とは系譜を異にする須恵器もあることが分かってきました。

須恵器 編年表3
須恵器編年図
香川県での初期の須恵器窯跡の発見
 そんな中で香川県でも、1975年に香川医科大学の建設に伴い権八原(ごんぱちばら)古墳群が調査され、大量の古式須恵器が出てきました。また1981年には、豊中比地大の宮山の果樹園工事で古式須恵器や窯壁が出土し、はじめて5世紀の窯跡が確認されました。
さらに、1983には高松の三谷三郎池西岸窯跡が発掘調査され、次のようなことが分かりました。
①焼成面は長さ5m 幅2,15m    幅広で傾斜の緩やかな床面
②床面の中央には二個の柱穴が縦に並んでおり、これは窯体の大井を築く時の支え柱の柱穴
③窯体の下方には灰原も検出されたが、薄くて須恵器片を少量しか出上しなかったことから、窯の操業は短期間であった
④甕・壷・高杯・器台や杯などの小破片が出土
須恵器 宮山1号窯跡2
三豊市豊中町の宮山一号窯跡

一方、豊中町の宮山一号窯跡には、以上の器種のほか、蓋または鉢や紡錘車なども含まれています。両窯跡の出土品とも、甕の内面の叩き痕を消したり、杯の立上りが高いことなどから古式須恵器とされます。さらに出土品の中には、定型化以前の須恵器を含むことから、両窯跡ともわが国で須恵器生産を開始して間もない頃に操業が始まった窯と研究者は考えています。つまり、渡来系の工人たちによって窯が開かれ、生産が行われていたようです。
須恵器 編年式
須恵器編年表
   須恵器の製作においては窯を造るほかにも、高温に耐える淡水性粘土の使用や、 ロクロによる造形など、それまでの土師器生産に比べるとはるかに高度な窯業技術と専門技術者やスタッフが必要でした。製鉄技術と同じように、技術者スタッフを集団で誘致し、定着させないと須恵器生産はできなかたのです。そこで各地の首長は、ヤマト政権の大王から、ある者は、朝鮮半島と直接関係を持つ九州の豪族たちの連携で、工人集団を招き入れたようです。

讃岐の初期の須恵器窯を順番に並べると、次のようになります。
①もっとも古い初期須恵器であるT G 232段階を生産した髙松の三谷三郎池西岸窯跡(4世紀末)
②T K 206~208式を焼いた豊中町の宮山1号窯跡(5世紀半ば)
③T K10型式相当期の多度津・黒藤窯跡(5世紀前半)
 ①②の窯跡の生産をめぐる経緯や工人の問題などは分かりません。あえて推測するなら①は秦氏、②は三野郡の丸部氏の基盤になります。②は、その後に展開する三野窯跡や三豊南部の辻窯跡群につながって行く先駆的なものとも考えられます。いずれにせよ、①②の両窯跡で讃岐の須恵器生産が開始されます。それが5世紀半以前であったことを押さえておきます。
須恵器 TK10
須恵器TK10~TK43が出土した窯跡分布
豊中の宮山1号窯跡や高松の三谷三郎池西岸窯跡から讃岐の須恵器生産は、5世紀前半には始まっています。これは全国的にも早い方になります。しかし、両者とも単独の窯で大きな窯跡群ではありません。しかも三谷三郎池西岸窯跡では、床面に残った灰原は薄く、数回しか焼成が行われなかったことからみると、この時期の須恵器生産はきわめて小規模で、不安定な操業体制だったことがうかがえます。6世紀前半から中頃の須恵器窯跡は、現在のところ多度津の黒藤窯跡しかありません。つまり、先行的な3つの窯跡以外で、後に続く窯はすぐには現れなかったようです。
須恵器 TK217
須恵器TK217が出土した窯跡分布

讃岐の須恵器生産の規模が拡大するのは、6世紀末から7世紀前半頃にかけてです。
この時期に操業を開始した窯跡を西からみておきましょう。
①山本の辻窯跡群
②高瀬の瓦谷窯跡・末窯跡群
③三野の三野窯跡群
④丸亀の青野山窯跡群
⑤綾南の陶窯跡群
⑥高松の公渕窯跡群
⑦三木の小谷窯跡
⑧志度の末窯跡群
ここからは窯跡が、ほぼ讃岐全域に拡大していることが分かります。
このような拡大の背景には、6世紀末から7世紀前半に急激な須恵器需要の拡大があったことが考えられます。その背景を坂出下川津遺跡や高漱の大門遺跡から見ておきましょう。
これらの遺跡発掘からは、作りつけのカマドを持つ竪穴住居が急速に普及したことが分かります。
竪穴(たてあな)住居にカマドや貯蔵穴が登場(古墳時代)|三島市
かまどを持つ縦穴式住居
このような住居は、この時期に台頭した新しい農民層の住居とされます。彼らのなかの有力者は、横穴式石室を持つ群集墳を築造し、死後そこに葬られるようになります。つまり6世紀末頃という時代は、新しく台頭してきた農民層が日用土器として須恵器を使うようになり、一方では爆発的に増えた横穴式石室への副葬土器とも須恵器が使われた時代であったようです。これが須恵器生産の拡大をもたらしたと研究者は考えています。

古代讃岐の郡域2
讃岐の各郡分布

 しかし、この時期の須恵器生産や流通は、工人たちが管理していたのではないようです。それは、地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と窯跡群が、セットで分布していることからうかがえます。西からそのセットを押さえておきます。
①辻窯跡群と観音寺の鑵子塚古墳(苅田郡)
②青野山窯跡群と青野山7号墳(鵜足郡)
③陶窯跡郡と坂出新宮古墳・綾織塚古墳・酬酬古墳群(阿野郡)
④公淵窯跡群と高松の山下古墳・久本古墳・小山古墳(山田郡)
⑤末窯跡群と寒川の中尾古墳(寒川郡)
 ここからは須恵器生産地の成立には、地域首長が関わっていると研究者は考えています。
須恵器 青野山

例えば②青ノ山エリアを見てみましょう。ここには6世紀後半から7世紀初頭の古墳群があります。1979年に、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際に、近くの青ノ山南麓の墓地公園入り口付近の事現場で窯跡が発見されました。焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備されました。全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降の窯跡でした。この窯跡は、青ノ山7号墳の被葬者との関連が指摘されています。が、この窯跡で生産された須恵器が、7号墳から出土していないので、この他にも周辺に窯跡があった可能性があります。青野山周辺は「土器」という地名が残るので、土器作りが盛んな地域だったことが推測できます。

須恵器 青野山3
青野山1号窯跡

 ここでひとつの物語を考えて見ます。青野山から宇多津の角山にかけての入江周辺に拠点とした首長は、青野山周辺に良質の粘土が出てくることを知ります。そして粘土採掘地を確保した上で技術者集団を「誘致」して窯を開いたという話になります。これは、後の氏寺建立の際の瓦窯開設の際にも見られるやり方です。どちらにしても、渡来技術者集団が自由に、原料産出地を探して窯を開き、自由に商品を流通させたとは研究者は考えていないようです。窯開設から、生産・製品流通まで、地域首長の支配下にあったとします。
須恵器 窯

 当時は貨幣経済社会ではありませんでした。そのため須恵器を商品として生産し販売して生計をたてることは出来なかったようです。そのため須恵器生産工人たちは、自給自足で農業を営みながら、支配者に隷属してその保護のもとに須恵器生産を行ない、大部分の製品を貢納していたのではないかと研究者は考えています。
寒川の中尾古墳からは、異常に大きな高杯が出てきました。これは地域首長の死に際して、工人たちに特別に作らせたものでしょう。ここに地域首長と須恵器工人の関係が象徴的に現れていると研究者は指摘します。
 こうした状況が変化するのは、T K43型式~T K 209型式が姿を見せ始める6世紀後半頃になります。この時期になると、次のようないくつかの生産地が並立するようになります。

須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
7世紀の讃岐の窯跡分布図
④丸亀平野北東部の青ノ山1・2号窯跡
⑤丸亀平野北西部の黒藤窯跡
⑥三豊平野北部の瓦谷遺跡
⑦三豊平野南部の奥蓮花1・2号窯跡、高額窯跡、小松尾寺2号窯跡
⑦の三豊平野南部の辻窯跡群の急速な増加傾向が目につきます。
以上をまとめた起きます。

讃岐須恵器窯の分布

①朝鮮半島から渡来集団によってもたらされた須恵器生産は、いち早く讃岐にももたらされた。
②それは三豊豊中と、山田郡三郎池周辺であった。そこには、技術者集団をいち早く受けいれることの出来た有職者がいたことがうかがえる。
③豊中は丸部氏、山田郡は秦氏が考えられる。
④その後、しばらくは新たに窯が開かれることはなかったが、6世紀末に窯は讃岐全体に拡大分布するようになり、窯の数も増える。
⑤その背景には、有力農民層の台頭があり、彼らが須恵器を日用品として使用し始めたことや、群集墳の副葬品として大量消費したことが考えられる。
⑥こうして、巨大横穴式石室があるエリアには、須恵器窯がセットで存在するという景色が見えるようになる。
⑦これは律令時代になると「一郡一窯」と云われる状況を作り出す。
⑧その中でも、三豊の2つの生産活動は、他のエリアを凌駕するものがあった。
次回は、7世紀初頭段階において、三豊の窯後群がどうして他地域を圧倒していたのかを、見ていきたいと思います。
参考文献
「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」
「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」

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