瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:頓證寺

33 なよ竹物語 (トップ)絵は3・5
なよ竹物語(詞1 絵3 絵5)
「なよ竹物語」は、物語中で女主人公が読む和歌の文句を取って「くれ竹物語」とも呼ばれます。また後世には「鳴門中将物語」とも呼ばれるようになります。そのあらすじは

鎌倉後期、後嵯峨院の時代、ある年の春二月、花徳門の御壷で行われた蹴鞠を見物に来ていたある少将の妻が、後嵯峨院に見初められる。苦悩の末、妻は院の寵を受け容れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け容れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらす

しかし、「なよ竹物語」では、主人公の少将が、嗚門の中将とあだ名され、妻のおかげで出世できたと椰楡される落ちがついています。「鳴門」は良き若布(わかめ)の産地であり、良き若妻(わかめ)のおかげで好運を得た中将に風刺が加えられています。戦前の軍国主義の時代には、内容的にもあまり良くないと冷遇されていた気配がします。
 この物語は人気を得て広く流布したようです。建長6年(1254)成立の「古今著問集』に挿人されたり、鎌倉時代末から南北朝期の「乳母草子」や二条良基の『おもひのまヽの日記」にその名が見えます。こうして見ると物語としては13世紀に成立していたことになります。絵巻は、現状では九段分の画面に分けています。今回は金刀比羅宮にある「重文・なよ竹物語」を見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。
 金刀比羅宮のなよ竹物語については形式化を指摘する声が強いようです。これに対して研究者は次のように反論します。
33 なよ竹物語  絵1蹴鞠g
        なよ竹物語 第1段(冒頭の蹴鞠場面) 金刀比羅宮蔵

33なよ竹物語 蹴鞠2
 確かに、冒頭、自然景の中での蹴鞠の場面では、堂々たる樹木の表現に比べて、人物たちは小振りでプロポーションも悪く、直線的な衣の線は折り紙を折って貼り付けたような固さと平面性をかもし出している。
 しかしこれが、第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面や、第五段の最勝講の場、第七段の泉殿と思しき殿合で小宰相局が院に手紙の内容を説明する場面など、建築物の内部を舞台とする場面では、定規を用いた屋台引きの直線が作り出す空間の中で、直線を強調した強装束をまとった人物たちは、極めて自然な存在感をかもし出す。全体に本絵巻の作者は、建築物を始め、車輌や率内調度品などの器物の描写に優れ、やや太目の濃墨線で、目に鮮やかにくっきりとそれらの「もの」達の実在感を描き出す。
衣服の紋様表現や襖の装飾なども、神経質な細かさを見せており、直線的な強装束をまとった人物表現や、少々厚手で濃厚な色彩感などと相候って、全体としてグラフィカルな感覚を前面に強く押し出した画風を創出している。


33なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面

      なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間の饗宴場面(金刀比羅宮蔵)

33 なよ竹物語  五段の最勝講の場 
          なよ竹物語 第五段の最勝講の場
33なよ竹物語9
           なよ竹物語 第九段
一方で自然景のみを独立して見た場合、冒頭の蹴鞠の場の樹木表現や、第八段の遣水の表現など、この画家が自然の景物の描写についても決して劣っていなかったことが容易に分かる。院と少将の妻が語らう夜の庭に蛍を飛ばすなど、明けやすい夏の夜の風情を情感景かに盛り上げる叙情的なセンスも宿している。そのことはまた、両家が物語世界を深く理解していたことも示していよう。
33なよ竹物語8
          なよ竹物語 第八段
このように評した上で金刀比羅宮の「なよ竹物語」と「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)を比較して次のように指摘します。
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡  鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵
①人物のプロポーションや、殿上人の衣の縁を太目の色線でくくる表現などが「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)と共通
②第八段の男女の夜の語らいの姿を殿合の中央に開いた戸の奥に見せる手法は「狭衣物語絵」第五段の狭衣中将が女と契りを結ぶ場面と似ている
③「狭衣物語絵」の人物の顔貌が引目鉤鼻の形式性をよく残すのに対して、金刀比羅宮の絵巻の顔はより実人性を強く見せること
④「狭衣物語絵」の霞のくくりがより明確な線を用いていること
⑤ゆったりとした人物配置や空間のバランス感覚は、両者に共通
以上から両者が14世紀前半の近い時代に制作されたものと研究者は判断します。そうすると、なよ竹物語の成立は13世紀前半ですが、金刀比羅宮のものは、それより1世紀後に描かれた者と云うことになります。
さてこの絵巻は、どんな形で金刀比羅宮にやってきたのでしょうか? 
金刀比羅宮の「宝物台帳」は、この絵巻の伝来事情を次のように記します。
「後深草天皇勅納 讃岐阿野郡白峯崇徳天皇旧御廟所准勅封ノ御品ニテ 明治十一年四月十三日愛媛県ヨリ引渡サル」

意訳変換しておくと
「後深草天皇が讃岐阿野郡の白峯崇徳天皇の旧御廟所(頓證寺)に奉納した御品で、明治11年4月13日に愛媛県より(本社に)引渡された。」

ここからはこの絵巻が、白峰寺の崇徳天皇廟頓證寺に准勅封の宝物として大切に伝えられたもが、愛媛県から引き渡されたことが分かります。
それでは、白峰寺から金刀比羅宮に引き渡されたのはどうしてなのでしょうか?
明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。

金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「抜け殻」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮は摂社化して管理下に置こうとします。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。
机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。「金毘羅庶民信仰資料 年表篇」には、これを次のように記します。
阿野郡松山旧頓詮寺堂宇を当宮境外摂社として白峰神社創颯、崇徳天皇を奉祀じ御相殿に待賢門院・大山祇命を本祀する」

この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。

金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として
②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が金刀比羅宮の現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること
こうして、明治になって住職がいなくなった白峰寺は廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。頓證寺にあった宝物は、金刀比羅宮の管理下に移されます。この時に、なよ竹物語などの絵画も、金刀比羅に持ちされられたようです。これに対して白峯寺の復興と財物の返還運動を続けたのが地元の住人達です。

頓證寺返還運動

高屋村・青海村を中心とする地域住民による「頓証寺殿復興運動」が本格化するのは、1896年8月ことです。その後の動きを年表化しておきます
1896年8月 「当白峯寺境内内二有之元頓証寺以テ当寺工御返附下サレ度二付願」を香川県知事に提出。この嘆願書の原案文書が青海村の大庄屋を務めた渡辺家に残っている。
1897年 松山村村長渡辺三吾と代表20名の連署で「頓證寺興復之義二付請願」を香川県知事に提出
1898年9月27日 香川県知事が頓証寺殿復旧について訓令。頓証寺殿は白峯寺に復するとして、地所、建物、什宝等が返還。
1899年2月 宝物返還を記念して一般公開などの行事開催。しかし、この時にすべての什宝が返還されたわけではなかったようです。
1906年6月27日に 白峯寺住職林圭潤や松山村の信徒総代等が「寺属什宝復旧返附願」を香川県知事小野田元煕に提出
これは3年後の1909年の「崇徳天皇七五〇年忌大法会」に向けての「完全返還」を求めての具体的な行動で、未だ返還されていない什宝返還を願い出たものだったようです。
 当初、1878年に白峯寺から金刀比羅官に移された宝物総数は54件、延点数173点でした。
それが1898年に返還されたのは、24件、延点数67点にしか過ぎません。返還されたのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、半分以上のものが返還されないままだったのです。その代表が「なよ竹物語」です。そこで改めて「崇徳天皇七五〇年忌大法会」を期に「完全返還」を求めたのです。しかし、この願いは金刀比羅宮には聞き届けられません。その後も何度か返還の動きがあったようですが返還にはつながりません。
 戦後の返還運動は「崇徳天皇八百年御式年祭(1964年)」後の翌年のことです。
この際は、松山青年団が中心となって1965年9月7日付けで、金刀比羅陵光重宛に「白峯山上崇徳天皇御霊前の宝物返還についてお願い」を提出しています。 これ対し金刀比羅宮は、1898(明治31)年に頓証寺堂宇を白峯寺に引き渡した際に、所属の宝物と仏堂仏式に属する什宅については同時に引き渡したと言う内容の回答を行っています。両者の言い分は次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。こうして、百年以上経ったいまも金刀比羅宮蔵となってます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」
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松平頼重

そのような中で水戸藩からやって来た髙松藩初代藩主松平頼重は、独自の宗教政策を次々と打ち出し、「崇徳上皇慰霊の寺」である白峯寺にも手を差し伸べてきます。松平頼重の寺社保護政策を最初に挙げておきます。
①金毘羅大権現の保護と朱印地化 全国的な寺社への育成
②菩提寺法然寺の造営と社格確保 法然寺を頂点とする新たな寺院階層の形成
③金倉寺・長尾寺・根来寺などを、智証大師の天台宗への改宗と保護  真言勢力への牽制
④姻戚関係にある浄土真宗興正寺派の保護
有力な寺社を保護し、配下に置くことが治政安定につながることを知り尽くした上での「選択的寺社保護政策」です。そのような中で、松平頼重が白峯寺にどんな保護支援を与えたのかを年表化して見ておきます。
寛永20年(1643)  頓證寺の再興  崇徳上皇慰霊
万治 4年(1661)  千然阿弥陀堂を建立寄進。
維持料として北条郡(綾郡北部)の青海村の北代新田免10石を寄進。
延宝7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝8年(1680) 子・松平頼常とともに崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿を再建立
元禄2年(1689)  崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納(『松平頼重伝』)。
ここからは、松平頼重が白峯寺に対して継続的支援を行っていたことが分かります。これは金毘羅大権現や根来寺・長尾寺に対する頼重の支援ぶりと共通します。政治的意図を持って、継続的な支援が行われ、時と供に伽藍が整備されていきます。そして周囲の宗教施設に比べると、格段に立派な伽藍が姿を見せるようになるのです。そして次に、長尾寺や根来寺では、そこに安置する仏像群まで奉納しています。ただ寺領を寄進するのではなく、伽藍の完成形を見通した上での支援活動なのです。目に見える形での支援で、庶民の関心を惹きつけることになります。それが庶民の目を惹き、信仰心を集めることにもつながって行きます。これだけの伽藍が整備された寺院は当時はなかったのです。松平頼重の支援を受けた寺院は、一歩先んじた伽藍や堂宇を持ったことになったことを押さえておきます。

白峯寺には、歴代の高松藩藩主の残した棟札が数多く残されています。
その中で、初代の松平頼重に次いで多いのが五代藩主松平頼恭の棟札です。頼恭(よりたか)は、製塩・製糖などの殖産興業に尽力した高松藩中興の藩主とされます。彼は熊本藩主細川重賢と並ぶ博物大名の一人で、1760年代後期頃には、絵師三木文柳に『衆鱗図』(二帖)などの魚の図譜などの編集を平賀源内に命じたことでも有名です。
香川県立ミュージアム 春の特別展 「自然に挑む 江戸の超(スーパー)グラフィック-高松松平家博物図譜-」 |イベント|かがわアートナビ
松平頼恭の残した『衆鱗図』などの図版類
頼恭の名前の入った白峯寺の棟札は、寛延3年(1750)のものが多いようです。この時に、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵工社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺があります。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。宝暦13年は崇徳院回忌600年に当たっていました。それにむけた伽藍整備計画が頼恭の支援の下に進められていたようです。この他にも、高松藩主の名前が棟札には見えるので、高松藩が白峯寺に対して一貫して保護を与えていたことはまちがいないようです。
 松平頼恭は、白峯寺に参詣も行なっています。
 崇徳院六百年回忌が行われる直前の宝暦13年(1763)2月には、それまでの伽藍整備の成果の確認のためでしょうか、白峯寺を参拝しています。この時には、林田村から登山し、崇徳上皇霊宝所・頓証寺・大権現を参拝しています。帰りは国分遍路坂を下って、国分寺へ立ち寄っています。その2年後にも参詣したといい、頼恭は頻繁に白峯寺を訪れたようです。そうしてみると先ほどの頼恭による一連の「白峰修復事業」は、崇徳院六百年回忌に向けた準備であったことが裏付けられます。
 このように白峯寺は高松藩との関係が深く、正月・五月・九月に高松城で高松藩主に対する「御意願成就」「御武運長久」の祈祷も行っています。高松藩の祈祷所として、白峯寺のほかに阿弥陀院(石清尾八幡宮別当)があり、高松城で大般若経の読誦を行っいまします。

 幕末の文久3年(1863)写の「御上丼檀那質祈千壽帳」には、江戸幕府将軍家、水戸藩、高松藩主、その他の大名たちや藩主一族、家臣たちの祈疇を行ったことが記されています。また藩主の厄年や、幕府から命じられた藩主の京都への使者の際にも、「安全之御祈疇」が行われています。
白峯寺境内の西北隅には、崇徳上皇の陵があります。
そのため崇徳院回忌の法要が古くから行われていたようです。その際に奉納された和歌・連歌・俳諧・漢詩などの文芸が白峯寺には、数多く残されています。
 近世に入ってからの崇徳院回忌と白峯寺との関係は、中期まではよく分かりません。六百回忌に際して、宝暦13年(1763)3月に、松平頼恭が崇徳上皇陵に石燈籠2基を寄付することになります。その場所について崇徳院回忌の行事の邪魔にならないようにと、高松藩と白峯寺の間で協議しています。その結果、初代藩主松平頼重が陵外の玉垣内に寄付していた石燈籠を、陵内へ移してその後に新しい石燈籠を立てることにしています。崇徳院回忌の行事の妨げにならないようにとあるので、それまでにも回忌法要が行われていたことがうかがえます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1847年)2
白峯寺(讃岐国名勝図会(1853) 白峰寺西北の崇徳上皇陵

宝暦13年の崇徳院回忌六百年に向けた準備過程を見ておきましょう。
白峯寺は明暦4年(1658)に仁和寺の末寺となっていまします。そのため宝暦13年正月に次のことを仁和寺に願いでています。
①2月26日より本尊・霊宝等の「開帳」
②8月26日の法楽曼供執行
また前年10月には、寺社奉行へ2月26日から4月18日までの50日間の開帳を願い出ています。そして開帳の建札を次の場所に建てることが許可されます。
城下では西通町・常磐橋・塩屋町・田町・土橋の五か所
郷中では鵜足郡宇足津、那珂郡四条村・郡家村、三木郡平木村、寒川郡志度村の各往還
「閉帳」前の2月14日には高松藩主からの奉納物が届けられ、崇徳院の御宝前へ供えられます。

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高屋神社(旧崇徳天皇社 坂出市高屋町)
七百年回忌は、文久3年(1863)8月26日に曼茶羅供執行が行われています。
この時には回忌の3年前の万延元年6月に、同忌が近づいてきたのに高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままであるとして、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。これが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。
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高屋神社(坂出市高屋町)
 
崇徳院の旧地として、白峯寺が主張していた場所に鼓岡と雲井御所があります。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図(江戸初期)に記された雲井御所と鼓丘

宝暦13年(1763)に、鼓岡の村方から提出された書付をみて白峯寺は、「御廟所同前之古跡」であるとして、鼓岡村の支配ではなく白峯寺による管理が望ましいとの意見を寺社方へ申し出ています。これから約70年後の天保5年(1834)には「府中鼓岡雲井御所由緒内存」を白峯寺は提出し、その中で「何分時節到来不仕」と再度提出しているので、白峯寺の主張は認められなかったようです。そのために「由緒内存」で、再び「当山支配」とすることを願い出たようです。ここからは江戸中期後に、白峯寺が「崇徳天皇御廟所 政所」としての自覚を高めていることがうかがえます。この結果、雲井御所の地については、免租となって番人を置くことになります。当時の9代藩主松平頼恕は、自ら碑文を書き、「雲井御所碑」を建てています。この時に鼓岡についても、何らかの措置がとられたようです。

2022年 雲井御所跡の口コミ・写真・アクセス|RECOTRIP(レコトリップ)
雲井御所碑(坂出市)
雲井御所
かつての雲井御所石碑と林田邸
後ろは林田氏邸宅、林田氏の本姓は綾氏で、生駒時代は林田村の小地頭、松平頼重の人国の時には、大政所。

 文化3年(1806)に頓証寺の境内が狭いため埋め立て造成計画が出されます。
「別而近年参詣人等多、混雑仕る」として、拝殿の西の御供所裏通りから南の番所にかけての約40間の長さに渡って5,6間の谷筋を埋立てる内容です。研究者が注目するのは、これを提案したのは白峰寺ではないことです。阿野郡北の氏子たちが農業の手隙に、ボランテイアで行いたいと願いでているのです。白峯寺はこれを、「参詣人群衆之節、混雑も不仕」と付帯して、寺社奉行へ取り次いでいます。
 しかし、この時には髙松藩の認めるところとはならなかったようです。そのため翌年には造った後の道の修覆も自力で行うとして、再度願い出ています。この道の修覆については「修覆留」が作成されているので、この時に道が造られたと研究者は考えています。(「白峯寺諸願留」7-5)。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
崇徳上皇陵と頓證寺と勅額門(讃岐国名勝図会部分拡大図)

 文政5年(1822)になると、頓証寺の勅額門の外手にある燈籠の前に、石燈籠を二基建立したいと申し出た「施主共」がいるとしてその建立願いがだされます。さらに10年後の天保4年(1833)には、同じく勅額門の外の獅子一対の建立願いが「心願之施主共」から出され、いずれも白峯寺は寺社方へ願い出て許可されています。(「白峯寺諸願留」7-9)。
 19世紀になると、十返舎一九の弥次喜多コンビの参拝記も出版され、金毘羅参拝客が急速に増加します。富裕な参拝者たちは、石段や玉垣、灯籠を奉納し、境内は石造物で埋まっていったことは以前にお話ししました。こんな景観を見たことのない庶民は、石の境内を見たさに金比羅を目指すようになります。そのような石造物寄進の流行が周辺寺院にも及ぶようになります。白峯寺もご多分に漏れず、19世紀になると富裕層が灯籠・狛犬などの石造物を寄進するようになります。
 白峯寺 六十六部の納経帳
 六十六部の納経帳に記された白峯寺の「肩書き」変遷
近世後期になると、白峯寺は納経帳にも自らの呼称を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と記すようになります。
  自らの存立基盤を崇徳院陵とのつながりの中に求めようとする意識が白峰寺内部でも高まったことがうかがえます。もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししまします。しかし、これも白峰寺と頓證寺の一体化という視点で見れば、なんら不思議なことではないのかも知れません。
 同時に、このような白峰寺の教導の結果、周辺の「氏子」や「施主共」が積極的に頓証寺などの境内整備に参加するようになっていることが分かります。白峯寺への信仰、崇徳上皇信仰が民衆へ浸透していっていることを物語るものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①髙松藩初代藩主松平頼重は、計画的継続的に白峰寺の伽藍整備を支援した
②5代藩主松平頼恭は、崇徳院六百年回忌を期に、白峯寺境内の伽藍整備を進め、自らその視察も行っている。
③髙松藩の支援を受けて、崇徳上皇回忌ごとに伽藍は整備された。
④そのような中で、白峯寺は自らの存立基盤を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」に求めるようになり、中世の故事をもとにさまざまな主張を行うようになる。
⑤周辺の庄屋や有力者も「崇徳天皇御廟所」である白峰寺を支援するようになり、崇徳上皇信仰は拡がりをみせるようになる。
ある意味これは、松平頼重のねらい通りのことだったのかもしれません。頼重の打った齣は、時を置いて大きな効果を持つようになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 (白峯寺蔵)
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、長寛2年(1164)8月、当地で生涯を閉じます。白峯寺の寺域内西北の地に崇徳上皇の山陵が営まれ、これを守護するための廟堂として頓證寺(御影堂・法華堂ともよばれる)が建立されます。この頓證寺の建立が、白峯寺の歴史にとって大きな意味を持つことになるのは以前にお話ししました。

白峰寺伽藍配置
現在の白峰寺の境内配置図(現在の本坊は洞林院)
 ここまでの白峯寺は、同じ五色台にある根来寺と同じように、山林修行者の「中辺路」ルートの拠点としての山岳寺院でした。それは弥谷寺や屋島寺などと性格的には変わらない存在だったと私は考えています。それが崇徳上皇陵が境内に造られることで、大きなセールスポイントを得たことになります。これは中世の善通寺が「弘法大師空海の生誕地」という知名度を活かして「全国区の寺院」に成長して行ったのとよく似ているような気もします。善通寺は空海を、白峯寺は崇徳上皇との縁を深めながら、讃岐のその他の山岳寺院とは「格差」をつけていくことになります。今回は、頓證寺と白峰寺の関係に絞って、見て行くことにします。テキストは     「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
です。

 最初に確認しておきたいことは白峰御陵の附属施設として建立された「崇徳院御廟所」は、厳密に云うと頓證寺だということです。そして、次のように頓證寺と白峯寺は同じ寺ではなく、もともとは別の寺であったということです。
白峯寺=修験者の中辺路ルートの山林寺院
頓證寺=崇徳上皇慰霊施設
二つの寺は、建立時期も、その目的もちがいます。
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頓證寺殿
頓證寺は何を白峰寺にもたらしたのでしょうか。第1に経済的な基盤である寺領です
 中央政府や都の貴族たちが寄進を行うのは頓證寺であって、もともとは白峰寺ではなかったようです。それが白峰寺と頓證寺が次第に一体化していく中で、頓證寺の寺領管理を白峯寺が行うようになります。

白峰寺明治35年地図
白峰寺の下の郷が松山郷
『白峯寺縁起』によれば、次のような寺領寄進を受けたと記します。
①治承年間(1177~81)に松山郷青海と河内
②文治年間(1185~90)に山本荘
③建長5年(1253)に後嵯峨上皇によって松山郷
しかし、この記述に対して研究者は、いろいろな疑義があると考えていることは以前にお話ししましたのでここでは省略します。本ブログの「四国霊場白峯寺 白峯寺が松山郷を寺領化するプロセス」参照
白峯寺 千手観音二十八部衆図
千手観音二十八部衆像(白峯寺)
 暦応5年(1342)の鐘銘写には「崇徳院御廟所讃州白峯千手院」との銘文があります。
この千手院は千手院堂ともよばれ、後嵯峨上皇の勅願所になったとされます。先に寄進された松山荘は千手院堂の料所であったとも伝えられます。白峯寺の本尊が千手観音であることを思えば、この千手院は白峯寺の本堂のことだと研究者は考えているようです。頓證寺に寄進された松山荘が、この千手院堂の料所となっているのは、頓證寺と松山荘が、どちらも白峯寺の管理下になっていたためでしょう。ここからは、14世紀半ば頃には、廟所としての頓證寺が白峯寺と一体化していたことがうかがえます。ある意味で頓證寺が白峰寺にのみ見込まれていったというイメージでしょうか。こうして「廟所としての白峯寺」というイメージが作り出されていきます。
南海流浪記- Google Books
道範の南海流浪記
 建長元年(1249)に、高野山の党派抗争で讃岐に流されていた道範が8年ぶりに帰国を許されることになります。その際に、白峯寺院主に招かれて白峯寺に立ち寄っています。そして白峯寺を「南海流浪記」に次のように記します。

此ノ寺(白峯寺)国中清浄ノ蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟

ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代にはすでに「廟所としての白峯寺」というセールスポイントが作り出されていたことがうかがえます。建立された頓證寺が寺僧集団をともなっていたかどうかは、史料的には分かりません。しかし、隣接する近い仲です。頓證寺と白峯寺との関係が密接になる中で、しだいに頓證寺の法会等にも白峯寺僧が出仕するようになったことは考えられます。
 
白峯寺 四国名所図会
白峯寺(四国遍礼名所図会)

 これについて山岸常人氏は、次のように指摘します。

白峯寺が13世紀中期以降は、頓証寺の供僧21口を構成員とする新たな寺院に転換したと言えよう。頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)をも継承した

 頓證寺が中央政府によって建立されて以後、白峯寺と頓證寺との一体化が進んだのです。
そして建長4(1252)年の段階では、白峯寺と頓證寺は法会を通じて分かちがたく結びついたと研究者は考えています。しかし、あくまで前面に立つのは頓證寺であって、白峯寺ではなかったようです。「十一日の供僧勅請として、各十一通の御手印の補任を下さる」というのも事実かどうかは分かりません。しかし、そうした主張ができるのは廟所である頓證寺だからこそできることです。こうして21院を、白峰寺の院主が統括するというスタイルで一山は運営されていたと研究者は考えています。
 以上をまとめておくと、
①千手院を中心とする中世の白峯寺は、実質的に頓證寺と一体化し、それによって廟所を名乗るようになった。
②ただし表に出るのは頓證寺の方であったので、頓證寺の供僧集団が白峯寺を吸収し、継承したとみることもできる。
③どちらにしても白峯寺と頓證寺とは、それぞれ別に存在して両者を補完する関係にあった
④それを示すかのように、戦国期の如法経供養は千手院と頓證寺のそれぞれで行われた

こうして 「崇徳上皇の廟所 + 中辺路修行の山岳寺院 + 安定した寺領と経済力」という条件の備わった中世の白峯寺は多くの廻国の聖や行者を集め、活動の舞台を提供する寺になります。僧兵集団も擁していたと考える研究者もいます。このような状況が21もの子院の並立を可能にする背景だったのでしょう。その結果、一山寺院として衆徒や聖などの集団が、念仏阿弥陀信仰や時衆信仰、熊野信仰などなどの布教活動を周辺の郷村で行うようになります。

 白峰寺の頂点は前回見たように院主でした。しかし、子院の中でも洞林院のような有力なものもあらわれています。
洞林院は戦国時代には衰退したこともありますが、慶長期になると秀吉の命で讃岐国守として入部した生駒氏の保護のもとで、別名が白峯寺再興の役割を果たします。別名は、生駒氏の支持を受けて山内での勢力基盤を強化します。その結果、洞林院が山内の中心的な位置を占めるようになります。現在の本坊にあるのは洞林院ということになります。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:
幕末の絵図 金毘羅参詣名所図会には本坊に洞林院が描かれている。


以上をまとめておきます
①古代の白峯寺は、五色台を行場とする山林修行者の行場のひとつから生まれた。
②律令国家の下で密教が重視されると国分寺背後の五色台に、山林寺院が整備されていく。そのひとつが白峯寺や根香寺であった。
③12世紀後半に崇徳上皇陵が白峰山に作られ、廟所・頓證寺が建立されたことが白峯寺にとっては大きな意味を持つことになる。
④頓證寺に寄進された松山荘は、実質的には白峯寺の管理下にあって経済基盤となった
⑤鎌倉期以降、白峯寺と頓證寺との一体化が進展していく。
⑥中でも鎌倉中期に頓證寺に21の供僧が設置されたことが白峯寺にとって重要な意味をもった。
⑦ここに白峯寺と頓證寺とが法会を通じて分かちがたく結びついた
⑧白峯寺と頓證寺とは、それぞれが補先する関係にあり、その関係は中世を通じて継続した

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
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崇徳上皇 | 日本の歴史 解説音声つき

崇徳と後白河の兄弟間の権力闘争は、江戸時代までは読み物や歌舞伎などでも赤裸々に語られていました。しかし、明治以後の皇国史観の下では、二人の間の確執を取り上げることは不敬罪に問われる可能性もあり、タブー化します。戦後も郷土史家間には、この流れに抗う動きがなく、両者の間のことをきちんと史料を裏付けて各町村史誌に記す動きがなかなか出てきませんでした。そんな中で、昨年末に出された坂出市史通史中世は、この点に問題意識を持って取り組んだ内容となっています。坂出市史をテキストにして、崇徳上皇没後の後白河上皇の対応と慰霊について見てみましょう。それは、ある意味で白峰寺の歴史に迫ることにもつながると思うからです。

崇徳上皇と保元の乱

崇徳上皇は、保元元( 1156)年、保元の乱の敗北で讃岐へ配流となります。このとき崇徳上皇は罪人として扱われたことは、後白河天皇が発した宣命(石清水八幡官蔵)からも明らかです。長寛二(1164)年に、崇徳上皇が亡くなったときにも「後白河太上皇無服暇之儀」とあり、後白河上皇は喪服にも服していません。兄崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。もう過去の人として、意識の外に追いやっていたと私は考えています。
 讃岐の郷土史関係の書籍は、この点を無視して没後の崇徳上皇が、朝廷の指示に基づいて丁重に白峰に葬られたとするものが多いようです。しかし、私はこれには疑問を持ちます。後白河天皇の兄追放後の措置や、没後直後の対応を見ると御陵造営を指示したとは思えないのです。

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崇徳上皇白峰陵

崇徳上皇の陵墓は、五色台山塊の白峰山(松山)に造営されます。
今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。国衛(留守所)役人の手で葬られたとされます。しかし、後白羽上皇や朝廷からの指示がない、というよりも中央から無視されたのです。そのために、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で、山岳宗教の拠点であった白峰寺に埋葬されたと坂出市史は記します。

白峯本堂、崇徳天皇御廟第五巻所収画像000008
白峯寺

 保元の乱後に崇徳上皇に従って、共に讃岐に下った兵衛佐は、上皇が亡くなり役目を終えて京都へ帰還することになります。その時に彼女が詠んだ歌が『玉葉和歌集』に、載せられています。
崇徳院につき奉りて讃岐国に侍りけるを、
かくれさせ給いにければ都に帰りのばりけるの後、
人のとむらいて侍りける返事に申しつかわしける

君なくて かえる波路に しをれこし 袖の雫を 思いやらなむ
と、その心情を歌つています。ここからせめて遺灰なりとも持ち帰りたかったようですが、それもかなわなかったことがうかがえます。ここでは崇徳上皇の白峰への埋葬は、後白河上皇の意向を受けて「薄葬」であったことを押さえておきます。
白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 白峰寺蔵

郡衙の在庁官人は、どうして白峰に埋葬することにしたのでしょうか?
白峰山には、白峰寺が崇徳院陵墓が造られる前からありました。近年行われた文化財調査によると、白峰寺の十一面観音菩薩立像は平安時代中期、不動明王坐像は平安時代後期の作とされています。つまり、これだけを見ても白峯寺(あるいはその前身となる寺院)が、崇徳上皇が流されてくる平安時代末期には存在したことが分かります。
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白峰寺奥の院への道(奥の院の断崖の上の灯籠)
白峰寺の複数同木説と山岳寺院としての性格 
応永14(1406)年の年紀をもつ『白峯寺縁起』には、弘法大師空海が寺の建設をこの地を定め、智証大師円珍が山の守護神の老翁に会い、10体の仏像を造立し、49院を開いたと記します。空海は真言宗の開祖、また円珍は天台宗寺門派の祖で、どちらも讃岐出身です。これら10体の仏像のうち、四体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置されたと記します。ここには円珍が同木から複数の仏像をつくり、関連寺院に安置したとする複数同木説が掲げられています。現在の白峯寺は真言宗に属しますが、中世の白峯寺は真言一辺倒でなく天台の要素も濃厚であったようです。「白峯寺縁起」に「空海の開基、円珍の再興」の寺院と記されているのも中世の真言と天台の混淆・共存関係を示す物かも知れません。

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白峰寺奥の院毘沙門窟
五色台にある他の寺院を見ておきましょう 
 白峰寺と同じ木から彫られた仏像が安置されたという根香寺は、五色台の青峰の山頂東側にある山岳寺院です。吉水寺は近世に無住となり退転しましたが白峯寺と根香寺との間にあった山岳寺院です。残りの白牛寺は、「白牛山と号する国分寺」のことと研究者は考えているようです。この4つの寺院は山岳寺院のネットワークで結ばれていました。

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白峯寺奥の院に下りていく石段
 密教の隆盛と共に山岳修行が僧侶の必須項目になると、国家や国衙も僧侶の山林修行のゲレンデを整えていきます。それが那珂郡の霊山大川山をゲレンデとする中寺廃寺であり、五色台をゲレンデとする「白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺(国分寺)」でした。4つの寺は、五色台の小辺路ルートの拠点として整えられたようです。そういう意味では、白峯寺をはじめとする五色台の山岳寺院は、国分寺や国府と創建当初から関係を持っていたのかもしれません。

白峰大権現

五色台には、熊野行者など修験者(山伏)の活動がうかがえます。
稚児の滝とその上の霊場、そして奥の院から岬の突端の行場などは、修験=山伏たちの修行ゲレンデだったようです。そして、根来寺との間では、何度も往復辺路する小辺路修行が行われていました。つまり、五色山そのものが霊山で、修験者にとっては聖地だったのでしょう。それが古代の山岳寺院としての白峰寺の姿だったと私は考えています。

白峯 解説文入り拡大図
白峰寺古図
崇徳上皇の陵墓管理のことを考えると、国分寺の奥の院的な存在である白峰寺に委託するのがいいと国府の在庁官人たちは判断したのかも知れません。こうして白峰山に崇徳上皇は葬られます。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なものだったようです。

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崇徳上皇の怨霊が怖れられるようになるのは、崇徳没後13年後の安元2(1176)年になってからのようです。
三条実房の口記『愚味記』(陽明叢書)の安元三(1177)年五月九日条には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)こと、沙汰あるべきこと、相府(藤原経宗)示し給いていわく、讃岐院ならびに宇治左府こと、沙汰あるべしと云々、これ近日天下悪事、かの人等の所為の由疑いあり、よってかのことを鎮められんがためなり、無極人事なり、
  意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)ことについて、
相府(左大臣藤原経宗)は、最近の「天下悪事」は、崇徳上皇と藤原頼長の崇りによるもので、それを鎮めることが極めて重要なことであると実房に語った。
左大臣が保元の乱で敗れた崇徳上皇と藤原頼長のタタリを怖れ、その対策を最重要課題であると認識していたことが分かります。3日後の5月13日条には、上皇と頼長の怨霊対応について後白河院より蔵人頭藤原光能を通じての諮問が次のように記されています。
讃岐院・宇治左府間こと、
相府示し給いていわく、讃岐院ならびに左府間等こと、昨日、光能をもつて仰せ造わさるなり、頼業・師尚勘文下し給うなり、また去年用意のため、かの両人ならびに永範卿・師直等に仰せ、勘がえ儲けせしむるなり、
意訳変換しておくと
相府(左大臣藤原経宗)は、讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)について、昨日光能から報告があった。これについては昨年に清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じておいたものである。

 ここからは文中に前年の安元2(1176)年に太政官の事務官である外記の清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じていたことが分かります。讃岐での現地調査などを経て、報告書が提出されたようです。怨霊を後白河院が意識しはじめたのも、この報告書の提出を命じた前年のことであったようです。同時に、朝廷は讃岐において崇徳上皇がどのように葬られていたかについて、なにも知らなかったことが分かります。崇徳上皇没後の扱いについては、後白河上皇の無関心に対応して、朝廷はノータッチだったことが裏付けられます。

         和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り                    
西行
鳥羽院時代に北面の武士で、崇徳上皇とは近い関係にあったのが西行です。
彼は23歳で出家し、久安4(1148)年頃に高野山に入り聖となり、仁安3(1168)年に中四国へ辺路修行のための途上に、白峰のやってきます。旧主であり、共に歌会で興じた崇徳院の墓所松山(白峰陵)を訪れ、その霊を慰めるためです。『山家集』には、当時の白峰陵墓の粗末さや荒廃ぶりが描かれています
後白河法皇 (@kSucBeGdxqvRINP) | Twitter
後白河上皇

後白河上皇が兄の崇徳上皇の慰霊について、関心を持つようになったのはどうしてなのでしょうか
安元2(1176)年には、後白河院周辺の人物が相次いで亡くなります。
6月13日 鳥羽上皇の娘で、二条天皇の中官となった高松院妹子が30歳で没、
7月 8日 後白河院の女御で高倉天皇の生母建春門院平慈子が35歳で没
7月17日 後白河の孫六条院が13歳で没
8月19日 藤原忠通の養女で、近衛天皇の中宮となった九条院呈子が46歳で没
この状況について『帝王編年記』(『新訂増補国史大系』)は次のように記します。
「三ケ月の中、院号四人崩御、希代のことなり」

近親者の相次ぐ死は崇徳上皇と頼長の怨霊に対する恐怖を後白河院に生じさせます。それを決定付けたのが翌年治承元(1177)年の京都大火による大内裏の焼亡でした。これらを崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のしわざと、後白河上皇は恐れるようになります。

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山田雄司氏は『崇徳院怨霊の研究』の中で、両人の怨霊が取りざたされることになった最大の要因は、大極殿が京都大火により焼失してしまったことにあるとします。そして、怨霊を最も意識するようになったのが後白河院であったと指摘します。

『愚味記』治承元(1177)年五月十三・十七両国条には、その対応策が次のように記されています。
(五月十三日)讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)間こと、(前略) 昨日下し給うの勘文等、 一々見合いの由仰せ義あり、在知の旨は讃岐院においては、成勝寺国忌を置かれ、八講を行せらる。また讃岐御在所において同じく追善を修すべきか、また左府においては、贈官位あるべきか、しかれば太政大臣は、その子師長すでに任じ候、よって正一位・准三宮を贈る、(中略)惣じてかの両人のため、もつとも追善を修せらるべきか、
意訳変換しておくと
 (前略)昨日提出された調査報告にもとづいて対応策が次のように協議された。
讃岐院(崇徳上皇)については、成勝寺に国忌を置き、法華八講を行うことで、歴代天皇と同じように崇徳上皇の菩提を慰霊すること。また讃岐でも御在所(上皇墓所)においても同じように追善を行う事。また左府(藤原頼長)については、官位を改めて贈り、子師長には正一位・准三宮を贈る、(中略) 両人のための追善を行う事。
追善を行う事で怨霊を鎮める方針が確認されています。
具体的な対応策は4日後の5月17日に次のように示されました。
讃岐院ならびに宇治左府こと、明日奏せしむべしと云々、今日すでに書を請け候、院五ヶ事、左府四ケ事と云、(中略)
讃岐院事
一 かの御墓所をもつて勅し山陵と称し、その辺堀埋し汚穢せしめざれ。また民烟一両を割分し、御陵を守らしむること
一 陰陽師を遣わし、山陵を鎮めしめ、同じく僧侶を遣わし経を転ぜしむること
一 国忌を置かるること
一 讃岐国御墓所辺、一堂を建て三昧を修すること
  宇治左府事については略
漢家の法、あるいは社櫻を立て、祭祀をおこなうの例有り、もしくはその告有り、かの例に随うべきかと云々、戸主の腋ならびに評定の詞等、その状多くして忘却す、よってこれを記さず尋ね申すべきなり、多くは外記勘文に付け先例を注出せらるなり、院御事は崇道天王の例多くこれを載す、
意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
① 白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。御陵を守るための陵戸(専属墓守)を設ける。
②陰陽師と僧侶を現地(讃岐)に派遣して鎮魂させる。
③ 崇徳上皇の国忌を定めること。
④ 讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
ここには、崇徳上皇と藤原頼長への具体的な朝廷の対応が挙げられています。4番目の国忌とは天皇や先帝、母等の命日を、政務を止めて仏事を行うこととした日のようです。朝廷では、この日に寺院において追善供養を行い、日程が重なる神事は延期されていました。 後鳥羽上皇から無視されていた崇徳上皇の霊を、以後は普通に扱おうとする内容です。

崇徳上皇白峰陵

ここで注目したいのが、崇徳院の墓所についての対応です。
1番目の項目に「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた山陵は、現地の国司や在庁官人によって設計・築造されたもので、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。

崇徳上皇白峰陵3

治承元(1177)年に決定された山陵・廟所の建立計画は、朝延内で論議されたままで立ち消えになってしまします。それは、平清盛による後白河法皇の幽閉というクーデターのためです。これによって後白河院政は停止され、崇徳院怨霊対策も頓挫してしまいます。崇徳上皇怨霊対策が再度動き出し始めるのは、養和元(1181)年2月に、清盛が亡くなり源平合戦で平氏が都落ちした後のことになります。

先に決まっていた白峰山陵に附属の「一堂」を建設する計画は、14年後の建久三(1191)年になって再び動き始めます。
このころから後白河上皇は原因不明の病気に苦しめられるようになります。これも崇徳上皇の怨霊のしわざと考えたのでしょうか、停止されていた堂の建設計画が実現に向けて進み始めます。『玉葉』建久3年12月28の記事には「崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給うべし」とあるので完成した仏堂は、「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたことが分かります。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峯山古図
 白峰寺蔵『白峯山古図』にも崇徳院陵の脇に「御影堂」が記されています。この御影堂には官符が給され維持経営されることになります。そして、京都春日河原に建立された崇徳院廟は、後に粟田官と名付けられると共に、白峰と同じ名前の崇徳院御影堂が付随して建てられます。後白河法皇は、建久3年3月13日に亡くなっています。
白峰寺に朝廷の手によって初めて建立されたお堂は、決して大きなものではありませんでした。
ところが「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたお堂の威光は、年を経るに従って輝きを増していくのです。そらが崇徳院の御陵を供養・管理しているのは白峯寺であるという存在証明になります。また、歴代天皇の亡骸を埋納した墓所の内、畿内以外では唯一の地方にある御陵を守護する寺でもありました。「白峰寺=特別な寺=権威ある寺」という意識を、人々に広げていくことになります。これが白峰寺の中世における発展の基礎になったと研究者は考えているようです。
相模坊
白峰寺の天狗 相模坊
 しかし、それだけではありません。白峰は天狗の山として、天狗信仰の中心地でもあったのです。もし、崇徳上皇の怨霊が現れなければ、白峰の中世の繁栄があったかどうかは分かりません。崇徳上皇の怨霊が天狗化することで、天狗=山伏(修験者)となり、白峰寺は隆盛を向かえることになったのかもしれません。そうだとすると、それを企画したプランナーがいたことになります。

以上をまとめておくと
①白峰寺は、古代の山岳寺院として出発した。
②それは五色台を行場とする国分寺や根来寺などの山岳寺院のネットワークの拠点の一つとして整備された。
③古代の山岳寺院を担ったのは、密教系の修験者以外にも、熊野行者・高野聖・六十六などの廻国行者であった。白峰山は、彼らの活動拠点であった。
④崇徳上皇没後に、讃岐国府の在庁官人たちは山陵を白峰山に造ることにした。
⑤この山陵は、歴代天皇のものに比べると規格外に粗末な物で、これには後白河上皇や朝廷は関与しなかった。
⑥しかし、都で崇徳上皇の怨霊さわぎがおこると、対応策として追善慰霊が決定された。
⑦それが陵墓の整備・墓守設置・一堂建設などであった。
⑧こうして白峰寺は「崇徳院讃岐国御影堂」を持つ追善の寺として認識されるようになる。
⑨寄進された周辺荘園を寺領化し、経済的な基盤を整えた白峰寺は大寺院へと成長して行く。
⑩その担い手は、修験者たちであった。
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峰寺 讃岐国名勝図会(1853年)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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