
「上人の御船と知って、やって来ました。私は乱世の中で遊女に身を落としてしまいました。この罪深い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。
「今の職業を捨てることも難しいようだ。その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そなたのような罪人も救ってくさだる。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」
この言葉に対して遊女は、随喜の涙を流したとあります。しかし、このシーンについては、いろいろと疑問があります。海の上です。船から大声で交わすような会話ではありません。格式を重んじる遊女が行う行為ではないという研究者もいます。しかし、法然の姿を消してみれば、この場面は別の意味をもってきます。それは入港してきた船に遊女がこぎ寄せて名乗りを行っているシーンだと研究者は指摘します。そこで歌われていたのが、綾子踊の10番目の塩飽船です。

登場するのは塩飽舟 堺船 多度津船です。それぞれの船が入港すると、迎える遊女の名告りシーンが詠われています。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりがこの「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。もう少し詳しく見ておきましょう。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世の吉原だと「禿、大夫、遣手」でしょうか?
①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」
②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。
③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。彼女たちは吉原の花魁のように、格が高くプライドを持っていました。入港してくる船を、遊女が小唄でが出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。以上を整理しておきます。

綾子踊歌の中の1番「水の踊り「「四国船」「たまさか」「六調子」「塩飽船」などは、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。港での船頭と遊女のやりとりが小唄として歌われ、瀬戸内海の航路ネットワークで、仁尾や多度津、宇多津などの中世の各港に拡がっていったことがうかがえます。
遊女達の名乗りのシーンをもう一場面見ておきましょう。
室津の前の高砂の場面です。法然がやってきたということで、港近くの家に多くの人が集まってきています。法然の説法が終わると②③の老翁と老女の夫婦が、手を合わせ泣きながら次のように問います。
我たちは、この浦の海人(漁師)で朝夕に魚を獲って生業としてきました。生けるものの命を奪う者は、地獄に墜ちて耐えがたい苦しみ受けると聞きました。これを逃れる道はないのでしょうか。どうしたらいいの、どうぞお助けください
上人は次のように教え導きます
あなた方は多くの人びとの役に立っています。南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の悲願で浄土で往生できます。
私が気になるのが浜辺の船です。ここには石垣や岩壁、倉庫などのような港湾施設のようなものは見当たりません。砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているだけです。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、中世にはそのような施設もなかったようです。
こちらは兵庫湊 平清盛によって開かれた港 現在の神戸です。こちらも港と云っても港湾施設はなにもありません。船は砂浜に乗り上げられています。ここでも室津と同じように、入港してきた船に三人一組の遊女船がこぎ寄せています。そして、先ほど見たように、互いに名のりあいをして相手を確かめた上で、若と小が乗り移ります。拡大して見ましょう。
船には楯が並べられているので軍船のようです。乗り移った若が謡ったうのが「たまさか」です。たまさかというのは、スナックでママの「おひさしぶりね 長い間やってこないでつれないわね」という挨拶のようなものです。●古代は男の通い婚でした、中世にもそれの慣習は残っていました。ひさしぶりにやってきた男を、なじりながら迎えて宿に誘引します。そんな場面で歌われたのがたまさかです。
2番は、今夜のしとねです。●読む 今夜のしとねは、寺の菜の花畑の中です。 ふらふらと久しぶりに男はやってきて一夜を過ごします。気がつくと夜明けの鐘が鳴っています。三番は、せわせわとやってきて、髪が白くなったのにひさしぶりにやってきて、閨をともにします。中世の庶民達は、古代の王朝貴族文化の高貴さとは無縁です。ありのまま欲望や姿があけすけに描かれています。宴席では、このような歌が場を盛り上げていったのです。エロチックからポルノチックになり、そして春歌になっていくのは、いつの時代も変わりないようです。
ここで押さえておきたいのは、このような歌のやり取りが、船頭達によって瀬戸内海の各地の港で謡われていたことです。それが港から後背地の村々に伝えられることになります。仁尾から三豊、多度津・宇多津から丸亀平野へという流れです。この歌詞を訳して、私が思ったのは歌われている内容が、演歌と同じということです。例えば昭和演歌の代表作「港町ブルース」の歌詞をみてみましょう。
そして、演歌のキーワードを並べて見ます
演歌のキーワード
四国船には四国の岬が歌われます。最初に四国の箱の岬、次に阿波の鳴門、土佐の岬(室戸)です。これの岬は海の難所で、船乗りに怖れられていた所です。そこを乗り越えていく船乗り達が「匂いやつす(ほれぼれする)」と歌われます。ある意味では、この歌は遊女達による船頭賛歌かもしれません。これを聞いて、船乗り達は勇気を得たことでしょう。宴席で歌われれば船乗りを勇気づけたはずです。「箱の岬」というの現在の荘内半島のことです。どうして、荘内半島が歌われているのでしょうか? 地図を見てみます。
荘内半島は讃岐の西北から燧灘に突き出た岬です。そして上の3つの航路のジャンクションになります。また燧灘と備讃瀬戸の境になります。東からやって来た船は、粟島や志々島で潮待ち、風待ちして出港していきました。三崎の先には速い流れがあり、大きな隠れ岩(岩礁)もあり、海の難所でもありました。同時に、ここは七宝山から岬の先端にいたる修験者たちの行場でもありました。そんな所には、海の安全を願う神様が勧進されます。それが三崎(岬)大明神(神社)です。
荘内半島(岬)の先端です。先端にあるのが三崎灯台、その沖に沖の岩(御幸石)、三崎灯台の上に鎮座するのが三崎大明神(神社)です。中世は、ここは観音寺や善通寺で修行する修験者の海の行場でもありました。この三崎大明神について、幕末の全讃史は上のように記します。ここからは、三崎大明神が海の神様として船乗りの信仰を集めていたことが分かります。金毘羅大権現が海の神様として信仰を集めるようになるのは近世後半以後です。この神社の役割を以前に、まとめておくと次のようになります。
以上から四国船は、遊女達が船頭達のために歌った応援歌の性格が強いとしておきます。船乗り達が口ずさむようになった歌は、瀬戸の港に拡がっていきます。このように宴席や、港で歌われた小唄が風流踊りとなり、それが背後の村々に、伝わっていくという流れが見えて来ます。それでは、風流踊りを村々に伝えたのは誰なのでしょうか。次回は、それを見ていくことにします。今回は、ここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事
法然上人絵伝NO3 室津で法然が遊女に往生の道を説いたという説話への疑問。




































































![念仏踊り -2022年- [祭の日]](https://i.ytimg.com/vi/GrXUv386Hcg/mqdefault.jpg)

























