金刀比羅宮は、明治まで神仏習合の金毘羅大権現のお山で修験道の山岳寺院としてスタートした由来があります。そのため本宮は、標高524㍍の象頭山中腹に鎮座しますので、そこまで登らなければなりません。そこで整備されたのが石段です。
 金刀比羅宮の石段は、旅館がつづく内町一ノ坂口から大門、大門から本宮、さらには樟やカゴノキ・樫などの常緑樹のに繁る森の間を登り、象頭山8合目に建つ奥社まで続きます。
それぞれの段数は
 内町から大門まで   三六五段
 大門から御本宮まで  四二一段
 御本宮から奥社まで  五八二段
で、合計は1368段になります。以上は上りの参道ですが、本宮から三穂津姫社にまわり旭社に下る下向道も石段です。
  三穂津姫社から旭社までの下向道 一六三段
    旭社の前            九段
以上計1540段の石段は、すべて信者からの奉納です。この中で、重要有形民俗文化財の指定をうけた石段は本宮前の四段坂と睦魂神社前の石段の二ヶ所です。
  本宮前の四段坂の石段は、いつだれが奉納したのでしょうか
5 敷石四段坂1

 闇峠から本宮に登る最後の急坂につくられた石段には(P-1~5)の記号が付けられています。坂の途中にひと息つくために三つのおどり場があり、石段が四段に別れているので「四段坂」と呼ばれています。この階段の「記念碑」を見ると一度に造られたのではなく、4回に分けて作られたようです。

  一番古い一番上段四二段(P-5)の奉納碑文を見てみましょう。

 
5 敷石四段坂2

奉納碑文裏面(左端)に寛政十年(1798)十月吉日とあります。大祭に合わせての奉納だったようです。大坂世話人に但馬屋の名が見えます。正面には「傘の下に中」の記号があり、江戸・上州・京都・奥州・大坂の宰領中からの奉納であることが分かります。
さて宰領とは?
国史事典を引いてみると
荷物を運送する人夫を支配・監督する人々のこと、飛脚問屋仲間をさす。民間の町飛脚が出来るのは江戸時代初めの寛永頃で、当初は、各々の店ごとに書状や荷物の運送を請負った。それが、上方商人が江戸に進出するにしたがって仕事量が増大し、飛脚屋が組合をつくって、相対で営業するようになっていく。寛文四年(1664)には、三都(江戸・大坂・京都)の飛脚屋によって、三都間を毎月三回決まった日に往来する三度飛脚もはじまった。町飛脚がはじまる以前から幕府の経営する継飛脚や、大名が領国と江戸間の連絡をとるための大名飛脚があったが、やがて町飛脚に託するようになっていく。このことは、飛脚屋や御用をうけ、飛脚網が全国にはりめぐらされていたことを示すものである。
 
 どうやらこの石段は全国の飛脚組合のメンバーが、道々の安全を願って奉納されたもののようです。 同時に、この奉納を通じて各地に点在する仲間内の結束を強める狙いもあったのでしょう。
 まとめ役としては、大坂の津国屋十右衛門と江戸の嶋屋佐右衛門が世話人となっています。二人は相仕の飛脚問屋で、大坂・江戸という東西の中心地にあったことから代表者として取りまとめをしたようです。
 この石段は、金毘羅さんの参道で最初に石段化されたエリアだと考えられます。現在に続く石段の起点となる記念碑的なものかもしれません。それが、地元からの奉納ではなく全国的な飛脚ネット組合からのものであったというところが、その後の金毘羅さんの境内整備の方向を示しているようにも思えます。

二番目は、上から二段目の二六段の石段(P-3・4)です。
5 敷石四段坂5

記念石版を見ると、文化八年(1811)6月に土州(高知)から奉納されています。奉納者には、室戸岬の先端に近い、室津浦・浮津浦・吉良川津(現室戸市)の8人の人たちです。
 二段目の石段(P-2)も土佐室戸からの奉納です。

5 敷石四段坂55

上のP3と同じ年の文化八年(1811)十月に奉納されています。
奉納者は先の石段と同じ土州の室戸市の宮地十太夫と奥宮三九郎の二人です。P3とは同年ですがこちらは2人だけでの奉納です。
当時の土佐の捕鯨業のことを調べてみると、次のようなことが分かりました。
江戸時代の初めころから津呂(室戸市)などで行なわれていたが、紀州の熊野浦や西国から捕鯨船が集まってくるようになり、地元の捕鯨業は一時衰退した。そこで、津呂浦の郷士多田吉左衛門は紀州に出向き、網取り法という新しい捕鯨技術を学び、津呂組をつくる。冬は椎名(室戸市)と窪浦(土佐清水市)、・春は津呂浦沖での捕鯨を再興した。この津呂組から分かれたのが浮津組で、宮地武右衛門が管理するようになる。そして津呂組も寛政三年(1792)元浦(室戸市)の庄屋奥宮四郎右衛門があとをついだ。

 この石段の銘文に見える宮地十太夫元貞と奥宮三九郎正敬は、二人だけで三段目の石段を奉納しています。土佐の捕鯨業に大きな足跡をのこした宮地氏と奥宮氏ゆかりの人たちだと研究者は考えているようです。
  時代は下りますが明治20年の「捕鯨事務日誌」の12月12日の条に
「当津呂村神官本日より琴平神社二於テニ夜三日間漁猟海運ノ祈祷ヲ為ス」
とあり、十五日には
「当日ヨリ足摺山へ日参ヲ始ム、是旧来ノ慣例于ンテ本日ヨリ十五日間水陸夫等更ル々々参詣スト云フ」
とあるように、津呂村の琴平神社と、足摺山の金剛福寺を参詣して、捕鯨祈願をしています。津呂村には琴平神社が勧進されていて、安芸郡室津浦の鯨方商人と思われる阿波屋菊之丞が元文五年(1740)に建てた石碑と、文化十五年(1818)に鯨方網元の奥宮三九郎の寄進した石灯龍11基、それに、文政九年(1826)に安芸郡浮津浦や室津浦の鯨方商人の数人が奉納した手洗い鉢があるようです。
  この安芸郡の鯨方網元の奥宮三九郎は、琴平町の金刀比羅宮に石段を奉納した人物なのでしょう。このようにみてくると、土佐の捕鯨の盛んな浦々にはた金比羅宮が、漁業信仰の対象として建立され大漁祈願のために参詣していたことが分かります。 
 奥宮氏は、この11年後の文政5年に、睦魂神社前の石段も奉納しています。
5 敷石四段坂6

これも金毘羅の旅籠の主人桜屋が取次をしています。また安政二年(1855)には、網取り法による捕鯨の光景がみごとに描かれたの大絵馬も奉納しています。それらの奉納のスタートがこの石段だったようです。

最後に最下段の51段の石段(P-I)の記念石版を見てみます
5 敷石四段坂7

これも土州からで文化九年(1812)三月の奉納です。この上段の翌年と云うことになります。
 奉納者の浦々の羽根浦(室戸市)は鰹船の根拠地、野根浦(安芸郡東洋町)・佐喜浜(室戸市)も漁港で、すでに述べた津呂浦・浮津浦・室津浦・吉良川浦を含め、みな室戸岬周辺の漁浦からの奉納です。土州寄進津呂浦(現室戸岬港)の奉納者の名前は、
 四手井又右衛門
 笹屋善
 堺屋達
 戎屋文
と、漁師町らしい名前が並びます。
4 敷石 羽裏敷石桜の馬場1

 吉良川の松屋紋平は二番目の石段の奉納者銘にも名前があります。また浮津浦の扇子屋・大津屋など同屋号の人々もいます。さらに、土州世話人の蔦屋平左工門は、三番目の石段の世話人でもあります。ここからはこんなストーリが想像できそうです。
「金毘羅さんにお参りして、海の安全をお願いして、ついでに本宮前の石段を奉納してきたぞ」
「おまえらもお願いして、石段を奉納してきたらどうじゃ。海の神様云うけんに効能は抜群じゃ。わしが世話してやるわ」
という話を聞いて、俺たちも遅れを取ってはならじと翌年に奉納しにやってきたというストーリーが描けそうです。
 土州から奉納された石段の当地世話人は、金毘羅内町の宿屋桜屋が全てつとめているようです。桜屋を仲介者として、室戸岬の人々が連絡を取りながらたがいに協力しあって、この四段坂の石段を土佐の鯨取りの手で奉納したのです。
5 敷石 muroto

  以上、四段坂の石段の整備過程をまとめておくと、上から次のようになります
①寛政十年(1798)江戸・京都・奥州・大坂の飛脚問屋奉納
②文化八年(1811)室戸岬周辺の室津浦・浮津浦・吉良川津の網元たちからの奉納
③文化九年(1812)室戸岬周辺の浦々の人々から奉納

    おつきあいいただき、ありがとうございました。