今回は、髙松平野と丸亀平野の「中世村落」の居館について見ていきます。テキストは、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書 2018年 香川県教育委員会」です。
まず、比較のために旧髙松空港(林田飛行場)跡の中世村落の変遷について、要約しておきます。
①古代集落は、11世紀前半で断絶して中世には継続しない。②11世紀後半のことは不明で、12世紀になると、小規模な「無区画型建物群」が現れる。③13世紀になると大型建物を中心とした「区画型建物群(居館)」が出現する④これは「集落域の中央に突如、居館が出現した」とも言え、「12世紀代を通じて行われた中世的な再開発の一つの到達点である」⑤ところが、中世前半の居館は長く続かず、13世紀後半になると、ほぼ全ての集落が廃絶・移転してしまう。
①と⑤に集落の断絶期があるようです。これをどう捉えればいいのでしょうか?。この時期に「大きな画期」があったことを押さえておきます。そして、14世紀から15世紀になると空港跡地遺跡では、次のような変化があったことを指摘します。
⑥「区画施設(小溝ないし柵列)により明瞭に区画された屋敷地が、居館の近くに東西1町半、南北1町の範囲内にブロック状に凝集する形態」へと変化する。⑦「中心となる居館と、付随する居館との格差は明瞭に指摘でき、村落(集洛群)を構成する上位階層の居住域」である。⑧居館に居住する「小地域の領主…を求心力とした地域開発や生産・流通の再編が、このような村落景観として現出した」=「集落凝集化」
ここで研究者が注目するのは、居館に区画(溝)があるかどうかで次のように分類します。
A 無区画型建物群 1棟~数棟の中・小規模建物群で構成され、1~2世代程度継続した後は短期に廃絶している。周囲に溝等による区画施設がないB 区画型建物群 多数の柱穴が密集して複数棟の建物が同時並存し、1世紀程度の比較的長く継続して建て替えられ、周囲に溝などの区画施設を伴う。
居館の周囲を溝で区画されたことに、どんな意味があるのでしょうか?
Bの区画型建物群の出現と同じ時期に、区画内部に土葬墓(屋敷墓)が造られるようになるからです。死者の埋葬地を屋敷内に作ることを「屋敷墓」と言います。中世の屋敷墓について、勝田至氏(京都大学)は、次のように記します。
死者の埋葬地をある家の屋敷内またはその近くの自家所有地に作る慣行を「屋敷墓」と定義する。この慣行の中心的起源は中世前期にある。そこでは屋敷墓に葬られる死者はその地を開発した先祖に限られることが多く、屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされた。この慣行の成立要因として、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが複合していたと考えられる。屋敷墓はその信仰表象のみが独立した屋敷神として、現代の民俗にも広い分布をみせている。
13世紀・鎌倉時代の大阪市の居館と屋敷墓を見ておきましょう。
鎌倉時代の野間遺跡からは、屋敷墓が井戸の跡とともに見つかりました。墓の大きさは長さ2.1m、幅80cm、深さ40cmで、北向きに掘られていました。木の棺もあったはずですが、遺体とともに残っていませんでした。しかし、頭から腰と思われるあたりでは、素焼きの大皿2枚、小皿9枚、中国産の磁器椀1個、中国産の磁器皿1枚、鞘に入った長さ30cmの小刀など、たくさんの品物が副葬されていました。副葬品からは、中国から輸入された茶碗や皿を使い、刀を身につけることのできた人物が浮き上がってきます。墓の主は、領主クラスの人物とも想像できます。
鎌倉時代の野間遺跡からは、屋敷墓が井戸の跡とともに見つかりました。墓の大きさは長さ2.1m、幅80cm、深さ40cmで、北向きに掘られていました。木の棺もあったはずですが、遺体とともに残っていませんでした。しかし、頭から腰と思われるあたりでは、素焼きの大皿2枚、小皿9枚、中国産の磁器椀1個、中国産の磁器皿1枚、鞘に入った長さ30cmの小刀など、たくさんの品物が副葬されていました。副葬品からは、中国から輸入された茶碗や皿を使い、刀を身につけることのできた人物が浮き上がってきます。墓の主は、領主クラスの人物とも想像できます。
野間遺跡(大阪市)の居館跡と屋敷墓
屋敷跡からは、8棟の建物跡が見つかりました。そのうちの1棟には、建物に使われていた木の柱が何本も残っていて、中にはカヤの木でできた直径40cm、高さ1mもある柱もありました。それほど大きな屋敷跡ではありませんが、しかし柱は太く、掘立柱の下にも礎石を組んでいます。また、この屋敷跡からは、羽子板や漆塗りの椀、絵の描かれた箱が見つかり、京都の文化の影響を強く受けていた様子がうかがえます。大きな柱の建物、そしてたくさんの出土品は、この屋敷の主の力の大きさを物語っています。
屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされるようになります。そして、屋敷墓の継承者が「家」を継承していくことになります。これは、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが融合したものと研究者は考えています。こうして屋敷墓は、屋敷神として姿を変えながら現代にも受け継がれています。
屋敷墓の成立について橘田正徳氏は、次のように記します。
①前期屋敷墓の被葬者である「百姓層」が、「「屋敷」の中に墓を作り、祖先(「屋敷」創設者)祭祀を行うことによって、「屋敷」相続の正当性つまり「屋敷」所有の強化を」図ろうとしたこと
中世以降に血縁関係による墓地の形成が進む背景として、水藤真氏は次のように記します。
「子の持つ権利の淵源が親にあれば、子はその権利継承の正当性を主張するに際して、親からの保証・正当な権利相続がなければならない。そして、その親を祀っているという実態、これも親からの権利の継承を主張する根拠となった」
「家の財産(家産)の確立こそが、「家の墓」を生む母体であった」
無区画型建物群は短期間で廃絶しますが、区画型建物群は、複数世代にわたり継承されています。これは屋敷墓が屋敷相続を正当化する根拠となり、そこを長く拠点とするようになったようです。その地が替えの効かない意味のある場所になったことになります。別の言い方をすると、屋敷が家産として認識され始めたというのです。つまり、建物群の四隅を溝で区画することは、土地や建物が父子間に相続されるべき家産として認識され、それを具体的に外部に向けて主張し、その権利が及ぶ範囲を数値化して、目に見える形で示したのが溝であるとします。そうだとするとこの屋敷墓の被葬者は「名主層」や「名主百姓身分」ということになります。区画型建物群の成立は、名主層の出現とリンクするのです。彼らは周辺開発を進める原動力となります。それが、大規模用水道の出現にもつながって行くという話になります。そういう視点で改めて、飯野山周辺の中世居館を見ていくことにします。
飯野山周辺の区画型建物群の例中世飯野・東二瓦礫遺跡の中世遺構変遷について整理しておきます。
①飯野・東二瓦礫遺跡に建物群が出現するのは、12世紀前半のこと②それは3棟の掘立柱建物で、柱穴数が少ないので、多くの建物があったとは思えないこと③短期間で廃絶したと考えられる建物群は、どれもが条里型地割に沿って建てられている。④ここからは、遺跡周辺において地割の造成が新たに行われたこと。⑤12世紀後半~13世紀初頭には、一度建物がなくなる。⑥その断絶期間を経て、建物群D・Eが13世紀中頃に再度現れる。⑦続いて建物群Bが、13世紀後半に成立。⑧それは等質的な内容の建物群が、2世代程度の短期間で場所を移して相次いで建設。
こうした状況が大きく変わるのが、建物群Aの登場です。
建物群Aでは、20㎡強四方と小規模ですが、区画施設があり、4棟以上の建物が長期にわたって建て替えられ継続します。密集性と継続性という面から見ると、それまでの建物群Bの段階とは明らかに異なります。しかし、出土遺物についてみると、中国製磁器類のほか、備前や亀山、東播系といった瀬戸内海沿岸からの搬人品が少し出土しているだけです。そういう点では、無区画型建物群であるBと格差はないようです。ここでは、建物群が区画施設を伴って出現することと、同時期に大規模灌漑網が再整備が行われたことを押さえておきます。
研究者が注目するのは、川西北・原遺跡の2基の中世墳墓遺構の火葬塚です。
幅約1,1m~1、8m、深さ約0,1~0,5mの周溝で区画された辺5,2mと6、1mの陸橋を伴う2基の方形区画で、火葬塚とされます。ST01は12世紀前半、ST02は13世紀前葉の築造とされ、ST01は12世紀後半以降にも継続使用された可能性があるようです。つまり、12世紀前半から13世紀前葉まで、火葬された人々が遺跡周辺に生活していたことになります。そこからは、安定して地域経営に従事した有力階層がいたことをうかがわせます。長期に安定して火葬墓を営むことができた階層の拠点住居として、飯野・東二瓦礫遺跡の有力者を研究者は想定します。続いて大束川流域の居館を見ていくことにします。
大束川流域の中世集落と用水路
川津川西遺跡は鵜足郡川津郷の大束川西岸に位置します。
川津川西遺跡は鵜足郡川津郷の大束川西岸に位置します。
①建物の東辺が、大束川の完新世段丘崖によって画される区画型建物群。
②区画規模は、南北約100m、東両約50mとかなり広く、区画内部はさらに中・小の区画溝により数ブロックに細分されている。
③西約90mの所に、無区画型建物群が一時期並存。
④区画型建物群は、14世紀前葉から15世紀初頭にかけて使用され、内部には主屋とみられる床面積約50㎡の大型建物がある。
⑤出土遺物には、碗・皿などの輸入磁器類や、備前・東播・亀山の貯蔵・調理器類、瀬戸天目碗や畿内産の瓦器羽釜など、隣接地域や遠隔地からもたらされた搬入資料も少量ながら出土。
この居館の主人は、区画型建築物に住んでいます。名主から領主への成長過程にいたことが考えられます。
川津六反地遺跡
川津六反地遺跡
①旧鵜足郡川津郷の大束川東岸の段丘面上に位置。
②西辺を条里溝、東辺を溝によって区画された東西長約と㎡の区画型建物群
③区画溝から、13世紀後半~13世紀前の遺物が出土
④各区画には、主屋とみられる建物があって、等質的で相対的に独立していた。
⑤区画溝を挟んで、東西に2つ区画型建物群が連接していた
⑥西側には、無区画型建物群が並存。
こうした複数の区画型建物群が連なって一つの建物群を構成するものを、「連接区画型建物群」と呼んでいるようです。これに対して、飯野・東二瓦礫遺跡や川津川西遺跡は、中・小の溝などによる区画はありますが、各区画間に等質性や独立性は認めらません。このように外周区画溝内部が一つの単位としてかんがえられるものと「単独区画型建物群」とします。
東坂元秋常遺跡も、飯野山南東麓の旧鵜足郡坂本郷の大束川両岸の段丘面上にあります。
①中世建物群は、飯野山より南東に張り出した低丘陵部に建設。
②南北長約100㎡の区画型建物群で
③区画内部は飯野山から下る小規模な谷地形により、3小区画に細分される「連接区画型建物群」④区画内部の構造は、13世紀後半~14世紀前半の使用。
④出土遺物は、備前や亀山、東播系の隣接地の搬入資料以外に、少量だが楠葉型瓦器碗や瀬戸・美濃の瓶子・天目碗、常滑焼、中国産磁器類が出土
下川津遺跡の大型建物配置図
①四辺を区画溝で囲続し、南西隅が陸橋状を呈して区画内部への通路とする
②南辺区両溝は旧地形に大きく制約され矩形とならず、東西約50m、南北35~65mの単独区画型建物群
③建物群の時期は15世紀後半~16世紀前葉で、飯野山周辺では最も遅い区画型建物群。
15世紀後半と云えば、応仁の乱後に政権を握った細川氏が勢力を増し、その配下で讃岐四天王とよばれた讃岐武士団が京都で、羽振りをきかせていた時代です。その時期の領主層の舘が、ここにはあったことになります。
ここで研究者が注目するのは、東坂元秋常遺跡の上井用水です。
上井用水は、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。それが各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏おとりに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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