瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:香川元景

 
守護細川氏の下で讃岐西方守護代を務めた多度津の香川氏については、分からないことがたくさんあるようです。20世紀末までの讃岐の歴史書や市町村史は軍記物の「南海通記」に従って、香川氏のことが記されてきました。しかし、高瀬の秋山文書などの研究を通じて、秋山氏が香川氏の下に被官として組み込まれていく過程が分かるようになりました。同時に、香川氏をめぐる謎にも迫れるようになってきたようです。今回は、秋山家文書から見えてきた香川氏の系譜について見ていくことにします。テキストは、「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

香川氏の来讃について見ておきましょう。
  ①『全讃史』では
香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年の白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとします。以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(長曽我部元親の子)」と記します。この系譜は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の流れだとします。
  ②『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれだと云います。
細川氏に仕えた刑部大輔景則が安芸から分かれて多度津の地を得て、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。
  ③『善通寺市史』は、
相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などの史料から、景則は嫡流とは認め難いとします。その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」と考えています。これが現在では、妥当な線のようです。しかし、家伝などはなく根本史料には欠けます。史料のなさが香川氏を「謎の武士団」としてきたようです。

   以上のように香川氏の系譜については、さまざまな説があり『全讃史』『西讃府志』の系図も異同が多いようです。また史料的には、讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てきます。史料には名前が出てくるのに、系譜に出てこない人物がいます。つまり、史料と系譜が一致しません。史料に出てくる香川氏の祖先が系図には見えないのは、どうしてでしょうか?
 その理由を、研究者は次のように考えているようです。

「現在に伝わる香川氏の系図は、みな後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い」

つまり、香川氏にはどこかで「家系断絶」があったとします。そして、断絶後の香川家の人々は、それ以前の祖先の記憶を失ったと云うのです。それが後世の南海通記などの軍記ものによって、あやふやなまま再生されたものが「流通」するようになったと、研究者は指摘します。
 系譜のあいまいさを押さえた上で、先に進みます。
香川氏は、鎌倉権五郎景政の子孫で、相模国香川荘に住んでいたと伝えられます。香川氏の来讃については、先ほど見たように承久の乱の戦功で所領を賜り安芸と讃岐に同時にやってきたとも、南北朝期に細川頼之に従って来讃したとも全讃史や西讃府志は記しますが、その真偽は史料からは分かりません。
「香川県史」(第二巻通史編中世313P)の香川氏について記されていることを要約しておきます。
①京兆家細川氏に仕える香川氏の先祖として最初に確認できるのは、香河五郎頼景
②香河五郎頼景は明徳3年(1392)8月28日の相国寺慶讃供養の際、細川頼元に随った「郎党二十三騎」の一人に名前がでてくる。
②香河五郎頼景以後、香川氏は讃岐半国(西方)守護代を歴任するようになる。
③讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てくる。
④『建内記』には文安4年(1447)の時点で、香川氏のことを安富氏とともに「管領内随分之輩」であると記す。
①の永徳元(1381)年の香川氏に関する初見文書を見ておきましょう。
寄進 建仁寺水源庵
讃岐国葛原庄内鴨公文職事
右所領者、景義相伝之地也、然依所志之旨候、水代所寄進建仁寺永源庵也、不可有地妨、乃為後日亀鏡寄進状如件、
                          香川彦五郎     平景義 在判
永徳元年七月廿日                       
この文書からは次のようなことが分かります。
A 香川彦五郎景義が、多度郡の葛原荘内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進していること
B 香川彦五郎は「平」景義と、平氏を名乗っていること
C 香川氏が葛原荘公文職を持っていたこと
応永七(1400)年9月、守護細川氏は石清水八幡宮雑掌に本山荘公文職を引き渡す旨の連行状を国元の香川帯刀左衛問尉へ発給しています。ここからは、帯刀左衛門尉が守護代として讃岐にとどまっていたことが分かります。この時期から香川氏は、守護代として西讃岐を統治していたことになります。

 『蔭涼軒日録』は、当時の讃岐の情勢を次のように記します。

「讃岐国十三郡也、大部香川領之、寄子衆亦皆小分限也、雖然興香川能相従者也、七郡者安富領之、国衆大分限者性多、雖然香西党為首皆各々三昧不相従安宮者性多也」

 ここからは讃岐13郡のうち6郡を香川氏が、残り7郡を安富氏が支配していたことが分かります。讃岐に関しては、香川氏と安富氏による東西分割管轄が、守護細川氏の方針だったようです。

 香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。
香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったことは以前にお話ししました。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳(1445年) 多度津船の入港数


「兵庫北関人松納帳」には、多度津船の兵庫北関への入関状況が記されていますが、その回数は1年間で12回になります。注目すべきは、その内の7艘が国料船が7件、過書船(10艘)が1件で、多度津は香川氏の国料船・過書船専用港として機能しています。国料船は守護細川氏の京都での生活に必要な京上物を輸送する専用の船団でした。それに対して、過書船は「香川殿十艘」と注記があり、10艘に限って無税通行が認められています。

香川氏は過書船の無税通行を「活用」することで、香川氏に関わる物資輸送を無税で行う権利を持ち、大きな利益をあげることができたようです。香川氏は多度津港を拠点とする交易活動を掌握することで、経済基盤を築き、西讃岐一帯を支配するようになります。

香川氏の経済活動を示すものとして、永禄元年(1558)の豊田郡室本の麹商売を、之景が保証した次の史料があります。
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以共筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、乃状如件、
永禄元年六月二日                           之景(花押) 
王子大明神別当多宝坊
「先規之重書並に元景御折紙明鏡上」とあるので、従来の麹商売に関する保証を之景が再度保証したものです。王子大明神を本所とする麹座が、早い時期から室本の港にはあったことが分かります。
同時に、16世紀半ばには香川氏のテリトリーが燧灘の海岸沿いの港にも及んでいたことがうかがえます。

戦国期の当主・香川之景を見ておきましょう。
この人物については分からないことが多い謎の人物です。之景が史料に最初に現れるのは、先ほどの室本への麹販売の特権承認文書で永禄元(1558)年6月1日になります。以下之景に関する文書は14点あります。その下限が永禄8年(1565)の文書です。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

14点のうち6点が五郎次郎との連署です。文書を並べて、研究者は次のように指摘します。
①永禄6年(1563)から花押が微妙に変化していること、
②同時にこの時期から、五郎次郎との連署がでてくること
永禄8年(1565)を最後に、天正5(1577)に信景の文書が発給されるまで、約12年間は香川氏関係の文書は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 文書の散逸・消滅などの理由だけでは、片付けられない問題があったのではないかと研究者は推測します。この間に香川氏に重大な事件があり、発行できない状況に追い詰められていたのではないかというのです。それが、天霧城の落城であり、毛利氏を頼っての安芸への亡命であったと史料は語り始めています。
  
香川之景の花押一覧を見ておきましょう。
香川氏花押
香川之景の花押
①が香川氏発給文書一覧の4(年未詳之景感状 従来は1558年比定)
②が香川氏発給文書一覧の1(永禄元年の観音寺麹組合文書)
③が香川氏発給文書一覧の2(永禄3(1560)年
④が香川氏発給文書一覧の7(永禄6(1563)年
⑤が香川氏発給文書一覧の16
 研究者は、この時期の之景の花押が「微妙に変化」していること、次のように指摘します。
①と②の香川之景の花押を比較すると、下部の左手の部分が図②は真っすぐのに対して図①は斜め上に撥ねていること。また右の膨みも微妙に異なっていること。その下部の撥ねの部分にも違いが見えること。
図③の花押は同じ秋山文書ですが、図①とほぼ同一に見えます。
③は永禄3(1560)年のもので、同四年の花押も同じです。ここからは図①は永禄元年とするよりも、③と同じ時期のもので永禄3年か4年頃のものと推定したほうがよさそうだと研究者は判断します。

④の永禄6(1563)年になると、少し縦長になり、上部の左へ突き出した部分が尖ったようになっています。永禄7年のものも同じです。この花押の微妙な変化については、之景を取り巻く状況に何らかの変化があったことが推定できると研究者は考えています。

信景の花押(図⑤=文書一覧16)を見てみましょう。
香川氏花押2
信景の花押(図⑤)
之景と信景は別の人物?
今までは、「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされていました。その根拠は『南海通記』で、次のように記します。

「天正四年二識州香川兵部大輔元景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

ここに出てくる元景は、之景の誤りです。ここにも南海通記には誤りがあります。この南海通記の記事が、之景が信景に改名した根拠とされてきました。
しかし、之景と信景の花押は、素人目に見ても大きく違っていることが分かります。花押を見る限りでは、之景と信景は別の人物と研究者は考えています。
次に研究者が注目するのが、永禄六年の史料に現れる五郎次郎です。
之景との連署状が四点残っています。この五郎次郎をどのように考えればいいのでしょうか?五郎次郎は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。その人物が之景と連署しています。
文書一覧23の五郎次郎は、長宗我部元親の次男で信景の養子となった親和です。他の文書に見える五郎次郎とは別人になります。信景の発給文書が天正7(1577)年からであることと関連があると研究者は考えています。

  以上をまとめておきましょう
①香川氏の系譜と史料に登場してくる香川氏当主と考えられる守護代名が一致しない。
②そこからは現在に伝わる香川氏の系図は、後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い。
③香川氏には一時的な断絶があったことが推定できる。
④これと天正6年~11年までの間に、香川氏発給の文書がないことと関係がある。
⑤この期間に、香川氏は阿波の篠原長房によって、天霧城を失い安芸に亡命していた。
⑥従来は「之景と信景」は同一人物とされてきたが、花押を見る限り別人物の可能性が強い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
関連記事

史料に出てくる讃岐最初の海賊は?
 瀬戸内海は古代から「海のハイウエー」として機能してきました。そこには海賊が早くから出没したようです。海賊は、平安時代初期の史料には見え、末期になると活発化します。鎌倉幕府成立後、西国に基盤を持たない源氏政権を、見透かすかのように活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、召し捕るように命じています。
 寛元四年(1246)三月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺で最初の「海賊討伐」史料のようです。しかし、この海賊がどこを拠点としていたかは分かりません。そのような中で、讃岐の海賊衆の活動がうかがえるのが次の史料です。
   僧承誉謹中
    当寺御領伊予国弓削島所務職間事
    (中略)
 去正和年中讃岐国悪党井上五郎左衛門尉・大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下凶賊等、率数百騎大勢、打入当島、致悪行狼籍之時者、承誉以自兵糧米、相具数百人之勢、捨身命、
致合戦、討退彼悪党等、随分致忠節早
    (後略)
意訳すると
鎌倉時代の正和年間(1312年から1317年)に讃岐の悪党・井上五郎左衛門尉と大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下の賊党が数百騎を率いて、伊予の弓削島を襲い悪行狼籍を働いた。承誉は、数百勢を率いて防戦し、命を捨てて戦い悪党どもを打ち払った。忠節な輩である。

讃岐の悪党が塩の荘園として有名な東寺の弓削荘を襲っている記録です。ここに出てくる「悪党」は海賊衆でしょう。讃岐から芸予諸島に出向くには、燧灘を越えていかなければなりません。船が必要です。悪党=海賊と考えられます。ここには、讃岐の海賊衆の姿があります。
それから約140年後にも讃岐の海賊は、弓削荘への略奪・押領を行っています。その主役である山路氏のことについて、以前お話ししました。山路氏のその後の歩みについて、今回は見ていきます。

弓削荘の寛正三年(1462)の史料にも山路氏は登場します。
  (紙背)
  弓削島押領人事  公家奉公 小早川小泉方  
  海賊 能島方 山路
  此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永専口説記之
前の史料に出てきた小早川小泉・能島(村上氏)・山路がここでも登場します。小早川小泉は「公方奉公」とあります。後の小早川隆景の配下で活躍する小早川家の有力一族です。能島と山路には「海賊」の注記があります。小早川小泉は海賊でありながら細川氏の奉公衆として仕えていました。そして、能島村上氏は後の村上武吉を生み出す海賊衆です。ここでは、山路氏は能島村上氏と同列に、海賊衆として記されています。山路氏は西讃守護の香川氏の配下に入って行くことになります。その過程を追って見ようと思います。

西讃守護代の香川氏と山路氏の出会いは?
香川氏は天霧城を拠点に、後には領域支配を広げて戦国大名化していきますが、応仁の乱以前においては、あくまで守護細川氏に忠実で支配エリアも狭かったようです。そのような中で、香川氏の活動の一端がみえるのが瀬戸内海の交易活動です。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』では、国料船の船籍地が変更されています。
国料は寺社などの修造費のために給付された修造料国料の〈国料〉に由来するようです。転じて海の関所通行にあたって関銭免除の特権を持つ船になります。過書による船の特権が1回限りのもので、積荷の品目・数量についても関所でその都度、検査が行われたのに対して,国料船のチェックは緩やかだったようです。
 香川氏が守護代として管理する国料船の船籍は、元々は宇多津でした。それが香川氏のお膝元の多度津に移動しています。香川氏は、多度津の本台山(現桃陵公園)に居館を構え、詰城として天霧城を築いていたと云われます。
 多度郡の港は次のように変遷していきます。
①古代 弘田川河口の白方港
②中世 砂州後方に広がる入江の堀江港 
    港湾管理センターは道隆寺
③近世 桜川河口の多度津港
 香川氏は多度津に居館を築くと同時に、それまでの多度郡の港であった堀江湊から桜川河口に新たな港を開き直接的な管理下に置こうとしたと私は考えています。そして、瀬戸内海交易活動によって経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃一帯へ力を広げていくという筋書きが描けます。
それでは、その船の管理運営にあたったのは誰なのでしょうか?
そらが白方を拠点に「海賊」活動を行っていた山路氏だと研究者は考えているようです。燧灘を隔てた芸予諸島の弓削荘への「押領」活動が出来る海上輸送能力を山路氏は持っています。新たに開かれた多度津港に出入りする船の管理・防衛を行うには山路氏は最適です。香川氏にすれば海賊衆を支配下におくことにより、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を計ろうとしたのかもしれません。これは能島村上氏と毛利氏・小早川氏の関係にも似ています。

もうひとつ山路氏の活躍する場面が考えられます。
応仁の乱後の讃岐武士団の動きを年表で見てみましょう。

1467 寛政8・26 細川勝元,西軍の将一色義直を攻め,応仁の乱はじまる
   6・24 讃岐西方守護代香川五郎次郎と東方守護代安富盛保,上洛し合戦参加
   10・3 安富元綱,相国寺合戦において西軍に討たれる
1477 文明9 11・11 応仁の乱,終わる
   1・2 香川氏,一条家領摂津国福原荘の代官をつとめるが,年貢納入を果た
       さ ぬため興福寺より催促をたびたび受ける
1487 長享1 足利義尚,六角高頼を討つため近江坂本に布陣する
     12・7 香川元景・安富元家・安富与三左衛門尉・香西五郎左衛門尉ら,細
        川政元に従い近江六角攻めに参加する(蔭涼軒日録)
1489 延徳18・12 香西・牟礼・鴨井・行吉ら,香西党としてその勢力が京都に
        おいて注目される
 1491 延徳3 香西元長・牟礼次郎・同新次郎・鴨井藤六ら,細川政元の奥州遊覧
        に随行する
   5・16 香川元景・安富元治,細川政元邸での評定に参加する
   8・- 安富元家,足利義材より近江守護代の権限を与えられる
1492 明応13・28 香西五郎左衛門尉,荘元資とともに備中守護細川勝久と戦う
       が敗れ切腹する.
この戦で, 讃岐の軍兵の大半が討死する
   9・21 安富元家,帰京し,近江より四国勢を帰国させる.
1493 明応26・18 京都の羽田源左衛門,讃岐国は13郡,西方は香川が東方は安富が統治し,
小豆島は安富が管理していることなどを蔭涼軒主に伝える

年表からは次のような事が分かります。
①応仁の乱に、香川氏・安富氏など讃岐武士団が細川方の主力として上洛参戦している
②讃岐武士団は、京都で常駐し、その勢力が注目を集める存在になっている
③しかし、1492年の備中守護細川勝久との戦いに敗れ,讃岐の軍兵の大半が討死し、讃岐武士団の栄華の時代は終わる。
 この年表を見て気がつくのは、香川氏は細川氏の招集に応じて、京都に向けて大規模な軍事行動を応仁の乱も含めて2回行っています。
 畿内への出陣には、輸送船や警護のための兵船も必要でした。それを担ったのも山路氏ではなかったのでしょうか。山路氏は、香川氏の支配下に入り、香川氏の畿内出陣への海上勢力となったと研究者は考えているようです。
 晴元が政権を掌握した後には、西讃岐の支配は香川氏によって行われるようになります。
「讃岐国は13郡あり,西方は香川が、東方は安富が統治し,小豆島は安富が管理する」

という「蔭涼軒日録」の記述にあるように、生き残った香川氏の一族は、領国支配への道を歩み出すことになります。 その香川氏の配下についたのが山路氏や高瀬の秋山氏のようです。
 なぜ、山路氏は香川氏の配下に入ったのでしょうか。
その背景には、能島村上氏による瀬戸内海の制海権掌握が考えられます。能島村上氏は、16世紀になると管理エリアを拡大し、塩飽や小豆島までも直接的な支配下に置くようになります。謂わば村上水軍による「海の平和」が一時的にせよ、もたらされたのです。この体制下では、巨大な海軍力をもつ村上氏に楯突くことはできません。弱小海賊衆は海賊行為もできないし、警固衆として通行税の徴収もできなくなります。つまり、弱小海賊衆の存在意義が失われていったのです。
そのような中で山地氏が生き残りの活路を求めたのは、戦国大名に脱皮していく香川氏です。
  山路氏は、海賊衆から陸地の武士へと転換せざるを得なかったようです。そして、香川氏の方にも海賊衆山路氏を支配下に収めることにより、新たな領主の道を歩もうとします。両者の思惑が一致します。それが讃岐の海賊衆の終焉でもあったようです。

香川氏は、細川氏の一族抗争による衰退後は、独自の領域支配を行うようになります。
それは戦国大名化していく道でした。それに応じるように山路氏は香川氏の下で、海から陸への「丘上がり」を果たしていきます。
その姿を追ってみましょう。
  次の史料に見えるのは、香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす山路氏の戦闘姿です。それは海ではなく、陸の戦いでした。「天正十一年の香川信景の感状」です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 信景
     山地九郎左衛門殿
これは大内郡入野庄の合戦での山地九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面山に陣を敷きます。そして、十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉方の仙石秀久軍を攻めます。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山地氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
 この文書の奥付には、後世に次のように追記されています。
「右高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利薙侍之、此九郎左衛門ハ香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子乎」

とあり、意訳すると
この文書は高知の山地氏が保管していたものである。元親の次男五郎次郎が、讃岐の香川信景の養子となったが、後に病で高知に帰ってきた。岡豊城の西の小野村に居を構え、元親の家臣となった内藤左衛門・山地利薙侍は、この感状に名前のある九郎左衛門は、香川家の旧臣であり利奄蓋九郎左衛門の子のことである。
この文書からは次のような事が分かります。
①山地九郎左衛門は、香川信景の家臣として参陣している。
②山地九郎左衛門の子孫は、長宗我部元親が土佐一国に領土を削減された際に、香川氏と共に土佐に亡命し、元親の家臣となっていた
さらに研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、三木池戸村(三本松)中城跡  安富端城也、
後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、
詫間ノ城ノ城主
ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は、かつての安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。

三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。

ここからは三本松・中城の城主・山地九郎右衛門は、海賊衆山路氏の末裔であったことが分かります。そしてもともとは詫間に城を持っていたといいます。
 どうして、海賊衆であった山路氏が詫間城主となり、その後三木郡へと移動したのでしょうか。
『西讃府志』に、その謎を解く記述があるようです。
 詫間弾正居レリト云、古城記二ハ 甲斐国山地右京進細川氏二従テ来リ、此城二居テ多度三野豊田等ノ三郡ノ旗頭夕リ、(中略)
旧ク詫間氏ノ居ラレシコト明ナリ、山地氏ノ居リンハ、恐ラクハ此後ノコトニテ、香川氏二属テ、詫間氏ノ城ヲ守りシナドニヤ、又兎上(爺神)山ニモ詫間弾正ノ城趾アルナド思フニ弾正ノ時二至り、細川氏二此地ヲ奪レ、兎上山二移りシナルヲ、ヤガテ山地右京進二守モラシメシガ、其子九郎左衛門二至り、故アリテ池戸城二移サレツルナルベシ
西讃府志は、同時代史料ではありませんが、そこに書かれていることをまとめておきましょう
①甲斐国から細川氏に従って、讃岐になってきた山地氏は詫間城に拠点を構えた。
②しかし、もともとは詫間城は詫間弾正の居城であったものを守護・細川氏に奪われ
③詫間弾正は高瀬の兎上(爺神)山に逃れて、そこ拠点として新城を築いた
④その後に、守護代・香川氏は、山路氏を支配下に収めると、西讃支配を強化のために山路氏を詫間城に入れた
⑤白方から詫間へと山路氏は移動するが、詫間の港も併せ管理運用するようになった。
⑥詫間の南の高瀬郷は、同じ西遷御家人の秋山氏が香川氏のもとで領域を拡大しつつあった。

疑問点としては、甲斐からやって来た御家人がどのようにして「海賊」になって、弓削島まで荒らすようになるのかは分かりません。どちらにしても山地氏は、守護の細川氏と深い繋がりがあったようです。
 そして守護・細川氏が衰退していく中で、戦国大名への変身を遂げる香川氏の勢力下に山地氏も組み込まれていったようです。香川氏が領域支配の拡大をするにつれて、山路氏は海賊衆から陸地の領主へと性格を変えていきます。そのような中で長宗我部氏に配下に下った香川氏は、東讃平定の先兵の役割を担わされることになります。
 その先陣を勤めたのが山地氏です。入野合戦の戦功により、城を与えられたのが「中城」なのでしょう。『讃陽古城記』に「安富端城」とあるように、もともとは安富氏の出城でした。ここに山地氏を入れることにより、東讃攻略の拠点とします。東讃攻めのために十河氏を包囲する戦略的な要地です。香川信景は長宗我部勢の一隊として戦いに参陣しています。石田城攻めにさいしては、秋山杢進(一忠)も信景から次のような感状を受けています。
 今度石田城行之刻、別而被抽粉骨、鑓疵数ヶ所被蒙之由、誠無比類儀候、無心元存候条、為御見廻、此者差越候、能々御養生専一候、委細任口上候間、不及多筆候、恐々謹言
 中
 二月廿八日  
               信景(花押)
     秋山杢進殿
           まいる
このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。そして、論功行賞は、長宗我部元親ではなく香川氏が行っています。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度任されていたのではないかと研究者は考えているようです。
それを窺わせる次のような元親の書状があります
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」
意訳すると
敵の数は多かったが撃ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」
「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 山地氏を詫間から三木の池戸へ移したのも、香川氏の東讃攻略の一つかもしれません。入野合戦の際には、山地氏はこの池戸の城から出陣したはずです。その際の姓が「山路から山地」へと改名されています。これは単なる「誤読」ではなく、海賊衆から陸の武士への変身に合わせて改称したとも思えます。山地となることにより、香川氏の家臣団の組織に組み込まれたことを示すと同時に、山路氏の海賊衆からの「足洗い」の意思表明だったのかもしれません。
以上をまとめてみると
①讃岐白方を拠点とする山路氏は、芸予諸島の弓削荘に対して海賊行為や押領を行っていた
②山路氏は海賊であり「海の武士団」として備讃瀬戸の海上軍事力勢力であった
③その力を西讃守護代・香川氏は活用し、交易船や軍事行動の際の軍船団として使った
④能島村上氏の備讃瀬戸への勢力拡大と共に、讃岐の弱小海賊は存在意味をなくしていく。
⑤このような中で山路氏は、香川氏の配下で詫間城を得て丘上がりする
⑥さらに長宗我部元親の東讃平定時には三本松の城主として、戦略拠点の役割を果たした。
⑦長宗我部の土佐撤退時には香川氏と共に土佐に「亡命」した。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

   橋詰 茂    讃岐海賊衆の存在     瀬戸内海地域史研究8号2000年

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