前回は、天霧城攻防戦後から長宗我部元親の讃岐侵攻にいたる時期の香川氏の動静について次のように整理しました。


①天霧城攻防戦で敗れた香川氏は、毛利氏の下へ亡命したこと、
②その後12年ぶりに毛利氏の支援で、多度津帰還が実現したこと
③翌年に讃岐に侵攻してきた長宗我部元親と「反三好」で一致し、同盟関係を結んだこと。
④香川氏は長宗我部元親の同盟軍として、東讃制圧に参軍したこと
この中で①の「香川氏=安芸毛利氏への亡命」説について、もう少し詳しく知りたいというリクエストがあったので、今回はその辺りに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」です。
最初に香川之景と信景は別の人物であることを押さえておきます。
之景については、従来は信景と同一人物とされてきました。それは南海通記に、次のように記されているためです。
「天正四年二識州香川兵部大輔元(之)景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元(之)景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」
意訳変換しておくと
天正四(1576)年に、識州香川兵部大輔元(之)景は、香西伊賀守佳清を使者として、信長の幕下に加わりたいことを願いでた。そこで信長は、香川元(之)景に自分の一字を与えて、信景と称するようになった」
南海通記の「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされてきたことを押さえておきます。

香川之景の花押の変化
しかし、之景と信景の花押を確認した研究者は、素人目に見ても大きく違っているとし、「花押を見る限りでは、「之景と信景は別の人物」と判断します。続柄からすると、之景と五郎次郎は父子で、「五郎次郎=信景」で、亡命から帰還後に五郎次郎が使ったのが「信景」と研究者は考えています。
次に高瀬町史の年表編(22P)で、天霧城攻防戦の前後の香川氏の動静の概略を押さえておきます。
高瀬町史年表編22P
①1558年10月に三好軍が天霧城を包囲して、その後の和議成立後に陣を置いていた善通寺が燃え落ちたことが記されています。南海通記は、この時に香川氏は三好氏の軍門に降り、以後は従属下に入ったとします。
②注意しておきたいのは、この時に村上水軍が三好実休側について天霧城攻防戦に参加していることです。
③1560年10月になると、帰順したとされる香川氏と三好氏の戦闘が再開されます。これに対して香川之景は、配下の秋山氏などに知行地配分を行い、裏切り防止・結束強化を図っています。
⑤ 1564年2月になると 秋山藤五郎が豊島に脱出しています。これがその後の備中脱出の先遣隊の役割を果たしたのかもしれません。
⑥同年3月には、三好氏の実権を握った篠原長房が豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制をだしています。これは、豊田郡が篠原長房の直接支配下に入ったことを意味します。以後も1565年までは、香川之景の発給文書があるので三野郡で抵抗活動を行っていたことが分かります。しかし、それも8月以後は途絶えます。そして以後12年間の発給文書の空白期間が訪れます。この間が謎の期間になります。
次に、この時期の香川氏の発給文書から、香川氏の動静を見ておきましょう。
香川之景の単独発給のものについて、研究者は次のように指摘します。
⓵永禄元(1558)年から6年6月までは、香川之景の単独発給であること。
⓶永禄6(1563)年8月から7年5月までは、之景と五郎次郎の連署で発給されていること。
③1563年の天霧城籠城戦以前の之景発給文書は、内容が知行宛行・知行安堵に限定されていること.
④これは、家臣への宛行状で、迫る合戦に対して家臣の団結力を高めるために発行された
⑤例外は永禄8年6月28日付の之景単独発給がある。
一例として、永禄4(1561)年の戦いでの恩賞として、秋山良泰に所領の給付を行っているものを見ておきましょう。




意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言永禄四(1561年)正月十二日 (香川)之景(花押)秋山兵庫助殿御陣所
これは香川之景の単独発給文書です。末尾の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。秋山兵庫助に高瀬郷水田分のうち、原・樋口にある三野掃部助知行分と守利名内真鍋三郎五郎買徳地を与えています。「真鍋二郎五郎買徳地」というのは、真鍋氏が秋山氏より金銭で手に入れた土地名のようです。この時期の真鍋氏は、秋山氏から多くの土地を買い取り、急速に成長して行ったことが、その他の史料から分かります。
この時期に香川之景が秋山氏・帰来秋山氏などに、知行宛を行ったのは三好勢の侵攻に対して、寝返りを防ぐためと身内の陣営を固めるためと研究者は考えています。天霧城周辺で度重なる小競り合いが続きますが、そのたびに之景は感状や知行宛行状を発給して家臣の統制に努める姿が見えてきます。

天霧城攻防戦(想像図)
次に之景・五郎次郎の連署状についてみておきます。
五郎次郎が史料に登場するのは、永禄6(1563)年のことです。之景と連署したものが6通あります。これらの内容を検討すると
⓵すべて天霧城籠城に関する内容のものであること。⓶天霧城籠城戦前後から、初めて五郎次郎の名前が登場すること。
そのなかのひとつを見ておきましょう。
今度者無事二御退大慶此事候、然者人数阿また討死之由、忠節之至無比類候、将亦退城之側同心可申処、不相構俄之事候間不及了簡候ツ、我々無等閑様体具三菊可申候条、中々書状不申候、恐々謹言八月七日 五次(五郎次郎) (花押)(香川) 之景 (花押)
意訳変換しておくと
今度の(天霧山城攻防戦で)無事に脱出できたことは大慶であった。ただ、数多くの討死者を出してている。これは比類ない忠節であった。退城の働きに対して、論功行賞をすべき所であるが、現状ではそれも適わぬことで、簡略な書状だけに留める。中々書状不申候、恐々謹言八月七日 五次(五郎次郎) (花押)(香川之景) (花押)
この書状からは次のような事が分かります。
①天霧城からの無事に脱出できたことを喜んでいる。→ 天霧城陥落が裏付けられる。
②「人数阿また(数多)討死」とあって、激戦であったことがうかがえる。
③天霧籠城・退城には三野・秋山氏など多くの家臣が従ったこと
ここに初めて出てくる五郎次郎の名称は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。将来の之景の後継者の意味を持つと研究者は考えています。つまり、籠城を契機に五郎次郎が香川氏の後継者として登場したことになります。三好氏は永禄5年段階で、二人を父子と認識しています。之景の家督は五郎次郎に継がれていったのです。ここでは天霧城落城を契機に、香川氏が之景から五郎次郎へと後継者継承に向けて動き出ていたことを押さえておきます。
之景と、その子である五郎次郎が連署している背景を考えておきましょう。
天霧籠城戦は香川氏にとっては滅亡の危機でした。そのために、父子のどちらかが亡くなっても存続していける体制を作りだしていくために、五郎二郎の連名で家臣へ対処していったと研究者は推測します。しかし、知行地の権限は、従来通り領主である之景が握っています。例えば永禄8(1565)年6月に秋山藤五郎へ父兵庫助の所領分を安堵し新恩地を宛行っています。

天霧城
天霧城籠城戦に破れて、香川氏はすぐに多度津を去ったのでしょうか?
「永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。(意訳変換文)
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労した功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返却する。併せて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、永禄六(1563)年 八月十日 五郎次郎(花押)(香川)之 景(花押)三野菅左衛門尉殿進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①冒頭に「天霧籠城之砌」とあり、8月10日以前に天霧城で籠城戦があったこと
②香川五郎次郎から重臣の三野菅左衛門にあてた書状で、以下のことを命じていること
③天霧城籠城戦で論功のあった河田七郎左衛門尉に新恩として本知行地と、杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
ここからは香川氏が天霧城退城後も、知行地の割当を行っていることが分かります。この時点では、三野郡に関しては支配実態を伴っていて、統治権を失っていなかったようです。
これを裏付けるのが、五郎次郎の唯一の単独発給文書である年未詳二月二日付けの秋山藤五郎宛の次の書状です。
尚々、今度之御辛労不及是非候、臆而/ヽ御越有へく候、万面以可申候外不申候、今度之儀無是非次第候、無事其島へ御退、我々茂無難退候事、本日出候、然者御左右不聞候而、千万無心元存もたへ申処孫太夫折紙二申越一段悦入、候雅而/ヽ此方へ可有御越候、万以面可令申候、将又国之儀存分可成行子細多候間可御心安候、両方へも切々働申付候、定而可有其聞候、委猪右衛門可申渡候間不能巨細候、恐々謹言二月三日 五郎次郎御判秋山藤五郎殿まいる
意訳変換しておくと
今度の(天霧城落城の)辛労はあまりに大きく、言葉に表し尽くせない。しかし、(秋山氏が)無事に「其島(笠岡神島?)へ退出することができたと聞いて安心している。我々も無事に脱出した。分散した家臣団の再組織を計り、詳細な情報を集め、適切な対応をとっているので安心するように。再起への道を探すためにすでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始している。委細については猪右衛門から口頭で伝える。渡候間不能巨細候、恐々謹言二月三日 五郎次郎御判秋山藤五郎殿
ここからは次のようなことが分かります。
①2月3日に、香川五郎次郎が家臣の秋山藤五郎に宛てた書状であること
②「無事其島へ御退」とあり、秋山氏が天霧城から其島まで落ち延びたこと報告されている
③一方、香川氏は三野郡にとどまり、分散した家臣の再組織を計りながら、豊田郡方面への軍事行動を開始していること
③一方、香川氏は三野郡にとどまり、分散した家臣の再組織を計りながら、豊田郡方面への軍事行動を開始していること
④亡命した家臣団の連絡係として(河田)猪右衛門が行動していること
以上から、香川氏は天霧城退出後も三豊周辺に留まり、ゲリラ的な抵抗運動を行っていたことがうかがえます。
それを裏付けるかのように香川之景は、天霧城退場後も以下の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行②永禄8(1565)年6月の秋山藤五郎宛の香川之景の発給文書③永禄8(1565)年8月には、秋山藤五郎に対して、知行地の安堵、新恩地の給与文書
発給文書が見えなくなるのは、これ以後です。これまでは、文書が発給できる状態であったと考えられるので、香川氏の讃岐脱出は1565年8月以後のことであると研究者は推測します。
これに対して阿波三好側の篠原長房の動きを年表から見ておきましょう。

讃岐・備中方面での活動を追加してみると・・・。

讃岐・備中方面での活動を追加してみると・・・。
1564(永禄7)年3月 豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制を下す1567年 6月 鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)6月 備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)1569年 6月 鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)1571年 1月 鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)5月 備前児島に乱入する.
寺社に禁制を出すというのは、そのエリアの支配権を握ったということを意味します。ここからは、64年3月には、篠原長房は地蔵院萩原寺のある豊田郡南部を支配エリアに組み込んだこと、そして3年後には、宇多津も直接支配下に置いて、備讃瀬戸対岸の備中に侵攻し、毛利氏と戦っていることが分かります。こうして見ると1564~65年にかけて三野郡も豊田郡も篠原長房の支配下に入ったことがうかがえます。これは、香川氏の発給文書がなくなるのと同時期になります。つまり、この時期に香川氏は三豊から脱出・亡命したと研究者は考えています。
また上の年表からは、篠原長房が讃岐・備中・畿内の戦場を駆け巡り、獅子奮迅の働きをしていることが分かります。ここでは篠原長房が制圧した西讃を足場にして、備讃瀬戸を渡って備中に侵攻し、毛利勢と戦っていることを押さえておきます。天霧城を去ったあとの香川氏の痕跡を史料で見ておきましょう。
1567年9月、西讃を制圧した後に篠原長房は阿讃勢を率いて備前児島に侵攻し、毛利氏と戦います。その際に細川藤賢が備中浅口郡の細川通童に亡命中の香川氏への伝達を依頼しています。ここからは香川之景が、この時期に細川通董と密接な関係を持って、備中で活動していたことがうかがえます。
実はその4年前の1563年6年6月には、香川氏家臣の帰来秋山氏が「神島」に赴いています。香川氏は、何らかの権益を神島に持っていた可能性があります。それが分かる史料を見ておきましょう。
香川之景が秋山家の分家・帰来善五郎へ神島行の論功に対して、知行地を給付しているものです。
今度帰来善五郎至神島相届候、別而令辛労候之条、帰来小三郎跡職悉為新給令扶持候、井於国吉扶持之所々目録二相加袖判候、全可知行者也、弥相届忠節奉公肝要之旨堅可申付候、恐々謹言永禄六(年)六月一日 (香川)之景(花押)河田伝有衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の帰来善五郎の神島(備中笠岡)への遠征について、その労に報いるために、帰来小三郎跡職と国吉の扶持を目録通りに、新たに知行地として与える。よって今まで通り忠節奉公に励むように(帰来善五郎)申付けること、恐々謹言永禄六(1563年)六月一日 之景(花押)河田伝有衛門尉殿
ここに出てくる神島は、西讃の対岸にある備中小田郡の神島のことでしょう。
笠岡の神島と青佐山城
神島は、かつては笠岡湾の入口にあった島で、神島神社が鎮座し、古くから備讃瀬戸交易の拠点だった所です。対岸の庄内半島や三野湾とも活発な交易を行っていたことがうかがえます。また神島は、細川通董の居城青佐山城に隣接しています。ここからも、香川氏と細川通董は親密な関係にあったことが裏付けられます。この時期から香川之景は島伝いに備中へ渡り、細川通董の側で活動していたと研究者は推測します。香川氏が多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことは以前にお話ししました。それが、香川氏を戦国大名に成長させていく経済基盤になりました。例えば、「兵庫北関入船納帳」からは、多度津周辺の浦々の活発な交易活動がうかがえます。


ここで注目したいのは、上表の右端の多度津の問丸です。
通行税無料の過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐、国料船の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたことが分かります。このように戦国時代の多度津は、備讃瀬戸における讃岐側の重要な通称拠点港で、瀬戸内海の各港とつながっていました。特に対岸の備中神島とは、問丸などの関連を通じて、香川氏は何らかの利権を持っていたことが考えられます。そのため三豊脱出後に選んだのが、通称交易を通じて馴染みの深かった笠岡の神島かもしれません。これを裏付ける史料は今のところありません。あくまで仮説です。


神島神社
天正2年(1574年)段階で織田信長の庇護下にあった細川京兆家の当主・細川信良と、毛利氏の小早川隆景の交渉に香川氏が関わっていた史料があります。これも香川之景が備中にいたこと、小早川隆景の下で活動していたことがを裏付けるものになります。一方で、細川信良は聖通寺城主の奈良氏に対して、三好氏を裏切り、香川氏と協力するように命じる文書も出しています。この時期に、讃岐から備中に、阿讃の兵を引き連れて侵攻していたのは篠原長房でした。篠原長房は天霧城を落城させた憎き相手でもありました。香川県史の年表には、1571年のこととして次のような記事が載せられています。
6月12日
足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)8月1日
足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.9月17日
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)」
ここからは、香川某氏が足利義昭に働きかけて、小早川隆景や毛利氏の支援を受ける外交交渉を行っていたことが見えて来ます。
このような香川氏の多度津「帰還運動」が実現するのが1577(天正5)年の元吉合戦です。


このような香川氏の多度津「帰還運動」が実現するのが1577(天正5)年の元吉合戦です。


この戦いについては以前にお話したので詳細は省略しますが、この時に香川氏も毛利氏の支援を受けて多度津に帰ってきたようです。

毛利氏にとって、この戦いの意味は次の3点です。

毛利氏にとって、この戦いの意味は次の3点です。
A 石山本願寺戦争に対して、戦略物資輸送路として備讃瀬戸の南側の脅威をとりのぞく。B 信長包囲網の一環として、信長の同盟軍である阿波三好氏を討つ。C その後の西讃経営のために、香川氏を天霧城に帰し、毛利氏の拠点とする。
つまり、反三好・反信長の拠点として香川氏を「育成」していこうとする戦略だったと研究者は考えています。そのため毛利方は、元吉合戦に勝利したにもかかわらず、年末には兵を引いて西讃から撤退していきます。毛利氏に西讃を任されたのが香川氏ということになります。こうして、12年ぶりに天霧城に復帰した香川氏の動きが活発化します。香川氏の発給文書が再び発給され始めるのも、この年からです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「橋詰 茂 史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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