四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの?
根香寺にはゆかりの怪物がいます。牛鬼です。
今では、境内に立つブロンズの牛鬼像の方が、本尊の千手観音より有名だという話まであります。確かに、千手観音は秘仏で33年毎の開帳ですから・・・
さて、この牛鬼像には原型となった二つの絵があることをご存じでしょうか?それがこの絵図です。
![イメージ 1](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/9/4/947b8428.jpg)
牛を思わせる頭部で、2本の角に鋭い牙と爪を持ち、全身は毛に覆われ、両脇には羽のようなものが描かれています。 この絵には右下に署名も、制作年月日も記されています。そこから文化五年(1808)に石田雪眼が描いたものとわかります。ただ、雪眼の経歴等は分かりません。
根香寺にはいつの頃からか次のような話が伝えられています。
400年ほど昔の戦国末期のことです。
牛鬼が根香寺付近に現れて田畑を荒らしていました。
弓の名手であった山田蔵人高清が討ち取ろうとしますが、なかなか姿を見せません。そこで、根香寺の本尊千手観音に祈願したところ、とうとう21日目の満願の日に目を光らせた牛鬼を見つけることができました。
飛びかかってくる牛鬼に高清は矢を放ちます。
3つめの矢が牛鬼の口中に刺さり、牛鬼は悲鳴を上げて逃げました。高清が血の跡をたどっていくと、定が渕というところで牛鬼が死んでいました。高清は牛鬼を供養するために角を切り取って奉納しました。
退治した牛鬼の姿を掛け軸にしたのが、上の絵のようです。
そして、奉納された牛鬼の角も寺には、伝わっています。
![イメージ 2](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/c/2/c28cbe1e.jpg)
根香寺に伝わる牛鬼の角
牛鬼を退治した山田蔵人については
高松市塩江町の岩部に墓碑があり、文禄三年(1594)の年記が刻まれています。また白峯寺の住職・増真上人について記した「増真上人伝」(『香川叢書』)には増真の叔父と記されれて、天正・文禄・慶長頃の人で弓を得意としたことが伝えられています。実在した人物のようです。
高松藩家老の木村黙老の伝える牛鬼は?
「山田藏人の牛鬼退治」が根香寺の「公式見解」だとすると、もうひとつの話が記録に残されています。それは、高松藩家老の木村黙老が残した随筆『聞くまゝの記』に、寺の伝説とは別の話が次のように記しています。
文化年間(1804~18)の末頃、香西村の猟師徳兵衛が、根香山の谷川で眠っていた怪獣を鉄砲で撃った。海中にも住んでいた生物らしく、角に牡蟻の殼などが付いていた。高松藩士の久本某がその形を写して関西の博物学者に鑑定してもらったが、正体はわからなかった。
という内容です。
根香寺に伝わる「角」も海から上がってきたことを思わせるものであり、伝説に比べると時代が近く内容も具体的で、こちらが事実に近いような感じがします。
黙老は、同書に牛鬼の図も写しています。そこには、口角の牙がなく、手首の爪の描き方が異なるほか、足も蹄風ではなく五本指を描くなど寺に残る絵図とは違います。写し違いとも考えられますが、別の牛鬼図があった可能性もあります。
牛鬼については、安永五年(1776)刊行の鳥山石燕著『画図 百鬼夜行』に三本爪に鋭い牙をもっだ牛鬼図が紹介されています。
伝説上の怪物を描くにあたって、このような図が参考にされたのかもしれません。
伝説上の怪物を描くにあたって、このような図が参考にされたのかもしれません。
文化五年(1808)に石田雪眼が描いた牛鬼図は、今に伝わる根香寺の牛鬼の視覚的イメージを最初に作りだした作品と言えそうです。そういう意味では根香寺の「牛鬼の誕生画」と言えそうです。
![イメージ 3](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/0/d/0d8dbbbe.jpg)
大正時代に描かれた牛鬼図
約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。
江戸時代の石田雪眼の牛鬼図をもとに、約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。体毛が薄くなりモコモコ感を余り感じなくなります。哺乳類から爬虫類への退化?、別の言い方だとぬいぐるみのかわいらしさが残る牛鬼から、悪魔のイメージへと変化して行ったような印象が私にはします。そして、背景に根香寺のシンボルで境内の大榛が描かれます。この寺と関連性が強く打ち出されてきます。
作者である桃舟の経歴は分かりません。
しかし、この牛鬼図のほかにも、この寺に残る「根香寺境内図」や「良覚像二心」「浄心院像」(齢)を描くなど、大正時代末期に根香寺ゆかりの作品をまとめて制作したことが分かります。
![イメージ 4](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/7/d/7d304627.jpg)
現在の「ゆるキャラ」のように新しいキャラを生み出すことで「話題」を提供し、寺の知名度アップと参拝客の増加を図る戦略がとられたのかもしれません。
200年前に生み出されたキャラクターが、今も人々に話題を提供し続けています。
参考文献 香川県立ミュージアム 調査報告書第4号(2012年)