四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの?
根香寺にはゆかりの怪物がいます。牛鬼です。
今では、境内に立つブロンズの牛鬼像の方が、本尊の千手観音より有名だという話まであります。確かに、千手観音は秘仏で33年毎の開帳ですから・・・
さて、この牛鬼像には原型となった二つの絵があることをご存じでしょうか?それがこの絵図です。

牛を思わせる頭部で、2本の角に鋭い牙と爪を持ち、全身は毛に覆われ、両脇には羽のようなものが描かれています。 この絵には右下に署名も、制作年月日も記されています。そこから文化五年(1808)に石田雪眼が描いたものとわかります。ただ、雪眼の経歴等は分かりません。
根香寺にはいつの頃からか次のような話が伝えられています。
400年ほど昔の戦国末期のことです。
牛鬼が根香寺付近に現れて田畑を荒らしていました。
弓の名手であった山田蔵人高清が討ち取ろうとしますが、なかなか姿を見せません。そこで、根香寺の本尊千手観音に祈願したところ、とうとう21日目の満願の日に目を光らせた牛鬼を見つけることができました。
飛びかかってくる牛鬼に高清は矢を放ちます。
3つめの矢が牛鬼の口中に刺さり、牛鬼は悲鳴を上げて逃げました。高清が血の跡をたどっていくと、定が渕というところで牛鬼が死んでいました。高清は牛鬼を供養するために角を切り取って奉納しました。
退治した牛鬼の姿を掛け軸にしたのが、上の絵のようです。
そして、奉納された牛鬼の角も寺には、伝わっています。

根香寺に伝わる牛鬼の角
牛鬼を退治した山田蔵人については
高松市塩江町の岩部に墓碑があり、文禄三年(1594)の年記が刻まれています。また白峯寺の住職・増真上人について記した「増真上人伝」(『香川叢書』)には増真の叔父と記されれて、天正・文禄・慶長頃の人で弓を得意としたことが伝えられています。実在した人物のようです。
高松藩家老の木村黙老の伝える牛鬼は?
「山田藏人の牛鬼退治」が根香寺の「公式見解」だとすると、もうひとつの話が記録に残されています。それは、高松藩家老の木村黙老が残した随筆『聞くまゝの記』に、寺の伝説とは別の話が次のように記しています。
文化年間(1804~18)の末頃、香西村の猟師徳兵衛が、根香山の谷川で眠っていた怪獣を鉄砲で撃った。海中にも住んでいた生物らしく、角に牡蟻の殼などが付いていた。高松藩士の久本某がその形を写して関西の博物学者に鑑定してもらったが、正体はわからなかった。
という内容です。
根香寺に伝わる「角」も海から上がってきたことを思わせるものであり、伝説に比べると時代が近く内容も具体的で、こちらが事実に近いような感じがします。
黙老は、同書に牛鬼の図も写しています。そこには、口角の牙がなく、手首の爪の描き方が異なるほか、足も蹄風ではなく五本指を描くなど寺に残る絵図とは違います。写し違いとも考えられますが、別の牛鬼図があった可能性もあります。
牛鬼については、安永五年(1776)刊行の鳥山石燕著『画図 百鬼夜行』に三本爪に鋭い牙をもっだ牛鬼図が紹介されています。
伝説上の怪物を描くにあたって、このような図が参考にされたのかもしれません。
伝説上の怪物を描くにあたって、このような図が参考にされたのかもしれません。
文化五年(1808)に石田雪眼が描いた牛鬼図は、今に伝わる根香寺の牛鬼の視覚的イメージを最初に作りだした作品と言えそうです。そういう意味では根香寺の「牛鬼の誕生画」と言えそうです。

大正時代に描かれた牛鬼図
約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。
江戸時代の石田雪眼の牛鬼図をもとに、約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。体毛が薄くなりモコモコ感を余り感じなくなります。哺乳類から爬虫類への退化?、別の言い方だとぬいぐるみのかわいらしさが残る牛鬼から、悪魔のイメージへと変化して行ったような印象が私にはします。そして、背景に根香寺のシンボルで境内の大榛が描かれます。この寺と関連性が強く打ち出されてきます。
作者である桃舟の経歴は分かりません。
しかし、この牛鬼図のほかにも、この寺に残る「根香寺境内図」や「良覚像二心」「浄心院像」(齢)を描くなど、大正時代末期に根香寺ゆかりの作品をまとめて制作したことが分かります。

現在の「ゆるキャラ」のように新しいキャラを生み出すことで「話題」を提供し、寺の知名度アップと参拝客の増加を図る戦略がとられたのかもしれません。
200年前に生み出されたキャラクターが、今も人々に話題を提供し続けています。
参考文献 香川県立ミュージアム 調査報告書第4号(2012年)

































































































































































































秋の夕暮れは本当につるべ落とし。
さっきフェリーからぼた餅のようにでかい夕陽を見たばかりなのに、
駅構内はすっかり闇の皮膜に包まれている。
雨よけの屋根に取り付けられた蛍光灯から吐き出される白っぽい光にも暗さが忍び込み、
行き交う人が亡霊のように現れては消えてゆく。
腕時計に目をやる。
ぎりぎり間に合いそうだ。
プラットフォームの中ほどに自販機があった。
その前に黒い人影が見える。
小さい。縮こまってるようだ。
私は小走りに通り過ぎようとした。
「あの~」
遠慮がちな女の声がした。
私は一瞬逡巡したが、立ち止まり、声の方に振り向いた。
小さな黒い影の正体は老女だった。
手に何か持っている。
眼窩に沈んだ目が憶病そうに私の反応をうかがっている。
「どうかしましたか」
「ええ。これなんですが……」
老女は何か差し出した。
それは缶コーヒーだった。
まさか私にくれるというのではあるまい。
「これがどうか」
「これ、固くて開かないんです」
老女の小さな手から缶コーヒーを受け取った。
熱い缶コーヒーの温もりが手の中に広がった。
私は造作なくプルトップを引き上げた。
「さあどうぞ」
老女の顔に笑顔が咲いた。
「ありがとうございます。今日は寒くて……」
老女は感極まったように言うと、何度も何度も頭を下げた。
私が飛び乗ると、列車は錘が外されたように構内を滑り出した。
車窓を街の灯りがなぞって飛んでいく。
老女も背後の闇に紛れ、過去の時間の一部となって消えていった。
なのに老女の残像が頭を離れない。
私が考えていたのは、母のことだった。
母もあの老女と同じように、缶コーヒーのプルトップを開けられずに四苦八苦しているのだろうか。
よく考えると、もうその年齢だ。
プルトップさえ開けられなくなった母。
最近忙しさにかまけてそんな母のことを忘れていた。
プラットフォームのベンチにぽつりと座り、
缶コーヒーの温もりで手を温める老女の姿が、老いた母と重なった。
プラットフォーム。
再開の喜びと別れの悲しみを綴る場所。
そして帰る場所を持たない人間に最も孤独を押しつける場所。
胸の奥に小さな痛みが走った。

冬を越し、春の匂いが鼻先をくすぐる頃になると、
モウの身体も随分と大きくなっていた。
あと二ヶ月もすれば田植えが始まるが、そのときには一人前の働きを期待されるだろう。
その大事な牛に餌をやるのが、私に与えられた役割分担だった。
そこで毎日、早く大きくなれと、祈るような気持ちで世話をしていた。
毎日顔を合わせていると心が通う。
犬と同じで牛も利口な動物で、こちらの気持ちを十分に汲み取るようになる。
いつしか仲間意識が生まれた。
小学生だった私は、よくモウと会話をしていた。
私がその日あったことを細かく説明すると、
大きな目をこちらに向けて真剣に聞いてくれる。
ときどき頭をぶるぶるっとゆすって、こちらに近づけてくる。
「君の話はよく分かったよ」という合図だ。
こんなとき「ありがとう」と言って、頭を撫でてやる。
すると、とても嬉しそうな表情を作るのだ。
そんな優しい心根のモウが好きだった。
けれども牛小屋で飼われてろくすっぽ外にも出られないモウが哀れでもあった。
所詮は人間と対等ではなかった。
その頃、よく牛の運命について考えていたように思う。
もし自分が牛に生まれていたらどうなっていただろうか、などと。
中でも私を苦しめたのは、モウが大きくなって大人の牛になるときのことだった。
そうなると牛市に連れて行かれてしまう。
それは私にとってはとても悲しいことだった。
いつそのときが来るのか、びくびくしながら暮らしていた。
季節が一度巡った。
夏が過ぎ、空が一段と澄んで高くなり、あちこちで祭り囃子が聞こえるようになった。
収穫も終わり、農家ではひとときの休みに入る。
モウはすっかり大人の牛になっていた。
筋肉が首、そして肩口から背中にかけて盛り上がっていた。
足も太い。
モウの成長に呼応したように、私たちの関係もこの一年でぐっと深くなっていた。
私は相変わらずモウに何でも話していた。
モウはそんな私の話を身をすり寄せてきて、
大きな目をじっとこちらに向けたまま聞いてくれるのだった。
涙を含んだような潤んだ目が柔らかな光を帯び、
その中心に私の顔が映ると、私はモウと一緒に生きていると感じた。
雲一つない大空のように澄んだ瞳に掬われると、
どんなに苛立っていても気持ちが和らぐのだった。
でも私が恐れていたことが起こった。
その日は朝から暖気が漂い、昼間にはぽかぽか陽気の小春日和となった。
その陽気も手伝って、私は放課後友達に誘われるままサッカーに興じ、普段より遅く家に帰った。
もうすっかり暗くなっていた。
カバンを置いて真っ先にモウのところに行った。
電気のスイッチを入れた。裸電球がぱっとオレンジ色の光を放射した。
その瞬間、私は言葉を失った。
いない。
そこにいるはずのモウがいないのだ。
数日前、父が有線電話で誰かと話をしていた。
その会話の一部が思い出された。
「じゃあ、木曜日の午前中にでも引き取りにきてください」
父の声は低く、声を落としているようだった。
考えるに、あれはモウの引き渡しの話をしていたのだ。
私はすべてを悟った。
まず、モウに申し訳ないことをしてしまったという罪悪感が登ってきた。
私は唇を噛みしめ嗚咽した。涙が止まらなかった。
その晩、蒲団にくるまって、モウ、モウ、モウと心の中で叫んでいた。
いくら呼んでも心に開いた穴を埋めることはできなかった。
トラックに乗せられ牛市に連れて行かれるモウ。
何度も後ろを振り返り助けを求めるモウ。
悲しみに満ちたモウの目が私をじっと見ていた。
明け方、やっと睡魔が襲ってきて眠りに落ちた。
私は愛犬のミックが死んだ日と、モウが姿を消した日を忘れることができない。
思い出はいっぱいある。
でも大人になる過程で、燃えるものと燃えないもの、
捨てるものと捨てないものに分別して整理してきた。
捨てないでおいた思い出も、時間の経過と共にその色合いを失っていった。
けれどもこの二つの思いでは、
真夏の夜空に咲いた打ち上げ花火のような鮮烈な印象を今も残している。
ミック。モウ。
楽しかったよ。
素晴らしいひとときをありがとう。
そしてお休み。
人間は他者の命と引き替えに生きている。







例えば古びた瓦とか戸板をはがしてみる。
すると長年の風雨に耐えてきた黴びた時間の残骸が降り積もっていて、
それらが冬眠から叩き起こされたみたいにのろのろと動き出す。
大きく張り出した大木の枝にすっぽり包み込まれた小さな神社。
その境内から鬼ごっこに興じる子供たちの歓声が、
過去という時間の壁を破って聞こえてくるような気がする。
「もういいかい? まあだだよ」
ぺんぺん草に覆われた廃屋の大黒柱が、
折れた背骨をぐいと青空に突き立てて、
今もって往事の矜恃を見せつけていることもある。
まさに歳月の辛辣さと、それに翻弄される命ある者の儚さを感じてしまう一瞬だ。
坂手港に車を置き、狭い路地を登っていった。
狭い路地といっても住民が普段使っている生活道路で、車も自転車もリヤカーも通る。
わびしいがしっくりそこの空気にとけ込んでしまうある種の安堵感が浮遊している。
アキレス腱に少し痛みを感じながらも、小豆島霊場第一番洞雲山を目指し、
一歩一歩自分を押し上げていった。
少しずつ視界が大きくなっていく。
それに合わせて気持ちも晴れる。
民家が途切れ、段々畑が現れた。
老夫婦が地べたに腰をおろしたまま大豆の皮を剥いていた。
野良仕事に服従してきた背中が丸くて小さい。
陶器の人形のようにも見えるその後ろ姿に、突然、父と母の顔が浮かんだ。
一時の感傷を捨て、さらに上に行く。
もう随分と上まで来ていた。
視界を遮るものはなかった。
家々のくすんだ甍の向こうに別の甍の波が広がっていた。
海だった。
雲間からなだれ落ちる逆行の太陽光線が、鋭い針のように海面に突き刺さっている。
その部分だけがスポットライトを浴びせられたように照り輝いているが、
秋の物寂しい海にやんわりと説得されて周囲の空気と折り合いをつけていた。
太陽が雲に隠れた。
眩しさが引っ込むと、視界に色が戻ってきた。
秋の色が空気だけでなく、木々にも野草にも、
そして土にもこびりついているのが分かった。
目の前に紫色の大きな花がぬっと現れて、その頭を風に揺らしていた。
近寄ってみると、一つの花ではなく、
無数の小さな花弁が寄り集まって一つの房を作っていた。
残念ながら名前は知らない。
私は額の汗を手の甲で拭うと、再び歩き出そうとした。
と、そのとき雲が破れ、その隙間からまたしても太陽の光が落ちてきた。
紫色の花に代わって、今度は無数の黄金色の玉が浮き上がってきた。
それらは洗い立てのようにきらめき、水気を帯びた瑞々しい柔らかささえ放っていた。
目の前に現れたのはミカンだった。
私はこんな光景を子供の頃何度も夢に見たことがあった。
大人になった今もそうである。
オレンジ色のミカンが鈴なりで、その向こうに真っ青な海が広がっている。
その海を割るように真っ白い船が走る。
まさにメルヘンだが、今でも丘の上のミカン畑の向こうに広がる青い海が、
私の想像力をかき立ててやまない。
瀬戸内の風景を語るとき、ミカンと青い海という組み合わせをを欠かすことができない。
まさに私にとっては牧歌的要素の代表格である。
ミカン、か。
思い出すと、小さな溜息が出る。
苦いというか、酸っぱいというか、一つの思い出に行き着く。
今考えたら、自分がなんて親不孝だったのか、と自分を責めずにはおれない。
が、もう遅い。
私の父は他界するまでの約二年間を人工透析の厄介になった。
腎臓疾患だと分かると、医者の勧めで食事療法に乗り出した。
最初はそれで少し進行は抑えられたが、一年くらいすると、
もう食事療法では対処しきれなくなった。そしてやむなく人工透析。
父は人工透析するくらいなら死んだ方がましだと、
頑迷に医者の忠告を聞き入れようとはしなかった。
私と兄がなんとかそれを説得した。
「親父、長生きしたらまだまだいろんなことができる。好きな花や茶も楽しめる」
「そうや。週に三回はしんどいかもしれん。
でも生きとったら、兄貴の言うとおりまだやり残したこともできる。
親父の人生やからとやかく言う筋合いでないかもしれん。
だがわしら子供は親父に悔いのない人生送ってもらいたいんや」
「金もいらん。名誉もいらん。ええ人生やったと言うてくれたらそれでええ」
翌日から透析が始まった。
親父を説得したものの、
透析が終わって病室に帰ってきた親父のぐったりと憔悴しきった姿を見るにつけ、
本当に説得が正しかったのかどうか、二人して顔を見合わせることが何度もあった。 











ついこの間帰島した私は、両親の墓参の時そこを通ると、
トランクを持った旅の学生が柵にもたれて物思かしげな恰好で沖を眺めていた。
妹の云うことに「姉さん、春月の墓に似合うとるのう」とにやにやする。
墓ではなく詩碑なのだろうけれど、私たちは墓なみに、持っていた椿や金盞花を供えた。
絶筆「海図」の詩が原稿のまま銅板で自然石の詩碑にはめこまれ、
後ろに廻ると石川三四郎氏の筆で故人の来歴が刻まれてあった。
小豆島は石の産地でもあり、北浦村あたりには大阪築城の残石が残っている位だから、
この詩碑も島の自然石なのだろうが、
周囲の地盤がコンクリートで固められてあるのは、心ないわざのように思える。
地盤をめぐらした鉄の鎖の外側は雑草が乱れていて、紫の露草の花が咲いていた。
夏が来れば虫も泣くであろうに、コンクリートは雑草もよせつけない固さで
しろじろとしているのは、春月氏のためにも辛い感じである。
村中を見良せるこの丘は山を背負い、静かな海を目の下に眺められる特等席である。
空白の陸地に立って今春月の霊は、どんな気持で海を眺めているであろうか。








































式典はオリーブの丘と呼ばれている、50年前からの旧オリーブ園で催されました。
園内に式典のための広場がとれたのも、はげしい戦争時代を挟んで、
荒れるにまかせたオリーブが枯れ果てたためかもしれません。
そんなオリーブ園の姿を、おじいさんはどんな気もちで眺められたでしようか。
オリーブの樹齢は私はわかりませんが、
おそらく、おじいさんの植えたオリーブなどは、もう影も形もなくなっているかもしれません。
なぜなら、かつて私が若いころの記憶にあるオリーブ園は、
オリーブの茂みにおおわれたオリーブ色の丘であったからです。
園内に入ると、腰をかがめてくぐりぬけねばならないほど、
オリーブは、頭上すれすれにまで枝をひろげていました。
それが、今では何千の人が一つ所に集まれるほどの隙間ができているのです。
しかし、オリーヴの若い苗木はすくすくとのびていました。
正直なところ、私の胸を去来する思いは、
オリーブの50年が、いつも平和と遠かったということでした。
そして、オリーヴ園にかぼちゃがが這っていたこともある戦時中のある時期など
を思い出し、このオリーヴ園の下の道を、
日の丸におくられる若者たちの姿があとをたたなかったその時代に、
オリーヴは枯れていたことなど、新しく思い浮べながら、
式典の進行を、多少、辛い思いで眺めていました。 
























そのししが本当の猪と一緒に山から出て来ては畑を荒して困るので、
山と里との境に石坦を作った。
それが今も残っている。
その石坦を村の人たちはしし坦と云い、
私たちは万里の長城などと云った。
子供の頃の私はししは猪だけだと思い、
猪が山の奥から里をめかけて向う見ずに、たあっ!と駆け出して来てしし坦に突き当り、
そこで大怪我して死んだのだろうとひとりで決めていた。
そして自分たちの時代になって、ししが村里へ山て家なくなったことを、
大いに安心したものである。
ところが、ししが島にいなくなったのは、しし垣で怪我をしたのではなく、
ししコレラがやって死に絶えたという話であった。
それにもかかわらず、私はししは怪我をしたり、打たれたりして絶滅したのたと信じていた。
今でも村には「ししうち」と呼ばれている家がある。
現在は漁師なのたが、昔は猟師であったにちがいない。
ししに死なれて、山から海に縄張りをかえたものであろうか。
神懸山を根城に猿の方は群れをなしている。
禁漁区になっていて、危害を加えられないと知っている猿は、
その昔の海賊のように峰から峰を伝い歩き、傍若無人の振舞いをしているらしい。
それに比べて鹿の数はまた極めて少ない。
もう二十年も前のことになるが、
ある曰、立派な鹿の夫婦が山の中から突き出している岬の灯台へ、のこのことやってきたことがあった。
燈台から電話で「只今、大きな鹿が二匹来ています」と告げた。
この電話は岬の燈台と、村の郵便局との専用であり、主に船舶の通信用に用いられていた。
その時村の郵便局に勤めていた私がその電話を受けたことは、
当り前のことなのだが鹿を初めて見つけたのが灯台守で、
それをはじめて聞いた村人が私なのたということに私は妙な興奮を覚え、
仕事をおっぽり出して村の人たちに知らせたものである。
猿と同じに禁漁になっているので、生捕りも打ちとりも出来はしないのたが、
死に絶えたと言われていた鹿がいたということが喜びであり、ニュースであって、
長い間、人目にかからなかった位だから、
鹿は(祖母時代にはししである)殆ど全滅であったにちがいない。
その中を、この二匹の鹿夫妻がどのように暮らしていたらうと云うことを考えると、
何か落人的なあわれさと、つつましやかさが感じられた。
後略 壺井栄 随想・小説「小豆島」 光風社 昭和38年発行より引用



