瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:香川県史14巻民俗編

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

髙松平野とその丘陵部の東西の植田町には、熊野神社が数多く分布すること、その背景として、中世に屋島寺や大内郡の水主神社の熊野行者の活発な活動があったことを以前にお話ししました。熊野行者の痕跡は、香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」として報告されています。この中には、熊野信仰の道と「平家落人の道」・「義経がきた道」が重なりあっていることが指摘されています。今回は、これを見ていくことにします。
 髙松平野から塩江に至るルートには、次のような熊野信仰の痕跡が残されていることを以前にお話ししました。
①松縄町の熊野神社(熊野大社別当・熊野湛増の子孫の建立)
②元山町の熊野神社(元山権現) 大熊氏(熊野湛増の子孫)の建立
③十川西町佐古の熊野神社(吉田神社と同居)
④ヒジリ(聖)の墓  熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡
⑤トンボ越 修験者の聖地
⑥城池 植田美濃神の戸田城 山伏池と祠
⑦戸田城の守護神宝(熊野)権現           
⑧菅沢町の熊野三所権現
⑨塩江の熊野権現
「松縄 → 植田 → 菅沢→ 塩江」までは熊野行者の活動拠点が点々と続きます。これに県史14巻に載せられている平家落人伝説を重ねていきます。
まず②の「かまとこ寺蔵」からみていくことにします。 
 春日川の上流、神村(こうのむら)には、かまとこ地蔵が祀られてある。
平家の落人がここまで逃げてくると馬の足音がする。 追手が来た、とまだ火を入れていない炭焼窯にかくれたところ、源氏の兵たちはその炭焼窯を土でふたをしてしてしまった。それから後、さまざまの怪異が起きたので、源氏でもない平家でもない地元の人たちは炭焼窯の床に地蔵を祀った。窯の床に祀られた地蔵のそばに、桜の古木が植えられてある。
炭焼き窯に隠れた兵への落人を供養して地元の人たちが、その窯の床に寺蔵を祀ったというお話しです。続いて大石には「平家ばあさんの木」の話が伝わります。ここには姫君と乳母の塚があり、木を切るとたたりがあるとされます。桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿、こんなことわざとともに、平家ばあさんの木を切ることを諫めています。
黒岩神社 植田町
黒岩神社 髙松市西植田町
黒岩では平家の宝刀が埋められていると伝えられます。祈願を黒岩神社にこめたところ、病が治ったのでお礼に剣を埋めたと云います。
落人ではありませんが祇王(ぎおう)祇女が隠れ住んだという下谷も近くにあります。 妓王は「平家物語」に登場する白拍子のことで、ふたりとも 平清盛に寵愛されますが、仏御前に寵愛が移ると冷遇され、屈辱から自害を決するが母に止められ出家します。そして二人を追って仏御前もやってきたというのです。そして、それが次のような地名になっていきます。
①仏を背負って越えた峠が仏坂
②祇王たちが住んだ近くの山は祇王山
③これら迷いの多い女たちが煩悩を解脱したのが生枯(はえがらし)
④「もえ出るも枯れるも同じ野辺の草いずれか秋にあわれはつべき」と彼岸に達したところの地名が生枯
こんなストーリーを語るのは、行者や聖が得意とするところでした。全国を廻国して仕入れた情報や話題が「還元」されていきます。
 平家の女人伝説はさらに、綾上町前山に続きます。この周辺には姫塚伝説が各所に残ります。
都が見えるところ、すなわち海が見える高地へ葬られた塚とされます。さらに琴南町雨島にも姫塚があります。姫塚は、どこも屋島から逃れてきた足弱な姫君がみまかったところとされます。今は、山桜の古木が枝を広げています。景色の良い山の上に石組みの塚が造られていたことがうかがえます。それが姫塚として、平家落人伝説に結びつけられていきます。
 しかし、民俗学者は「姫塚」の別の用途を次のように述べます。

卯月八日の「山遊び」は山の神を迎えるため
山の神を迎えに、人々は春の山に登って、積善のために石を積んだ。

「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔(塚)」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や国見を兼ねて見晴らしの良い山に登ります。そこで積善のために石が積まれたのです。以前にお話ししたように、中寺廃寺のCゾーン(祈り)の石組みも、春の「山遊び」の際に積まれた石組み(塚)と研究者は考えています。讃岐の景色のいい山の頂上近くや川原にも、このような塚が積まれたことがうかがえます。それが後世になって用途が分からなくと、修験者が落人伝説と結びつけて「姫塚」と呼ぶようになったと私は考えています。
中寺廃寺Cゾーン 石組み
中寺廃寺Cゾーンの石組み(まんのう町) これが姫塚とされた?

 屋島から矢が飛んできたという岩、平家の落人と地元の兵たちが戦った弓取橋など、名もない塚などはすべて落人の塚として今に伝わっています。

大滝山 龍王山から大川 讃岐国図2
                  江戸時代初期の讃岐国絵図 
山田郡の下司 → 塩江 → 貝の脵川 → 堂床 → 雨島 → 横畑というルートが見えてくる
   美合村(まんのう町)横畑集落の宮本家に伝わる平家落人伝説について、香川県史14巻民俗編540Pは、次のように記します。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は海上へ逃がれることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、①高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀ったと言う②かまとこ地蔵、③平家乳母の塚、落人ゆかりの伝説がいくつか語り残されている。春日川上流の峰を越えると香川郡香川町、さらに山道は綾歌郡綾上町仲多度郡琴南町へと一直線上にけもの道が隠されている。 
ここからは横畑への落人の道は、次の2つのルートがあったようです。
A 塩江町から貝股川沿いに、浅木原を越えて、横畑へ入りこんだルート
B 綾上町柏原から西谷川沿いに郡境を越えて、まんのう町の雨鳥の郡境尾根から浅木原→横畑というルート
大滝山 龍王山から大川 讃岐国図

そしてこれらのルート途中には、次のような落人伝説があるようです。
雨島に平家落人の塚
前の川に四方塚
長谷に、体の弱った兵たちがはぜの木にまけたという地名由来
雨島峠4
           綾川方面からの美合への入口となった雨島峠

こうしてみると、どちらのルートにも落人伝説が散在しています。これは、熊野行者や高野聖などの修験者が、このエリアを行場や霞として通ってきていたからだではないでしょうか。それが横畑の宮本家に残る平家落人伝説につながることは以前にお話ししました。

雨島峠の寺蔵
雨島峠に建つ「二界万霊」地蔵
 香川県史14巻468Pには、通説のルートとは違うもうひとつの「義経が来た道」紹介されています。それは吉野川をさかのぼり、まんのう町勝浦を越えて来たというルートです。それを最後に見ておきましょう。
 勝浦(かつうら)とは縁起のよい地名だと勇みたった義経軍は、通る道が二つ分かれた、右するか左するか、ええい、真ん中を通るべしと野原の中央を通る。中通(なかと)と現在呼ばれる地点である。流れの激しい渕では馬を休める、渕の石には義経の馬のあとが岩にきざまれる。駒が淵を通り、物見の兵が山へあがる。雨島の遠見山である。平家姫君の塚がある山である。日が暮れて道がよくわからないので、松明に火を点じたところ、牛の尾に火がついて山の木立が燃えはじめた。このあかりで峠を越える。これが焼尾峠、琴南町から綾上町へ抜ける峠道である。
 
 山が燃えたので雨が降り出した。しぼり谷でぬれた衣をしぼったものの兵たちに生気がない。そこで義経は牛の子堂に祈願をこめる。「勝利に導きたまえ。我にお力添えをいただけるのなら、あかしを見せ給えと。そのとき山上から赤い子牛が下りてきて、先へ先へと歩いてゆく。木が茂り曲がりくねったところも牛に続いて歩けば道は開ける。曲木(もじき)・開(ひらき)と呼ばれるところ。萩戸から菖蒲を通り、四歩市、九十谷へ来たとは、いつの間にか牛が九〇匹となり、千疋へ来たときは牛が千匹にもなっていた。矢坪で矢の用意をし、牛の角松明をつけて屋島へと向かった。義経弁慶石のあるあたりは柴折り神さんとなり、柴を折って手向ける。
 東谷には、義経の馬の病気を治したという神職の話も残されている。
これらの話も、大川神社の別当を務めていた山伏たちが祭りや庚申講の時に夜を徹して話したことが伝わったものでないかと私は考えています。「平家落人伝説の影には、山伏あり!」です。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 
香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」
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髙松平野南部の神社分布図を見ていると、熊野神社が多いことに気がつきます。

髙松市十郷町の熊野神社
髙松平野南部の十河町周辺の熊野神社
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊邪那岐命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら髙松周辺の熊野系神社(『香川県神社誌』)を一覧表化したのが次の表です。

讃岐の熊野神社3
          高松市周辺の熊野神社一覧
ここからも植田町から塩江などに、熊野神社が数多く点在していることが分かります。
どうして、髙松平野の南部には熊野神社が多いのでしょうか?

髙松平野の武士団による熊野神社の勧進

上皇や公家たちの間での流行であった熊野信仰が、地方の地頭クラスの武士たちに拡がっていったのは12世紀初頭の承久の乱以後とされています。そして、讃岐で熊野詣でが活発に行われるようになるのは14世紀以後のことです。こうして熊野から勧進された熊野系神社が讃岐にも姿を見せるようになります。その勧進で大きな役割を果たすのは、次の2者です
A 増吽のような熊野行者たち
B 熊野詣でを行い信仰心を高めた武士団の棟梁たち
以上を予備知識として、髙松市東植田町周辺の熊野系神社は、建立に関してどのような由来を持っているのか、具体的にはどんな人によって建立されたと伝わるのかを見ていくことにします。テキストは「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450Pです。

熊野参拝システム

髙松市南部の熊野神社の教勢拡大の拠点とされるのが松縄の熊野神社のようです。

髙松市松縄の熊野神社2 
髙松市松縄の熊野神社
その説明版を見ておきましょう。
髙松市松縄の熊野神社 
 髙松市松縄の熊野神社説明版 
ここには次のように記されています。
「祭神:伊弉冊尊・事解男命・速玉男命元久・
承元年間(1204~1210)紀州の熊野清光が三木郡田中村から山田郡の十河村、それより松縄村に移住した。そこで、熊野神社の神霊を勧請して社殿を新宮・本宮・那智三社を三所に造営した。そのため三所権現と称した。大正六年(1917)に合祀して一社とした。文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。その後、元亀・天正の戦乱によって社殿もこわれたのを、元和元年(1615)生駒家三代正俊が社殿を再興し社領三石を与えた。この熊野神社のある丘の周辺が松縄城跡と推測され、代々宮脇氏が居城した。宮脇氏は紀伊熊野の海賊を率いて活躍した新宮別当湛増の子孫とも伝えられ鬼無の佐料城に居城する香西氏に属していた。戦国時代末期には、宮脇長門守又兵衛が、信長・秀吉に仕え、軍功をたてたという。高松市教育委員会。」
ここからは次のような情報が読み取れます。
①紀州の熊野清光(熊野別当湛増の子)が、移転を重ねながらここに熊野神社を造営したこと
②当初は新宮・本宮・那智三社あったので三所権現と呼ばれた
③香西氏に従っていた宮脇氏(熊野清光の子孫)が、衰退していたものを居城の松縄城周辺に再建した
建立者の熊野清光は、熊野別当の湛増(たんぞう)の子とされます。しかし、①②③からは、清光の子孫を名のる宮脇氏が、湛増・清光の創建伝説に自分たちの再建を「接木」したものに思えます。
 また、清光が松縄にやって来たとしても承久の乱以後で、それは13世紀初頭のこととされます。そうすると熊野神社の勧進もその前後になります。これは、熊野行者による全国展開よりも百年以上早いことになります。これも、この伝承をそのままは信じられない理由のひとつです。
ウキには湛増について次のように記します。
元暦2年(1185年)、源義経によって①平氏追討使に任命された熊野別当湛増は、200余艘の軍船に乗った②熊野水軍勢2000人を率いて平氏と戦い、③源氏方として屋島の壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した。これらの功績により、文治2年(1186年)、熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた。
ここからは湛増が「熊野信仰の責任者 + 熊野水軍指導者 + 源氏方に協力」した宗教者であり、水軍などの軍事指導者であったことが分かります。その子・清光が讃岐にやってきて勧進したのが松縄の熊野神社とされます。

武蔵坊弁慶と熊野別当湛増と闘鶏の像 - Picture of Tokei Shrine, Tanabe - Tripadvisor
弁慶の父ともされる湛増
 さらに伝説では、湛増は義経に仕えた弁慶の父とされていました。そうだとすると清光と弁慶は兄弟関係だったことになります。かつては「弁慶の兄弟清光が建立した松縄の熊野神社」として人々には伝えられていたのです。由来に登場させる人物としては申し分ありません。

熊野信仰の讃岐への浸透

湛増と松縄の熊野神社の関係を、香川県史14巻462Pには、聞き取り調査報告として次のように記します。

(湛増の子清光は)野原荘、太田荘などの領地を得て住みついた。そして、松縄に熊野三所大権現を勧請し、紀州熊野から本宮・那智・新宮の三社神をお迎えした。かつては宮西の二つの丘にそれぞれ別々にお祀りされ、祭りの日も新宮が八月十三日、本宮九月十五日、那智九月十七日であり、たかばたけの宮、いかきの宮と呼ばれていた。大正の初めに寄せ宮となり、現在の地に祀られるようになった。鳥居の神額は「熊埜三所「宮」となっている。御手洗の井戸水は現在も飲料水となっているとか。長い年月の間にさまざまの浮き沈みがあったが、この松縄に熊野神社を勧請したのは熊野清光なのである。松縄道と呼ばれる松並木の道は、改修によりかっての面影は半減したが、今なお昔の繁栄がしのばれる。
この地にしっかりと根をおろした①熊野湛増、清光の子孫は、宮脇、大熊両家へ引継がれてゆく。②湛増の子孫は、松縄城に住み、越中守長定、兵庫頭と続く。兵庫頭の娘は、勝賀城主香西伊賀守清の片腕と言われた植松備後守に嫁いだ。香西伊賀守は讃岐の中世の武将のなかで悲運をかった盲目の城主なのだが、この香西氏は先見の明があり、瀬戸内海という航路に早くから目をつけ、国内は言うに及ばず、遠く南方にまで貿易の手をのばしていたと伝えられる。
系譜の偽作方法は、史料や記憶で遡れるとことまで遡ったら、あとはかつて実在した名家の家譜に「接ぎ木」することであることは以前にお話ししました。ここでも①②の熊野別当の湛増や、その子清光に、宮脇家や大熊家の家譜が接ぎ木されていることがうかがえます。それを近世の戦記物が取り上げ、広まっていきます。
  松縄の熊野権現(神社)の創建は、先ほど見た説明版の「文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。」の「再建」を「創建」とした方が妥当だと私は考えています。つまり、15世紀後半に宮脇氏によって建立されたという説です。そうだとすると宮脇氏の熊野信仰の先達(熊野行者)はどこにいたのでしょうか? 周囲を見回してみると、眼に入るのは屋島寺です。

以前に
屋島寺に残る熊野権現の痕跡を次のようにまとめました。 
屋島寺に残る熊野信仰痕跡
特に応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達が「髙松の一族」を熊野詣でに先達したことが分かります。屋島寺は、京都の律宗西大寺の影響下にもありましたが、坊主の中には熊野信仰を持つものもいたはずです。ひょうとしたらここに出てくる「行政坊有慶」が、宮脇氏の一族の者を率いて熊野詣で行っていたかもしれません。ここでは松縄周辺の熊野神社は、屋島寺を拠点として活動する熊野行者たちによって建立されたものではないかという説を出しておきます。それは時期的には大内郡の与田寺で増吽が活躍していた頃です。
 屋島寺の髙松平野南部への影響力を示す伝承がありますので見ておきましょう。
香川県史14巻民俗編479Pは、次のように記します。
(東植田町の)杣尾は、屋島寺を建てる木材を供給したところなので、杣尾・寺峰の名がついた。もともと屋島寺はこの地へ建てる予定であった。堂池へは本堂を建て、寺峰へは鐘撞堂を建立するつもりでキズクリを始めた。高柿にあった大柿の木を切り倒して材としていた。昼も夜もとんかんとキズクリをする音がやかましいと言う人が、樵夫たちを追っぱらってしまった。すると、音がぴたりと止み、夜のうちに屋島寺建立の木材は消えうせてしまった。一夜のうちに、木を運んで行ったものがあるのだ。しかし、あまりにもあわてていたのか縁の板を一枚途中で落としてしまう。 だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。 なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。 鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。
だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。
なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。
鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。

ここには、杣尾は屋島寺への木材供給地だったとします。とすると杣尾周辺は、屋島寺の寺領か管理地で、木材の切り出しができた所ということになります。杣尾周辺に屋島寺の影響力が伸びてきていたことがうかがえます。それに対して、妨害・対立する勢力があったようです。そのため天狗が一晩で、切り倒した木材を屋島寺に運んでしまったというのです。これも屋島寺の飛鉢伝説と同じで、修験者たちの「創作話」によく出てくる話です。修験者たちの拠点であった屋島寺の当時の性格を表しているとも云えます。
さて、杣尾のすぐ南には松縄の熊野権現を勧進した清光を祀る祠があります。

髙松市植田町清光神社2

髙松市東植田町下司には、古代の下司(げし)廃寺塔跡があります。発掘調査はされていませんが、この塔跡は、比較的よく残しています。高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、次のように記します。
塔跡基壇は高さ約2メートル、大きな楠の樹間に祠(ほこら)が置かれ、礎石数個が露出し、古瓦破片が散乱している。境内地並びに堂宇の全容は不詳であるが、周辺の地名(東の丁・中の丁・西の丁など)があり、相当広い寺域にわたっていたことが推定され、この地が宗教的に開けていたことを物語っている。

髙松市東植田町 下司廃寺の白鳳時代の軒丸瓦

昭和38年道路工事の際に出土した軒丸瓦(復葉蓮華紋)には、蓮9個、八葉複弁蓮華紋で周囲に波紋があります。他に布目瓦も出土しているので奈良期白鳳時代の古い寺とわかります。古代から開けたエリアで、有力豪族がいたことがうかがえます。
 また下司という用語は、中世の荘園の荘官のことで、後には「役所のこと」として使用されました。この附近には、中の丁、東の丁、西の丁という地名が残っていて、条里制の条と考えられ、四方に水利を引いていたようで、その取水点に荘園の下司(役所)が置かれていたことが考えられます。古代寺院跡から中世荘園の荘官跡へのつながりがたどれます。下司廃寺の境内に含まれる中の街道沿いに清光神社という小祠があります。
髙松市東植田町下司 清光神社
熊野清光を祀る清光神社(髙松市東植田町下司)
これが松縄の熊野神社を勧進した清光を祀る祠です。

髙松市植田町清光神社3
清光神社の釈迦如来と薬師如来
祠には、石造りの釈迦如来と薬師如来が祀られてあり、椋の巨木の根の下には布目瓦が幾枚もくみ敷かれています。どうして、清光を祀ったかについては、次のような話が香川県史14巻462Pに載せられています。
 平野部を行く南海道に対して山間部を行く脇街道としてにぎわった下司から、とんぼを峰越え三木町三つ子池へののぼり坂となる。三つ子池を望む地点が村境である。池の中に小祠のある大岩があり、この大岩を清光が背負って来たという。

髙松市三つ子池の大岩
三つ子池の大岩 行場で聖地となっていた
ここでの話は、熊野権現のお告げにより三つ子山から清光が大岩をかかえ下ろしたと言う。これが光護石とも言われる。清光は最初は三木郡田中に住み、後に山田郡十河を経て、高松市松縄町に移り住んだ。彼は源平屋島合戦に功績のあっ熊野別当湛増の子孫であると伝えられている。
 もともとは、松縄の熊野権現の建立者として登場した熊野清光が、ここでは大岩を抱えて運んできた強力として伝えられています。これも庶民の語り継ぐ「村の歴史」かもしれません。それにしても、この周辺には熊野神社が多いことに改めて築かされます。その背景を次回は考えたいと思います。
以上を整理しておきます。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

①14世紀になると髙松平野にも熊野信仰が浸透してくるようになった
②それを伝えたのは、屋島寺や東讃の水主神社の熊野行者たちであった。
③彼らは周辺の行場で活動を行いながら髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、熊野に誘引した。
④武士団の中には熊野詣でに参加し、高まった熊野信仰を背景に、熊野三社を氏神として勧進するものも現れた。
⑤こうして15世紀なると、松縄などに武士たちによって勧進された熊野神社が姿をあらわすようになった。
⑥後世になると、その建立由来は熊野別当の湛増や清光の系譜に接ぎ木されるようになった。
⑦ここからは屋島寺や水主神社の髙松平野への勢力伸長と、それを受けいれた武士団の熊野信仰の受容や熊野権現建立が見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻462P
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  香川県史14巻民俗編には、旧琴南町中熊の造田家の聞取り調査報告が載せられています。今回はこれを見ていくことにします。

中熊と山熊神社

中熊は、明神の谷川うどんの前から琴南総合センターの前を辿って行くと、すぐに土器川支流の中熊川沿いに南斜面が開けます。中熊は、ソラの集落としては開発にはもっとも条件がよい場所で、早くから開かれた集落だとされています。それでは県史の記述を見ていくことにします。

中熊下
中熊下 集落の中央に山熊神社が鎮座する ⑤が造田家

 (前略) 谷のほとりの幾分平たんな土地へ人々は焼畑を作り、日当たりのよいところへ住まいも建てた。美合中熊の集落も、谷川を前に山の根にしがみついたようなところである。①山熊神社の周りに農家が点在する小集落で、南面し住居のなかで②ひときわ大きい屋敷を地元の人は「土居」と呼ぶ。③造田氏の屋敷なのだが、屋号の土居の方が通りがいい。
                        香川県史14巻民俗編 546P
 
中熊の造田氏
中熊の造田家 土居屋敷と呼ばれる
 土居屋敷の隅に土蔵がある。ここにはシロフスマという妖怪が棲んでいると言う。
目が一つの大きなマノモンだと恐れられている。目が一つ、足も一本のシロフスマは、いつもは蔵の中に棲んでいるが、雪が降り出すと屋敷の中を歩きまわる。一本足の足跡が、ぽつんぱつんと雪の中へ残されるが降り積む雪で足跡は消される。土蔵の北隅には④護摩札が祀ってある。この護摩札がじーんと鳴りはじめるとシロフスマが現われると言う。造田家の当主が幼いころはなんとも恐ろしいマモノだったと言うが、このシロフスマは造田家の者にしか見えない。
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中熊の山熊神社
 この造田家の当主が行かなければ祭りにならないというのが山熊神社の秋の祭りである。
⑤造田氏は、羽織袴の正装で神社へ出向き、頭屋の人たちとともに神輿にミタマウツシを行なう。谷川のほとりへはハッタンノボリという白布を八反つづり合わせた大きな幟を立ててある。ヨミヤの日にお旅所と社の前へ立てるもので、遠くからでもよく見える。
 祭礼の日、ミタマウッシの後、神輿はお旅所までおみゆきする神輿の先導に立つ若衆は、黄色いたすきを首の両側に垂らして道案内となり、頭屋が白い御幣を、⑥造田氏が五色の御幣を持ってく。
 谷川を隔てた対岸には大川山があり、大川神社が祀られている。⑦大川神社の祭神と、山神社の神さまとは姉と妹。山熊神社の玉垣の中で、大川から遊びに来た姉神が妹神と仲よく手まりをついて遊んでいたとか。美しい姫神は、とてもかわいい神であったとも言う

以上からは、次のような情報が読み取れます。
①②③からは、「土居」と呼ばれる中世居館を中心に造田氏が舘を構えたこと。造田氏の氏神として、山熊神社が建立され、周辺に集落が形成されたこと
④からは、土蔵の北隅には護摩札が祀ってあり、修験者による護摩祈祷が行われていたこと
⑤⑥からは、造田氏は祭礼儀式に重要な役割を演じていたこと
⑦からは大川大権現(神社)と山神さまは姉妹関係とされていたこと。

造田家文書によると、山熊神社はもともとは造田一族の氏神として創建されたと伝えます。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。江戸時代の祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷設置が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。山熊神社は造田氏の氏神で、中熊は造田氏によって開発が始まったことが裏付けられます。
DSC07548
山熊神社の神木

それでは、山熊神社の祭礼者たちはどんな人達だったのでしょうか?
中熊神の観音堂について、佐野家に弘化二(1845)年の由来記には、次のように記されています。
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納せる弥陀観音勢至三尊仏と申すは、法然上人御直作にて、大川宮別当十二房の内、房久保に御鎮座し、その後土洲長曽我部元親乱入の節、僧房焼き払われ候瑠り、(後略)

意訳変換しておくと

一、中熊寺の前庵に奉納されている弥陀観音勢至三尊仏は、法然上人の自作の仏たちである。もともとは大川宮の別当十二房の内の房久保に鎮座していた。ところが土佐の長曽我部元親の乱入の際に、僧房が焼き払われしまった。(後略)

ここには大川神社(当時は権現)には、別当が12坊あったと記されています。神仏混淆下の大川山は修験者たちによって開山され大川大権現と呼ばれ、役行者や不動明王が祀られた霊山でした。その霊山に仕えていたのが周辺の里に住み着いた修験者たちです。彼らが「別当十二坊」のメンバーたちで、その中に山熊神社の別当をつとめる社僧(山伏)もいたはずです。彼らは、里の拠点として、小さな別当寺を持っていたことが考えられます。
 同時に⑦には、「大川神社(大権現)と山神社は姉妹」とあります。各集落の人々と大川権現を結びつけたのも彼らです。彼らは芸能伝達者として、踊りや歌などの芸能を伝えると同時に、平家落武者伝説などの話から、妖怪話などまでいろいろな話を、庚申講などでは寝ないで夜を徹して語ったります。「庚申講=山伏による組織化=妖怪話や民話の豊富さ」が民俗学者からは報告されています。美合のソラの集落に、面白い民話が数多く残されているのは、大川山を中心とする山伏たちの活動が背景にあったと私は考えています。
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       山熊神社 本殿

山熊神社を考える上で、押さえておきたいのが熊野行者との関係です。神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表です。


神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表
これを見ると中熊の山熊神社には祭神として、天神地祈(てんじんちぎ)が祀られていたことが分かります。
天神地祇は「天の神」と「地の神」を意味するあらゆる神々の総称で、熊野信仰は神仏習合の思想を基盤とした「甦り(よみがえり)」を願う信仰です。この二つは、日本の古代信仰と神仏習合の過程で深く結びついています。中世では熊野行者が信仰した神です。つまり、ここには熊野行者の痕跡が見られます。また、造田氏が熊野詣でをおこなうなど熊野信仰をもっていたことも推測できます。そして、熊野行者たちが、霊山大川山で活動していた痕跡が見えます。 

修験者たちは、どのようにして里に定住するようになったのでしょうか?
天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。それに代わる霊山として参拝知るようになるのが、伊予では石鎚、阿波では剣への参拝登山ということになります。
 もうひとつ大川山周辺の修験者にとって大きな問題がおきます。それが阿波三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺の真宗興正寺派の教線の拡大です。三頭越や真鈴越から情熱的な真宗僧侶がやってきて、里の農民達を組織し、道場を開いていきます。これへの対応には苦慮したはずですが、それはまたの機会にします。山神神社と造田氏の関係ついて戻ります。
 
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山神神社 拝殿 
 山熊神社は、造田氏の氏神として創建されたとしました。
そのため造田氏による「特権的な祭礼儀礼」が取られてきました。それに対して江戸時代の中ごろになると、台頭してきた高持百姓たちが祭りの運営をめぐって反発するようになり、両者の間でたびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し、裁定を下しています。その文書によると造田氏の棟札特権は、大幅に縮小されています。例えば、棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼時に造田氏に認められていた桟敷も全廃されます。造田氏に認められたのは祭礼儀式の上で一部分だけになります。この動きをまとめておくと
①中世以来の造田氏一族の宮座独占に対する百姓達の発言権の高まり
②その反発を受けて「氏神」から「産土社」への転換
 この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「脱皮」を遂げたと言えるのかもしれません。県史に語られていた造田氏の役割は、幕末の「祭礼変革」以後に一部残された特権の名残とも言えるようです。

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中熊の山熊神社
もうひとつ押さえておきたいのは、中熊の住人たちは大熊神社の氏子となったと同時に、「大川権現の別当12坊」の社僧たちによって、霊山大川山の信者としても組織されていたということです。だから、住人たちは地元の神社の祭礼も執り行うし、共同して大川権現の祭礼にも共同して参加していたことになります。
以上をまとめておきます。
①美合の中熊集落は造田氏によって開かれ、その氏神として山神神社が建立された。
②造田氏の入植は、屋敷周辺が「土居」呼ばれるなど中世居館の痕跡を残すので中世に遡ることが考えられる。
③中世から近世にかけて中熊川沿いのエリアが開発され、中熊と呼ばれる集落を形成するようになった。
④江戸時代後半になって、中堅農民が台頭するにつれて造田氏に対する反発が強くなった。
⑤その一例が、造田氏による山神神社の祭礼独占であり、自らの参加を求めるようになった。
⑥これに対して大庄屋の調停で農民達の祭礼参加が認められ、造田氏の権限は大幅に縮小された。
⑦しかし、その後も造田氏は中熊で隠然たる力を持ち続けた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県史14巻民俗編546P 造田家

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