瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:香色山経塚

まんのう町金剛院が中世の修験者たちによって拓かれた「坊集落」であること、石造十三重塔が鎌倉時代末に、弥谷寺石工によって天霧石によって作成されたことを、前回までに見てきました。今回は、金剛院に残されたもう一つの手がかりである「経塚」について見ていくことにします。テキストは、次の報告書です。
金剛院経塚2018報告書
                   写真は出土した経塚S3

南方に開けた金剛院集落の真ん中にあるのが金華山です。その山に南面した金剛寺が建っています。

イメージ 7
金剛院集落の金華山と金剛寺
位置的にも金華山が霊山として信仰を集め、そこに建てられた寺院であることがうかがえます。この山の頂上には、かつては足の踏み場もないほどの経塚があったようです。経塚とは末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡のことです。見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地とされる場所に造られます。そのため数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。その典型例が讃岐では、金剛院になるようです。

金剛寺2 まんのう町

拡大して経塚のある第1テラスと第2テラスの位置を確認します。

金剛院金華山

次に、これまで発掘経緯を見ておきましょう。
金剛院経塚は今から約60年前の1962年9月に草薙金四郎氏によって最初の調査が行われました。その時には2つの経塚を発掘し、次のようなものが出土しています。
陶製経筒外容器7点
鉄製経筒   2点
和鏡     1点

金剛院経筒 1962年発掘
               陶製経筒外容器(まんのう町蔵)

この時には完全に発掘することなく調査を終えています。問題なのは、経筒発見に重きが置かれて、発掘過程がきちんと残されていません。例えば経塚の石組みなどについては何も触れていません。今になってはこの時の発掘地がどこだったのかも分かりません。その後、目で確認できる経塚からは、その都度遺物が抜き取られ本堂に「回収」されたようです。ちなみに経塚には「一番外が須恵器の外容器 → 鉄・銅・陶器などの経筒 → 経典」という順に入れられていますが、地下に埋められた経典は紙なので姿を消してしまいます。経典が中から出てくることはほとんどないようです。

古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
                一般的な経塚の構造と副葬品例 

 金剛院経塚の本格的な調査が始まるのは、仲寺廃寺が発掘によって明らかになった後のことです。
2012(平成23)年度から調査が始まり、次のように試掘を毎年のように繰り返してきました。
2012年度 
第2テラスのトレンチ調査で、柱穴3、土穴1、排水溝1が確認され、山側を切土して谷側に盛土して平坦面を人工的につくったテラスであることを確認
2013年度
石造十三重塔の調査・発掘が行われ、次のような事を確認。
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと
②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと
③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと
④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
合わせてこの年には、第1テラスの測量調査を行い、地上に残された石材群を16グループに分類                 
2015年度
現状記録のために検出状況を調査して、12ケ所で埋蔵物が抜き取られていることを確認
2016年度 
経塚S9の調査を行い、主体部が石室構造で、その下に別の経塚があること、つまり上下二重構造であったことを確認。
金剛院経塚第1テラスS9
 第1テラス 経塚S9(金剛院経塚:まんのう町)

金剛院経塚S9の遺物 
経塚S9(2016年度の発掘)出土の経筒外容器

経塚調査の最後になったのが2017年度で、経塚S3を発掘しています。

金剛院経塚テラスS3
       金剛院経塚・第1テラスの経塚分布と経塚グループS3の位置


金剛院経塚第1テラスS3
             第1テラス 経塚S3(金剛院経塚:まんのう町)
この時は経塚S3の調査を行い、次のような成果を得ています。
①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土
②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
この時の発掘について報告書は次のように記します。
金剛院経塚出土状況4
経塚S3 平面図
金剛院経塚出土状況2
経塚S3 断面図
金剛院経塚S3発掘状況1
要約しておきます。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。
②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。
③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。

金剛院経塚1
     金剛院経塚S3から出土した外容器 土師器質のA・Bと瓦質の甕のC(後方)

この経筒外容器A・B・Cの中からは、何が出てきたのでしょうか。報告書は次のように記します。
金剛院経塚C3出土の外容器
要約しておくと
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片
②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部
③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
          外容器Cの甕 和紙が付着した銅製経筒が出てきた
発掘すれば、これ以外にもいろいろな経筒がでてくるはずですが、初期の目的を達成して発掘調査は終わりました。ここからは経塚から出てきた遺物は中世鎌倉時代に作られたもので、金華山頂上に連綿と経塚が造られていた事が分かります。金剛院の伝承では、弘法大師が寺院を建立するための聖地を求めて、この地に建立されたとされます。聖地の金華山山頂という限られた狭い空間に、山肌が見えないほどにいくつもの経塚が造られ続けたのです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
 比較のために以前にお話しした善通寺香色山の経塚を見ておきましょう。

DSC01066
 
 香色山山頂からは4つの経塚が発掘されています。
香色山一号経塚
香色山の経塚と副葬品
 そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には平安時代末期(12世紀前半)の経筒が納められていて、上の石郭からはそれより遅い12世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。上と下で時間差があることをどう考えたらいいのでしょうか?
 研究者はつぎのように説明します。
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。

上下2段スタイルは全国初でした。先ほど見たように、金剛院経塚S3も2段構造で追葬の可能性があります。作られたのも同時代的です。善通寺と金剛院の間には、何らかの結びつきがうかがえます。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
香色山1号分の埋葬品

 香色山経塚群は、平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「聖域」という点から、ここに経塚を作った人物については、次のような説が一般的です。

「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」

しかし、以前にお話ししたように空海の子孫である佐伯氏は本貫地を京に移し、善通寺から去っています。この時期まで、佐伯直氏一族が善通寺の経営に関わっていたとは思えません。そうであれば、もう少し早くから「善通寺=空海生誕地」を主張するはずです。
  どちらにしても世の中の混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」として僧侶や貴族は捉えるようになります。彼らが経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて経塚を築くようになります。その心情は、悲しみや怒り、あるいは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。
 私は経塚に経典を埋めた人達は、周辺の有力者と思っていたのですが、そうばかりではないようです。遙か京の有力者や、地方の有力者が「廻国行者(修験者)」に依頼して、作られたものもあるのです。その例を白峰寺(西院)に高野聖・良識が納めた経筒で見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
何が書いてあるか確認します
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
これは白峰寺から出てきた経筒で、⑥の「檀那の下野国道清」の依頼を受けて讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでであることが分かります。これは経筒を埋めたのは、地元の人間ではなく他国の檀那の依頼で「廻国の行人(修験者や聖)」が全国の聖地を渡り歩きながら奉納していたことを示すものです。これが六十六部と呼ばれる行人です。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。ここからは、金剛院に経塚を埋めたのも六十六部などの全国廻り、経塚を作り経典を埋めるプロ行者であったことがうかがえます。 
 そのことを金剛院の説明版は、次のように記しています。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
以上をまとめておきます。

①平安末期になると末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した経塚が作られるようになる。
②その場所は、見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地に密集して作られることが多い。
③その例が金剛院の金華山や善通寺の香色山の山頂の経塚である。
④経塚造営の檀那は地元の有力者に限らず、全国66ヶ国の聖地に経典を埋葬することを願う六十六部や、その檀那も行った。
⑤白峰寺には、下野国の檀那から依頼された行人が収めた経筒が残されていることがそれを物語る。
⑥このような経典を聖地に埋め経塚を造営するという動きが阿弥陀浄土信仰とともに全国に拡がった。
⑦讃岐でその聖地となり、全国からの行人を集めたのが金剛院であった。
⑧こうして金華山山頂には、足の踏み場もないほどの経塚が造営され、経典が埋められた。
⑨全国からやって来る行人の中には、金剛院周辺に定着し周囲を開墾するものも現れ、「坊集落」が姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 調査報告書 金剛院経塚 まんのう町教育委員会2018年
関連記事

     
DSC01066

 古代善通寺王国の中心であった旧練兵場遺跡の背後にピラミダカルな美しい山容で立つのが香色山です。古代の人々は、この山と背後に重なる五つの峰を五岳(ごがく)山と呼び聖域として見てきたようです。「香色山遺跡群調査」では、この山頂に弥生時代後期の集団墓と平安時代の経塚群が報告されています。

香色山経塚調査報告書

今回は古代末期(11世紀後半)の香色山経塚について見ていこうと思います。
 善通寺の駐車場の後から整備された遊歩道を15分も登れば、山頂に立つことができます。展望は素晴らしく善通寺の東西の伽藍や、その向こうに真っ直ぐに讃岐富士に向かって伸びていく条里制の跡の道路が見えます。戦前は、11師団が丸見えなので「軍事機密」防衛のために一般人は、この頂上には立つことが許されなかったと言われますが、それが納得できる展望です。

DSC01063
香色山山頂の明王

山頂は木が茂っていないために、風や雨による土砂の流れ出し、至る所に岩盤が露出しています。そして「聖地」らしくいろいろな石造物が建てられています。例えば、空海の生家・佐伯氏の祖廟碑もあります。これも興味深いのですが、今回は素通りして、不動明王と愛染金剛王に目を向けます。



DSC01047

 この明王の後の石碑には、次のような内容が刻まれています。

香色山山頂の明王建立碑文
香色山山頂の明王建立碑(1792年)

「再埋経画之銘併序(再び経画を痙(埋)めるの銘並びに序)として、「寛政壬子(1792)二月にこの地を掘削した際に、経石の中から嚢に納められた銀製経画三点が偶然発見された。嚢が壊れていたものは経画も傷んでいたが、賓が無事なものは経画も完全に残されていた。その大きさは径三寸(約9cm)・長さ一尺(約30cm)である。同年六月に再び同じ場所に埋め戻し、像(二明王像)をこの上に安置した。」

と刻まれ、碑銘奥書きには次のように記します。
「寛政壬子秋九月・誕生院権僧正寛充誌」

ここからは江戸時代にここから「経塚」らしきものがすでに「出土」していたこと、それを誕生院の僧正が埋め戻し、その上に二つの明王様を建てたことが分かります。ところが平成8年になって、土砂の流出が激しくなり遺跡の状態が危惧されたために発掘調査が行われました。その結果、4つの経塚が出土しました。
2公式山.4jpg
                    一般的な経塚の例

経塚とは仏教における末法思想による危機感から、仏教経典を後世に伝え残すことを目的に、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡です。見晴らしの良い丘陵上や神社仏閣など聖地とされる場所に造られるので、そのような場所では数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。この近くでは、まんのう町の金剛院で数多くの経塚(鎌倉)が発掘されています。

2公式山
善通寺の西に連なる五岳山 一番手前が香色山

香色山経塚分布図
香色山山頂の遺跡群
香色山山頂には、弥生時代の石棺墓や中世の経塚、さらには空海の生家である佐伯直氏の祖廟などいろいろな遺跡が作られ続けてきました。それはこの山が昔から霊山として崇められ、信仰の対象となっていたことをうかがわせます。
 
この調査で4つの経塚が山頂で確認されました。
香色山1号経塚3
香色山1号経塚全体図
そのうちの1号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には十二世紀前半の経筒が納められていて、上の石郭からは十二世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。
2公式山3
香色山1号経塚の上部を取り除いて出てきた下段
香色山1号経塚2
              香色山1号経塚の下段中層の実測図
調査の結果、平安時代の後半頃に造営したもので、下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」であると研究者は考えています。こんな上下2段スタイルの経塚は全国初のようです。

香色山一号経塚
                 香色山1号経塚の説明版
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
          香色山1号経塚の副葬品

調査報告書には副葬品について、次のように記します

香色山1号経筒外容器2
香色山1号経塚の鋼板製経筒 
 
経筒には銅を鋳製して作る銅鋳製経筒と、銅板を丸めて作る鋼板製経筒の2種類がある。今回発見された経筒は鋼板製経筒の典型的な例であるとともに、銅鋳製経筒と比べて小形のものの多い鋼板製経筒の中にあって、銅板の厚いこと・作りの丁寧なこと・紐の精巧なことなど、屈指の鋼板製経筒と言うことができる。
なかでも(蓋の上の)鉦の精巧さは注目に値する。一般的には、銅鋳製・鋼板製を問わず、宝珠形の鉦が付くが、本経筒例では、宝珠の下に受花と反花を置く本格的な宝珠鉦となる。これは時代の古さを示すとともに、この後に四国の経塚に流行する火災宝珠鉦経筒の先駆けをなすものとして注目される。
香色山1号経塚銅板制経筒
香色山1号経塚の鋼板製経筒の実測図

次に太刀を見ておきましょう。

香色山1号経塚太刀
折り曲げられた太刀  
経塚の副納品にはしばしば刀剣類を見ることができる。
その多くは刃渡り30cm以下の短刀である。今回も短刀はたくさん発見されているが、中に太刀が含まれている。経塚からの太刀の出土はきわめてまれで、今までに岡山県小山経塚、広島県宮地川経塚、兵庫県江ノ上経塚と出土地不明の奈良博所蔵品の4例が知られるだけである。瀬戸内沿岸の経塚に特徴的な副納品であることが知られるとともに、四国では初めての出土例となる。 いずれの出土例にあってもU字形に折り曲げられていることが注目される。
副納品の構成  
一般的な経塚の副納品としては、鏡・合子・銭貨などが知られる。ところがこの香色山経塚の下部石郭においては、鉄製の太刀と短刀だけという特殊なあり方が注目される。副納品用と思われる副郭内にも短刀が重なって置かれるのみであった。他に有機質の副納品のあった可能性は考慮しなければいけないが、太刀の出土も見られるところから、利器に重点を置いた副納品構成が伺われる。あるいは願主なり檀越なりの在俗者の性格に関わる特殊性と考えることもできる。

香色山1号経塚太刀
香色山1号経塚の小太刀

  報告書は
①  経筒の精巧さを指摘し「屈指の鋼板製経筒」とします
② 副葬品に太刀があったこと、それも折り曲げられれていること 
③ 以上から有力な願主・檀那の存在がうかがえるとする。
 香色山山頂に、このような経塚が造られた時代は?
 古代善通寺には創建当時、四町四方の境内に金堂や大塔、講堂、法華堂、西塔、護摩堂その他、四十九の僧房があったといわれています。ところが11世紀末頃になると、前回にお話ししたように
①本寺の京都東寺による収奪
②讃岐国衛による負担強化
で、善通寺は圧迫を受けるようになり、それまでの繁栄に大きく影が差すようになりました。
 天永三(1112)年)、善通寺の門外不出の太鼓一面が国衛によって会料の名目で押収されてしまいます。この時に善通寺所司が本寺の京都東寺に宛てた報告の最後には次のように記されています。

「世は已に末世に及び、仏法凌遅すと雖も、大師の御遺跡法燈の光未だ消えず」

この後、寺は土地や農民に対する支配力を失って行きます。やがて貴族の世から武家政権に支配権が移つり、古代の秩序が崩れていき、その上に立っていた古代寺院は衰退していくことになります。

DSC01048

この経塚群は、この混乱期にあたる平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「一等聖域」という歴史的環境から、
「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」
と研究者は記します。
  この時期は、善通寺周辺に勢力を置いていた佐伯一族や善通寺の僧侶達にとっては、先ほど見たように悲憤な状態にありました。この社会的な混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」としてとらえる僧侶や貴族は多かったようです。
DSC01018

 経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて香色山山頂に経塚を築いた集団の当時の心情は、悲しみや怒り、或いは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。この山に登って来て、自らの書写した経典を経塚に埋めた人々の思いはどんな物であったのか。未来のために、あるいは現世のために聖地である香色山山頂に経塚を造り続けたのでは、そんな時代背景があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(2024年11月22日改訂)

DSC00994

参考文献 香色山経塚 調査報告書
関連記事

このページのトップヘ