瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:香西成資

香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」

南海治乱記と南海通記
南海治乱記と南海通記
南海治乱記が天正10・11年の長宗我部元親の讃岐侵攻記事を、どんな資料に基づいて書いたのかを見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年448P」です。
  
南海通記と長元物語比較
南海治乱記と長元物語の記述比較1
 『南海治乱記』のN1部分は、長宗我部元親による阿波平定後の各武将の配置を述べています。この部分は土佐の資料『長元物語』のT1部分を写したもののようです。内容・表現がほぼ一致します。しかし、詳しく見るとT1の7番目の項目「一、ニウ殿、東條殿、(後略)」は省略、『治乱記』の「一ノ宮南城ノ城ヘハ谷忠兵衛入城也」の箇所は『治乱記』編者が他の資料によって付け加えたことを研究者は指摘します。

天正10年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録
『治乱記』のN2部分は、『三好記』のM1部分を写しています。
ただ、『治乱記』N1の記述と重なるM1の「一ノ宮ノ城」の箇所は、省略しています。また、Mlの「大西白地ノ城」「富岡ノ城」「海部輌ノ城」の3箇所は、意図的に省いているようです。
 三好記Mlでは「海部輌ノ城ニハ、田中市之助政吉ヲ置ル」
 南海通記N1の「海部ノ城ハ香曽我部親泰根城也」
と配置された武将名が異なります。
三好記Mlでは「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記N1は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
と記します。前回、お話ししたように「富岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。
岡舘跡・由佐城
岡舘跡と由佐城
『治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、この時期にはそれに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。土佐軍に抵抗し、和議をむすんだと由佐氏の家書は記します。これに配慮したのかもしれません。

南海通記と長元物語比較3

『治乱記』N3部分は、『三好記』M2部分を写したものですが、かなり簡略化しています。
新開道善と一宮成助とを長宗我部元親が討ったことについて、土佐資料『元親記』は「然所に道前と一の宮城主は、其後心替仕に付腹を切せらる」と簡単に記しています。『治乱記』では阿波国寄りの『三好記』の記述を採っています。

南海治乱記と元親記比較
南海治乱記と元親記の比較

 『南海治乱記』の巻十二「土州自阿州発向讃州記」のN4部分は、土佐の『元親記』のS2部分を写したものと研究者は推測します。
S2部分の「そよ越」とあったところは、「曽江谷越(清水峠)」と改められています。「治乱記」N5部分は、『元親記』S1部分を写したものので、十河城の防備施設などに新しく説明を付け加えています。また従軍者名に土佐側資料になかった讃岐の「香西伊賀守」「羽床伊豆守」「長尾大隅守」「新名内膳」「香西加藤兵衛、其弟植松帯刀」の名前を加えています。さらに「大将ニハ長曽我部親政」とします。
『治乱記』のN6部分も、N4部分と同じく『元親記』のS2部分を写したものでしょう。「屋島」での元親の行動や「屋島」自体の説明などを付け加えています。

南海治乱記と元親記比較.4JPG
『治乱記』のN7部分は、『元親記』S3では元親は急ぎ「帰陣有し」と簡単に記します。
ところが南海治乱記では讃岐国内の「春日の海ノ中道」「香河郡」「西長尾城」を経て「大西ノ城二還ル也」とします。この箇所は、『治乱記』の著者による追加です。しかし、先に見てきたように天正十年の長宗我部元親本軍の讃岐香川郡侵攻ルートは、阿波の岩倉城(脇町) → 清水峠 → 十河城でした。帰路もこのルートをとったとするのが自然です。ここにもなんらかの作為があるような気配がします。
元親記
元親記
以上をまとめておきます。
①香西成資は南海治乱記を書くに当たって、先行する阿波や土佐の編纂歴史書を手元に置いて参考にしていた。
②長宗我部元親の阿波制圧や、その後の武将配置などは先行する資料に基本的に忠実である。
③しかし、岡城や由佐城・十河城に関する箇所になると、由佐氏や十河氏に対する配慮があり、加筆や意図的な省略が行われている。
④長宗我部元親の讃岐での行動については、多くの加筆が行われている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

   南海治乱記と南海通記

『南海治乱記』『南海通記』は、香西氏の流れを汲む香西成資が、その一族顕彰のために書かれた記物風の編纂書です。同時に道徳書だと研究者は評します。この両書はベストセラーとして後世に大きな影響を与えています。戦後に書かれた市町村史も戦国時代の記述は、南海通記に頼っているものが多いようです。しかし、研究が進むにつれて、記述に対する問題がいろいろなところから指摘されるようになっています。今回は「香川民部少輔」について見ていくことにします。
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
  西讃の守護代は多度津に館を置き、その背後の天霧山に山城を構えたとされます。香川氏のことについては以前にもお話しした通り、今に伝わる系図と資料に出てくる人物が合いません。つまり、史料としてはそのままは使えない系図です。
そのような中で、南海通記は香川氏の一族として阿野郡西庄城(坂出市)に拠点を置いた「香川民部少輔」がいたと記します。
長くなりますがその部分をまずは、見ていくことにします。
        53『南海通記』巻十三 抜三好存保攻北條香川民部少輔記
元亀年中二好存保讃州ノ諸将二命シテ、香川民部少輔ガ居城綾北條西庄ノ城ヲ囲ム、北條香川(昔文明年中細川政几優乱ノ時香西備中守二同意セズシテ細川澄元阿州ョリ上洛ヲ待タル忠義二依テ本領安賭シ、北條城付ノ知行ヲ加増二賜シカハ、是ヨリ細川三好世々上方二所領有テ相続シ来ル処二、今度信長公京都二入リテ、三好氏族家人ヲ逐フテ其所領ヲ奪ハル、是二依テ公方義昭公ノ御方人トシテ世二立ンコトワ欲ス。其才覚アルコトフ上方ノ三好家ヨリ三好存保ニ告ヶ来ル、是二因テ存保近隣ノ諸将二命シテ、西ノ庄ノ城ヲ囲マシム。香西伊賀守陣代久保三郎四郎吉茂、兵卒千人余を掲げて馳向フ。 羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川人千余人北條二来陣ス。香西陣代久利二郎四郎ハ西庄ノ城東表ヲ囲ム。

意訳変換しておくと
『南海通記』巻十三  三好(十河)存保の北條香川民部少輔・西庄城記攻防戦記

織田信長が上洛を果たした元亀年中(1570~73年)、三好(十河)存保が讃州の諸将に命じて、香川民部少輔の居城である綾北條郡の西庄城を囲んだ。①北條香川氏は文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、さらに北條城周辺の知行が加増された。
 細川・三好家は畿内に所領を以て相続してきたが、織田信長の上洛によって、三好一族は畿内の所領を奪われた。そんな時に公方義昭公が自立の動きを見せて、上方ノ三好家から三好存保に対して支援を求めてきた。そこで、②存保は近隣の諸将に命じて、香川民部少輔の西庄城を包囲させた。香西伊賀守の陣代である久保三郎四郎吉茂は、兵卒千人余を率いてこれに向かい、羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川氏など8千人余りが北條城を包囲して陣を敷いた。この時に香西陣代の久利三郎四郎は、西庄城東表を囲んでいたが、
永世の錯乱3

         讃岐武将の墓場となった永世の錯乱
①北條香川氏が阿野北平野の西庄城を領有するようになったのは「文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、西庄城周辺の知行が加増」のためと説明されています。確かに、この時の騒乱で香川氏や香西氏の棟梁達は討ち死にして、在京の讃岐勢力は壊滅的状態に追い込まれたことは以前にお話ししました。永世の錯乱が讃岐武将の墓場と言われる由縁です。

永世の錯乱2

この史料をそのまま信じると、永世の錯乱の敗者となった西氏や香川氏の勢力が弱まる中で、
勝ち組の阿波守護細川澄元についたのが北條香川氏になります。そして阿野北平野の西庄城を得たということになるようです。「中央での永世の錯乱を契機に讃岐は他国にさきがけて一足早く戦国時代を迎えた」と研究者は考えています。それが阿波の細川澄元やその家臣の三好氏の讃岐への勢力伸長を招く結果となります。その一環として細川澄元や三好側についた香川氏一族が領地を増やすというのはあり得ない話ではありません。それが具体的には香西氏の勢力範囲であった阿野北平野への進出の契機となったということでしょうか。しかし、これには問題点があります。香川一族と三好氏は犬猿の仲です。香川氏の基本的な外交戦略は「反三好」で一貫しています。長宗我部元親の侵入の際にも、対応は分かれます。最後まで両者が手をむすんだことはありません。こうしてみると、香川氏の一族の北条香川氏が細川澄元や三好側についたというのは、すぐには信じられないことです。

次の部分を見ていくことにします。
七月十三日ノ夜月明ナルニ東ノ攻ロヨリ真部弥助祐重、堀土居ヲ越テ城中ニ入り、大音ヲ揚テ名ノリ敵ヲ招ク、城中ノ兵弥介二人トハ知ラズシテ大二騒動シ手二持タル兵刃足二踏ム所ヲ知ズ混乱ス。城中ノ軍司栂取彦兵衛友貞卜名乗テ亘り合ヒ鎗ヲ合ス、弥介戦勝テ構取彦兵衛ヲ討取り、垣ヲ越テ我陣二帰ル。諸人其意旨ヲ知ラズシテ陣中驚キ感ズ。翌日城門ヲ開キ出テ駆合ノ戦有、香川家臣宮武源三兵衛良馬二乗り一騎許り馬ノ鼻ヲ並テ駆出ス。其騎二謂テ日、必ズ馬ヨリ下リ立テ首渡スベカラス。敵ノ背二乗リカケテ一サシニ駆破り引取ルヘシ城門ニハ待受ノ備アリト云間カセテ早々引取シカハ寄手モ互二知レ知リタル、朋友ナレバ感之卜也。然処二寄手大軍ナレバ城中ヨリ和ヲ乞テ城フ明渡ス。家人従類フ片付テ其身従卒廿人許り召具シ甲冑ヲモ帯セス、日来白愛ノ鷹フ壮ニシテ出デバ、敵モ見方モ佗方二非ズ、隣里ノ朋友ナレバ涙ヲ流サヌ者ハナシ.然シテ民部少輔ハ松力浦ヨリ船二乗り塩飽ノ広島へ渡り、舟用意シテ備後ノ三原二到り、小早川隆景二通シテ、帰郷ノコトワ頼ミケルトナリ。

意訳変換しておくと
七月十三日に夜の月が出て明るくなる頃に、東の攻から真部弥助祐重が只一人で堀土居を越えて城中攻め入り、大声をあげて名乗って敵を招いた。城中の兵は弥介一人とは分からずに、大騒ぎになり手に持った兵刃を踏むなどして混乱に陥った。城中の軍司栂取彦兵衛友貞が名乗り出て、互いに鎗を合わした。その結果、弥介が勝って栂取彦兵衛を討取り、垣を越て我陣に帰ってきた。陣中では、この行為に驚き感じいった。翌日には、城門を開いて討って出てきたので、騎馬戦が展開された。香川家臣の宮武源三兵衛は良馬に乗って、10騎ほどの馬が鼻を並べて駆出す。その時に臣下に「馬から下りて戦ってはならない。敵の背に乗りかけて一差しすれば、ただちに城門に引き返すべし。城門には敵を待ち受ける仕掛けを講じている」と。しかし、寄手側もその気配を察知して、策にははまらない。
 こうして大軍の寄せ手に対して、北條香川氏は和を乞うて城を明渡すことになった。家人や従類を落ちのびさせて、その身は従卒20人ばかりと、甲冑もつけないで、日頃から可愛がっていた鷹狩りの鷹を胸に抱いて城を後にした。この時には、隣里の朋友という間柄なので敵も見方も区別なく涙をながさない者はいなかった。こうして香川民部少輔は松カ浦から船に乗って、塩飽の広島へ渡り、そこで舟を乗り換えて備後に向かった。そして、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めた。
この前半部は軍記ものには欠かせない功名物語が書かれています。ここで注目したいのは最後の部分です。攻防戦の結果、香川民部少輔は船に乗って三原に渡り、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めたとあるところです。その続きには次のように記します。
毛利家ノ記曰く、公方義昭公御内書ヲ賜テ日香川帰郷ノコト頼被成ノ間早々可被相催候、阿波三好事和平フ願可申入候、然就承引不可有候、畿内三好徒堂¨大半令追状候者也.隆景其旨二応ジ、浦兵部太輔井上伯者守二五千余人ヲ附シテ、大船三百余艘二取乗五月十二日三原ヲ発シ、讃州松ケ浦並鵜足郡鵜足津二着岸ス。然シテ西ノ庄ノ城二押寄スル処二、香西伊賀守番勢ノ者トモ城ヲ明テ引去ル。香川ヲ西ノ庄ノ城へ入城セシメ元ノ如ク安住ス.中国ノ兵将香川ヲ本地へ還附
   然トモ敵ハ五千人地衆ハ五百人ナレバ相対スベキ様モナシ。地衆兵引テ綾坂ノ上二旗ヲ立テ相侍ツ。敵モ功者ナレバ川ヲ越エズシテ引去ル。六月一日二中国ノ兵衆二百余人ヲ西ノ庄二残シ置キ、総軍三原二帰ル。是ョリ香川民部少輔ハ毛利家ノ旗下トシテ中国フ後援トスル也。備後ノ三原ハ海上十里二過ズシテ行程近シ、国二事アル時ハ一日ノ中二通ス。故二国中ノ諸将侮ルコトフ得ザル也。
意訳変換しておくと
その当たりの事情を毛利家の記録には次のように記す。公方義昭公は将軍内書を発行して、香川氏の帰郷を支援することを毛利氏に促す一方で、阿波三好氏に対しては、両者の和平交渉を求める書状を送ったが、これは実現しなかった。
 これに対して、小早川隆景は義昭の求めに応じて、浦兵部の太輔井上伯者守に五千余人を率いらせて、大船三百余艘で五月十二日に三原を出港し、讃州松ケ浦や鵜足郡鵜足津に着岸した。そして西庄城に攻め寄せた。これに対して、香西伊賀守の守備兵たちは城を開けて引き去っていた。そこで香川氏は西庄城へ入城して、元のように安住することになった。一方毛利家の兵将は、香川氏を西庄城に帰還させ、その余勢で阿野南条郡にも勢力を拡大させようと、綾川周辺にも押し出そうとした。これに対して、周辺の地侍達は綾坂に守備陣を敷いた。ちょうど季節は5月の長雨時期で、綾川の水量が増え、川を渡ることが出来ずに双方共に綾川を挟んでのにらみ合いとなった。しかし、500対5000という兵力差はいかんともしがたく、地侍衆は兵を引いて綾坂の上に旗を立て待ち受けた。これに対して、敵(小早川軍)も戦い功者で、川を渡らずに引下がった。
 6月1日に中国の兵衆二百余人を西庄に残して、総軍が三原に帰った。これから香川民部少輔は毛利家の旗下として中国(毛利氏)の傘下となった。備後・三原は海上十里ほどで海路で近い。なにか事あるときには一日の内に報告できる。こうして、香川民部少輔は讃岐中の諸将から一目置かれる存在となった。

ここには次のようなことが記されています。

①将軍義昭が対信長包囲網の一環として、香川民部少輔の讃岐帰還を毛利氏に働きかけた
②その結果、毛利配下の小早川軍5000が
香川民部少輔の西庄城帰還を支援し、実現させた。
③以後、香川民部少輔は毛利・小早川勢力の讃岐拠点として、周囲の武将から一目置かれる存在となった。
この話を読んでいると、元吉(櫛梨城)合戦とストーリーが基本的に一緒な事に気がつきます。考えられる事は、元吉合戦から100年後に書かれた南海通記は、古老達の昔話によって構成された軍記ものです。話が混同・混戦しフェイクな内容として、筆者によって採録され記録されたようです。

香西成資が「香川民部少輔伝」について記している部分を一覧表化したものを見ておきましょう。
香川民部少輔伝
香川民部少輔伝(南海通記)
香川民部少輔は永正の政変(政元暗殺)以降の初代讃岐守護代香川氏の弟であるようです。彼が西庄を得たことについては、表番号①に永正4(1507)年の政変(政元謀殺)の功によって、細川澄元から西庄城を賜うと記します。しかし、永世の政変については以前にお話ししたように、政情がめまぐるしく移りかわります。そして、細川氏の四天皇とされる香西氏や香川氏の棟梁たちも京都在留し、戦乱の中で討ち死にしています。ここで香西氏や香川氏には系図的な断絶があると研究者は考えています。どちらにして、棟梁を失った一族の間で後継者や相続などをめぐって、讃岐本国でも混乱がおきたことが予想されます。これが讃岐に他国よりもはやく戦国時代をもたらしたといわれる由縁です。そのような中で「細川澄元から西庄城を賜う」が本当に行われたのかどうかはよくわかりません。またそれを裏付ける史料もありません。
表番号2には、香西氏傘下として従軍しています。
そして、阿波の細川晴元配下で各方面に従軍しています。表番号6からは、香西氏配下として同族の天霧城の香川氏を攻める軍陣に参加しています。これをどう考えればいいのでしょうか。本家筋の守護代香川氏に対して、同族意識すらなかったことになります。このように香川民部少輔の行動は、南海通記には香西氏の与力的存在として記されていることを押さえておきます。
最大の疑問は、香川氏の有力枝族が阿野郡西庄周辺に勢力を構えることができたのかということです。
これに対して南海通記巻十九の末尾に、香西成資は次のように記します。
「綾南北香河東西四郡は香西氏旗頭なるに、香川氏北条に居住の事、後人の不審なきにしも非ず、我其聴所を記して後年に遺す。世換り時移て事の跡を失ひ、かかる所以を知る人鮮かられ歎、荀も故実を好む人ありて、是を採る事あらば実に予が幸ならん、故に記して以故郷に送る。」
  意訳変換しておくと
「綾南・北香河・東西四郡は香西氏が旗頭となっているのに、香川氏が北条に居住するという。これは後世の人が不審に思うのも当然である。ここでは伝聞先を記して後年に遺すことにしたい。時代が移り、事績が失われ、このことについて知る人が少なくなり、記憶も薄れていくおそれもある。故実を好む人もあり、残した史料が参考になることもあろう。そうならば私にとっては実に幸なことである。それを願って、記して故郷に送ることにする。」

ここからは香西成資自身も香川氏が阿野郡の西庄城を居城としていたことについては、不審を抱いていたことがうかがえます。南海通記は故老の聞き取りをまとめたとするスタイルで記述されています。しかし「是を採る事あらば実に予が幸ならん」という言葉には、なにか胡散臭さと、香川民部少輔についての「意図」がうかがえると研究者は考えています。

香川民部少輔の年齢と、その継嗣について
南海通記には、香川民部少輔が讃岐阿野北条郡西庄城を与えられたのは、永正4年(1507)と記します。そして彼の生存の最終年紀は、表21・22の天正11年(1583)、天正15年(1587)とされます。そうすると香川民部少輔は、76年以上も讃岐に在国したことになります。西庄城を賜って讃岐へ下国した時が青年であったとしても、齢90歳の長寿だったことになります。この年齢まで現役で合戦に出陣できたととは思え得ません。『新修香川県史』では、数代続いたものが「香川民部少輔」として記されていると考えています。おなじ官途名「民部少輔」を称した西庄城主香川氏が、2~3代継承されたとしておきます。

香川民部少輔は、いつ西庄城に入城したのか、その経過は?
南海通記には香川民部少輔は、香川肥前守元明の第2子と記します。長子は、香川兵部大輔と記される香川元光とします。元光は、讃岐西方守護代とされていますが、文献的に名跡確認はされていません。また、父元光も細川勝元の股肱の四臣(四天王)と記されていますが、これも史料上で確認することはできません。ちなみに、四天王の他の三人は、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安ですが、このうち文献上にも登場するのは、香西氏と安富氏です。奈良氏も、史料的には出てきません。なお、同時代の香川氏には、備後守と肥後守がいて、史料的にも確認できるようです。

もともと香西(上香西氏)元直の所領であった西庄を誰から受領したのか?
第1候補者は、阿波屋形の影響力が強い時期なので、細川澄之の自殺後に京兆家の跡を継いだ澄元が考えられます。時の実権者は、澄元の実家である阿波屋形の阿波守護細川讃岐守成之が考えられます。しかし、讃岐阿野郡北条の地を香川氏一族に渡すのを香西氏ら讃岐藤原氏一門が黙って認めたのでしょうか。それは現実的ではありません。もしあったとしても、名目だけの充いだった可能性を研究者は推測します。
三好実休の天霧城攻めについて
今まで定説化されてきた三好実休による天霧城攻めについては、新史料から次の2点が明らかになっています。ことは以前にお話ししました。
①天霧城攻防戦は、永禄元年(1558)のことではなく永禄6年(1563)のことであること。1558年には実休は畿内で合戦中だったことが史料で確認されました。実休配下の篠原長房も畿内に従軍しています。永禄元年に、実休が大軍を率いて讃岐にやってくる余裕はないようです。
②永正3~4年(1506~07)年に天霧城周辺各所で小競り合いが発生していることが「秋山文書」から見えることは以前にお話ししました。

西庄城主の香川民部少輔は、天霧城の本家香川氏を攻めたのか?


表番号6には、香川民部少輔が三好実休に従軍して天霧城を攻めたとあります。これは、南海通記以外の史料には出てきません。永正4年の政変では、讃岐守護代であった香川某が京都で討死にしています。南海通記は、民部少輔の兄香川元光が変後の香川守護代になったとします。確かに、香川某の跡を香川氏一族の中から後継者が出て、讃岐西方守護代に就任していることは、永正7年(1510)の香川五郎次郎以降の徴証があります。そうだとすると、守護代香川氏と民部少輔は、兄弟ということになります。永正4年(1507)以後に、守護代が代替わりしたとしても甥と叔父の近親関係です。非常に近い血縁関係にある香川氏同士が争う理由が見当たりません。香川民部少輔による天霧城攻めは現実的ではないと研究者は考えています。そうすると表番号6の実休の天霧城(香川本家)攻防戦には虚構の疑いがあることになります。
香川民部少輔伝2

元亀2年・(1571)の阿波・讃岐連合の四国勢と毛利勢による備前児島合戦は?
この時の備中出兵も阿野郡北条から出撃ではなく宇多津からです。讃岐に伝わる多くの歴史編纂物は、この合戦に参加した武将に香川民部西庄城主を挙げます。それに対して南海通記は、表番号7~9項のように、香川民部少輔が香西氏らの讃岐諸将に包囲されていると伝えます。ここにも大きな違いがあります。
 さらには1571年中に毛利氏支援によって、香川民部少輔が西庄城帰還に成功したとします。しかし、この時点ではまだ毛利氏には備讃瀬戸地域の海上覇権を手に入れる必要性がありません。未だ足固めができていない状況で讃岐への遠征は無理です。南海通記は「讃岐勢によって西庄城が攻められ香川民部少輔は、開城して落ち延びた」としますが、これは天霧城攻防戦と混同している可能性があります。天霧城落城後に香川某も毛利氏を頼って安芸に亡命しています。

香川民部少輔の西庄城開城と元吉合戦の関連について
表番号15・16と20・21を見ると、香川民部少輔は居城である西庄城を都合4度開城して攻城側に引渡しています。このうち、表15・16と20・21は伝承年紀の誤りで、1回の同じことを2回とカウントしていることがうかがえます。また、過去に毛利氏に援護されて帰城できたことへの恩義のことと自尊心から長宗我部元親への寝返りを拒否したと南海通記は記します。これはいかにも道徳的であり、著者の香西成資の好みそうな内容です。 

順番が前後しますが最後に、元亀年中の表7~11項です。
これは天正5年の元吉合戦の混同(作為)だと研究者達は考えています。香川某の毛利方への退避・亡命は事実のようです。これに対して、香川民部少輔の動きが不整合です。
以上のように南海通記で奈良氏や香西方の旗下武将として描かれていますが、これ著者の香西成資の祖先びいきからくる作為があるというのです。実際は、戦国大名へと歩みはじめた香川氏と阿波三好勢力下でそれを阻止しようとする香西・奈良氏などの抗争が背景にあること。さらに元吉合戦については、発掘調査から元吉城が櫛梨城であると多くの研究者が考えるようになりました。つまり、香川本家の天霧城をめぐるエピソードを西庄城と混同させる作為があること。そして、西庄城を拠点とするさらに香川民部少輔が香西氏傘下にあったことを示すことで、香西氏の勢力を誇張しようととする作為が感じられるということのようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」
関連記事

 

綾氏系図 : 瀬戸の島から
南海通記 
   『南海通記』巻之五157~158には、「讃州浦嶋下知記」「海辺の地下人」についての記述があります。内容は次に続く「応仁合戦記」のプロローグで、応仁の乱のために上洛する大内・河野軍を乗せた輸送船団への対応が次のように記されています。
①前段 応仁元年(1467)5月、細川勝元が御教書を発して讃岐のすべての浦々島々に対し、次のように下知した。

「今度防州凶徒有渡海之聞。富国浦島之諸人。堅守定法。不可為海路之禍。殊至海島之漁人者。召集千本浦。可令安居之也。海邊之頭人等営承知。應仁元年五月日.」
意訳変換しておくと
「今度、防州の凶徒(山名氏)が渡海してくると聞く。当国(讃岐)の浦や島の諸人は従来の定法(廻船定法の規定)を堅く守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよ。特に浦々の漁師達は本浦に集合し、身の安全を守れ。以上を海邊の頭人に連絡指示しておくこと。應仁元年五月日.」
 
 私は何度もこの文書を読み返しました。なぜなら細川氏にとって敵対する防州凶徒(山名氏)が船団で上洛しようとしているのです。ところが「戦闘態勢を整え、一隻も通すな」と命じているのではありません。定法(廻船定法の規定)を守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよというのです。これはどういうことなのでしょうか?
②後段は、伊豫の能島兵部大夫(能島村上氏)からの飛船が讃岐の浦長に、制札を廻し「通船」したと、次のように記されています。

「今度大内家、河野家ノ軍兵、君命二依テ上洛セシムル所也,軍兵甲乙人乱妨ヲ禁止ス、船中雑用ハ債ヲ出テ之ヲ償フ、押買ヲ禁止ス、船頭人役者ノ外、船中ノ人衆上陸ヲ禁止ス、海島諸浦ノ人等宜シク之ヲ知ルヘキ也」
意訳変換しておくと
「今度は大内家と河野家の軍兵が、将軍の命に応じて上洛することになった。そこで軍兵による人乱妨を禁止する。船中雑用なのど費用は、きちんと支払う。押買は禁止する。船頭や役人の以外の乗組員の上陸を禁止する。諸浦の者どもに、以上のことを伝えること。

 その結果、讃岐の「海邊モ騒動セス、通船ノ憂モナ」かった。
「海邊ノ地下人ハ但二財貨ヲ通用シテ何ノ煩労モナシ」と記します。大内氏らの制札を浦々島々に掲げ、瀬戸内海航路を無事に通過出来たようです。これが陸上なら「凶徒」が進軍してきて讃岐を通過して、上洛するなら陣地を固め臨戦態勢に入るように命ずるはずです。ところが、「凶徒を無事通過させよ」と命じています。さらには漁業者を各本浦一所に集めて安全を図れともいっています。これは一体どういうことなのであろうか。
 これに対して著者の香西成資は、軍隊の海上移動は細川方も大内方もどちらも「公儀ノ役」であって、これが「仁政」であると評します。つまり公法を守ることが武士道だと云うのです。南海通記が「道徳書」とされる由縁です。

戦国その1 中国地方の雄。覇者:大内義興、大内義隆の家臣団|鳥見勝成

大内・河野氏の輸送船団が讃岐沖を「無事通過」した当時の情勢を見ておきましょう。
 応仁元年(1467)6月24日には讃岐から細川成之に率いられた香川五郎次郎・安富左京亮が入京しています。(『史料綜覧』)。細川成之は阿波守護で、香川・安富は讃岐両守護代です。阿波の守護が、讃岐の両守護代を率いるという変則的な軍編成です。そのような中で、東軍の細川勝元は次のような指示を出しています。
6月26日 小早川熙平の上京を止め大内政弘に備えさせ、
7月27日 大内軍が和泉堺に至ると聞いて斉藤衛門尉を派遣。
これらの指示を見ると、東軍の細川勝元は、幕府の実権を掌握しながら、西軍の援兵に対しても軍配備を怠りなく行っていることがうかがえます。このときすでに大内軍は、7月27日に摂津兵庫に到着し、その軍勢は、河野軍2千余を加え2~3万とも伝えます(『愛媛県史』)。西軍の大軍をみすみす備讃瀬戸を無傷で通過させたのはどうしてでしょうか。
讃岐塩飽の廻船 廻船式目とタデ場 : 瀬戸の島から

その背景には「定法(廻船之定法)」があったからです。
定法は、廻船式目と呼ばれ海路に交通する廻船の作法で、海上法令を条書きしたものです。これは塩飽にも多く残されていることは以前に紹介しました。定法の成立については諸説があり、写本も数系統あって定義の定まらない日本古来の海上法規集のようです。多くの「定法」類の奥書・巻頭に次のように記されています。

「此外にも船の沙汰於有之者、此三十ヶ條に引合、理を以可有之沙汰者也」

ここからは、海上における訴訟を解決するために長い年月をかけてルール化された条文であることが分かります。廻船式目の条文では、船の貸借関係の条項や借船頭の役割などの規定が多くあります。古来船主と雇いや雇われ船頭とのトラブルが多くあった証拠とも云えます。
回船大法考 住田正一博士・「廻船式目の研究」拾遺( 窪田 宏 ) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
例えば「廻船大法」では、次のような条文があります。

一 船を貸、船頭行先にて公事有之、船を留たる時者、船頭可弁事

船は、航海中は船籍地を離れています。そのため寄港先で公事(臨戦状態で平時の廻船を軍用船にしつらえて軍事的調達・徴用・契約)によって、その土地の武将の船団に組み込まれ時には、借船頭が弁済することで裁量を認めたと、研究者は判断します。
 これを、大内・河野軍の輸送船団編成に当てはめると、2万を超す軍勢を乗せた船団は、配下の船舶だけでは足りず、備讃瀬戸海域の船を徴用や契約による動員(借船)したことが考えられます。そうしないと輸送しきれません。その結果、編成された輸送船団は、塩飽・小豆島など備讃瀬戸などのいろいろな船籍が混在していたことになります。そのために讃岐沖を通過する輸送船団には、地元の船も含まれています。そのため輸送船への攻撃は控えることが慣習法化したと研究者は考えています。そして、島々浦々における用船保護のための相互不可侵が「定法」となります。
この相互不可侵は、②の制札にも関係しています。
前半の、軍船に乗船した軍兵甲乙人らの乱妨狼藉を禁止することや、戦略物資準備のための押し買いを規制することも無用の混乱を起こさないための常套策です。要点は後半の「船頭人役者(船頭以外の「船中人衆」=水主)の上陸を禁上していることです。これは、船のクルーたちの中立性を維持するための制限措置と研究者は考えています。これによって、乗組員たちから船の針路などの情報が漏れるのを防ぎ、浦人らとの連絡を防ぐこともできます。

駿河屋 -<中古><<日本史>> 老松堂日本行録 朝鮮使節の見た中世日本 (日本史)

応仁元年(1467)から約40前の応永27年(1420)に、李氏朝鮮の日本回礼使を務めた宗希環が京都を往復しています。その
著『老松堂日本行録』(岩波文庫本)に、以下のような文章があります。

可忘家利に泊す(162)此の地は軍賊のいる所にて王令及ばず、統属なき故に護送船もまたなし。・・其の地に東西の海賊あり。東より来る船は、東賊一人を載せ来れば、即ち西賊害せず。西より来る船は、西賊一人を載せ来れば、即ち東賊害せず。・・・」
(可忘家利は、現広島県安芸郡蒲刈町)

また、銭七貫を代価に東賊を一人雇ったことで、希環ら回礼使たちは無事に瀬戸内海を通過でき帰国しています。ここでも海上勢力(海賊)の海上における相互不可侵の慣行があったことがうかがえます。戦国時代も下っていくうちに、例えば海賊とも呼ばれた海上勢力も、信長・秀吉などの海軍として組み込まれ従属化していくことは、以前にお話ししました。それ以前の塩飽衆や村上氏などの海上勢力(平時の廻船業又は交易集団)は、戦時には周囲の戦国大名である毛利・小早川・大友らの武将と、その時々の条件で随意に与力して活動しています。こうした一見日和見的な海上勢力の動向も船籍船舶の現在位置や配船の状況又は借船の都合・調達の結果などからも左右されていたものと研究者は考えています。
  以前をまとめておきます
①船舶が移動先で「公事(徴用・契約)」された場合が、船頭の責任で運用管理された。
②大軍の海上輸送には多数の船舶が「公事」され輸送船団として組織された。
③そのため輸送船団を襲撃すると云うことは、仲間の船を襲う可能性があった。
④そこで、戦時下においては輸送船襲撃はしないという慣習法ができ、それが「定法」となった。
⑤そのため応仁の乱で、大内・河野軍を載せた輸送船団が備讃瀬戸を通過する際にも、守護細川氏は、襲撃命令を出さなかった。
⑥17世紀後半に成立した南海通記では、これを「武士道」の手本として賞賛している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
関連記事

       香西氏系図 南海通記

 香西氏系譜
前回に南海通記の系図には、香西元資が細川氏の内衆として活躍し、香西氏の畿内における基礎を築いたとされていること、しかし、残された史料との間には大きな内容の隔たりがあることを見てきました。そして、元資より後に、在京する上香西氏②と、讃岐在住の下香西③・④・⑥の二つの流れに分かれたとしまします。しかし、ここに登場する人物も史料的にはきちんと押さえきれないようです。
例えば下香西家の⑥元成(元盛)について見ておきましょう。
香西元成
香西元成(盛)

元成は、享禄四年(1531)六月、摂津天王寺においての細川晴元・三好元長と細川高国・三好宗三(政長)との合戦で、晴元方として参戦し武功をあげたと南海通記の系図注記に記されています。 いわば香西氏のヒーローとして登場してきます。
 しかし、「香西元成(盛)」については、臨済僧月舟寿桂の『幻雲文集』瑯香西貞節等松居士肖像には、次のように記されています。

香西元盛居士。その父波多野氏(清秀)。周石(周防・石見)の間より起こり、細川源君(細川高国)幕下に帰す。以って丹波の一郡(郡守護代) を領す。近年香西家、的嗣なし。今の府君 (細川高国)、公 (元盛)に命じ以って断(和泉)絃を続がしむ。両家皆藤氏より出づ。府君、特に公をして泉州に鎮じ、半刺史 (半国守護代)に擬せり。

意訳変換しておくと
   香西元盛の父は波多野氏(清秀)である。波多野氏は周石(周防・石見)の出身で、細川源君(細川高国)に従って、丹波の一郡(郡守護代) を領していた。近年になって丹波の香西家が途絶えたために、今の府君 (細川高国)は、公 (元盛)に命じて、香西氏を継がした。両家共に、藤原氏の流れをくむ家柄であるので、釣り合いもよい。そして府君(高国)は公(元盛)を泉州の半刺史 (半国守護代)に補任した。
 
 ここには泉州の香西元盛はもともとは丹波の波多野氏で、讃岐の香西氏とは血縁関係の無い人物であったことが書かれています。確かに元成(盛)は丹波の郡守護代や和泉国の半国守護代を務め、讃岐両守護代香川元綱・安富元成とともに、管領となつた高国の内衆として活動します。
 しかし、1663(寛文3)年の『南海治乱記』の成立前後に編纂された『讃岐国大日記』(承応元年1652成立)・『玉藻集』(延宝五年1677成立)には、香西元成に関する記事は何もありません。もちろん戦功についても記されていません。元成という人物は『南海治乱記』に初めて作者の香西成資が登場させた人物のようです。香西元成は「足利季世記」に見える晴元被官の香西元成の記事を根拠に書かれたものと研究者は推測します。
「南海治乱記」・「南海通記」には、香西宗信の父は元成(盛)とします。
そして、系図には上に示したように三好長慶と敵対した細川晴元を救援するため、摂津中島へ出陣したた際の天文18年(1549)の記事が記されています。しかし、この記事について研究者は、「この年、讃岐香西氏の元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と越後守元成の出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた兵将の香西氏との関係は参考にできると研究者は考えています。
今度は『南海治乱記』に書かれた「実在しなかった」元成の陣立てを見ておきましょう。参陣には、以下の武将を招集しています。
我が家臣
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
幕下には、
羽床伊豆守。瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
②西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等が加わったという。
以上です。
①からは、阿波三好配下の植田・十河を仮想敵として警戒しているようです。⑦には各港の船大将の名前が並びます。ここからは、細川氏が畿内への讃岐国衆の軍事動員には、船を使っていたことが分かります。以前に、香川氏や香西氏などが畿内と讃岐を結ぶ独自の水運力(海賊衆=水軍)を持っていたことをお話ししましたが、それを裏付ける資料にもなります。香西氏は、乃美・生島・本津・塩飽・直島・日比の水運業者=海賊衆を配下に入れていたことがうかがえます。細川氏の下で備讃瀬戸制海権の管理を任されていたのが香西氏だとされますが、これもそれを裏付ける史料になります。
 この兵員輸送の記事からは、香西氏の軍事編成について次のようなことが分かります。
①香西軍は新居・幡一紳・植松などの一門を中心にした「家臣」
②羽床・滝宮・福家・北条などの「幕下」から構成されていたこと
今度は南海通記が香西元成(盛)の子とする香西宗信の陣立てを見てみましょう。
 「玉藻集」には、1568(永禄11)年9月に、備中児島の国人四宮氏に誘われた香西駿河入道宗信(宗心・元載)が香西一門・家臣など350騎・2500人を率いて瀬戸内海を渡り、備前本太城を攻めたと記します。この戦いを安芸毛利氏方に残された文書で見てみると、戦いは次の両者間で戦われたことが記されています。
①三好氏に率いられた阿波・讃岐衆
②毛利方の能島村上氏配下の嶋氏
毛利方史料は、三好方の香西又五郎をはじめ千余人を討ち取った大勝利と記します。香西宗信も討死しています。
 『玉藻集』と、同じような記事が『南海治乱記』にあります。そこには次のように記されています。
1571(元亀二)年2月、香西宗心は、小早川隆景が毛利氏から離反した村上武吉の備前本太城を攻め、4月に落城させたとします。南海治乱記では香西宗心は、毛利方についたことになっています。当時の史料には、この年、備前児島で戦ったのは、毛利氏と阿波三好氏方の篠原長房です。単独で、香西氏が動いた形跡はありません。作者香西成資は、永禄11年の本太城攻防戦をこのときの合戦と混同しているようです。南海通記には、このような誤りが多々あることが分かっています。『南海治乱記』・『南海通記』の記事については、ほかの史料にないものが多く含まれていて、貴重な情報源にもなりますが、史料として用いる場合は厳密な検証が必要であると研究者は指摘します。戦いについての基本的な誤りはさておいて、研究者が注目するのは次の点です。『玉藻集』には、永禄11年9月に、香西宗信が一門・家臣などを率いて備前本太城攻めのために渡海しています。その時の着到帳と陣立書、宗信の嫡子伊賀守佳清の感状を載せていることです。
その陣立書からは、香西氏の陣容が次のようにうかがえます。
①旗本組は唐人弾正・片山志摩など香西氏の譜代の家臣
②前備は植松帯刀・同右近など香西氏一門
③先備・脇備は「外様」で、新居・福家などの讃岐藤原氏、別姓の滝宮氏
ここからは、香西氏の家中に当たるのは①旗本組②前備に組み込まれている者たちだったことが分かります。この合戦で香西氏・当主駿河入道宗信は討死します。そのため宗信に替わって幼年だった嫡子伊賀守佳清が、植松惣十郎往正に宛てた感状を載せています。住清は、植松惣十郎往正(当時は加藤兵衛)に対し、父植松備後守資正の遺領を安堵し、ついで加増しています。
 『玉藻集』香西伊賀守好清伝・『南海通記』所収系図には、次のような事が記されています。
①往正の父資正はその甥植松大隅守資教とともに宗信・佳清二代の執事を務めていたこと
②往正は天正13年の香西氏の勝賀城退去後は、弟の植松彦太夫往由とともに浪人となった佳清を扶養したこと。
 ちなみに『香西史』所収の植松家系図には、『南海通記』の著者香西成資は、往正のもう一人の弟久助資久の曽孫で、本姓香西に復する前は植松武兵衛と名乗っていたとします。つまり、香西成資は植松家の一族であったのが、後年になって香西氏を名のるようになったとします。
『南海治乱記』には「幕下」が次のように使われています。
巻之八 讃州兵将服従信長記
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降すと聞けれは、同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清、使者を以て信長の幕下に候せん事を乞ふ。香川両使は、香川山城守三野菊右衛門也。
  意訳変換しておくと
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降ることを聞いて、翌年同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清は、使者を立てて信長の幕下に入ることを乞うた。この香川両使は、香川山城守三野菊右衛門であった。

   ここでは、香西・香川両氏が織田信長に服従したことが「幕下に候せん」と用いられていると研究者は指摘します。
巻之十 讃州福家七郎被殺害記
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子忠兵衛尉瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす。先瀧宮弥十郎。新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎まで一致に和睦し、国中に事あるときは互に見放べからずと一通の誓紙を以て約す。是香西氏衰へて羽床を除ては旗頭とすべき者なき故也。
意訳変換しておくと
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子の忠兵衛尉瀧宮が鉄砲に当たって戦死したことに憤て、香西家幕下の城主たちのほとんどに文書を廻して見方に引き入れた。瀧宮弥十郎・新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎たちは和睦し、讃岐国内で事あるときは互いに見放さないとの攻守同盟を誓紙にして約した。これも香西氏が衰えて、羽床が旗頭となった。

   ここでは「旗頭」に対置して用いられています。本来同等な者が有力な者を頼る寄親・寄子の関係を指していると研究者は指摘します。ここからは「幕下」とは、有力者の勢力下に入った者を指すことが分かります。『日本国語大辞典』(小学館)には、「幕下に属す、参す。その勢力下に入る。従属する」とあります。、
以上から、戦国期の讃岐香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
①執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
②周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた

しかし、その規模は当時の巨大化しつつあった戦国大名から見れば弱小と見えたようです。毛利軍と讃岐国衆の間で戦われた1577(天正5)年7月22日の元吉合戦に登場する香西氏を見ておきましょう。
毛利氏方の司令官乃美宗勝らが連署して、戦勝を報告した連署状写が残っています。そこには敵方の「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」が元吉城に攻め寄せてきたと記されています。ここでは香西氏の立場は、戦国大名毛利氏から見れば、讃岐の国衆の一人にすぎないと見なされていたことが分かります。国衆とは、「戦国大名に服属しつつも、 一定の自立性を保持する領域的武家権力と理解されます。地域領主」とされます。この合戦当時の香西氏は、阿波三好氏に服従していました。国衆は戦国大名と同じように本領を持ち、家中(直属家臣団を含む一家)を形成しますが、その規模は小さなものでした。讃岐では、戦国大名化したのは香川氏だけのようです。
以上をまとめておくと
①細川頼之のもとで活躍し、細川管領家の内衆として活動するようになったのが香西常建である。
②香西常建は晩年の15世紀初めに、丹波守護代に補任され内衆として活動するようになった。
③その子(弟?)の香西元資も丹波守護代を務めたが、失政で罷免された。
④南海通記は、父香西常建のことには何も触れず、香西元資を「細川氏の四天王」と大きく評価する。
⑤しかし、南海通記は香西元資が丹波守護代であったことや、それを罷免されたことなどは記さない。
⑥これは、南海通記の作者には手元に資料がなく基本的な情報がもっていなかったことが推察できる。
⑦香西元資以後の香西氏は、在京組の上香西氏と讃岐在住組の下香西氏に分かれたとするが、その棟梁達に名前を史料で押さえることはできない。
⑧大きな武功を挙げたとされる下香西氏の元成(盛)も、香西氏の一族ではないし武功も架空のものであるとされる。
⑨しかし、南海通記などに残された軍立て情報などからは、香西氏の軍事編成などをうかがうことができる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

このページのトップヘ