
隅櫓を溝え土塀を巡らした勝賀城の城郭東麓に堀を巡らす佐料城岬状に突出した柴山城天神川沿いの小山に藤尾城と作山城内間城(香西氏累世の要城)北麓庄吉川をのぼって植松城(加藤兵衛)南方に連らなる袋山の鬼無城(香西兵庫)
これらを見回すと、香西氏の関心が平野部よりも、むしろ海に向かって開かれていたような気がすることは前回お話ししました。今回は、その中から佐料城跡を見ていくことにします。
佐料城は勝賀山築城の時に、山麓の居城として同時期に築かれたと伝えられます。
佐料城は勝賀山築城の時に、山麓の居城として同時期に築かれたと伝えられます。
「詰の城」の勝賀城に対し、佐料城は里城の役割をもっていて、日常の居館の構造形式を備えていたと研究者は考えています。天正3 (1575) 年に、18代佳清が藤尾城を築き、移り住むまで約350年間、香西氏の拠点であったことになります。
城跡は、鬼無町佐料にあって、旧国道11号線から250ほど西に入った佐料公会堂の北側一帯にあたります。ミカン畑の一角には堀跡が残り、周辺にも城跡の名残りがあります。地形的には、新池に向かって下ってきた尾根が平地に至る尾根先端部にあたります。南北側は緩い谷状で、微高台地の上に位置します。
香西氏の居館 佐料城跡周辺図
城跡は、鬼無町佐料にあって、旧国道11号線から250ほど西に入った佐料公会堂の北側一帯にあたります。ミカン畑の一角には堀跡が残り、周辺にも城跡の名残りがあります。地形的には、新池に向かって下ってきた尾根が平地に至る尾根先端部にあたります。南北側は緩い谷状で、微高台地の上に位置します。
城の痕跡を地図で見ておきましょう。
1の「城の内」には人家があり、 堀跡を「内堀」と呼ばれます。「内堀」は明治初期の佐料地引図面(高松市役所鬼無出張所蔵)にも記されています。
2の北西隅に「北堀」の屋号を持つ家。
3の北東角は「御屋敷」「せきど」)
4の公会堂横に「城の本家」の屋号の家
8の南東一角には「城の新屋」の屋号の家
5は「城の内」から北へ200mほどのミカン畑の中にある「城の台」
6は、西へ200m の貴船神社で、その北側の谷あいが「馬場の谷」
7は東へ200mの、 国道11号線に接して「東門」の屋号の家
さらに南へ200mの市道交差点が「泉保池」で、城で使用する水がここで確保されたと伝えられます。
以上の古地名や屋号からは、ここに中世の武士居館があったことを示します。
①「城の内」 の堀跡は、幅4~5m、長さ約 80mで L字形に折れた形状
②「城の内」周辺の細長い地目と一段低い地形、「北堀」などからもともとは正方形状に囲む形
③「城の内」は65m前後四方の広さ。
④南東隅に「南海通記」の著者・香西成資の父植松吉兵衛時蔭の募碑(慶安 2・1649年)
⑤その近辺に来歴不明の社祠2基

以上のような情報から佐料城跡の縄張を研究者は次のように考えています。
⑤その近辺に来歴不明の社祠2基

以上のような情報から佐料城跡の縄張を研究者は次のように考えています。
①「城の内」は堀を伴う方形館な形状
②主要部の郭と前面の郭、連接した2郭の複郭式館跡、
②主要部の郭と前面の郭、連接した2郭の複郭式館跡、
③2郭を堀が巡っているので、単堀複郭式の縄張形式

中世前半期の方形館は、約1町の規模が普通です。佐料跡は、それより少し小さく見えますが、南の1郭を加えると120×130 mになるので、見劣りするものではないと研究者は考えています。

中世の武士居館モデル
単郭方形館から複郭式方形館への推移期は、鎌倉末~室町初頃とされます。この城跡の縄張形式が示す年代もほぼその時期に当てはまります。累代の居館となって何度かの改築、再改築が加えられたのでしょう。
最後に佐料城跡をもう少し具体的にイメージするために、西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)の中世居館を見ておきましょう。
西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)は、東大寺領木本西庄だったところで、弥生時代から江戸時代にかけての遺構や遺物が確認されているようです。1977(昭和52)年の発掘調査によって、鎌倉時代後期から室町時代にかけての住居の遺構が発見さました。約15m×10mと大きい基壇を持つ、堀立柱建物跡が出てきています。 中世にこれだけの規模の建物を造れるのは、武士をおいてほかにいません。これを武士居館と研究者は考えています。周辺には、井戸や馬場、柵・墓などもあります。佐料城跡も、このような武士居館に近かったのではないかと私は考えています。
戦国大名は山城を居城化することが多いのですが、日常的に暮らす平地に設けられた館の構成は基本的に同じであることが分かって来ました。

2.藤尾城跡

阿波海瑞城復元図
越前の一乗谷朝倉氏館、豊後の大友氏館(豊後府内)、阿波の勝瑞(三好氏館)などで発掘調査で、分かってきたのは池のある庭園を持った共通の構造であることです。岐阜城の麓にある織田信長の館でも、大規模な庭園があったことが近年の発掘調査で分かってきました。ここでは、信長が安土城を築いて、天守に象徴される近世城郭モデルが普及するまでは、「花の御所」モデルの室町幕府の館が規範スタイルであったことを押さえておきます。戦国期までは、幕府に連なること、そして武士の頂点である将軍と同様の館を築くことが、在地領主としてのステイタスシンボルだったようです。そう考えると、国衆レベルの香西氏の佐料城(居館)も西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)と共通するところが多かったと私は考えています。ちなみに「勝賀城調査報告書2022年」には、佐料城以外の周辺城館については次のように記されています。2.藤尾城跡
藤尾城跡は、勝賀山東麓に所在する。城跡は標高約20mで、神宮寺山から北東に延びる尾根の先端に位置する。現在は宇佐八幡神社によって改変されており、縄張り等の構造は不明である。 『南海治乱記』には、天正3(1575)年に香西氏が藤尾山にあった八幡宮を遷し、築城したと記されている。発掘調査が行われたが、中世の遺構は検出されておらず、近世~近代の遺構が 確認された(高松市教委編2008)。包含層から中世に遡る丸瓦が出土したが、藤尾城跡と比定できるものではなく、他にも13~14世紀の遺物が包含層から出土していることから、藤尾城築城前後の八幡宮に伴うものである可能性も考えられる。
3.作山城跡
作山城跡は、勝賀山東麓に所在する。城跡は標高約16mで、薬師山から北東に延びる丘陵 の先端に位置する。現在は開発によって破壊されており、縄張り等の構造は不明である。発掘 調査が行われたが、中世の遺構は検出されておらず、近世~近代の遺構が確認された(高松市 教委編2008)。
4.芝山城跡
芝山城跡は、勝賀山の北側、標高44mの芝山の山頂部に位置する。山頂部の南端は芝山神 社によって改変されており、中世山城の遺構として可能性があるのは、山頂部中央にある約 30 ×20mの方形状の削平地のみである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
勝賀城跡 1979年 髙松市教育委員会
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