瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:香西氏略系譜

 南海治乱記
南海治乱記
『南海治乱記』巻之十七「老父夜話記」に、次のような記事があります。
又香西備前守一家・三谷伊豆守一家ハ雲州へ行ク。各大身ノ由聞ル。香西縫殿助ハ池田輝政へ行、三千石賜ル。

意訳変換しておくと
又①香西備前守一家と三谷伊豆守一家は、雲州(出雲)へ行ってそれぞれ大身となっていると聞く。また②香西縫殿助は、備中岡山の池田輝政に仕え、三千石を賜っている。

ここには天正年間の騒乱の中で滅亡した香西氏の一族が、近世の大名家に仕えていたことが記されています。今回は、戦国時代末期に讃岐を離れて近世大名家に仕官した香西氏の一族を見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。
香西記

①の香西備前守については『香西記』五「香西氏略系譜」にも次のように載せられています。

出雲藩の香西氏系図
香西氏略系譜(香西記五)
内容は『南海治乱記』と同様の記事です。同書には、清長(香西備前守)と清正(六郎大夫)の父子は、天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親軍が阿波国の川島合戦(重清城攻防戦)で、三好存保方として討死したと記されています。
 残された一族が出雲へ赴むき、その子孫は、出雲松江藩松平家の家臣となり幕末まで続いたというのです。その系譜について調査報告しているのが、桃裕行「松江藩香西(孫八郎)家文書について」です。その報告書を見ていくことにします。
松江藩士の香西氏の祖は、香西太郎右衛門正安になるようです。
彼が最初に仕えたのは、出雲ではなく越前国福井藩の結城秀康でした。どうして、出雲でなく越前なのでしょうか?

福井県文書館平成22年2月月替展示
「藩士先祖記」(福井県立図書館松平文庫)
「藩士先祖記」に記された内容を、研究者は次のように報告します。
香西太郎右衛門(正安)諄本不知  本国讃岐
(結城)秀康侯御代於結城被召出。年号不知。慶長五年御朱印在之。
香西加兵衛 (正之)諄不知 生国越前。
忠昌公御代寛永十三丙子年家督被下。太郎右衛門(正安)康父ハ香西備前守(姓源)卜申候而讃岐国香西卜申所ノ城主ノ由申伝候。其前之儀不相知候。
意訳変換しておくと
香西太郎右衛門(正安)は、(結城)秀康侯の時に召し抱えられたが、その年号は分からない。慶長五年の朱印がある。
香西加兵衛 (正之)は越前生まれで、忠昌公の御代の寛永13(1636)年に家督を継いだ。父の太郎右衛門(正安)は香西備前守(姓源)と云い、讃岐の香西の城主であったと伝えられている。その前のことは分からない。

ここには太郎右衛門(正安)の父は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であったと記されています。松江藩には数家の香西姓を持つ藩士がいたようです。
その中の孫八郎家の七代亀文が明治元年のころに先祖調べを行っています。それが「系図附伝」で、太郎右衛門正安のことが次のように記されています。
 正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁した。その娘(月照院)が結城秀康に召されて松江藩祖直政を生んだ。そのような関係で三谷出雲守長基も、後には松江藩家老となる。大坂の陣では、香西正安・正之父子は秀康の長子忠直の命と月照院の委嘱によって、直政の初陣に付き添い戦功を挙げた。

 ここに登場する結城(松平)秀康(ひでやす)は、徳川家康の次男で、2代将軍秀忠の兄になる人物です。一時は、秀吉の養子となり羽柴秀康名のったこともありますが、関ヶ原の戦い後に松平姓に戻って、越前福井藩初代藩主となる人物です。

『香西記』の「香西氏略系譜」では、備前守清長の娘が「三谷出雲守妻」となり、その娘(月照院)が結城(松平)秀康の三男を産んだようです。整理すると次のようになります。
①清長は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であった
②清長・清正の父子は、三好氏に従軍し、阿波川島合戦で戦死した。
③正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁して、娘(月照院)を産んだ。
④娘(月照院)は、秀吉政権の五人老の一人宇喜多秀家の娘が結城秀康に嫁いだ際に付人として福井に行った。
⑥その後、結城秀康に見初められて側室となって、後継者となる直政や、毛利秀就正室(喜佐姫)を産んだ。
⑦その縁で三谷・香西両氏は、松江藩松平家に仕えるようになった。

松江藩松平家の4代目藩主となった直政は、祖父が秀吉と家康で、母月照院は香西氏と三谷氏出身と云うことになります。月照院については、14歳で初陣となる直政の大坂夏の陣の出陣の際に、次のように励ましたと伝えられます。
「栴檀は双葉より芳し、戦陣にて勇無きは孝にあらざる也」

そして、自ら直政の甲冑
下の着衣を縫い、馬験も縫って、それにたらいを伏せ墨で丸を描き、急場の験として与えたと伝えられます。
   松平直政が生母月照院の菩提を弔うため月照寺を創建します。これが松江藩主松平家の菩提寺となり、初代直政から九代斎貴までの墓があります。そこに月照院も眠っています。

月照寺(島根県松江市) 松江藩主菩提所|和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
月照院の墓(松江市月照寺)

「雲州香西系図」には、太郎右衛門の子工之・景頼兄弟の子孫も松江藩松平家に仕えており、越前松平家から移ってきたことが裏付けられます。  殿様に見初められ側室となって、男子を産んだ姉の「大手柄」で出雲の香西家は幕末まで続いたようです。

松平直政 出雲初代藩主


今度は最初に見た「池田輝政へ行き、三千石賜」わったと記される「香西縫殿助」を見ておきましょう。
備前岡山藩池田家領の古文書を編さんしたものが『黄薇古簡集』です。
岡山県の中世文書
              黄薇古簡集
その「第五 城府 香西五郎右衛門所蔵」文書中に、1583(天正11)年7月26日の「香西又一郎に百石を宛がった三好信吉(羽柴秀次)知行宛行状」があります。
ここに出てくる香西又一郎とは、何者なのでしょうか?
香西五郎右衛門の系譜を、研究者は次のように復元しています
香西主計
 讃岐香西郡に居城あり。牢人して尾張へ移る。池田恒興の妻の父で、輝政の外祖父荒尾美作守善次に仕える。八七歳で病死。
縫殿介 
主計の惣領。池田勝入斎(恒興)に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦で討死。又市の兄
又市 (又一郎)
五郎右衛門の親。主計の次男。尾張国知多郡本田庄生まれ。池田勝入斎に仕え、池田輝政の家老伊木長兵衛の寄子であった。天正9年(1581)、摂津国伊丹において50石拝領。勝入の娘若御前と羽柴秀次の婚礼に際し、御興副に遣わされる。天正11年に50石加増され、摂津国で都合100石を拝領。天正12年4月8日、小牧長久手の戦いに秀次方として戦う。翌日、藩主池田勝入とともに討死。三八歳。
五郎右衛門  
父・又市の討死により秀次に召し出され、知行100石を安堵。天正13年、近江八幡山で秀次より百石加増され200石を拝領。文禄四年(1595)7月の秀次切腹後、 11月に伏見において輝政に召し出された。当年50歳。

ここには又市の父香西主計について、「讃岐香西郡に居城あり。牢入して尾張へ移」り、池田恒興の妻の父荒尾善次に仕えたとあります。香西主計の長男・縫殿介は、池田恒興に仕え、1570年の姉川の戦いで討死しています。次男の又市は恒興女子と三好信吉(のちの羽柴秀次)との婚儀に際し御輿副として遣わされ、秀次に仕えます。天正13年に加増されたときの知行宛行状も収められています。又市は、文禄四年の羽柴秀次の切腹後は、池田家に戻り輝政に仕えました。その子孫は池田家が備前に移封になったので、備前岡山藩士となったことが分かります。
  『南海通記』・『南海治乱記』に載せられた「香西縫殿助」を見ておきましょう。
こちらには「香西縫殿助」は、香西佳清の侍大将で天正14年の豊後戸次川の合戦に加わったと記されるのみです。『南海通記』などからは香西縫殿助がどのようにして、池田家に仕官したかは分かりません。これは香西主計の長男縫殿介と戸次川で戦死した「香西縫殿助」を南海通記は混同したものと研究者は考えています。 ここにも南海通記の資料取扱のあやふやさが出ているようです。
 香西氏については、讃岐の近世史料にはその子孫の痕跡が余り出てきません。しかし、近世大名に仕官し、藩士として存続した子孫もいたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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永世の錯乱2
永世の錯乱と細川氏の抗争

1493(明応2)年4月、細川政元は対立していた将軍足利義材を追放して足利義澄を新たに将軍職に就けます。こうして政元は、幕府の実権を握ります。政元は「天狗信者」で、天狗になるための修行を行う修験者でもあり、女人を寄せ付けませんでしたから、実子がいません。そのため前関白九条政基の子を養子とし澄之と名付けました。ところがその上に阿波守護細川成之の孫も養子として迎えて澄元と名付けます。こうして3人の養子が登場することになります。当然、後継者争いを招くことになります。これが「永正の錯乱」の発端です。
 ①1507(永正4)年6月23日、管領細川政元は被官の竹田孫七・福井四郎らに殺害されます。これは摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代香西又六元長が謀ったもので、主君政元と澄元を排除し、澄之(前関白九条政基子)を京兆家の家督相続者として権勢を握ろうとしたものでした。
 ②政元を亡き者にした香西元長らは、翌日には京兆家の内衆とともに細川澄元(阿波守護細川慈雲院孫)を襲撃します。家督争いの元凶となる澄元も亡き者にしようとしたようです。しかし、澄元の補佐役であった三好之長が、澄元を近江の甲賀に落ち延びさせます。この機転により、澄元は生きながらえます。こうして、武力で澄元を追放した澄之が、政元の後継者として管領細川氏の家督を継ぐことになります。この仕掛け人は、香西元長だったようです。このときの合戦で、元長は弟元秋・元能を戦死させています。
 一方、近江に落ち延びていた細川澄元と三好之長も、反攻の機会をうかがっていました。
 ③三好之長は、政元のもう一人の養子であった細川高国の支援を受け、8月1日、細川典厩家の政賢・野州家の高国・淡路守護細川尚春ら細川一門に澄之の邸宅を急襲させます。この結果、細川澄之は自害、香西元長は討死します。これを『不問物語』は、次のように記します。
「カクテ嵐ノ山ノ城ヘモ郷民トモアマタ取カケヽル間、城ノ大将二入置たる香西藤六・原兵庫助氏明討死スル上ハ、嵐ノ山ノ城モ落居シケリ。」

『後法成寺関白記』7月29日条には、次のように記します。
「香西又六(元長)嵐山の城、西岡衆責むるの由その沙汰」

とあることからも裏付けられます。この戦いで讃岐両守護代の香川満景・安富元治も澄之方として討死にしています。この戦いは、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の墓場となったとも云えます。この結果、香川氏なども本家が滅亡し、讃岐在国の庶家に家督が引き継がれるなど、その後の混乱が発生したことが考えられます。
永世の錯乱 対立構図

政元暗殺から2ヶ月足らずで、香西元長は澄之とともに討たれてしまいます。
 勝利者として8月2日には、近江に落ちのびていた澄元が上洛します。そして将軍・足利義澄から家督相続を認められたうえ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を与えられています。自体は急変していきます。こうして、将軍義澄を奉じる細川澄元が幕府の実権を握ることになります。しかし、それも長くは続きません。あらたな要素がここに登場することになります。それが細川政元によって追放されていた第10代の前将軍・足利義材(当時は義尹)です。彼は周防の大内義興の支援を得て、この機会に復職を図ろうとします④④この動きに、澄元と対立しつつあった細川高国が同調します。高国は和泉守護細川政春の子でしたので、和泉・摂津の国人の多くも高国に味方します。こうして細川澄元と高国の対峙が続きます。

 このような中で、1508(永正5)年4月、足利義材が和泉の堺に上陸して入京を果たします。
足利義材が身を寄せた放生津に存在した亡命政権~「流れ公方」と呼ばれた室町幕府10代将軍 - まっぷるトラベルガイド

このような状況にいちはやく反応したのが京の細川高国でした。
高国は義稙の上洛軍を迎え、義稙を将軍職に復位させ、自らは管領になります。細川澄元・三好之長らの勢力を押さえ込むことに成功しま 
 す。見事な立ち回りぶりです。不利を悟った将軍の足利義澄と管領の細川澄元は、六角高頼を頼って近江に落ち延びていきます。こうして、義材が将軍に復職し、高国が管領細川氏を継ぐことになります。永世の錯乱の勝利者となったのは、この二人だったことを押さえておきます。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 このような京での権力闘争は讃岐にも波及します。
 京では讃岐の香西氏と阿波の三好が対立していました。それが讃岐にも影響してきます。阿波の三好氏は、東讃の十河氏や植田一族を配下に入れて、讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐国内では、阿波の細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が対峙することになります。そして次第に、香西氏らは劣勢となっていきます。

大内義興の上洛

 そのような中で大きな動きが起きます。それが大内義興に担がれた将軍義稙の上洛軍の瀬戸内海進軍です。
この上洛のために大内氏は、村上水軍や塩飽などを含め、中国筋、瀬戸内の有力な諸氏に参陣を呼びかけます。これに対して讃岐では、香川や香西らの諸将がこれに応じます。香西氏は、仁尾の浦代官や塩飽を支配下に置いて、細川氏の備讃瀬戸制海権確保に貢献していたことは以前にお話ししました。これらが大内氏の瀬戸内海制海権制圧に加わったことになります。こうして、瀬戸内海沿岸は、大友氏によって一時的に押さえられることになります。
  南海通記は、上香西氏が細川氏の内紛に巻き込まれているとき、下香西元綱の家督をうけた元定は、大内義興に属したこと。そして塩飽水軍を把握して、1531(享禄四)年には朝鮮に船を出し交易を行い利益を得て、下香西氏の全盛期を築いたとします。

しかし、香西氏の栄光もつかの間でした。細川澄元の子・晴元の登場によって、細川家の抗争が再燃します。

細川晴元の動き 

1531(亨禄四)年、高国は晴元に敗れて敗死し、晴元が管領となります。晴元の下で阿波の三好元長は力を増し、そして、三好氏と深く結びついた十河氏が讃岐を平定し、香西氏もその支配を受けるようになります。この時点で阿波三好氏は、讃岐東部を支配下に起きたことを押さえておきます。

ここで少し時代をもどって、 永世の錯乱の原因を作った香西元長と讃岐の関係を示す史料を見ておきましょう。
 元長が細川一門に攻められて討死する際の次の史料を研究者は紹介します。
① 『細川大心院記』同年八月一日条
「又六(元長)カ与力二讃岐国住人前田弥四郎卜云者」がいて、元長に代わり彼の具足を着けて討死したこと
ここからは、前田弥四郎が元長の身代わりになって逃がそうとしたことがうかがえます。前田弥四郎とは何者なのでしょうか?
前田氏は「京兆家被官前田」として、次の史料にも出てきました。
②『建内記』文安元年(1444)6月10日条。
香西氏の子と前田氏の子(15歳)が囲碁をしていた。その時に、細川勝元(13歳)が香西氏に助言したのを、前田氏の子が恨んで勝元に切りかかり、返り討ちにあった。このとき、前田氏の父は四国にいたが、親類に預け置かれた後に、一族の沙汰として切腹させられた。そのため、前田一党に害が及ぶことはなかった。
この話からは次のようなことが分かります。
①細川勝元の「ご学友=近習」として、香西氏や前田氏の子供が細川家に仕えていたこと
②前田家の本拠は四国(讃岐?)あり前田一党を形成していたこと。

ここからは、京の細川家に仕えていた香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちだったのでしょう。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで、主従関係を強固なものにしようとしたと研究者は考えています。
 そして「香西元長に代わり、彼の具足を着けて討死した讃岐国住人前田弥四郎」は、京兆家被官で元長の寄子となっていたと研究者は推測します。このような寄子を在京の香西家(上香西)は、数多く抱えていたようです。それが「犬追物」の際には、300人という数を京で動員できたことにつながるようです。

もうひとり香西元長に仕えていた一族が出てきます。
『細川大心院記』・『瓦林正頼記』に、元長邸から打って出て、元長とともに討死した中に「三野五郎太郎」がいたと記します。
『多聞院日記』にも、討死者の一人に「美濃五郎太郎」が挙げられています。これは同一人物のようです。三野氏については以前に「三野氏文書」を紹介したときにお話ししました。源平合戦の際には、平家方を見限っていち早く頼朝側について御家人となって、讃岐における地盤を固めた綾氏の一族とされます。後には西方守護代香川氏の被官し、家老職級として活動します。生駒藩でも5000石の重臣として取り立てられ、活発に荒地開発を行った一族です。三野氏も、香西氏の寄子となっていた一族がいたようです。

古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
『南海通記』に出てくる「綾(阿野)北条郡」を見ておきましょう。
『南海通記』巻之十九 四国乱後記の「綾北条民部少輔伝」
香西備中守(元継)丹波篠山ノ領地閥所卜成り、讃州綾ノ北条ハ香西本家ヨリ頒チ遣タル地ナレ共、開所ノ地卜称シテ官領(細川)澄元ヨリ香川民部少輔二賜ル。是京都ニテ香西備中守二与セスシテ、澄元上洛ヲ待付タル故二恩賞二給フ也。是ヨリシテ三世西ノ庄ノ城ヲ相保ツ。
意訳変換しておくと
香西備中守(元継=元長?)の(敗死)によって丹波篠山の領地が閥所となった。もともとこの領地は、讃州綾北条郡の香西本家から分かち与えられた土地で、先祖伝来の開所地であった。それを官領(細川)澄元は、京都の香西備中守に与えずに、香川民部少輔(讃岐守護代)に与えた。澄元が上洛したときに恩賞として貰った。以後、三世は西ノ庄城を確保した。

 ここからは「元継」は京兆家の家督争いにおいて、澄之に忠義を尽くしたため、澄元方に滅ばされ、その所領の「讃州綾ノ北条」は閥所(没収地)となったこと。そして澄元から、元継に味方しなかった香川民部少輔に与えられたというのです。
  この内容から南海通記の「元綱」が史料に登場する又六元長と重なる人物であることが分かります。
香西氏系図 南海通記.2JPG
南海通記の「讃州藤家系図」
『南海通記』の「讃州藤家系図」には、②元直の子として「元継」注記に、次のように記します。
備中守 幼名又六 細川政元遭害而後補佐於養子澄之。嵐山ニ戦死

この注記の内容は、香西元長のことです。しかし、元長ではなく「元綱」「備中守」と記します。元長の名乗りは、今までの史料で見てきたように終始、又六でした。備中守の受領名を名乗ったことはありません。南海通記の作者は、細川政元を暗殺したのが「又六元長」であることを知る史料を持っていなかったことがうかがえます。そして「元綱」としています。ここでも南海通記のあやふやさが見えます。

今度は『香西記』の香西氏略系譜で、又六元長を特定してみましょう。
香西氏系図 香西史
香西記の香西氏略系譜
南海通記や香西記は、細川四天王のひとりとされる①香西元資の息子達を上・下香西家の始祖とします。

香西元直
②の元直の系図注記には、次のように記します。
「備後守在京 本領讃州綾北条郡 於丹波也。加賜食邑在京 曰く上香西。属細川勝元・政元、為軍功」

意訳変換しておくと
元直は備後守で在京していた。本領は讃州綾北条郡と丹波にあった。加えて在京中に領地を増やした。そのため上香西と呼ばれる。細川勝元や政元に仕え軍功を挙げた。

次の元直の息子③元継の注記には、次のように記します。

香西元継

「又六後号備中守 本領讃州綾北条郡 補佐細川澄之而後、嵐山合戦死。断絶也」

意訳変換しておくと
「又六(元長)は、後に備中守を号した。本領は讃州綾北条郡にあった。細川澄之を補佐した後は、嵐山合戦で戦死した。ここに上香西家は断絶した」

ここからは香西記系図でも③元継が元長、④直親(次郎孫六)が元秋に当たることになります。『細川両家記』・『細川大心院記』には、元長の弟・元秋は永正4年6月24日、京都百々橋において澄元方と戦い討死としているので、これを裏付けます。
 この系図注記には、綾北条郡は在京して上香西と呼ばれたという②元直から③元継が相伝した本領とあります。そして上香西は、元継(元長)・直親(元秋)の代で断絶しています。
また、下香西と呼ばれた元直の弟⑤元顕は、注記には左近将監元綱と名乗ったとされ、綾南条・香東・香西三郡を領有したと記されています。

南海通記の 「上香西・下香西」のその後を見ておきましょう。
元長・元秋兄弟が討死したことで、上香西氏は「断絶也」と記されていました。元長討死の後、次のような史料があります。
1507(永正四)年12月8日に、「香西残党」都において土一揆を起こしたこと、
1508年2月2日には、澄元方から「香西牢人」を捕縛するよう祇園社執行が命じられいること。
ここからは、香西浪人たちの動きがしばらくの間は、残っていたことがうかがえます。
それでは、讃岐在住とされる「下香西」は、どうなったのでしょうか
南海通記や香西史は、下香西は⑤香西元顕(綱)が継いだと注記されています。そして『南海通記』巻之六 讃州諸将帰服大内義興記に、次のように記されています。

永正四年八月、京都二於テ細川澄之家臣香西備中守元継忠死ヲ遂ゲ、細川澄元家臣三好筑前守長輝(之長)等京都二横行スト聞ヘケレハ、大内義興印チ前将軍義材公ノ執事トシテ中国。九国ニフレテ与カノ者ヲ描ク。讃州香西左近持監元綱・其子豊前守元定二慇懃ノ書ヲ贈リテ義材公ノ御帰洛二従ハシム。

  意訳変換しておくと
1507(永正四)年8月、京都で細川澄之の家臣香西備中守元継は忠死を遂げた。細川澄元の家臣三好筑前守長輝(之長)等など阿波三好勢力が京都の支配権を手にした。これに対し、大内義興は前将軍の義材公の執事として中国・九州の有力者に触れ回り結集を呼びかけた。讃州の香西左近持監⑤元綱(顕)・その子の豊前守⑥元定にも助力要請の文書がまわってきたので、それを受けて前将軍義材公の御帰洛に従った。

 先ほど見たように細川高国は、前将軍足利義材を擁する周防の大内義興と連携し、将軍足利義澄に対し謀叛を起こします。これに対して叶わずとみた義澄と家臣の三好之長は8月9日、近江坂本へ落ちのびています。その翌日に、高国は軍勢を率いて入京します。8月24日には義材を奉じて大内義興が和泉堺へやってきます。この史料にあるように、大内義興が香西元綱を味方に誘ったというのが事実であるとすれば、このときのことだと研究者は推測します。

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「天文日記」は、本願寺第十世證如の19年間の日記です。
證如21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けたものです。その中に、福善寺という讃岐の真宗寺院のことが記されています。 
『天文日記』天文十二年
①五月十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参
②七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
①には「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、この時期に本願寺へ樽を持参していたことが記されています。ここからは16世紀半ばに、本願寺の真宗末寺が髙松にはあったことが分かります。
②には7月22日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。
これは、香西神五郎が初めて本願寺を訪れたようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたことがうかがえます。後の史料では、香西神五郎は本願寺に太刀を奉納しています。香西氏一族の中には、真宗信者になって本願寺と結びつきを深めていく者がいたことを押さえておきます。  このように「天文日記」には、讃岐の香西氏が散見します。
1547(天文16)年2月13日条には、摂津国三宅城を攻めた三好長慶方の軍勢の一人として香西与四郎元成の名前があります。ここからは、天文年間になっても畿内と讃岐に香西氏がいたことが分かります。永世の錯乱後に上香西氏とされる元長・元秋の系譜は断絶しますが、その後も香西氏は阿波の三好長慶の傘下に入り、畿内での軍事行動に従軍していたようです。

室町時代から戦国時代初めにかけて、香西氏には豊前守・豊前入道を名乗る系統と五郎左(右)衛門尉を名乗る系統との二つの流れが史料から分かります。また、それを裏付けるように、『蔭凍軒日録』の1491(延徳三)年8月14日条に「両香西」の表現があること。そして、「両香西」は、香西五郎左衛門尉と同又六元長を指すことを以前にお話ししました。この二人は京兆家との関係では同格であり、別家であったようです。
 史料に出てくる香西五郎左衛門を挙げると次のようになります。。
①「松下集」に見える藤五郎藤原元綱
②政元に仕えていた孫五郎
③元継・高国の挙兵に加わった孫五郎国忠
④本太合戦で討死する又五郎
ここからは「五郎左(右)衛」の名乗りは「五郎 + 官途名」であることがうかがえます。そうすると「天文日記」に現れる五郎左衛門は、名乗りからみて五郎左(右)衛門系の香西氏と推察できます。
もう一つ豊前守系香西氏の系譜を、研究者は次のように推測します。
又六元長
元長死後にその名跡を継いだ与四郎(四郎左衛門尉)元盛
柳本賢治の(甥)
その縁者とみられる与四郎(越後守)元成
ちなみにウキには、下香西家について次のように記しています。

天文21年(1552年)、晴元の従妹・細川持隆(阿波守護)が三好長慶の弟・三好実休に討たれると、元定の子・香西元成は実休に従い、河野氏と結び反旗を翻した香川之景と実休との和睦を纏めている(善通寺合戦)。

以上からは香西家には、2つの系譜があったことはうかがえます。しかし、それを在京していた勢力、讃岐にあった勢力という風には分けることはできないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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