瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 冒頭が神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治伝説
綾氏系図

①香西氏は「綾氏系図」(『続群書類従』第七輯上・武家部)には、鳥羽院政期に讃岐国に知行国主であった中納言藤原家成の子章隆に始まる讃岐藤原氏の子孫と記されます。その氏祖は承久の乱頃の鎌倉御家人香西資村と記します。香西の地名は、平安時代後期の郡郷改編で香川郡が東西に分割されて成立した香西郡のことです。『兵庫北関入船納帳』の文安2年(1445)5月15日条に「香西」と見えるのが初見のようです。同文書の同年9月13日条には「幸西」との表記もあるので、「こ-ざい」と古くから呼ばれていたことが分かります。また、香西の名字は、『実隆公記』紙背文書(続群書類従完成会)の明応6年(1497)10月5日の女房奉書に「かうさいのまた六」(香西又六元長)と見え、地名の香西に因んでいたことが分かります。 香西氏は資村のあと中世を通じて勢力を伸ばし、南北朝期には足利尊氏方に付き、その後讃岐守護となった細川氏との結び付きを強めていきます。
香西氏に関する史料を年代順に並べて見ておきます。
建武2年(1335)11月 細川定禅(顕氏弟)に率いられて、香西郡坂田郷鷺田庄で挙兵 (『太平記』の諸国ノ朝敵蜂起ノ事)
建武4年(1337)足利尊氏方の讃岐守護細川顕氏に従った(西野嘉右衛門氏所蔵文書)

香西氏の成長2


室町期の香西氏は、管領細川京兆家の内衆として在京し、その分国丹波国の守護代や摂津国住吉郡守護代を務めています。(『康冨記』応永19(1412)年6月8日条)。また、讃岐では細川氏所領香西郡坂田郷代官や守護料所三野郡仁尾浦代官、醍醐寺領綾南条郡陶保代官を務めた。
『南海治乱記』『南海通記』等には、香西氏の系譜について次のように記します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏家譜
A 細川勝元より「元」字を与えられた①香西元資は、香川元明・安富盛長・奈良元安とともに「細川ノ四天王」と呼ばれて細川家内で重きをなした。
B ①元資の後、②長子元直とその子元継は丹波篠山城にいて上香西と呼ばれ、
C ③次子元網(元顕)は、讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれた。
D ④香西氏は、在京と在国の一族分業体制を採っていた
しかし、これらの内容は残された史料とはかみ合わないことは以前にお話ししました。南海通記の記述は長老からの聞き書きに頼っているようですが、その時点で香西氏の家譜については、記憶が失われていたようです。ただ室町~戦国時代の香西氏には、次の2系統があったことは史料からもうかがえます。
A 豊前守・豊前入道を名乗る豊前守系統と
B 五郎左(右)衛門尉を名乗る五郎左(右)衛門尉系統
Aは嘉吉年間、讃岐国仁尾浦代官職・春日社領越前国坪江郷政所職を務めた豊前(豊前入道)と、醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保代官職を務めた美濃守とに分かれたようです。応永21年(1414)12月8日に細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に、香西豊前入道常健は、のち丹波国守護代となる香西豊前守元資とともに列席しています。「松山百首和歌」にそれぞれ2首、1首が載せられていることから裏付けられます。香西氏が京兆家細川家の内衆として現れるのは、満元時代の常健が初見となります。
Bの香西氏について年表化しておきます
①嘉吉元年(1441) 仁尾浦神人等言上状に香西豊前とともに香西五郎左(右)衛門が見えるのが初見
②万嘉吉3年6月1日条 里小路時房の『建内記』に、香西五郎右衛門尉之長が京兆家分国摂津国住吉郡守護代であったこと
③文明18年(1486)『蔭凉軒日録』11月27日条 香西五郎左衛門が初めて登場し、細川政元の使者をしばしば務めていること
④長享元年(1487)12月 将軍足利義尚の近江六角氏追討に際して政元の伴衆に加わる政元の内衆の1人として登場
⑤長享3年(1489)8月13日の政元主催の犬追物に香西又六元長とともに射手を務める
⑥文明17年(1485)から永正4年(1507)の間、香西彦二郎長祐が、細川政元邸で開催される2月25日の「細川千句」の執筆役を務めていること。
こうしてみると香西氏は細川京兆家に仕えて、和歌・連歌・犬追物活動に従っていたことが分かります。 

香西氏と
                  勝賀城と佐料城

讃岐における香西氏の拠点は、ランドマークともいえる勝賀山に築かれた大規模な山城(勝賀城)と山麓館(佐料城)のセットでした。以前にお話したように天正5年(1577)に藤尾城に移るまでこの城を拠点とします。

佐料城 高松市 城

佐料城跡は一辺約65mの方形区画溝をもつ屋敷地だったようです。周辺には「城の内」「内堀」「北堀」「御屋敷」「せきど」「城の本家」「城の新屋」「城の台」「馬場の谷」「東門」等の屋号が残ります。 
 香西氏の文化活動としてまず挙げたいのが夢想礎石の招聘です。
夢窓疎石(むそうそせき)という鎌倉時代から室町時代に活躍した枯山水の庭師・作庭家 - 枯山水めぐり

暦応5年(1342)に夢想礎石が阿波国丈六寺釈迦像開眼の導師のために阿波に渡ってきます。入仏の式を終えた後、礎石は讃州七観音霊地の巡礼を望みます。讃州七観音霊地とは「国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺」で、この観音霊場巡りの「中辺路」が、後の「四国遍路」につながると研究者は考えています。
『香西雑記』には、この時のことを次のように記します。

「平賀近山来由景象記」には「常世山其名殊に霊也。・・・往昔神仙の地也と謂いて、其名有といへり。・・・昔麓に常世山宗玄寺と云禅林有て、有時夢想国師の止宿を香西氏奔走せられし旧跡也。・又曰、往昔細川頼之阿国勝浦邑に梵宇を建、丈六の釈尊の像を刻彫し、夢想国師を請して開眼の導師とせられ、当地に 来られ常世山宗玄寺に止宿の時、城主香西氏奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲て喫茶を促。国師此名水を賞して、則泉房記を書れり、香西氏得之て大に悦寵賞せられしとなり」

意訳変換しておくと
「平賀近山来由景象記」には次のように記す。「常世山は、まさに霊山である。・・・往昔は神仙の地とされ、この名がつけたらたと云う。昔はその麓に常世山宗玄寺と禅寺があって、夢想国師が来訪したときに香西氏が宿として提供した旧跡である。また次のようにも記す。その昔、川頼之が阿波の勝浦邑に梵宇を建立し丈六の釈尊像を刻彫し、夢想国師に開眼の導師を依頼した。その際にこの地にやってきて常世山宗玄寺に止宿した。城主香西氏は奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲んで喫茶で接待した。国師はこの名水を賞して、泉房記を香西氏に与えた。香西氏はこれを手にして大に悦んだという」

ここからは香西氏の居城である佐料城近くに常世山があり、そこに宗玄寺という香西氏と関係の深い禅宗寺院があったことが分かります。
礎石はその禅寺に止宿したとあるので、宗玄寺にも旦過寮または仮宿院・接待庵にあたる宿泊施設があったことがうかがえます。中世後期には、国人領主の城館の周辺には重臣の館や迎賓館的禅宗寺院が姿を見せるようになります。そして日常的な居所は山城に移転し、麓の居館 (公務の場)と城下に2分されるようになります。宗玄寺も香西氏の迎賓館的性格を持った禅宗寺院ではなかったかと研究者は推測します。ここからは香西氏が禅宗の学僧との接触を通じて、詩賦の教養を高めたていたことがうかがえます。
室町時代の讃岐では、守護細川氏の保護もあって、臨済宗、特に五山派の受容が広がっていました。
例えば、細川顕氏は父頼貞の菩提を弔うために宇多津に長興寺を建立して無德至孝を招いています。細川頼之は夢窓疎石や絶海中津を讃岐に招いています。五山派が守護の保護を受けたのに対して、林下は守護代や国人クラスの地方武士に積極的に取り入り、仁尾に常徳寺を開くなど教線の拡大を図ります。一方、曹洞宗も寛正年中(1460~1466)に細川勝元によって大内郡東山の宝光寺が再興され、讃岐禅門洞家の最初の道場としたといわれています。禅宗の地方展開は、このような地方有力武士と名の知れた禅僧との特別な関係だけではないようです。法系図に名前が残されていない「参学ノ小師」とされる無名の禅僧と、それを庇護した中小の在地武士や土豪層に支えられていた面も大きかったと研究者は指摘します。 
室町~戦国時代の武士にとって戦いの中で生み出された怨霊を鎮魂し、安穏をはかることは欠かせない行為でした。『足利季世記』には、次のように記されています。

「かの法師を陣僧に作り、廻状を書て彼の陣に送りける」

ここからは、陣僧と呼ばれる従軍僧が軍団の中に多数いことが分かります。陣僧とは右筆的性格や使僧的性格だけではないようです。大橋俊雄氏は次のように指摘します。

「仏の教えを説き、戦陣にある将兵たちに生きるささえを教え(中略)、ときに死体処理にもあたった『従軍僧』というのが実際の姿に近かったのではないか」

ここからは陣僧には、従軍医的側面もあったことがうかがえます。そのため易学・兵学中心の講義が行われた足利学校の卒業生(軍配者)たちは、軍師として各地の大名に招かれることが多くなり、そのブレーンとなケースも出てきます。
 
阿弥衆 毛坊主・陣僧・同朋衆(桜井哲夫) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 禅僧は、戦闘はしなくても合戦の行程を管理して「頸注文」のような報告書の作成にも関与していました。
南北朝時代から軍忠状には、寺院は祈祷と具体的な合戦における死者手負が列挙されるようになります。室町時代の『蔭凉軒日録』には「分捕頸注文」と呼ばれる戦果報告書群が数多く記載されています。これは合戦の大将に提出する軍忠状の一種で、大将や軍奉行の承認を受けて、後日、恩賞の給付や安堵を受ける際の証拠資料となるものです。
 延徳4年(1492)4月1日の「頸注文」には、次のように記されています。

「頸五十余、名が判明するもの  十二名、 未詳のもの  四十余り、 死者 三百余人、 安富筑後守元家方の負傷者   安富修理亮・三上与三郎 討死」

同年4月4日付の「頸注文」には、3月29 日巳~午の刻合戦分として「安冨筑後守元家  手勢が討ち取った頸六十七」と記されています。
これらの首見分や死体処理に携わったのも従軍僧侶(陣僧)です。彼らは、戦争のときには、まず先に調伏祈祷行為を行い、南北朝時代には和議の斡旋にも関わり、和議が破れた際には両者の間に立って調整に務めます。戦国時代になると、自ら軍師となったり、陣僧と称して軍陣において敵味方の間を往復周旋して和平交渉を務める者も出てきます。
 一方で、血まみれになり修羅と化した武士達に、心の平安をもたらしたのが従軍を厭わない禅僧たちであったのです。こうして陣僧達は武士の心を摑みます。武士が禅僧を保護するようになるのには、こんな背景があるようです。そういう流れの中で、香西氏も氏寺として禅寺を建立し、迎賓館として整備し、そこに賓客として夢想礎石を迎えたという話になります。

香西氏の和歌や連歌などの文化活動を年表化してみます。
・応永21年(1414)12月8日 讃岐守護細川満元が、法楽和歌会を催して詠んだ百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺(白峰寺)へ奉納。この中に香西常建と香西元資が詠んだ歌が載せられている。
文明17年(1485)2月25日、香西彦二郎長祐は細川政元の「北野社法楽一日千句連歌」に参加、以後永正4年(1507)2月25日まで政元の命により御発句御脇付第三の執筆担当
長享3年(1489)7月3日   細川政国主催の禅昌院詩歌会に飛鳥井雅親・細川政元・五山僧侶らとともに香西又六・牟禮次郎が列座
延徳3年(1491)3月3日    細川政元は馬の買い付けのために香西又六元長や冷泉爲広らを同行して奥州へ出発。その途中の3月11日に、加賀国白江荘で細川政元が道端の桜を見て歌を詠み、それに続いて冷泉爲広・香西元長・鴨井元朝も続けて歌を詠んでいます。ここから細川京兆家内衆の歌に対する関心は、非常に高かったことがうかがえます。
明応元年(1495)8月11日 香西藤五郎元綱が歌会主催。この歌会には『松下集』の作者である僧の正広も参加。
明応5年(1496)2月22日、香西元資が勧進して東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って連歌会を主催。「神谷神社法楽連歌」1巻を神谷神社に奉納。端書並びに端作には「明應五年二月廿二日」「神谷社法楽」「賦三字中畧連歌」とあり、神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。
香西元資は、細川勝元の家臣で、連衆は、安富元家・同元治など29名です。神谷神社所蔵の鎌倉期古写の『大般若経』600巻のうち、巻591は享徳4年(1455)に宗安、巻593は同じ年に宗林、巻451 は文明13年(1481)に祐慶法師が補写されています。ここからは、宗堅・宗高・宗勝など「宗」の字を持つ人物や、「祐」の字を持つ祐宗らのうち何人かは神谷神社の神官や僧侶ではないかと研究者は推測します。
 また、年代不明ながら身延文庫本『雑々私用抄』及び『甚深集』の紙背文書に、香西又六元長の連歌会での百韻連歌懐紙の名残りの折に、句上げを掲げて次のように記されています。

「元長二、元秋一、元能一、方上一、内上一、筑前一、禅門一、宗純一、氏明一、秀長一、泰綱十二、元堯七、(7人略)長祐十二、業祐一」

ここからは、香西又六元長を筆頭とし彦六、元秋、孫六元能(孫六元秋、彦六元能か)、4人おいて、真珠院宗純と香西兄弟が上位に並び、長祐は香西彦二郎長祐の順で座っていたことがうかがえます。

犬追物

犬追物
 管領細川政元と香西孫五郎との親密な関係がうかがえるのが犬追物の頻繁な開催です。
犬追物は、40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです
それが細川政元の時代になると、次のように頻繁に行われるようになります。
1484年3月9日   細川政元邸の犬追物で香西孫五郎・香西又五郎・安富與三左衛門尉らが射手を務める(『萩藩旧記雑録』前編)。
1488年正月20日  細川政元が犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎が参加(『後鑑』)
1489年正月20日  香西又六元長が細川政元の犬追物で射手を務める(小野均氏所蔵文書)。
1489年8月12日  細川政元邸の犬追物に備えて京に香西党300人程が集まり注目を集める。牟禮・鴨井・行吉等は香西一族(『蔭凉軒日録』)
1490年8月13日 細川政元、犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎・安富又三郎・安富與三左衛門尉・安富新兵衛尉・香西五郎左衛門尉・奈良備前守が参加(『犬追物日記』)。
1493年7月7日 細川政元亭の犬馬場で犬追物があり、「天下壮観也。・・・香西又六、牟禮次郎十二騎」と記される(『蔭凉軒日録』)
1493年8月23日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎らが参加し「天下壮観也」 (『蔭凉軒日録』)。
1493年11月16日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎が参加(『犬追物日記』)

1491年に実施されていないのは、先ほど見たように細川政元が香西又六元長や冷泉爲広馬とともに奥州へ馬の買付に出向いていたからと思われます。1492年は吉備での戦争従軍のためのようです。それを除くと、年に1回だったのが2回へと増え、1493年には3回になっています。
蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には次のように記します。

「塗師花田源左衛門尉来る。雑話剋を移す。勧むるに斎をもってす。話、京兆(政元)の件同に及ぶ。来る十三日三手の犬大義なり。二百匹過ぎ一献あり。一献おわりてまた百匹。三十六騎これあり。(中略)また香西党はなはだ多衆なり。相伝えて云く。藤家七千人。自余諸侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

塗師の花田源左衛門尉が依頼品を収めに来て、いつものように讃岐の情勢を話して帰る。話は京兆家の細川政元のことに及んだ。13日の犬追物では、3回に分かれて行われた。1回目が二百匹あまり、2回目が百匹。これを36騎で追った。(中略)
中でも香西衆は数が多い。伝え聞くところによると、讃岐藤家は七千人という。他の侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」


ここからは、細川政元邸の犬追物に備えて讃岐から京に香西党300人程が集まって犬追物がおこなわれたことが分かります。300騎というのは軍事集団で、ある種の示威行動でもあり、人々から注目されています。讃岐では香西氏が属する讃岐藤原氏は7、000人もいて他の侍はこれに及ばず、香西氏は集団からなる党的武士団であるとされています。京都の人々から「天下壮観也」と表されています。香西氏一門の名を誇示する場となっていたがうかがえます。こうして香西又六元長は、政元の寵愛をうけることで、京都の警察力を握り権力中枢に最接近していきます。そして、己の力を過信して永世の錯乱を招くことになると私は考えています。
以上をまとめておくと
①香西氏は細川氏の内衆として、丹波など畿内で守護代をつとめるなどいくもの傍流が存在した。
②その中で、讃岐に拠点を置いた香西氏は勝賀城と佐料城を拠点に、阿野北平野方面まで勢力を伸ばしていた。
③香西氏が建立した宗玄寺は迎賓館的性格を持った禅宗寺院で、禅宗の学僧との接触を通じて、教養を高めようとしていた。
④香西元資は、東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って神谷神社で法楽連歌会を開催し、一族や幕下との連帯強化を図っている。
⑤香西孫五郎は、細川政元の寵愛を受けて一族で犬追物に参加し、最有力の内衆となり、京都の警察権を握った。
⑥それが細川政元の後継者問題への介入につながり、永世の錯乱へ続き墓穴を掘ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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       香西氏系図 南海通記

 香西氏系譜
前回に南海通記の系図には、香西元資が細川氏の内衆として活躍し、香西氏の畿内における基礎を築いたとされていること、しかし、残された史料との間には大きな内容の隔たりがあることを見てきました。そして、元資より後に、在京する上香西氏②と、讃岐在住の下香西③・④・⑥の二つの流れに分かれたとしまします。しかし、ここに登場する人物も史料的にはきちんと押さえきれないようです。
例えば下香西家の⑥元成(元盛)について見ておきましょう。
香西元成
香西元成(盛)

元成は、享禄四年(1531)六月、摂津天王寺においての細川晴元・三好元長と細川高国・三好宗三(政長)との合戦で、晴元方として参戦し武功をあげたと南海通記の系図注記に記されています。 いわば香西氏のヒーローとして登場してきます。
 しかし、「香西元成(盛)」については、臨済僧月舟寿桂の『幻雲文集』瑯香西貞節等松居士肖像には、次のように記されています。

香西元盛居士。その父波多野氏(清秀)。周石(周防・石見)の間より起こり、細川源君(細川高国)幕下に帰す。以って丹波の一郡(郡守護代) を領す。近年香西家、的嗣なし。今の府君 (細川高国)、公 (元盛)に命じ以って断(和泉)絃を続がしむ。両家皆藤氏より出づ。府君、特に公をして泉州に鎮じ、半刺史 (半国守護代)に擬せり。

意訳変換しておくと
   香西元盛の父は波多野氏(清秀)である。波多野氏は周石(周防・石見)の出身で、細川源君(細川高国)に従って、丹波の一郡(郡守護代) を領していた。近年になって丹波の香西家が途絶えたために、今の府君 (細川高国)は、公 (元盛)に命じて、香西氏を継がした。両家共に、藤原氏の流れをくむ家柄であるので、釣り合いもよい。そして府君(高国)は公(元盛)を泉州の半刺史 (半国守護代)に補任した。
 
 ここには泉州の香西元盛はもともとは丹波の波多野氏で、讃岐の香西氏とは血縁関係の無い人物であったことが書かれています。確かに元成(盛)は丹波の郡守護代や和泉国の半国守護代を務め、讃岐両守護代香川元綱・安富元成とともに、管領となつた高国の内衆として活動します。
 しかし、1663(寛文3)年の『南海治乱記』の成立前後に編纂された『讃岐国大日記』(承応元年1652成立)・『玉藻集』(延宝五年1677成立)には、香西元成に関する記事は何もありません。もちろん戦功についても記されていません。元成という人物は『南海治乱記』に初めて作者の香西成資が登場させた人物のようです。香西元成は「足利季世記」に見える晴元被官の香西元成の記事を根拠に書かれたものと研究者は推測します。
「南海治乱記」・「南海通記」には、香西宗信の父は元成(盛)とします。
そして、系図には上に示したように三好長慶と敵対した細川晴元を救援するため、摂津中島へ出陣したた際の天文18年(1549)の記事が記されています。しかし、この記事について研究者は、「この年、讃岐香西氏の元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と越後守元成の出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた兵将の香西氏との関係は参考にできると研究者は考えています。
今度は『南海治乱記』に書かれた「実在しなかった」元成の陣立てを見ておきましょう。参陣には、以下の武将を招集しています。
我が家臣
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
幕下には、
羽床伊豆守。瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
②西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等が加わったという。
以上です。
①からは、阿波三好配下の植田・十河を仮想敵として警戒しているようです。⑦には各港の船大将の名前が並びます。ここからは、細川氏が畿内への讃岐国衆の軍事動員には、船を使っていたことが分かります。以前に、香川氏や香西氏などが畿内と讃岐を結ぶ独自の水運力(海賊衆=水軍)を持っていたことをお話ししましたが、それを裏付ける資料にもなります。香西氏は、乃美・生島・本津・塩飽・直島・日比の水運業者=海賊衆を配下に入れていたことがうかがえます。細川氏の下で備讃瀬戸制海権の管理を任されていたのが香西氏だとされますが、これもそれを裏付ける史料になります。
 この兵員輸送の記事からは、香西氏の軍事編成について次のようなことが分かります。
①香西軍は新居・幡一紳・植松などの一門を中心にした「家臣」
②羽床・滝宮・福家・北条などの「幕下」から構成されていたこと
今度は南海通記が香西元成(盛)の子とする香西宗信の陣立てを見てみましょう。
 「玉藻集」には、1568(永禄11)年9月に、備中児島の国人四宮氏に誘われた香西駿河入道宗信(宗心・元載)が香西一門・家臣など350騎・2500人を率いて瀬戸内海を渡り、備前本太城を攻めたと記します。この戦いを安芸毛利氏方に残された文書で見てみると、戦いは次の両者間で戦われたことが記されています。
①三好氏に率いられた阿波・讃岐衆
②毛利方の能島村上氏配下の嶋氏
毛利方史料は、三好方の香西又五郎をはじめ千余人を討ち取った大勝利と記します。香西宗信も討死しています。
 『玉藻集』と、同じような記事が『南海治乱記』にあります。そこには次のように記されています。
1571(元亀二)年2月、香西宗心は、小早川隆景が毛利氏から離反した村上武吉の備前本太城を攻め、4月に落城させたとします。南海治乱記では香西宗心は、毛利方についたことになっています。当時の史料には、この年、備前児島で戦ったのは、毛利氏と阿波三好氏方の篠原長房です。単独で、香西氏が動いた形跡はありません。作者香西成資は、永禄11年の本太城攻防戦をこのときの合戦と混同しているようです。南海通記には、このような誤りが多々あることが分かっています。『南海治乱記』・『南海通記』の記事については、ほかの史料にないものが多く含まれていて、貴重な情報源にもなりますが、史料として用いる場合は厳密な検証が必要であると研究者は指摘します。戦いについての基本的な誤りはさておいて、研究者が注目するのは次の点です。『玉藻集』には、永禄11年9月に、香西宗信が一門・家臣などを率いて備前本太城攻めのために渡海しています。その時の着到帳と陣立書、宗信の嫡子伊賀守佳清の感状を載せていることです。
その陣立書からは、香西氏の陣容が次のようにうかがえます。
①旗本組は唐人弾正・片山志摩など香西氏の譜代の家臣
②前備は植松帯刀・同右近など香西氏一門
③先備・脇備は「外様」で、新居・福家などの讃岐藤原氏、別姓の滝宮氏
ここからは、香西氏の家中に当たるのは①旗本組②前備に組み込まれている者たちだったことが分かります。この合戦で香西氏・当主駿河入道宗信は討死します。そのため宗信に替わって幼年だった嫡子伊賀守佳清が、植松惣十郎往正に宛てた感状を載せています。住清は、植松惣十郎往正(当時は加藤兵衛)に対し、父植松備後守資正の遺領を安堵し、ついで加増しています。
 『玉藻集』香西伊賀守好清伝・『南海通記』所収系図には、次のような事が記されています。
①往正の父資正はその甥植松大隅守資教とともに宗信・佳清二代の執事を務めていたこと
②往正は天正13年の香西氏の勝賀城退去後は、弟の植松彦太夫往由とともに浪人となった佳清を扶養したこと。
 ちなみに『香西史』所収の植松家系図には、『南海通記』の著者香西成資は、往正のもう一人の弟久助資久の曽孫で、本姓香西に復する前は植松武兵衛と名乗っていたとします。つまり、香西成資は植松家の一族であったのが、後年になって香西氏を名のるようになったとします。
『南海治乱記』には「幕下」が次のように使われています。
巻之八 讃州兵将服従信長記
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降すと聞けれは、同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清、使者を以て信長の幕下に候せん事を乞ふ。香川両使は、香川山城守三野菊右衛門也。
  意訳変換しておくと
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降ることを聞いて、翌年同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清は、使者を立てて信長の幕下に入ることを乞うた。この香川両使は、香川山城守三野菊右衛門であった。

   ここでは、香西・香川両氏が織田信長に服従したことが「幕下に候せん」と用いられていると研究者は指摘します。
巻之十 讃州福家七郎被殺害記
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子忠兵衛尉瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす。先瀧宮弥十郎。新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎まで一致に和睦し、国中に事あるときは互に見放べからずと一通の誓紙を以て約す。是香西氏衰へて羽床を除ては旗頭とすべき者なき故也。
意訳変換しておくと
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子の忠兵衛尉瀧宮が鉄砲に当たって戦死したことに憤て、香西家幕下の城主たちのほとんどに文書を廻して見方に引き入れた。瀧宮弥十郎・新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎たちは和睦し、讃岐国内で事あるときは互いに見放さないとの攻守同盟を誓紙にして約した。これも香西氏が衰えて、羽床が旗頭となった。

   ここでは「旗頭」に対置して用いられています。本来同等な者が有力な者を頼る寄親・寄子の関係を指していると研究者は指摘します。ここからは「幕下」とは、有力者の勢力下に入った者を指すことが分かります。『日本国語大辞典』(小学館)には、「幕下に属す、参す。その勢力下に入る。従属する」とあります。、
以上から、戦国期の讃岐香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
①執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
②周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた

しかし、その規模は当時の巨大化しつつあった戦国大名から見れば弱小と見えたようです。毛利軍と讃岐国衆の間で戦われた1577(天正5)年7月22日の元吉合戦に登場する香西氏を見ておきましょう。
毛利氏方の司令官乃美宗勝らが連署して、戦勝を報告した連署状写が残っています。そこには敵方の「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」が元吉城に攻め寄せてきたと記されています。ここでは香西氏の立場は、戦国大名毛利氏から見れば、讃岐の国衆の一人にすぎないと見なされていたことが分かります。国衆とは、「戦国大名に服属しつつも、 一定の自立性を保持する領域的武家権力と理解されます。地域領主」とされます。この合戦当時の香西氏は、阿波三好氏に服従していました。国衆は戦国大名と同じように本領を持ち、家中(直属家臣団を含む一家)を形成しますが、その規模は小さなものでした。讃岐では、戦国大名化したのは香川氏だけのようです。
以上をまとめておくと
①細川頼之のもとで活躍し、細川管領家の内衆として活動するようになったのが香西常建である。
②香西常建は晩年の15世紀初めに、丹波守護代に補任され内衆として活動するようになった。
③その子(弟?)の香西元資も丹波守護代を務めたが、失政で罷免された。
④南海通記は、父香西常建のことには何も触れず、香西元資を「細川氏の四天王」と大きく評価する。
⑤しかし、南海通記は香西元資が丹波守護代であったことや、それを罷免されたことなどは記さない。
⑥これは、南海通記の作者には手元に資料がなく基本的な情報がもっていなかったことが推察できる。
⑦香西元資以後の香西氏は、在京組の上香西氏と讃岐在住組の下香西氏に分かれたとするが、その棟梁達に名前を史料で押さえることはできない。
⑧大きな武功を挙げたとされる下香西氏の元成(盛)も、香西氏の一族ではないし武功も架空のものであるとされる。
⑨しかし、南海通記などに残された軍立て情報などからは、香西氏の軍事編成などをうかがうことができる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

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