瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」

 南海治乱記
南海治乱記
『南海治乱記』巻之十七「老父夜話記」に、次のような記事があります。
又香西備前守一家・三谷伊豆守一家ハ雲州へ行ク。各大身ノ由聞ル。香西縫殿助ハ池田輝政へ行、三千石賜ル。

意訳変換しておくと
又①香西備前守一家と三谷伊豆守一家は、雲州(出雲)へ行ってそれぞれ大身となっていると聞く。また②香西縫殿助は、備中岡山の池田輝政に仕え、三千石を賜っている。

ここには天正年間の騒乱の中で滅亡した香西氏の一族が、近世の大名家に仕えていたことが記されています。今回は、戦国時代末期に讃岐を離れて近世大名家に仕官した香西氏の一族を見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。
香西記

①の香西備前守については『香西記』五「香西氏略系譜」にも次のように載せられています。

出雲藩の香西氏系図
香西氏略系譜(香西記五)
内容は『南海治乱記』と同様の記事です。同書には、清長(香西備前守)と清正(六郎大夫)の父子は、天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親軍が阿波国の川島合戦(重清城攻防戦)で、三好存保方として討死したと記されています。
 残された一族が出雲へ赴むき、その子孫は、出雲松江藩松平家の家臣となり幕末まで続いたというのです。その系譜について調査報告しているのが、桃裕行「松江藩香西(孫八郎)家文書について」です。その報告書を見ていくことにします。
松江藩士の香西氏の祖は、香西太郎右衛門正安になるようです。
彼が最初に仕えたのは、出雲ではなく越前国福井藩の結城秀康でした。どうして、出雲でなく越前なのでしょうか?

福井県文書館平成22年2月月替展示
「藩士先祖記」(福井県立図書館松平文庫)
「藩士先祖記」に記された内容を、研究者は次のように報告します。
香西太郎右衛門(正安)諄本不知  本国讃岐
(結城)秀康侯御代於結城被召出。年号不知。慶長五年御朱印在之。
香西加兵衛 (正之)諄不知 生国越前。
忠昌公御代寛永十三丙子年家督被下。太郎右衛門(正安)康父ハ香西備前守(姓源)卜申候而讃岐国香西卜申所ノ城主ノ由申伝候。其前之儀不相知候。
意訳変換しておくと
香西太郎右衛門(正安)は、(結城)秀康侯の時に召し抱えられたが、その年号は分からない。慶長五年の朱印がある。
香西加兵衛 (正之)は越前生まれで、忠昌公の御代の寛永13(1636)年に家督を継いだ。父の太郎右衛門(正安)は香西備前守(姓源)と云い、讃岐の香西の城主であったと伝えられている。その前のことは分からない。

ここには太郎右衛門(正安)の父は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であったと記されています。松江藩には数家の香西姓を持つ藩士がいたようです。
その中の孫八郎家の七代亀文が明治元年のころに先祖調べを行っています。それが「系図附伝」で、太郎右衛門正安のことが次のように記されています。
 正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁した。その娘(月照院)が結城秀康に召されて松江藩祖直政を生んだ。そのような関係で三谷出雲守長基も、後には松江藩家老となる。大坂の陣では、香西正安・正之父子は秀康の長子忠直の命と月照院の委嘱によって、直政の初陣に付き添い戦功を挙げた。

 ここに登場する結城(松平)秀康(ひでやす)は、徳川家康の次男で、2代将軍秀忠の兄になる人物です。一時は、秀吉の養子となり羽柴秀康名のったこともありますが、関ヶ原の戦い後に松平姓に戻って、越前福井藩初代藩主となる人物です。

『香西記』の「香西氏略系譜」では、備前守清長の娘が「三谷出雲守妻」となり、その娘(月照院)が結城(松平)秀康の三男を産んだようです。整理すると次のようになります。
①清長は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であった
②清長・清正の父子は、三好氏に従軍し、阿波川島合戦で戦死した。
③正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁して、娘(月照院)を産んだ。
④娘(月照院)は、秀吉政権の五人老の一人宇喜多秀家の娘が結城秀康に嫁いだ際に付人として福井に行った。
⑥その後、結城秀康に見初められて側室となって、後継者となる直政や、毛利秀就正室(喜佐姫)を産んだ。
⑦その縁で三谷・香西両氏は、松江藩松平家に仕えるようになった。

松江藩松平家の4代目藩主となった直政は、祖父が秀吉と家康で、母月照院は香西氏と三谷氏出身と云うことになります。月照院については、14歳で初陣となる直政の大坂夏の陣の出陣の際に、次のように励ましたと伝えられます。
「栴檀は双葉より芳し、戦陣にて勇無きは孝にあらざる也」

そして、自ら直政の甲冑
下の着衣を縫い、馬験も縫って、それにたらいを伏せ墨で丸を描き、急場の験として与えたと伝えられます。
   松平直政が生母月照院の菩提を弔うため月照寺を創建します。これが松江藩主松平家の菩提寺となり、初代直政から九代斎貴までの墓があります。そこに月照院も眠っています。

月照寺(島根県松江市) 松江藩主菩提所|和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
月照院の墓(松江市月照寺)

「雲州香西系図」には、太郎右衛門の子工之・景頼兄弟の子孫も松江藩松平家に仕えており、越前松平家から移ってきたことが裏付けられます。  殿様に見初められ側室となって、男子を産んだ姉の「大手柄」で出雲の香西家は幕末まで続いたようです。

松平直政 出雲初代藩主


今度は最初に見た「池田輝政へ行き、三千石賜」わったと記される「香西縫殿助」を見ておきましょう。
備前岡山藩池田家領の古文書を編さんしたものが『黄薇古簡集』です。
岡山県の中世文書
              黄薇古簡集
その「第五 城府 香西五郎右衛門所蔵」文書中に、1583(天正11)年7月26日の「香西又一郎に百石を宛がった三好信吉(羽柴秀次)知行宛行状」があります。
ここに出てくる香西又一郎とは、何者なのでしょうか?
香西五郎右衛門の系譜を、研究者は次のように復元しています
香西主計
 讃岐香西郡に居城あり。牢人して尾張へ移る。池田恒興の妻の父で、輝政の外祖父荒尾美作守善次に仕える。八七歳で病死。
縫殿介 
主計の惣領。池田勝入斎(恒興)に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦で討死。又市の兄
又市 (又一郎)
五郎右衛門の親。主計の次男。尾張国知多郡本田庄生まれ。池田勝入斎に仕え、池田輝政の家老伊木長兵衛の寄子であった。天正9年(1581)、摂津国伊丹において50石拝領。勝入の娘若御前と羽柴秀次の婚礼に際し、御興副に遣わされる。天正11年に50石加増され、摂津国で都合100石を拝領。天正12年4月8日、小牧長久手の戦いに秀次方として戦う。翌日、藩主池田勝入とともに討死。三八歳。
五郎右衛門  
父・又市の討死により秀次に召し出され、知行100石を安堵。天正13年、近江八幡山で秀次より百石加増され200石を拝領。文禄四年(1595)7月の秀次切腹後、 11月に伏見において輝政に召し出された。当年50歳。

ここには又市の父香西主計について、「讃岐香西郡に居城あり。牢入して尾張へ移」り、池田恒興の妻の父荒尾善次に仕えたとあります。香西主計の長男・縫殿介は、池田恒興に仕え、1570年の姉川の戦いで討死しています。次男の又市は恒興女子と三好信吉(のちの羽柴秀次)との婚儀に際し御輿副として遣わされ、秀次に仕えます。天正13年に加増されたときの知行宛行状も収められています。又市は、文禄四年の羽柴秀次の切腹後は、池田家に戻り輝政に仕えました。その子孫は池田家が備前に移封になったので、備前岡山藩士となったことが分かります。
  『南海通記』・『南海治乱記』に載せられた「香西縫殿助」を見ておきましょう。
こちらには「香西縫殿助」は、香西佳清の侍大将で天正14年の豊後戸次川の合戦に加わったと記されるのみです。『南海通記』などからは香西縫殿助がどのようにして、池田家に仕官したかは分かりません。これは香西主計の長男縫殿介と戸次川で戦死した「香西縫殿助」を南海通記は混同したものと研究者は考えています。 ここにも南海通記の資料取扱のあやふやさが出ているようです。
 香西氏については、讃岐の近世史料にはその子孫の痕跡が余り出てきません。しかし、近世大名に仕官し、藩士として存続した子孫もいたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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