瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:馬城八幡神社

海岸線が「陸封化」された西讃の海で、自然海岸が残っているのが庄内半島です。ここを原付ツーリングするのが私の楽しみの一つでもあります。この半島を走っていて、それぞれの浦が私には魅力的に思えます。それが歴史的な背景から来ているのではないかと以前から思っていました。そこで改めて庄内半島の浦々のことを見ていくことにします。
まずは粟島の廻船業から船問屋への転進ぶり見ていくことにします。
 享保期になると塩飽廻船が衰退化していくことは以前にお話ししました。それと入れ替わるように、台頭してくるのが粟島の廻船業者です。彼らは、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、最初の最盛期を迎えます。さらに、天明~文化期になると、他国船との競争が激化してくる中で、粟島廻船は野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎えます。この時期に、「資本蓄積」が行われ、廻船の操業ソフトを身につけていきます。それを史料で見ておきましょう。

A 安永五年(1776)の越後の沼垂湊(ぬったりみなと)における越後新発田藩(しばた)の大坂回米船の史料からは、粟島廻船の回送が19艘、丹後湊宮(京都府久美浜町)が18艘で、塩飽広島5艘、摂津大坂4艘、讃岐浜村(高松市庵治町)3艘

B 浜田外ノ浦の客船帳からは、粟島の船問屋・船持には、舛屋・竹崎屋・高島屋・木曽屋・大屋・大和屋・麦屋・岡田屋・浜屋などがあり、小豆や米を売り、干鰯・銅・材木を買い込んだこと

C 隠岐の島前の浦郷の問屋には、粟島の潟地区の伊勢神社奉納船絵馬に粟島の「伊勢屋庄八 末福丸」(20反帆、1400石積)の入港が記録されていること

D 浜田の中村家の客船帳によると、粟島の大和屋福市丸、木曽屋住吉丸なども記録されている。


このような中で、金毘羅大権現の多度津街道の起点である高藪町に、鳥居が姿を現します。

3 高藪町の鳥居
粟島廻船仲間の寄進の鳥居 現在は高灯籠公園

そこには次のような字が見えます。
「天明二(1782)年」「奉寄進 願主粟嶋廻船中」「取次 徳重徳兵衛」

ここからは、粟島の廻船仲間が庄屋の徳重氏の取次で金毘羅大権現へ奉納したことが分かります。場所は、もともとは、多度津街道の起点(ホテル紅梅亭の東側川沿い)に建てられたものです。今は高灯籠に移されています。これに続いて、各街道の起点に鳥居が姿を見せるようになります。その先駆けとなったのが粟島廻船中の鳥居です。以前に見た粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札も寛政7(1795)年のものが一番古いものでした。鳥居の寄進前後から粟島の廻船問屋の金毘羅詣では始まると私は考えています。

この他にも粟島廻船の全国展開を示す石造物として、寛政元年(1789)に粟島の廻船仲間が、海上安全信仰の神社として大阪の住吉神社に常夜燈を寄進しています。その銘には「讃州粟島廻船中」ではなく、単に「粟島廻船中」と記されています。塩飽廻船と同じように国名がなくても全国に通用するという自負心が現れているように思えてきます。

 しかし、文政期になると、日本海の北前船を中心とする他国船との競争に敗れ、幕末期には粟島船籍の廻船もいなくなります。西讃府志には、五百石を超える船は2艘しか記録されていません。しかし、「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島水有家居多尤豊に見ゆ。島人多く摂坂の大船にと乗して、北国西国に揖取す。」
意訳変換しておくと
「粟島は海に囲まれた島であるが家も多く、人々の生活も豊なように見える。島人の多くは畿内のの大船の乗組員として、北国や西国に出向く。」

ここには 粟島が北前船による北海道と大坂を結ぶ海上ラインの重要な寄港地となり繁栄し、豊かな生活を送る者が多かったこと、そのため廻船を失った粟島の船主たちは、問屋・仲買人に転業し、粟島寄港の北前船と交易を続けます。また大坂や函館などの廻船に水主・沖船頭として雇われるようになり、多額の金銭を粟島にもたらします。それは、明治になって鉄道網が全国に伸びていくまでは続きました。
幕末に成立した「西讃府志」には、粟島のことが次のように記されています。

「村高174石余。村の広さは東西一里一町、南北二〇町、回り百五十町、丸亀から海路四里、東は志々鳥まで五十町、西は積浦まで三十町、波戸長さ四十間、加子六十戸、耕地四十四町三反余り。(内畑三十九町余、屋敷 町一反余).戸数三百、人口千三百、舟五百石二、二十石二十八、一挺舟五、牛五十。泉は船隠井、島は阿島(周り十九町)、尾元島(周り十町)、神社は粟島大明神、馬木八幡宮 他祠十、寺院真言宗梵音寺

幕末には、五百石船は粟島には2艘しかなく、20石船が28艘です。粟島は塩飽水軍の流れを汲むようで、秀吉による朝鮮出兵・文禄・慶長の役にも水夫として従軍していますし、島原の乱にも塩飽・小豆島の水夫とともに参加しています。そして、「人名」が住む島でした。そのためか江戸初期以降、水夫の多くは海運業に従事し、北前船で北海道へ塩を運び、箱館に出張所を置いています。粟鳥伊勢神宮には航海の安全を祈って、多くの船絵馬が奉納されています。
 さらに文政十年(1837)には島四国八十八ヶ所の石仏が開眼され、大坂達船中が一船一基の本納を行っています。幕末の文久3年(1863)には、幕命で箱館奉行所の水野正太人が軍艦で航海術・運用術の訓練のために樺太・シベリア海の北洋航海を行いますが、その際に栗島出身の中村長松・紅屋清兵衛・枡屋徳太夫の三名が乗船しています。その詳細な記録が「黒竜江誌」として残されています。
 粟島の特色は先祖が塩飽衆であることから、漁師よりも加子が多かったことです。

粟島1
スクリューのように島が連結した粟島 隣が志々島
また、粟島の地形はスクリューのように島が連結し、南面の海は島や半島に囲まれていて風の影響をあまり受けません。 明治14年に開拓使が作成した『西南諸港報告書』には、次のように記されています。(意訳)

「愛媛県下讃岐国三野郡粟島港ハ面積凡半方里島ノ周囲四里、船舶碇泊ニ便ニシテ、風潮二関セス、帆フ張リテ自在二出入スヘシ」
意訳変換しておくと
「愛媛県下(当時は香川県は愛媛に併合中)讃岐国三野郡の粟島港は面積半方里で、島の周囲は四里(16㎞)、船舶の停泊に便利で、風や潮流に関係なく、帆を張って自由に出入りができる」

ここには粟島港は、西風・東風もあまり受けないので、自由に出帆でき「船舶碇泊」に適していたことが記されています。そのため陸上から詫間に集められた物資は須田港から渡舟に荷物を積みかえて、栗島に運び、さらにそれを廻船に積せるというシステムが生まれます。また、栗島だけでなく、東隣の志々島も潮の干満の差が大きく、千潮時には船底の修理や虫食いを駆除する「船たで」の適地で、その作業所があって多くの船が利用するために入港していたようです。こうしてみると粟島は、詫間の須田港や志々島などと併せて、瀬戸内海交易の廻船の集結センターとして機能していたことがうかがえます。
 粟島で船泊り(港)と呼ばれるところは、本浦の入江と、馬城(うまき:長浜側)でした。
島内の廻船は本浦、外来船は、馬城に停泊するという棲み分けが行われていたようです。ただし、波止場は、天保年間でも長さ40間(約72m)と記録されているので、接岸施設はなく沖掛りの廻船が多かったようです。馬城(木)地区については、「西讃海陸予答」に次のように記されています。

「馬木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

ここからは粟島廻船が活動していた享保期よりも多くの廻船が来港して賑わっていたことが分かります。その背景には、船乗りたちから評価が高かった港であったことが挙げられます。
馬城海岸の波打ち際には、「享保16(1731)年銘の馬城八幡神社の鳥居が建っています。
粟島馬城神社の鳥居
粟島の馬城八幡神社の鳥居

これは、粟島では最も古い寄進石造物です。この寄進者は「島中」つまり粟島の氏子一同でした。ところが、11年後の寛保二年(1742)2月になって、粟島神社の常夜燈寄進者の中に初めて「舷頭中」および「大坂 讃岐屋勘介」、(馬城)八幡神社の常夜燈寄進者の中に「大坂 讃岐屋勘四良」の名前が出てきます。ここに登場する「讃岐屋勘介」と「讃岐屋勘四良」は同一人物で、大坂新大黒町の船宿で、粟島と積浦廻船の定宿でした。そのためお得意さんの粟島の神社に寄進したのでしょう。粟島の神社へ、船頭仲間や大坂の船宿からの常夜燈寄進が1740年代という早い時期に始まったことに研究者が注目します。その背景には、馬城にあった湊が「近国第一の湊」で、多くの廻船の寄港地であったことも背景にあるようです。
 明治初期の栗島の取扱品目を見ておきましょう。
①積出し品の最大商品は、煙草が5割、塩が約4割
②塩を坂出から、煙草を阿波・伊予国、茶を阿波・土佐から輸入し、北海道に転輸する拠点として機能
③北海道からの物産は大部分が鯡〆粕(にしんしめかす)で、他に数の子などが栗島港に入り、小型船に積み替えられ、三野・豊田郡や岡山へ転販
昆布ロードがもたらした明治維新と食文化│54号 和船が運んだ文化:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

当時、四百石積以上の北海道へ向かう船は約五百隻いたとされます。大坂で必要な貨物を買積して、各地に寄港しながら北海道へ向かいました。粟島港には毎年2月から4月までと9月から11月までの春秋2回、やってきます。春の滞在期間は前年に大坂で売買契約を結んだ貨物を購入するためで、秋季の滞在は北海道から廻送してきた産物について価格を偵察し、阿波や岡山に向けて売り出すためです。
 北海道産物の千鰯などは米・綿・甘庶の肥料で、これがないと綿花の生産量は増えませんで。そのため綿花栽培地の大坂などで大量に購入されるようになります。そのための在地の肥料問屋が登場するのもこの頃です。
 粟島には、かつての船問屋の屋敷跡が豪壮な石垣とともに残っています。かつては、そこに通じる道には石が敷き詰められていたようです。これは、北前船で帰島した水主が、正月前後に船持や船問屋のために敷き詰めたものと伝えられています。
以上を整理しておきます
①粟島は塩飽水軍に属し、人名の支配する島として自治権を獲得した。
②塩飽廻船が享保年間に衰退していくのに入れ替わるように、粟島廻船が台頭する。
③粟島廻船は、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、
④天明~文化期になると、野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎える。
⑤この時期に「資本蓄積」と廻船問屋のノウハウを身につけて、廻船業から廻船問屋へと転進する。
⑥その背景には「西国一と称された粟島港」の存在がある。
⑦こうして18世紀後半には、金毘羅大権現への鳥居寄進などその繁栄の痕跡を各地に残している
⑧明治になっても繁栄は続くが、鉄道網の整備とともに北前船の活動が衰え、粟島にも廻船が立ち寄らなくなって衰退していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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護摩とは
金光院護摩札 粟島安田屋3
金毘羅大権現の金光院護摩札(三豊市詫間町粟島の廻船問屋安田屋)

粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札です。海上安全・船中安全・渡海安全の願が掛けられたものです。高さ101.8 cm、上幅196 cm、下幅162 cm、厚さ2.O cm、重量1420gです。内容を見ておきましょう。
右に 「寛政第七(1795)年 象頭山」
中央に 「不動明王を表す梵字(カーン)
その下に 「奉修不動明王護摩供二夜三日船中安全 風波泰静祈依」、
左に 「正月吉良日 金光院」
ここからは次のようなことが分かります。
①1795年の正月吉日に、象頭山金光院の護摩木札であること
②不動明王前で二夜三日の護摩祈祷の後に、授けられたこと
③「船中安全 風波泰静」が祈願されていること
トレスされたものを見ておきましょう。

金光院護摩札 粟島安田屋2

左のものは次のように墨書されています。
右側 「寛政第九年 象頭」
中央 「不動明王を表す梵字奉修不動明王護摩供二夜三日海上安全祈(欠)」
左側 「二月吉良日 金光院」
先ほどのものの2年後のものになります。内容的にはほとんど変わりありません。実はこれだけではありません。同じような木札・神札66枚が安田家には保存されていたようです。

金光院護摩札 粟島安田屋4
粟島廻船問屋安田屋の金毘羅金光院の護摩札

この木札に何が書かれているのか研究者が一覧化したのが下図です。

金光院護摩札 粟島安田屋1
粟島の安田屋の護摩札一覧(一部)

これを見ると祈祷内容はほとんど同じで「船中安全 風波泰静」です。同じものがどうして何枚もあるのでしょうか。また、安田家にどうして、金毘羅大権現の木札が残されているのでしょうか? そんな疑問に答えてくれる論文に出会いましたので紹介しておきます。テキストは「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」です。
不動明王と護摩

 安田家の護摩札等について        

研究者が当主の安田憲司氏から聞き取ったことをまとめると次のようになります。
①護摩札や祈祷札などを、新しく拝受するのは正月と出帆前の6~8月の吉日で年2回
②一年間、船に安置した護摩札は、蔵の天井の梁に挟むようにしていた
④処分に困るが捨ててしまうことはためらわれたので、今に伝えられることになった
ここからは、毎年正月と、廻船が活動を始める6月以後の年2回に、金比羅に参拝し、金光院の護摩札を授かっていたことが分かります。そして、持ち船に安置します。その際に、前年までの古い木札は、倉の天井に保管したこと。そのため毎年、持ち船の数と同じ枚数の護摩札が倉の天井には増えていったようです。

HPTIMAGE

安田家に残っていた76点の護摩札のうち、象頭山金光院のものは次の通りです。
A 縦約百㎝の大木札が47点、
B 約20~70㎝の木札が20点
C 紙製の札や掛け軸等が9点
金光院護摩札 粟島安田屋5


その他に神棚の中には天照大神宮御札、出雲大社御玉串、馬城八幡宮御守等などがありました。これらの配札場所は次の通りです。
金光院 47点
金光院・金毘羅大権現  1点
金毘羅大権現  1点
満嶋山系寺院 13点
地蔵院  1点
住吉大神宮  1点
水天宮  1点
鹿鳥大神宮  1点
石鉄寺(石鎚山)     3点
防州室積寺       1点
こうして見ると、金毘羅大権現の別当金光院関係のものが大部分を占めていたことになります。それ以外にも、瀬戸内海各地の神社のお札があります。これらの札が納められていた神棚を見ておきましょう。
粟島廻船間屋安田屋の神棚jpg

栗島の廻船問屋の神棚は、非常に大きなものです。一例を挙げてみると、
徳重家の神棚は、十一社様式 幅368cm
伊勢屋のものは、九社(神段数) 幅260㎝
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
粟島 旧廻船問屋旧家の神棚(2019年 瀬戸芸会場)

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
上の拡大

ここからは、栗島の海商たちが神棚の大きさや、そこに収める札の種類や数を競ったことがうかがえます。神棚に各地の「海上安全」などのお札を並べて供えることがステイタスシンボルでもあったのかもしれません。

護摩供養の作法は

金比羅金光院以外のお札を見ておきましょう。
まず粟島古利の梵音寺について。

粟島古利の梵音寺

満嶋山梵音寺は、海岸に面した大通りから数百m内陸部に位置する島内有数の寺院です。その歴史は倭寇の時代にまでさかのぼり、平安中期、粟島島民は藤原純友の配下に属し、海賊活動を行っていたと伝えられます。その範囲は、関門海峡を超えて朝鮮、中国、さらに南進し、東南アジアにまで拡がっていたようです。栗島から倭寇が出ていた証拠とされるのが、梵音寺境内の樹齢四百年以上の「竜眼の木」でとおばれる亜熱帯性の「たぶの木」で南方から持ち帰られたされ、香川の保存木となっています。どちらにしても、粟島は古くから「海民」の活躍する拠点だったことがうかがえます。

粟島梵音寺no
粟島の梵音寺のタブノキ

 梵音寺が鎮座するのが下新田地区です。ここは城山に近い所ですが、城山を満嶋山と呼ぶかどうかは分かりません。安田家に残された護摩札からは、満嶋山には梵音寺の他に松寿院、聖寿院があったことが分かります。その他にも史料的には、阿州極楽寺、観音堂などの堂らしきものが三ヶ所ほど確認できるようです。安田家が護摩札を受けた峯堂地蔵院がこの中にあるのかどうかは、よく分かりません。どちらにしても、修験者たちが構える堂や坊などが粟島にはいくつもあったようです。それを支える経済力もあったということになります。

粟島古利の梵音寺no護摩札
粟島の梵音寺・松壽院の護摩札

 安田家のお札の中で研究者が注目するのは、伊予石鉄山前神寺の石鎚講の札です。
粟島廻船間屋安田屋の石鎚山前山寺の護摩札
石鎚信仰といえば、石鎚山を対象とする石鎚神社、前神寺、成就(常住)、弥山(頂上)、瓶ヶ森、笹ヶ峰の東側の峰も信仰対象でした。前神寺が石鎚信仰の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降だとされます。前神寺が「先達所」を決定し、村落の指導者層を俗先達に任命し、広域布教のネットワークを形成していきます。それが道後平野や道前平野に定着し、石鎚山参拝登山は村々の若者の通過儀礼的要素も持つようになります。前山寺のお札粟島にあるということは、西讃地域は宇摩郡や越智都、さらには土佐郡などと一つの信仰圏を形成していたことが裏付けられます。このスタイルは、伊勢御師南倉の廻檀地域とよく似ていると研究者は指摘します。
 また木札には防州室積普賢禅寺のものがあります。
 室積は江戸時代に長州藩による港の再開発で室積会所が置かれ、北前船の寄港地として、多くの廻船問屋が軒を並べていた港町です。海商通りについて長州藩は、防長両国を18の行政区両に分け、これを宰判といい、要衝の地に代官所が設置され、それを勘場と呼びました。

普賢寺・普賢堂(山口県光市室積8丁目)- 日本すきま漫遊記
防州室積普賢禅寺
このような海勝通りに海の守護仏の普賢菩薩の縁起が生まれます。普賢縁起には、兵庫県書写山円教寺の性空上人が生身の普賢菩薩を見たいと祈願したところ、室積で漁人が海中から網で引きLげた普賢菩薩に対面したという逸話が残されています。
 海難守護は寄神信仰に基づくものが多いようですが「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた普賢菩薩を祀った普賢禅寺もその1つです。粟島の安田屋の持ち船も防州に寄港した時に、その護摩札を得たのでしょう。海の神様は、金毘羅大権現以外にも各地に祀られていたことが分かります。
粟島の神社の祈祷札を見ておきましょう。

粟島馬越神社のお札

馬城八幡は中新田の砂州沿いの道から少し奥まったところにあります。馬城という地名は粟島が古代に牧場であった名残です。700年、諸国に牧地を定めた際、「託磨牧」とあり、栗島が指定されたようです。「詫間(託馬)」も同じ関連と研究者は考えています。865年の続日本紀(865年条)には「停廃讃岐国三野郡託磨牧」とあるので、この時期まで詫間には官営の牧場があり、粟島はその一部だったことが分かります。また「西讃海陸予答」に次のように記します。

「担馬(詫間)木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

そして寛保3年(1742)に大坂の船宿から寄進された常夜燈が建っています。また、享保16(1731)年の銘のある島居からは島中が氏子であったことが分かります。さらに安田家の約20㎝の「八幡宮御祓船中安全海上無難順風□□」とある神札の内部には祓串が一本入っています。これが馬木八幡のものか、どうかは分かりませんが、海難除けの大麻であったことは確かだと研究者は判断します。
 この他にも栗島には次のように多くの神仕があります。一之宮神社、瀧之宮神社、稲荷大明神三社、妙見宮、栗島神社、弾上神社、荒神、蛭子神社、勝佐備神社、その他にも四社あります。これは、「西讃府志」より多い数になります。それは明治の廃物希釈で神社へと転化した寺院があったためのようです。その他、廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神、粟島伊勢仲宮(通称:お伊勢さん)が有名です。
ここには文化期からの船絵馬が15面本納されています。奉納年代は文化3年(1806年)~慶応3年(1867年)のもので、天保年間(1830~1844年)のものが多いようです。奉納者は地元の伊勢屋庄八をはじめ、大坂や堺、さらには「奥州福山城下」・「奥州函館」と記載されたものもあり、北海道まで見られます。その中には堺の糸荷廻船の舟絵馬もあります。糸荷廻船はオランダから長崎に輸入された中国の生糸・絹織物を江戸に運送するため海路で堺へ運ぶ船です。その船が粟島に寄港していたことを示す史料になります。                         

 安田家は、屋号を安田屋として栗島で廻船業を営んでいました。
安永4年(1775)に亡くなった久大夫が最初の船持ちだったと伝えられます。しかし、史料的に、その活動が辿れるのは享和2年(1802)から天保 12年(1841)になってからのようです。この約40年間に、「金毘羅新造(同名船三艘 初代~三代久太郎、兵助)、稲荷丸(重吉)」の名が確認できるようになります。最初の金毘羅新造は、享和3年(1803)のことで、長崎で店船首の程赤城に依頼して、洋中安全祈願の船名入り神号額を揮毫してもらって、八幡神社に奉納しています。三艘目の金毘羅新造は三代目久太郎が27歳で死去した後、泉州堺の鍋屋船万歳丸で沖船頭をしていた兵助(沖船頭名兵右衛門)が家へ帰り、天保十年に購入したものです。五百石積で兵助が船頭のときは久太郎(四代目)、弟が船頭のときは久治郎とそれぞれ先代の船頭名を襲名しています。
 また、稲荷丸(重吉)は分家のもの、重吉が大坂山城屋惣右衛門の伸占丸(十五人乗)に沖船頭として息子の豊占とともに乗り込み、難風で帆柱が吹き折れ、酒田飛鳥へ漂着した記録も残っています(「鈴木家文書」)。安田屋は箱館(函館)を中心に、青森や長崎へも航行しています。函館の長崎屋(佐藤半兵衛)、大津屋(田中茂占)、青森湊の滝屋(伊東善五郎)の客船ともなっていました。
 表出しは先祖久太夫の一字を取つた「列」(カネキュウ印)、重吉は「列」か「コ」(カネジュウ印)を使用しいます。名前は久太夫以後、久太郎、久兵衛、久平次、久次良、久四良と「久」の字が通字だったようです。これらの情報を「隠岐島島前 津之郷 大山明元間屋船帳」にあてはめると久太夫は、安国家の関係者だと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。
以前に「近世初頭に流行神として登場したときの金比羅神は、海事関係者の信仰を集めていたわけではなく、海の神様とは言えなかった」というお話しをしました。しかし、18世紀後半になると、安田家のような廻船問屋は金毘羅神を深く信仰するようになったことが、残された木札から分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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