海岸線が「陸封化」された西讃の海で、自然海岸が残っているのが庄内半島です。ここを原付ツーリングするのが私の楽しみの一つでもあります。この半島を走っていて、それぞれの浦が私には魅力的に思えます。それが歴史的な背景から来ているのではないかと以前から思っていました。そこで改めて庄内半島の浦々のことを見ていくことにします。
まずは粟島の廻船業から船問屋への転進ぶり見ていくことにします。
享保期になると塩飽廻船が衰退化していくことは以前にお話ししました。それと入れ替わるように、台頭してくるのが粟島の廻船業者です。彼らは、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、最初の最盛期を迎えます。さらに、天明~文化期になると、他国船との競争が激化してくる中で、粟島廻船は野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎えます。この時期に、「資本蓄積」が行われ、廻船の操業ソフトを身につけていきます。それを史料で見ておきましょう。
A 安永五年(1776)の越後の沼垂湊(ぬったりみなと)における越後新発田藩(しばた)の大坂回米船の史料からは、粟島廻船の回送が19艘、丹後湊宮(京都府久美浜町)が18艘で、塩飽広島5艘、摂津大坂4艘、讃岐浜村(高松市庵治町)3艘
B 浜田外ノ浦の客船帳からは、粟島の船問屋・船持には、舛屋・竹崎屋・高島屋・木曽屋・大屋・大和屋・麦屋・岡田屋・浜屋などがあり、小豆や米を売り、干鰯・銅・材木を買い込んだこと
C 隠岐の島前の浦郷の問屋には、粟島の潟地区の伊勢神社奉納船絵馬に粟島の「伊勢屋庄八 末福丸」(20反帆、1400石積)の入港が記録されていること
D 浜田の中村家の客船帳によると、粟島の大和屋福市丸、木曽屋住吉丸なども記録されている。
このような中で、金毘羅大権現の多度津街道の起点である高藪町に、鳥居が姿を現します。

粟島廻船仲間の寄進の鳥居 現在は高灯籠公園
そこには次のような字が見えます。
「天明二(1782)年」「奉寄進 願主粟嶋廻船中」「取次 徳重徳兵衛」
ここからは、粟島の廻船仲間が庄屋の徳重氏の取次で金毘羅大権現へ奉納したことが分かります。場所は、もともとは、多度津街道の起点(ホテル紅梅亭の東側川沿い)に建てられたものです。今は高灯籠に移されています。これに続いて、各街道の起点に鳥居が姿を見せるようになります。その先駆けとなったのが粟島廻船中の鳥居です。以前に見た粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札も寛政7(1795)年のものが一番古いものでした。鳥居の寄進前後から粟島の廻船問屋の金毘羅詣では始まると私は考えています。
この他にも粟島廻船の全国展開を示す石造物として、寛政元年(1789)に粟島の廻船仲間が、海上安全信仰の神社として大阪の住吉神社に常夜燈を寄進しています。その銘には「讃州粟島廻船中」ではなく、単に「粟島廻船中」と記されています。塩飽廻船と同じように国名がなくても全国に通用するという自負心が現れているように思えてきます。
しかし、文政期になると、日本海の北前船を中心とする他国船との競争に敗れ、幕末期には粟島船籍の廻船もいなくなります。西讃府志には、五百石を超える船は2艘しか記録されていません。しかし、「西讃海陸予答」には次のように記されています。
「此島水有家居多尤豊に見ゆ。島人多く摂坂の大船にと乗して、北国西国に揖取す。」
意訳変換しておくと
「粟島は海に囲まれた島であるが家も多く、人々の生活も豊なように見える。島人の多くは畿内のの大船の乗組員として、北国や西国に出向く。」
ここには 粟島が北前船による北海道と大坂を結ぶ海上ラインの重要な寄港地となり繁栄し、豊かな生活を送る者が多かったこと、そのため廻船を失った粟島の船主たちは、問屋・仲買人に転業し、粟島寄港の北前船と交易を続けます。また大坂や函館などの廻船に水主・沖船頭として雇われるようになり、多額の金銭を粟島にもたらします。それは、明治になって鉄道網が全国に伸びていくまでは続きました。
幕末に成立した「西讃府志」には、粟島のことが次のように記されています。
「村高174石余。村の広さは東西一里一町、南北二〇町、回り百五十町、丸亀から海路四里、東は志々鳥まで五十町、西は積浦まで三十町、波戸長さ四十間、加子六十戸、耕地四十四町三反余り。(内畑三十九町余、屋敷 町一反余).戸数三百、人口千三百、舟五百石二、二十石二十八、一挺舟五、牛五十。泉は船隠井、島は阿島(周り十九町)、尾元島(周り十町)、神社は粟島大明神、馬木八幡宮 他祠十、寺院真言宗梵音寺
幕末には、五百石船は粟島には2艘しかなく、20石船が28艘です。粟島は塩飽水軍の流れを汲むようで、秀吉による朝鮮出兵・文禄・慶長の役にも水夫として従軍していますし、島原の乱にも塩飽・小豆島の水夫とともに参加しています。そして、「人名」が住む島でした。そのためか江戸初期以降、水夫の多くは海運業に従事し、北前船で北海道へ塩を運び、箱館に出張所を置いています。粟鳥伊勢神宮には航海の安全を祈って、多くの船絵馬が奉納されています。
さらに文政十年(1837)には島四国八十八ヶ所の石仏が開眼され、大坂達船中が一船一基の本納を行っています。幕末の文久3年(1863)には、幕命で箱館奉行所の水野正太人が軍艦で航海術・運用術の訓練のために樺太・シベリア海の北洋航海を行いますが、その際に栗島出身の中村長松・紅屋清兵衛・枡屋徳太夫の三名が乗船しています。その詳細な記録が「黒竜江誌」として残されています。
粟島の特色は先祖が塩飽衆であることから、漁師よりも加子が多かったことです。
スクリューのように島が連結した粟島 隣が志々島
また、粟島の地形はスクリューのように島が連結し、南面の海は島や半島に囲まれていて風の影響をあまり受けません。 明治14年に開拓使が作成した『西南諸港報告書』には、次のように記されています。(意訳)「愛媛県下讃岐国三野郡粟島港ハ面積凡半方里島ノ周囲四里、船舶碇泊ニ便ニシテ、風潮二関セス、帆フ張リテ自在二出入スヘシ」
意訳変換しておくと
「愛媛県下(当時は香川県は愛媛に併合中)讃岐国三野郡の粟島港は面積半方里で、島の周囲は四里(16㎞)、船舶の停泊に便利で、風や潮流に関係なく、帆を張って自由に出入りができる」
ここには粟島港は、西風・東風もあまり受けないので、自由に出帆でき「船舶碇泊」に適していたことが記されています。そのため陸上から詫間に集められた物資は須田港から渡舟に荷物を積みかえて、栗島に運び、さらにそれを廻船に積せるというシステムが生まれます。また、栗島だけでなく、東隣の志々島も潮の干満の差が大きく、千潮時には船底の修理や虫食いを駆除する「船たで」の適地で、その作業所があって多くの船が利用するために入港していたようです。こうしてみると粟島は、詫間の須田港や志々島などと併せて、瀬戸内海交易の廻船の集結センターとして機能していたことがうかがえます。
粟島で船泊り(港)と呼ばれるところは、本浦の入江と、馬城(うまき:長浜側)でした。
島内の廻船は本浦、外来船は、馬城に停泊するという棲み分けが行われていたようです。ただし、波止場は、天保年間でも長さ40間(約72m)と記録されているので、接岸施設はなく沖掛りの廻船が多かったようです。馬城(木)地区については、「西讃海陸予答」に次のように記されています。
島内の廻船は本浦、外来船は、馬城に停泊するという棲み分けが行われていたようです。ただし、波止場は、天保年間でも長さ40間(約72m)と記録されているので、接岸施設はなく沖掛りの廻船が多かったようです。馬城(木)地区については、「西讃海陸予答」に次のように記されています。
「馬木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」
ここからは粟島廻船が活動していた享保期よりも多くの廻船が来港して賑わっていたことが分かります。その背景には、船乗りたちから評価が高かった港であったことが挙げられます。
馬城海岸の波打ち際には、「享保16(1731)年銘の馬城八幡神社の鳥居が建っています。
粟島の馬城八幡神社の鳥居
これは、粟島では最も古い寄進石造物です。この寄進者は「島中」つまり粟島の氏子一同でした。ところが、11年後の寛保二年(1742)2月になって、粟島神社の常夜燈寄進者の中に初めて「舷頭中」および「大坂 讃岐屋勘介」、(馬城)八幡神社の常夜燈寄進者の中に「大坂 讃岐屋勘四良」の名前が出てきます。ここに登場する「讃岐屋勘介」と「讃岐屋勘四良」は同一人物で、大坂新大黒町の船宿で、粟島と積浦廻船の定宿でした。そのためお得意さんの粟島の神社に寄進したのでしょう。粟島の神社へ、船頭仲間や大坂の船宿からの常夜燈寄進が1740年代という早い時期に始まったことに研究者が注目します。その背景には、馬城にあった湊が「近国第一の湊」で、多くの廻船の寄港地であったことも背景にあるようです。
明治初期の栗島の取扱品目を見ておきましょう。
①積出し品の最大商品は、煙草が5割、塩が約4割②塩を坂出から、煙草を阿波・伊予国、茶を阿波・土佐から輸入し、北海道に転輸する拠点として機能③北海道からの物産は大部分が鯡〆粕(にしんしめかす)で、他に数の子などが栗島港に入り、小型船に積み替えられ、三野・豊田郡や岡山へ転販

当時、四百石積以上の北海道へ向かう船は約五百隻いたとされます。大坂で必要な貨物を買積して、各地に寄港しながら北海道へ向かいました。粟島港には毎年2月から4月までと9月から11月までの春秋2回、やってきます。春の滞在期間は前年に大坂で売買契約を結んだ貨物を購入するためで、秋季の滞在は北海道から廻送してきた産物について価格を偵察し、阿波や岡山に向けて売り出すためです。
北海道産物の千鰯などは米・綿・甘庶の肥料で、これがないと綿花の生産量は増えませんで。そのため綿花栽培地の大坂などで大量に購入されるようになります。そのための在地の肥料問屋が登場するのもこの頃です。
粟島には、かつての船問屋の屋敷跡が豪壮な石垣とともに残っています。かつては、そこに通じる道には石が敷き詰められていたようです。これは、北前船で帰島した水主が、正月前後に船持や船問屋のために敷き詰めたものと伝えられています。
以上を整理しておきます
①粟島は塩飽水軍に属し、人名の支配する島として自治権を獲得した。
②塩飽廻船が享保年間に衰退していくのに入れ替わるように、粟島廻船が台頭する。
③粟島廻船は、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、
④天明~文化期になると、野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎える。
⑤この時期に「資本蓄積」と廻船問屋のノウハウを身につけて、廻船業から廻船問屋へと転進する。
⑥その背景には「西国一と称された粟島港」の存在がある。
⑦こうして18世紀後半には、金毘羅大権現への鳥居寄進などその繁栄の痕跡を各地に残している
⑧明治になっても繁栄は続くが、鉄道網の整備とともに北前船の活動が衰え、粟島にも廻船が立ち寄らなくなって衰退していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
以上を整理しておきます
①粟島は塩飽水軍に属し、人名の支配する島として自治権を獲得した。
②塩飽廻船が享保年間に衰退していくのに入れ替わるように、粟島廻船が台頭する。
③粟島廻船は、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、
④天明~文化期になると、野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎える。
⑤この時期に「資本蓄積」と廻船問屋のノウハウを身につけて、廻船業から廻船問屋へと転進する。
⑥その背景には「西国一と称された粟島港」の存在がある。
⑦こうして18世紀後半には、金毘羅大権現への鳥居寄進などその繁栄の痕跡を各地に残している
⑧明治になっても繁栄は続くが、鉄道網の整備とともに北前船の活動が衰え、粟島にも廻船が立ち寄らなくなって衰退していく。
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