瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高屋神社

 丸亀平野にはこんもりと茂った鎮守の森がいくつもあります。これらの神社の由緒書きを見ると、その源を古代にまで遡ることが書かれています。しかし、実際に村社が姿を現すのは近世になってからのようです。中世には、郷社として惣村ひとつしかなく、各村々が連合して宮座を組織して祭礼を行っていました。その代表例が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)で、そこに奉納されていたのが各各組の念仏踊りです。これも幾つもの郷の連合体で、宮座で運営されていました。
 ここでは近世の村々が姿を現すのは、検地以後の「村切り」以後だったことを押さえておきます。。それでは、近世の村が、村社を建立し始めるのはいつ頃のことなのでしょうか。
また、それはどのようにして再築・修築・整備されたのでしょうか。このテーマについて、坂出の神社を例にして、見ておこうと思います。テキストは「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」です。
  坂出市史近世下には、神社の棟札から分かる建立や修築時期などについて一覧表が載せられいます。
坂出の神社建立再建一覧表1
坂出の神社建立再建一覧表2
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀までに創建されているのは、鴨葛城大明神・川津春日神社・神谷神社・鴨神社で、それぞれ再建時期が棟札から分かること。その他は「伝」で、それを裏付ける史料はないようです。

坂出地区の各村の氏神などの修繕や建て替え普請を見ていくことにします
坂出村の氏神は八幡神社です。
天保12(1842)年2月、坂出村百姓の伴蔵以下15名が「八幡宮拝殿 壱宇 但、梁行弐間桁行五間半瓦葺」とで拝殿の建替を、庄屋阿河征右衛門を通じて、両大政所の渡辺八郎右衛門と本条和太右衛門に申し出ています。
西新開の塩竃神社は 文政11(1838)年8月1日に、
地神社は      文政12年8月6日に創祀
東浜の鳥洲神社は  文政12年6月26日
どれも藩主松平頼の命によつて久米栄左衛門が創建し、西新開・東浜墾円・港湾の安全繁栄の守護神とされます。
 西浜の事比維神社も塩田開かれ沖湛甫が開港すると、船舶の海上安全のため、天保8(1837)年に沖湛南西北隅に創建されます。しかし、安政元(1854)年11月5日夜半の安政大地震で社殿が倒壊したため、その後現在地に移されます。(旧版『坂出市史』)、旧境内には、同社の性格を示す石造物が境内に残っています。たとえば、安政五年銘の鳥居には多くの廻船の刻宇、文久三年銘の常夜燈には「尾州廻船中」の刻宇、天保十一年銘の狛犬には「当浦船頭中」の刻字が刻まれています。

福江村鎮守の池之宮大明神については、1836(天保7)年12月の火事について、庄屋が藩に次のように報告しています。
一 さや 壱軒
但、梁行壱間半桁行弐間、屋祢瓦葺、
右者、昨朔口幕六ツ時分ニテも御鎮守池之宮大明神さや之門ヨリ煙立居申候段、村内百姓孫八と申者野合ョリ帰り掛見付、私方へ申出候二付、私義早速人足召連罷越候処、本社者焼失仕、さやへ火移り居申候二付、色々取防仕候得共、風厳敷御座候故手及不申候、右の通本社さや共焼失仕候二付、跡取除ケ仕セ候処、御神体有之何の損シ無御座候間、当郡西庄村摩尼珠院参リ当村氏神横潮大明神江御神納仕候、然ル後山中之義二付、乙食之者ども罷越焼キ落等御庄候テ出火仕候義も御座候哉と奉存候、尤御制札并所蔵近辺ニテも無御座候、此段御註進中上度如此御座候、以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎
十二月二日
渡辺八郎右衛門 様
本条和太右衛門 様
猶々、右之趣御役処へも今朝御申出仕候間、年恐御承知被成可被下候、己上、
意訳変換しておくと
一 さや 壱軒 梁行2間半 桁行2間、瓦葺、
 (1836)12月午後6時頃、池之宮大明神さやの門から煙が出ているのを百姓孫八が見つけ、私方(庄屋田中幸郎)へ知らせがあったので、早々に人足とともに消火に当った。しかし、風が強く手が着けられず、本殿とさやの門を焼失した。焼け跡を取り除いてみると御神体に損害はなかった。そこへ西庄の摩尼院がやってきて、福江村氏神の横潮大明神に御神納することになった。
 出火原因については、山中のことでよく分からないが、乙食たちがやってきて薪などをしていたのが延焼したのではないかとも考えられる。なお制札や所蔵附近ではないので、格段の報告はしません。以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎


焼失しなかったご神体が、西庄の摩尼院住職の助言で横潮大明神に一時避難されています。先ほどの年表を見ると、10年後の1846年に「福江村横潮大明神本殿 再建許可」とありますが、池之宮大明神の再建については記録がありません。池之宮のご神体は、横潮大明神に収められたままだったようです。火災で消えたり、小さな祠だけになっていく「大明神」もあったようです。

西庄村には2つの氏神があったようです。

西庄 天皇社と金山権現2

一つは白峰宮で、崇徳上皇を祀り崇徳天皇社と呼ばれていました。これが、西庄・江尻・福江・坂出・御供所の総氏神でした。そしてもうひとつが國津大明神です。
国津大明神では、1820(文政三)年正月、西庄村百姓の庄兵衛以下八名が拝殿の建替を次のように申し出ています。

「国津大明神幣殿壱間梁の桁行壱問半、拝殿町弐間梁之桁行一間、何も屋根瓦葺ニテ御座候所、及大破申候ニ付、此度在来之通建更仕度奉存畔候」

意訳しておくと
「国津大明神の幣殿は、壱間梁の桁行壱間半、拝殿は弐間梁の桁行一間、いずれも屋根は瓦葺です。すでに大破しており、この度、従来の規模での再建許可をお願いします。

申し出を受けた和兵衛は現地視察を行い「見分仕等と吟味仕候処、申出之通大破相成」、許可して同役の渡辺七郎左衛門へ同文書を送付しています。「従来の規模での再建許可」というのが許可申請のポイントだったようです。
1860(万延元)年2月には、西庄村などから崇徳天皇本社などの修築が提出されています。
   春願上口上
崇徳天皇本社屋祢葺更
但、梁行弐間 桁行三間桧皮葺、
一 同 拝殿屋祢壁損所繕
一 同 宝蔵堂井伽藍土壁右同断
一 同 拝殿天井張替
右者、私共氏神
崇徳天阜七百御年忌二付申候所、右夫々及大破難捨置奉存候間、在来之通修覆仕度奉願上候、右願之通相済候様宜被仰可被
下候、
本願上候、己上、
万延元年申二月  阿野都北西庄村百姓
現三郎
次太郎
          音三郎
次之介
善左衛門
次郎右衛門
助三郎
良蔵
同郡江尻村同  新助
善左衛門
                  瀧蔵
                     同郡福江村同 五右衛門
善七
与平次
同郡坂出村同  与吉之助
権平
  浅七
三土鎌蔵 殿
川円廣助 殿
安井新四郎 殿
阿河加藤次 殿
右之通願申出候間、願之通相添候様宜被仰上可被下候、以上、
西庄村庄屋 三土鎌蔵
坂出村同   阿河加藤次
福江村同   安井新四郎
江尻村同   川田廣助
六月
本条勇七 殿
右ハ同役勇七方ヨリ村継二而申来候、

この史料からは、次のような事が分かります。
①崇徳院七百年忌を控えて、西庄村の崇徳天皇社の本殿屋根などの修繕の必要性が各村々で共有されていたこと。
②その結果、西庄村百姓8名の他に、江尻村・福江村・坂出村の各3名、合計17名が発起人となり、各村の庄屋を通じて、大庄屋に願い出されたこと
③これらの村々で崇徳天皇社を自分たちの氏寺とする意識が共有されていたこと
ここには、崇徳上皇を私たちの氏神とする意識と崇徳上皇伝説の信仰の広がりが見えて来ます。

高屋村の氏神ある崇徳天皇社でも1819年12月、氏子の伊兵衛以下九名から拝殿の建替申請が出されています。
「崇徳天皇拝殿弐間梁桁行五間茸ニテ御座候所、及大破申候二付、在来之通建更仕度本存候」
申請を受けた政所綾井吉太郎は
「尤、人目の義者、氏子共ヨリ少々宛指出、建更仕候二付、村入目等二相成候義者無御座候」
意訳しておくと
「崇徳天皇拝殿は弐間梁で、桁行五間で、屋根は茸吹ですが、大破しています。つきましては、従来の規模で立て直しを許可いただけるようお願いし申し上げます。
申請を受けた政所の綾井吉太郎は、次のように書き送っています。
「もっとも人目があるので、氏子たちから寄進を募り、建て替えを行う時には、村入目からの支出はないようにする。」

ここからは大政所渡辺七郎左衛門・和兵衛に対して、その経費は氏子よりの出資であり、村人目にはならないことを条件に願い出て、許可されています。しかし、その修復は進まなかつたようです。
文政七年二月、同村庄屋綾井吉太郎は両人庄屋に窮状を次のように訴えています。
「去ル辰年奉相願建更仕候所、困窮之村方殊二百姓共懐痛之時節二付」
一向に修復が進まず、加えて「去年之大早二而所詮造作も難相成」
「当村野山林枝打まき伐等仕拝殿修覆料多足仕度由」
として同村の村林の枝打ちによる収益を修復に充てたいと願い出ています。しかし、藩は不許可としています。藩は村社などの建て替え費用に、村会計からの支出を認めていませんでした。あくまで、村人の寄進・寄付で神社は建て替えられていたことを、ここでは押さえておきます。
    五色台の麓の村々に白峰寺の崇徳上皇信仰が拡がって行くのは、近世後半になってからのようです。
その要因のひとつが、地域の村々の白峯寺への雨乞い祈祷依頼だったことは以前にお話ししました。文化2(1805)年5月に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いが白峰寺に出されています。そして、文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(白峰寺調査報告書312P)
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、白峰寺や崇徳上皇関係の施設に対する近隣の村々の支持や支援を受けることにつながって行きます。
ここらは「雨乞祈祷寺院としての高松藩の保護 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し、「民衆化」していることが見えてきます。19世紀前半から白峰寺への雨乞い祈願を通じて、農民達の白峰寺への帰依が強まり、その返礼寄進として、白峯寺や崇徳上皇関係の村社や郷社の建て替えが進んだという面があるように私は見ています。
例えば、1863(文久3)年8月26日に、崇徳上皇七百年回忌の曼茶羅供執行が行われています。回忌の3年前の万延元年6月に、高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままでした。そこで、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。それが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①近世になると各村の大明神は村社として、祠から木造の本殿や拝殿が整備されるようになった。
②整備された村社では、さまざまな祭礼行事が行われるようになり、村民のレクレーションの場としても機能し、村民の心のよりどころともなった。
③村民は、大破した村社を自らの手で修復・建て替え等を行おうとした。
④それに対して藩は、従来通りの規模と仕様でのみの建て替えを許し、費用は村人の寄付とし、村予算からの支出を認めなかった。
⑤19世紀後半になると、崇徳上皇信仰の高まりとともに、村社以外にも白峰寺や崇徳上皇を祀る各天皇社の建て替え・修復を積極的に行おうとする人々の動きが見えてくるようになる。
最後までありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」


 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
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DSC01445
 私は獅子舞の始まりを、江戸時代の始め頃とおぼろげながら考えていました。
しかし、獅子舞が舞われるようになるのは、もっと後の江戸時代も後半の19世紀になってのようです。それも各集落が獅子を持つようになるのは、明治になってからの所もあるようです。
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村の神社に、獅子が登場するようになる前と、登場してからの変化について見てみます。
 江戸時代に「村」が成立し、近世の神社が讃岐の地に姿を見せるようになるのは18世紀あたりでしょうか。現在に残る各神社の棟札を見てみると、延喜式内神社などの古社を別にすると、社殿や拝殿が建てられるようになるのは18世紀頃のようです。
 もちろんそれまでも「氏神としての神社」はあったのでしょうが、社殿や拝殿を玉垣、鳥居などが整備されていくのは江戸時代後期から明治になります。このような神社のハード面の整備が先行します。そして祭礼が大衆化し、その目玉として獅子舞が登場するという運びになるようです。
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 前回に紹介したように中世15世紀半ばに琴弾八幡神社(観音寺市)の太鼓に合わせて舞う獅子現れ、江戸時代の18世紀後半に式内社・黒島神社(観音寺市池之尻町)に、紙製獅子頭を使った獅子が現れ獅子舞へと「変身」していきます。古社に導入された獅子たちが周辺の新設された神社に姿を現すのは19世紀になってからです。
祭礼記録に獅子たちが残した痕跡を追ってみましょう。 
県下の神社には、獅子舞の経費に関わる文書が数多く残されています。これらの文書を見ていくと、いつ頃に獅子舞が祭礼に定着していったのかが分かります。
その中には、獅子舞の数が増え奉納順を争ったり、新しい芸を稽古したりしことも記されています。

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       綾川町 文政9年 北の宮獅子ほうが(奉賀)帳      
 神社付き獅子(=トウヤ獅子)から組持ちの寄進獅子へ
綾川町の北宮八幡神社には、文政9年(1826)年に獅子頭をつくった時の寄付に関わる記録類が残っています。それによると当屋や獅子舞を4組が交替で務めていたようで、「当屋入目」の記録の翌年に「獅子入目」の記録があります。ここからは当屋があたった翌年に、獅子舞の役目が回ってきたことがうかがえます。
 注目したいのは、江戸時代後期のこの時代には、各組で獅子を持っていたのではないということです。つまり獅子頭は、最初は神社が購入した「神社付き獅子」を、各組が順番で担当していたのです。それが次第に、それぞれの組が持つようになります。なお、これより先の文化12年(1815)の当屋入目にも獅子が出てくることから、この時に「神社付き」獅子用具一式がつくり替えられたようです。ちなみに費用は「銀百八拾目 獅々かしら」とあり高価なものであったことが分かります。
DSC01441
男山神社蔵(さぬき市寒川町年)では、今でも、各組から出される獅子とは別に「当番獅子」と呼ばれる獅子が奉納されています。当番獅子の順番がくると、自分の組の獅子と当番獅子の二頭をつかいます。これは、神社付獅子を氏子の組が輪番でつかう江戸時代の古いかたちが残っているのでしょう。県内には、他にも宮獅子、当番獅子と呼ばれる神社付の獅子だけを氏子が交替で奉納を続けている神社もあるようです。
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 もう一度整理すると、一番古い形としては神社や氏子全体で持っていて、順番に奉納当番が廻ってくるトウヤジシとかトウバンジシと呼ばれる様式です。でも、次に廻ってくる順番を待ちかねた「獅子ホッコ達」がお金を出し合ってこしらえたり、暮しに余裕ができてきた集落や、モッタサンと呼ばれる旦那衆が居る地区では「うちでも出さんか」といって単独でこしらえるところも出来てきたのでしょう。
 先ほども出てきた綾川町あたりでは、集落持ちの獅子をキシンと呼ぶそうです。これはトウヤ(陶屋・頭屋)獅子に対する言葉で、トウヤジシが祭りの神役の一つとして奉納するのに対して、キシンはすなわち寄進で、氏子から自主的に奉納するということからきた呼び名のようです。この他にも大字(江戸時代の旧村)全体で出す獅子や、広い範囲(数地区連合)で持っている獅子もあり、これらも古い形でなのでしょう。
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北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳
獅子舞の役割は?
綾川町陶の北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳天保3年(1832)には、獅子役割として、獅子遣・太鼓打・曲太鼓・鉦・摺鉦・狸々舞などの役が記されています。この記録からは、獅子遣に2名の名前があり「二人遣い」だったことが分かります。また、獅子舞に「狸々舞」という獅子あやしのような芸が付いていたようです。
また、天保7年(1836)の記録には「ならし」と呼ばれる獅子舞の稽古について「獅子拍子始テミタチ流二相改候二付彼是ならし夜数例年より席数余分二相成候」などとあり、ミタチ流という新たな獅子舞の芸に改めたために稽古数が増えたことを記しています。私は祭礼の奉納のための獅子舞ですから先祖から受け継いだ物を大事に継承しているものとばかり思っていました。ところが、旧来の流派から新たな流派に変更することも頻繁に行われているのがうかがえます。
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             「獅子三頭始より究書」
獅子舞の奉納順番をめぐって争った高屋神社
嘉永3年(1850)の坂出市高屋町に「獅子三頭始より究書」と題された記録があります。もともと高屋神社には獅子が1頭だけでした。ところが、やがて南北2頭になって争いが起きるようになり、ついには獅子舞が奉納できなくなる事態になります。そこで嘉永3年(1850)に遍照院の仲裁で、もう1頭新設してより3頭に別れて奉納することになりました。獅子の数が1頭から2頭へと増えたことで、その順番をめぐって争いが起こっていたようです。神社で1頭の獅子しかいなかった頃には、起きなかった争いが何頭もの獅子が登場することで、奉納順や位置をめぐっての争いが各地でおきたことが残された文書から分かります。
獅子舞をめぐる取り決めを額にして随身門に掲げた国分八幡宮
DSC01503
         国分八幡宮獅子順番定書(上)と追條目(下)
国分八幡宮蔵(高松市国分寺町)の定書も、安政6(1859)年の幕末期のものです。獅子舞を出していた下所・大東・東奥・馬場の4組では、神前の席順で争論が絶えませんでした。そこで安政6年(1859)未年と翌申年の奉納場所を取り決めたものがこれです。
DSC01504
「追條目」は、定書を定めたのに翌年にまた争いが起こったので、獅子奉納については総代頭と相談して争いのないようにすること、獅子舞の宰領等は羽織袴で来るようになどと定められています。威儀を正して、争いの起きないように監視せよと言うことでしょうか。この神社では、この定書を額にして随神門に掲げてきました。争いの激しさと、それを収めるための智慧がうかがえます。
 ところが同社に伝わる「祭典奉納獅子席次帳」(昭和10年・1935)によると、その後も争いは絶なかったようです。そこで明治22年(1889)には、祭礼前日のトウヤ、当日の神殿前、お旅所それぞれの獅子組の奉納席順を定めています。また、昭和15年(1940)には、江戸時代に取り決めた6ヶ條の追條目で獅子舞奉納についての責任の所在などについて、坂出警察署国分駐在所巡査の立ち合いのもと協定をしているのです。獅子舞をどの場所で奉納するか、何番目に奉納するのかは獅子組にとって非常に重要だったのです。
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獅子頭の大型化は?
 江戸時代後半の天保年間に由佐の大溝の人たちによってつくられた「由佐古河の大獅子」と称される獅子頭です。獅子が各神社に姿を見せるようになった2百年前には獅子頭の大型化という現象も見られるようになりますます。現在の獅子頭は明治24年(1891)につくり替えられたものと伝わり、頭には「大正十口年」「昭和五十一年修繕/三豊郡三野町丸岡光信」などの銘があります。修理が重ねられて百年以上も使われてきたことが分かります。
 冠綴神社の祭礼には、池内大獅子(ともに県有形民俗文化財)と夫婦獅子として供奉されます。高さ90cm、幅160cm、奥行100㎝ 重さ50kg、油単の長さ12mで、運行には25人ほどの人手が必用です。
昭和の獅子舞大会がもたらした物は?
昭和になると獅子舞がさらに風流(ふりゅう)化しショウアップされるようになります。それが獅子舞大会の各地での開催でした。
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        県下獅子競技大会の優勝旗 昭和6年(1931)
 昭和6年に昭和天皇の御大典記念事業として多度津町に桃陵公園が開園します。その記念行事として「桃陵公園開園記念県下獅子競技大会(第1回)」(多度津商工会)が開かれ、ます。その時に優勝した家浦二頭獅子舞(三豊市仁尾町)が保存する優勝旗です。これをきっかけに開戦までは、県内各地で獅子舞大会が開かれるようになります。各獅子組は、県内から集まった獅子組との競演によって刺激を受けることになります。獅子頭や油単にも贅がこらされ、演技方法にも今までにないものが取り入れられ、獅子舞の「差別化」が進みます。この上に、現在の獅子舞はあります。そういう意味では獅子舞の歴史は、そんなに古い物ではないといえるのかもしれません。
さまざまな油単(ゆたん)
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          獅子舞油単  奥村定義製作(宇多津町) (戦後)
 獅子舞の胴をあらわす布は、香川県では油単(ユタン)、着物(キモノ)、幕(マク)などと呼ばれます。栗林公園の民芸館が所蔵するのり染の油単は、香川県の伝統的な絵模様の一つです。獅子油単の絵模様は、武者絵や龍虎などの絵模様が多いのですが、他にも毛模様や神紋などを配した油単、馬のたてがみを植えた油単も現れ、趣向が競われるようになります。
大漁旗が継ぎ当てされた油単
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 坂出市の白峰宮に奉納している原獅子舞保存会が使用していた稽古用の油単です。
古くなった油単に大漁旗の継ぎ当てされています。
戦争中は獅子舞が中止されていましたが、戦後になると混乱の中でも獅子舞を復活しようとする動きが出てきます。しかし、物がありません。最初は布団地の布を急造の油単にして復活させます。それでお花を集めてお金を貯め、新しい油単や獅子頭を購入したというところが多いようです。用具が十分でなくても獅子舞の復活を望んでいたのでしょう。
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  神風号東京-ロンドン間最短飛行時間樹立記念 白方自治会蔵(さぬき市鴨庄)
 さぬき市鴨庄の白方自治会の獅子に使われていた油単です。昭和12年(1937)に、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の最短時間新記録樹立(51時間19分23秒)しました。これは当時の日本にとっては、大きなニュースとして報じられ国民の心を揺さぶりました。それをテーマに図案化された油単です。中央は飯沼操縦士と塚越機関士で、当時のヒーローとなりました。油単には、社会の流行テーマも取り入れたのです。それは、中世以来の祭礼の風流(ふりゅう)化の流れを受け継いだ物なのでしょう。
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      獅子舞油単(乃木希典)  陶大宮八幡神社西川南組(祓川町)
 善通寺第11師団初代師団長として香川県にもゆかりの深い乃木希典の騎乗姿を図案化した油単です。乃木将軍は国定教科書に取り上げられるなど知名度も高く、庶民にも親しまれる人物だったので、英雄視されて油単にも登場しています。しかし、近代人が油単に登場するのはごく稀です。
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        虎頭の舞用具    東かがわ市白鳥虎頭舞保存会蔵
 東かがわ市の白鳥神社には獅子頭でなく虎頭舞が奉納されます。和唐内、虎つかい、鉦打ち、太鼓叩き、笛吹き 笹張り、拍子木、頭取で構成されます。面白いのは近松門左衛門の「国姓爺合戦」にちなんで、歌舞伎の趣向を取り入れて、隈取りをした少年扮する和唐内が虎を退治するストーリーが演じられるのです。大正11年(1922)に摂政宮であった昭和天皇が陸軍大演習の視察のため来県したおりには、善通寺第11師団で演じたようです。県内には、三本松・富田・津田でも虎頭が舞われていますが珍しいものといえます。

さて獅子舞がさかんに舞われる讃岐ですが、いろいろな問題に直面しています。
さきほど、大漁旗を貼り縫いして油単にしていた原集落では、それ以後も子舞存続のためのさまざまな取り組みをしています。
昭和30年(1955)頃、戦後休止していた獅子舞を青年会で復活。
平成10年(1998)若者不足により青年会による獅子舞奉納を中止。代わって年齢制限のない保存会発足。同時に中学・高校生による後継者育成開始
平成15年(2003)中学生、高校生による獅子舞開始
平成16年(2004)女子中学生による獅子舞(つかい手)開始
平成17年(2005)太鼓打ちに小学生女子児童がデビュー。
 原獅子舞保存会をはじめ、県内の多くの獅子組で、地域社会の変化に対応したさまざまな工夫が重ねられているようです。
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参考史料 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼風流

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