1882年(M15)年12月30日の早朝に、大型ヨットが高松港にやって来ます。極東冒険旅行を行っていた英国の探検家ギルマールー行の船でした。彼が高松城で撮った4枚の写真を見てきました。今回は最後の1枚を見ていきます。
桜馬場の東南角に、当時あったのが太鼓櫓です。そこからカメラを南に向けて撮っているようです。そこには眼下の中堀は写っていません。中堀に面した侍屋敷が一番前面にあります。そして、侍屋敷の向こうに外堀があり外堀沿いに瓦町と常磐町が東西に伸びます。
写真は太鼓櫓から丸亀町方面(南側)を望んで撮影されています。
研究者は、この写真を次のように分析しています。
①手前に写真には見えないが中堀に面した街路(御堀端)があり、その背後に武家屋敷が広がり、さらに外堀外側に町家と寺町が見える。
②背景中央には紫雲山がそびえ
③右手前に見える建物群は、江戸詰めの下級藩士の家族が住まう「江戸長屋」である。
④この屋敷地は旧大手門の前面にあたり、生駒家時代には重臣三野四郎左衛門や前野治太夫の屋敷があった。
⑤松平家に替わってからも藩主一族の松平大膳屋敷の東隣、重臣谷蔵人屋敷の西隣という重要な位置にあり、
⑥享保年間の「高松城下図」には「御用屋敷」と表記されている。
⑦絵図で「江戸長屋」と見えるのは、文化年間の「讃岐文化年間高松御城下絵図」が初見で、その後幕末を経て明治二十八年の市街地図を最終とする。
⑧おそらく元来は藩の重臣の屋敷であったものを、後に何らかの事情で藩が接収し、江戸長屋としたのであろう。
つまり写真に写っているのは「江戸長屋」で、それはかつての重臣の広大な屋敷地であった敷地に街路を付けて分割して「長屋」化したものだというのです。
研究者は、次に写真に写っている建物を平面図に起こします。
写真の撮影内容と平面図を比較しながら次のように分析します。
①江戸長屋の北面(手前、図1-1・2)と南面(奥、図1-3)に長屋建物がある。北面の長屋建物は海鼠壁をもち、二棟が並んでいるが、西側建物(図1ー2)の妻壁に梁が露わになっており、柱に貫穴が見られる②また東側建物(図1-1)の地形石が建物の外(西)側に飛び出すなどの不自然な点がある
ここから前面の東西の長屋は、もともとは一棟の長屋建物であったと考えます。さらにこれらの建物は、かつてここが重臣の屋敷だった時に建てられたものを「転用」していると推察します。
再度確認すると、生駒時代や松平時代初期のおおきな屋敷地が、後の時代に分割され、敷地内に街路通されます。この街路は幅三間程で、江戸長屋の中央部を屈折しながら南北に貫いています。また東西方向に細い路地が分岐します。その形状は明治28年の市街地図と一致するようです。
平面図を見ると、街路の西側に土塀で区画された宅地が八単位(図1-a~h)あることが分かります。そこに主屋と付属屋が配されています。宅地の主屋には、草葺屋根が二棟(図1-4・5)見えます。そのうちの一棟(図1-4)は、瓦葺の庇を葺き下ろす「四方蓋造」です。草葺屋根は、南側の別の武家屋敷の主屋にも見えます。
おそらく敷地のまわりを囲む海鼠壁の長屋建物は、御用屋敷になった時に設置されたもので、その内側の建物のほとんどは江戸長屋の施設と研究者は考えているようです。確かに、建物の傷み具合から見ると、明治時代になって新築されたものではないようです。
外堀に面した町人地の片原町と兵庫町だ。写真には写っていないが、これらの町家の存在によって外堀の位置が想定できる。
と研究者は云います。規則的に東西に並ぶ町屋の存在から外堀の位置が確認できるようです。私には、もうひとつ分かりません。
また、次のようにも指摘します。
これらに直交して、南北方向に連続する町家がある。周囲よりひときわ高く立派な町家が多いことから、城下の大手筋だった丸亀町と考えられる。第百十四国立銀行(現・百十四銀行高松支店の場所)はこの頃、既存建物を借りて営業しており、この写真のいずれかが該当するものと思われる。
同じように丸亀町通りの家並みも分かるといいます。
丸亀町の北側(手前)のふたつ並ぶ二階建の洋館については、次のように云います
この2棟は丸亀町の北側延長上にあり、片原町・兵庫彫の町家よりもわずかに北側にあるため、外堀に架かる常盤橋よりも内側の旧武家地(内町)にあることが読み取れる。手前の建物は東(左)面に玄関庇があり、背後の建物も東(左)面にベランダがあることから、ともに東側をファサード(正面)としたことが分かる。つまり、常盤橋近くの街路西側に面して洋館が建っていたことになり、ほぼ現在の高松中央郵便局の場所に比定できる。(
高松郵便局と考えられる洋館の細部については、次のように指摘します
①手前の洋館は漆喰塗りの外壁に寄棟屋根を乗せており、軒直下には分厚いコーニス(軒蛇腹)とデンティル(歯飾り)を巡らせている。②外壁の四隅には付け柱か色漆喰による隅石がデザインされているようである。③窓は床面から立ち上がる内開きのフランス窓で、その物外側に外開きの鎧戸(隙間が開いて通気性のある戸)が取り付けられている。③背後の洋館は、正面側に深い軒を支える支柱が見え、ベランダを構成している。
目立つのが、その手前の白い大きな切妻屋根の建物です。
トタン葺きのようにも見えますが板葺だと研究者は云います。どちらにしても大きさの割には「簡易構造」のようにも見えます。よく見ると東(左)側の妻壁に四本の支柱に支えられた「櫓」が立ち上げられているようです。そうだとすると、この建物は芝居小屋と考えられます。内町には、明治14年に開業した芝居小屋・旭座があったといいます。その位置は
トタン葺きのようにも見えますが板葺だと研究者は云います。どちらにしても大きさの割には「簡易構造」のようにも見えます。よく見ると東(左)側の妻壁に四本の支柱に支えられた「櫓」が立ち上げられているようです。そうだとすると、この建物は芝居小屋と考えられます。内町には、明治14年に開業した芝居小屋・旭座があったといいます。その位置は
「常盤橋」「現在の高松郵便局のある場所」
とされていて、この建物の位置とほぼ一致するようです。自由民権思想家である中江兆民らがここで演説会を開き、明治を代表する俳優・川上音二郎が壮士芝居を演じたという旭座のようです。
このように常盤橋周辺の内町や丸亀町には、郵便局や銀行、遊興施設(芝居小屋・料亭)などが姿を見せ、新たな市街地景観を作りだしていたことがうかがえます。
城下町の南側の防衛ラインとして造られた寺町です。大きな本堂をもつ寺院に無量寿院・興正寺別院・法泉寺などがあります。写真にも寺らしい建物がいくつか見えます。寺町の一番西側の法泉寺の本堂が見えているようです。この寺は生駒家の菩提寺として作られ、広大な境内を持っていたことは以前お話ししました。
また、旭座の遙か向こうに巨木が何本か立ち並んでいるのが分かります。これが現在の中央公園付近にあった浄願寺です。この写真が撮られた明治15年には、境内に香川郡役所と高松中学校が置かれていたようです。
「高松中学校の校舎本館は明治6年に建てられた二階建の擬洋風建築であるが、浄願寺の松林背後にかろうじて二階部分をのぞかせている」
と、研究者は教えてくれるのですが、私の写真ではそこまでは確認できません。しかし、逆に、そこまで映り込ませている写真家の技量は高かったということなのでしょう。
最後に、4枚の写真から見えてくる高松の街並みを見ておきましょう
町家は、本瓦葺・漆喰壁の塗屋造の中二階で、上の下横町に見られるような一階庇の高さを揃えた統一的な景観になっています。初代藩主松平頼重の時に高松城下町を描いた「高松城下図屏風」(慶安・承応頃)には板葺・土壁の平屋の町屋が続いていましたが、250年程の間に、瓦葺き、二階建てに変わってきたことが分かります。
「高松城下図屏風」の町屋は板葺き・平屋
この変化を後押ししたのは、享保三年(1718)の高松大火などの度重なる火災だったと考えられます。防火対策として塗屋造十瓦葺が当局から推奨ないし強制された可能性があるようです。
城内の「東ノ丸」は、不思議な性格を持ちます。
東ノ丸は海側は、堅固に造られています。しかし、写真で見た通り町家と接する東面と南面は、低い石垣上に土塁があるだけです。多聞櫓は乗っていませんでした。これでは中堀を挟んだ北浜の町家からは、内部が丸見えだったはずです。北浜から東ノ丸北半部に入る枡形も形式的なもので、実戦性はありません。つまり、城下に対して「開放的な空間」のようにみえます。どうしてでしょうか?
それは、ここにあった米蔵の運用上のためだったと研究者は考えているようです。
年貢米の集積と上方への輸送のために港(内町港)が使われました。東の丸の作事舎は、資材や労働力の確保のため中堀を挟んだ町人地・北浜界隈との結び付きなくしては運用できなかったようです。そのために、隣接する港や町人地に対して開かれた構造を採らざるを得なかったのでしょう。そのために本来の軍事施設という性格が時代と共に薄れていったと研究者は考えているようです。
最後に4枚の写真から高松の「近代都市」への萌芽を探してみましょう
明治期になって建てられた建造物が集中する地域は、次の3ヶ所でした。
①常盤橋周辺、②内町港口から北浜恵美須神社にかけての地域③東浜港口と八重垣新地、
それらの性格は
①は旧武家地の再開発であり、公共建築(高松郵便局)と商業施設の混在した街並みが形成されていました。武家地と町人地を繋ぐ常盤橋周辺が新たな市街地形成の求心力をもった地域であったことを窺わせてくれました。
②・③は港湾の開発で、
②では海運(汽船)・漁業(魚問屋・魚市場)の拠点、③では新たな遊興地である遊郭が形成
されていました。汽船の寄航地である内町港は、江戸時代以来の港に「田中の波止」が加えられた程度で、ヒルー・ギルマールが乗ってきた大型ヨット(客船)は、沖合に停泊していました。
ここからは、明治15年の段階では、汽船が安全に停泊できる泊地もなかったことがうかがえます。本格的な市街地と港湾の近代化は、第三次香川県が成立し、鉄道網と港湾がセットで整備されていく明治二十年代以降になるようです。
おわりに
香川では、明治十年代の営業が確認できる写真師は1名しかいないようです。明治15年の高松では、写真自体が珍しいものだったのです。香川の写真師が野外で撮影した明治前半の写真は、ほとんど見つかっていないようです。これは、湿板で風景を撮影できる技術を持った写真師が香川にはいなかったためだと研究者は考えているようです。
それに対して、幕末から明治前期にかけて、外国人向けに販売された写真は、数多く見つかっています。しかし、香川県内のものになると少なくなります。あってもほとんどは金刀比羅宮や寒霞渓など名所の写真です。
今回発見された写真は、撮影年月日もはっきりしている上に、細かいところまではっきりと識別できます。これほど鮮明に高松城・城下をとらえたものは、今までにありませんでした。
四枚の写真は、城郭を中心とする江戸時代の姿と、それを突き崩し始めた近代都市としての高松城下の姿が重なって写し込まれていました。
参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年













