ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真―マーケーザ号の日本旅行
 
 1882(M15)年の年の瀬も押し詰まった12月30日の早朝に、見なれぬ英国の大型ヨットが高松港にやって来ました。この船に乗っていたのがケンブリッジ大学医学部を卒業した後に、ヨットでの極東探検を行っていたギルマールー行です。船には、高松城の「撮影」許可のための外務省の係官や横浜で活躍する写真技師も乗せていました。
 ギルマールたちは高松城で写真を撮ると、その日の午後には出港していきます。まさに、高松城を撮るためにやってきたかのようです。それでは、いったい何枚の写真を撮ったでしょうか?

6 高松城 ケン写真2

 4枚です。
桜馬場からの天守閣
桜馬場の太鼓櫓から屋島方面
天守閣からの屋島方面
太鼓櫓から南方面
の4枚だけなのです。それほど湿板写真を撮るのは、手間と労力が必要とされたが分かります。今であれば、スマホで何百枚も撮影したかもしれません。前回は、この4枚の写真の内で①の天守閣を見ました。今回は、残りの3枚を見ていくことにします。

6 高松城 
②桜馬場の太鼓櫓から屋島方面(クリックで拡大します)
  桜の馬場南東の太鼓櫓(現在は同地に艮櫓が移築されている)から屋島の方向(東)を望んで撮影されています。目の前に東下馬、左側に東ノ丸(作事丸)が見え、その背後に下横町・北浜町などの内町、東浜界隈が見えます。
現在の地図で位置を確認しておきましょう。
6 高松城 6

①東下馬は、現在の高松城への東入口である桜門の外側になります。駐車場になっているあたりです。かつてここは登城の際に、その家臣の供が控える所で、「腰掛」がありました。写真にはありません。撤去された後のようです。

6 高松城 ケン写真2拡大1

 堀端に植えられた松の大木は、東下馬の目印として江戸時代の絵図にも描かれていますが、一部は伐採されて石垣石材とともに積み重ねられています。
 東下馬の左側(北)の②中堀には、土橋が架かっています。これが東の丸(作事丸)と繋がる橋ですが、よく見ると、真ん中どころが壊れているようです。作事丸の南東隅には巽櫓がありましたが、櫓台が残るだけです。
③東の丸の櫓台手前の低い石垣上には、土塁があります。もともとは土塁の上に土塀があったようですが、そこには松の大木が何本も茂っています。これは、明治になっての変化ではないように見えます。江戸時代のうちに土塀は、撤去されていたようです。
6 高松城 ケン写真2拡大2
中堀の向こうは下横町・北濱町
 目を転じて、中堀の向こう側の町屋を見てみましょう。
この中堀が現在のフェリー通りになります。中堀の向こう側に見える町屋は④下横町のようです。この町屋について、研究者は次のように、述べています。
①町家は中二階で、軒裏の垂木を塗り込める塗屋造である。
②間口・屋根高にはばらつきがあるが、通りに面した一階庇は高さが揃えられており、統一的な景観がある。
③町家の表構えは店名か屋号を書いた障子戸を伴う開放的な町家と出格子窓が連続する閉鎖的な仕舞屋風の町家がある。
④仕舞屋風町家には、同一棟が均等割りされた長屋形式のものと、間口六同程度の大型建物がある。
  私には詳しくは分かりませんが、写真からは瓦葺きの2階建ての町屋が奇麗に並んでいるのが分かります。
中堀の雁木のある風景
 町家の前の中堀には、緩やかな勾配の石積みが見えます。大型石材の平坦面を揃えて法面として並べて、階段状になっています。⑤「雁木」(荷揚げ場)のようです。ここまで船が入り、荷物の積み下ろしを行っていたようです。雁木の後ろには、⑥材木や薪などが積まれています。この辺りは材木町として発展してきたことを、思い出させてくれます。
 これらの町家の背後に、北浜恵美須神社が見えるといい
「入母屋屋根をもつ拝殿の前面には唐破風の車寄せが突き出し、拝殿背後には一段高く本殿が立ち上がる。拝殿・本殿は、昭和二十年七月の高松空襲で焼失した。」
と研究者は記すのですが私には分かりません。
 
 北浜恵美須神社門前の街路を京(右方向)に進んだところには、東西主軸の長大な建物が見えます。平屋ですが軒は高く、道向かいの町家の棟高ほどもあり、かなり大型の建物のようです。明治28年の市街地図では⑦北浜材木町の魚市場となっています。この辺りは、鮮魚店も多かった所です。
6 高松城6 天守閣の展望pg
写真③ 三ノ丸御殿・東ノ丸・港
 本丸天守から屋島を望んで撮影されています。
手前から三ノ丸、北ノ丸、京ノ丸(米蔵丸)、北浜港界隈、京浜湊界隈が見えます。太鼓楼からの写真②と重なる部分がありますが、海(北)側の高い位置から撮影されているので、城内と港の様子がよくわかります。
三の丸御殿
 天守閣からは、三ノ丸の①御殿(披雲閣)が直下に見えます。写真では、雁行する建物が入り組んで組み合わされているのがよく分かります。
 御殿の正面中央(右側手前)には、式台と広間からなる②「御玄関」と、その背後の「黒書院」があり、これらの儀礼空間が表御殿の中心舞台になります。いずれも屋根は檜皮葺ですが・・・よく見ると檜皮がなくなって垂木と野地板が露わになっていて痛々しい感じがしてきます。
 このほか正面東側には、やや簡素な檜皮葺で本瓦葺の庇がついた「表坊主部屋」「大納戸」や、本瓦葺の「奉行部屋」・「年寄部屋」「大老部屋」などの役所並びます。 まさに権力中枢を構成する建物群です。
 役所の横には、本瓦葺の入母屋屋根に煙出しが付いた建物が異彩を放っています。これが③「御台所」で、その後に檜皮葺の「御料理間」があります。これら表御殿の背後に、中・奥御殿の殿舎が並びます。いわゆる殿様のプライベート空間にを構成する建物群で、平屋建の数寄屋なども見えます。
 全体としては屋根の傷みが目立ちます。玄関や役所・台所の出入口付近には、草が繁茂しています。建物としては、陸軍管理下でも使われずに放置されたままであったような感じがします。
6 高松城 ケン写真2拡大3
北の丸・東の丸 
 三ノ丸御殿の左後方に④北ノ丸が見えます。城外方向の東面と北面には石垣上に漆喰塗りの多聞櫓が巡らされ、その北東隅に鹿櫓が建ちます。また東ノ丸に接したところには、櫓門があります。
 東ノ丸は、海に接した北面だけ漆喰塗りの多聞櫓があり、北東隅に建つ艮櫓と北ノ丸との間を繋ぐ役割を果たしています。幕末の絵図では、艮櫓から南(右)側には土塁上に土塀があり、これが写真②に写された巽櫓へと延びていたと云います。しかし写真③では、写真②と同じ様に、石垣上の土塁上には土塀はなく、松の大木が生い茂っています。
内町港周辺
 更に遠くの場外を見ていきます。艮櫓北(左)側の海域には、内町港から延びる二本の波止が見えます。手前側は江戸時代からある波止です。奥側の小船が繋がれた波止は、旧藩士の田中庄八が明治13年に作った「田中の波止」(一文字波止)だそうです。田中は、高松に汽船を寄航させるために、私費を投じて全長136mの波止を造ったようです。 
写真の一番右手奥が八重垣新地で、そこに長大な建物が見えます。いったい何なのでしょうか?
研究者は、この1枚の写真から、つぎのような情報を読み取ります。
①周囲の波止との間に、柵らしいものがあり、港との間を隔てている。
②二階の階高が高く、板戸ないし格子戸を伴う部屋が並んでいるように見える。
③入母屋屋根の軒が長く伸び、戸の前は廊下(濡れ縁)になっている
④廊下沿いに座敷が並ぶような間取りである。
以上から、八重垣新地に立地するということから考えて、明治7年以降に建てられた遊興施設の可能性を指摘します。さらに長大な建物の南(右)側には、二階の高い和風建築(間口五同程度)が東西に軒を連ねます。窓の配置から、同じ規模の部屋が並列しているように見えることを加えて、遊郭の可能性を指摘します。明治当初に、ここにはおおきな遊郭があったようです。
 港周辺の船は、櫓を漕ぐ小舟が圧倒的に多いようで、帆船は港の沖合に二隻見られるだけです。このうちの一隻が、ギルマールのヨットのようです。
以上、天守閣と太鼓楼から当方の屋島方面をみた写真を「読み」ました。年の瀬の12月30日に高松城内で4枚の写真は日本人の写真技師臼井によって撮られたようです。そこからは140年前の高松城周辺の様々な情報が読み取れるようです。
参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年