瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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野原・高松・屋島復元地形図

中世の高松周辺の海岸線です。屋島は島で、現在の高松城のある野原の地との間には、「古・高松湾」があったと研究者は考えているようです。イラストで見ると、こんな風になるようです。
野原・高松・屋島復元図

以前に高松城の西側の宮脇町のことは見ました。今回は高松城の東浜(東側のエリア)の変化を見ていきたいとおもいます。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です
高松城 周辺地理図

この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」は、江戸初期の高松城の東の地形について、次のように記します。
東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟坂田中河原迄潮先来ル也。
意訳変換しておくと
東浜は④野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。

「野方口迄潮サシ込」は、上図④の「ノカタ(野方)ロ」の付近のことのようです。確かに絵図でも、野方口から東は海岸です。南海通記と絵図は一致します。「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の「高松ヨリハ嶋(屋島)ヘー里半、塩浜一里」の説明文とも合います。
「南海通記」の「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」と思われる道が、上図では④の「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。
高松野原 中世海岸線

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。
真言宗の念仏僧侶で梵語に造詣の深かった僧澄禅の四国巡礼記録です。ここには、一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が次のように記されています。
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
 ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。
高松天正年間復元図1

野方口とは、干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。
この遠干潟の部分が近世になると、新田干拓されていきます。

古高松湾は、どのようにして現在の姿になったのでしょうか。
高松城周辺 正保絵図

上図は国立公文書館版「正保国絵図」の古・高松湾の沿岸部です。
木太村の海側に①富岡村 ②夷村 ③春日村が新たに姿を現しています。この夷・富岡村については、生駒期の史料に次のように記されています。
寛永一六年(1629)二月讃州御国中村切高惣帳。
新田
一、高三六拾七石壱斗            富岡蔵入惣所
一、高三百五拾九石弐斗式升七合  夷村蔵入惣所
寛永一七年二月一五日生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳、
一、高三百六拾七石壱斗          富岡新田
一、高三百五拾九石弐斗弐升七合  夷村新田

生駒騒動の結果、生駒家から讃岐一国を没収されたのは、寛永17(1630)年7月のことです。この記事は、その直前のものになります。寛永16年以前に、夷・富岡の地で、新田開発が行われ、その後に造られた「正保国絵図」に、村として記載されたようです。この新田開発については、高松藩校講道館教授の菊池武賢が著した地誌『翁姐夜話』(延享二年(1745)に完成)に、西島八兵衛の評伝として次のように記しています。
寛永五年脩シ満濃池ヲ、築三谷池ヲ、十二年為陣内池ヲ。十四年築テ堤ヲ障サヘ海水ヲ、為田卜。福岡・木太ノ滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名、是レ也。今並二為ル熟田卜。民大二頼(カウムル)其利ヲ。到マテ干今二称ス之,

意訳変換しておくと
寛永5(1628)年に満濃池を再築し、三谷池を築造する。寛永12(1635)年には陣内池、14年には堤防を築いて海水をせき止め、水田干拓を行った。福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名がこれである。今は美田となっていて、民はその恩恵を受けており、今になるまで西嶋八兵衛を賞する。

同書の松浦正一所蔵本には、続けて次のように追加文章があります。
謂木太春日新開也。下往還大路、自此時始。
半以西属東浜、半以東属木太。其境有溝、架石小橋。
木太・春日新開は、この時に拓かれた。下往還大路も、この時につけられた。この西半分は東浜に属し、東半分は木太に属す。其境には溝があり、小さな石橋が架けられている。

ここからは、伊勢の藤堂藩から生駒家に家老級の扱いでレンタルされていた西鳩八兵衛が、寛永14年に、福岡村から木太村を経て春日村富岡にいたる間の新田開発を行ったことが分かります。これが後に木太・春日新開と呼ばれるようになります。
宝永地震における高松藩の被害状況

その範囲については、「英公外記」(明治15年完成)の寛文七年(1667))条に、次のように記されています。
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松鳩木太春日の潟新開成る。下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛か築し所なり。

ここには、西嶋八兵衛が拓いた木太・春日新開のさらに海側を、寛文七年に新田開発したと記します。
この「下往還」より南手の新開とは、どこにあたるのでしょうか?
「下往還」とは、下大道、東下道とも呼ばれた高松藩五街道の一つ志度街道のことだと研究者は指摘します。下大道については、慶応三年(1867)成立の石田忠恒著「政要録」に「讃岐大日記に慶安元子年山田郡下大道を作る」という記事が見えます。この道はもともと干拓に伴って築造された汐止堤防で、それを改修して慶安元年(1648)に街道として整備されたようです。それまでは、姿のなかった街道なので、絵図に登場することはありませんでした。

天保国図 高松東部
下往還について、上図の「天保国絵図 讃岐国」で見てみましょう。
先ほど見た【図6】のふたつの絵図では、福岡村・夷村・富岡村に海岸線がありました。それがこの天保絵図では、そのさらに海側に、高松城のそばの東濱村から古高松村向けてほぼ直線の道が赤く記されています。ここからは、西嶋八兵術が寛永一四年に新田を開発したのは、この赤く記された道よりも南側の地域であることが分かります。
また、【図6】の「正保国絵図」と天保国絵図を比べると、川の流れが大きく変化しています。

高松春日川付け替え工事 
絵図に描かれた河川は、西から順に、香東川の(後の御坊川)、詰田川、春日川、新川です。それが【図6】の「正保国絵図」では、春日川と新川が夷・富岡両村の間で合流し、河口部では一つになって描かれていました。ところが、天保国絵図では、二つの川は分離して、別の河川として描かれています。ここからは「正保国絵図」が造られた後に、大規模な河川改修が行われたことがうかがえます。

下の【図8】は、「高松平野地形分類図」に「正保国絵図」に見える村々を書き込んだものです。
   1
ここでは旧河道が黒く描かれています。それを見ると、新川・春日川は河口部の三角州帯では、のたうつ大蛇ののように幾筋にも分かれて、蛇行していたことが分かります。これらの旧河道の痕跡は、今でも残っているようです。
 これについて『讃岐のため池誌」は、次のように述べています。
新川は現在では高松市春日町の河日で、春日川から分岐しているが、新川のほぼ中流部で久米池の西側にあたる高松市東山崎町中免には、かつて新川がこの附近で真直ぐ、春日川に流れこんでいた痕跡跡が明瞭に残っている。おそらくこの地点で春日川と新川を合流させたのでは、そのあとの洪水量が大きくなりすぎて、その制御が難しいところから、新川を春日川から分離し真北へ新しく付け替えることによって洪水を三分し安全に海に導くことができると考え、新たに新川を開さくしたものと思われる。

ここには、次のようなことが指摘されています。
①新川と春日川が合流していたこと、
②洪水防止のために河道を三分離したこと
③そのために新たに付け加えられた放水路が「新川」であること
④その時期については、何も触れていない。

さらに「英公外記」には、寛文七年(1667)のこととして、次のように記されています。
「此年松嶋すべり之沖より 潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松嶋木太春日の潟新開成る」

ここからは松平頼重の治政下に、松嶋から滑(洲端)の沖を経て屋島の潟元までの潟の新開が行われたことが記されます。これは先ほど見た下往還より海側のエリアになります。この新田開発は木太・春日新開からさらに沖へ向かって突き出すかたちでなされました。
三十幸太郎著の「近讐要録」には、西嶋八兵衛の項に次の記事が記されています。
高松盛衰記二云フ英公ノ初年二矢野部平六卜謂フ入アリ是亦経済家ニテ開拓整溝ノ事ヲ掌ル 頻二海面ヲ埋メテ田畑ヲ増加セリ 西島氏津二在テ此事ヲ聞テ曰く 吾新田ノコトヲ気付カサルニ非サルモ海面ニ向ッテ広ク新地ヲ築出ストキハ河水ノ下流漸々洪塞シテ水患ヲ引起スコト多カラン 永遠ノ后ハ得失相償ハサルモノアラント味ヒアル言ナリ

意訳変換しておくと
高松盛衰記には、次のように伝える。英公(松平頼重)の初年の頃に、「経済家」の矢野部平六が開拓整備の実権を握り、海面を埋めたて田畑を増やした。これを津に引退していた西嶋八兵衛が聞いて次のように云ったという。
 私もこの新田開発のことは考えたこともあった。しかし、海面に向って広く新地を築いて突き出すと、河水は下流で滞留して、水害を引起すことが多くなる。長い目で見ると損得は、相半ばすると考えて実施しなかったと述べたという。

生駒騒動の前に、念願叶って伊勢国津の藤堂家へ帰っていた西嶋八兵衛の言葉です。頼重期に行われた矢野部(矢延)平六による新田開発の手法について危惧したことが記されています。それは、海面に向かって広く新地を築き出すと、川の下流は次第に「瀞塞」して、水害を引き起こすことが多いと指摘しています。
高松地質図

 この弊害を解消するために取られた手段が干拓地へ流入する河川の改修だったと研究者は考えているようです。【図8】から見てとれるように、新川・春日川・詰田川の河道は、三角州帯においてほとんど直線的です。この改修のねらいは、蛇行していた河道の直線化することで、川の流れを早め、河口付近における砂や泥の堆積を防ぐことを目的としたのでしょう。
 松平頼重の時代には、新田開発の画期でもありました。万治・寛文年間(1658―73)には、高松城下の西部で香東川と本津川の分離が行われ、二つの川は別の河口を持つことになります。高松の東西において、同じころ同じ手法で新田開発が行われていたと研究者は推測します。
高松地図明治14年
明治14年の高松城
 さらに、前回見たように丸亀平野でも、満濃池の築造と、その用水路整備のための金倉川の流路変更、さらに変更後の河口域での新田開発とがセットでおこなわれていました。治水のための流路変更や、灌漑のためのため池建設、用水路整備は、単独では成立しないものであったことが改めて分かります。
   以上をまとめておくと
①中世は海が屋島と野原の間に入り込んで、組んで「古高松湾」があった。
②そのため海岸線は、福岡村・夷村・富岡村にあり、街道もこの海岸線沿いを通っていた。
③寛永14(1637)年に、西嶋八兵衛が堤防を築いて、神田干拓を行った。
④それが福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村である
⑤松平頼重の時代に矢延平六が、海面に向かって広く新地を築き出す形で新田開発を行った。
⑥そのため河川の水害が危惧されることになり、対策として川を分離した上で、新たに新川を開削した。
⑦その際に流速を早くするために直線的な川筋が引かれた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)
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        中世の高松は、「野原」とよばれる村でした。

HPTIMAGE高松

中世の「野原」が今と違うのは第1に香東川の流れです。今は香東川は岩瀬尾山の西を流れていますが、近世に西島ハ兵衛によって高松を洪水から守るために流路変更工事が行われるまでは、石清尾山塊を挟んで分流して、現在の高松市内には香東川の一方の流路が複数に分かれて瀬戸内海に注いでいました。二本の河川に囲まれた河口デルタの島が「八輪島」 と呼ばれた「野原」村でした。
野原にあったとされる集落を挙げてみると
①「八輪島」の北側の海に面した所に「野原なかくろ里」(野原中黒里)、
②その南西に「野原てんまの里」(野原天満里)、
③その南に「野原中ノ村」(野原中村)があり、
④川を隔てた西側の海岸部には、「野原はまの分」(野原)と「にしはま」(野原西浜)とがありました。
高松野原復元図
まずは、現在の高松城周辺にあった「野原なかくろ里」を見てみましょう。
 ここには、真言宗の古刹無量寿院があり、複数の末寺や塔頭を持っていたとされてきましたが、高松城発掘調査の歳に、この寺の刻印がある瓦が出てきました。その結果、無量寿院の存在が確認されると同時に、場所も二の丸跡付近に建っていたことが分かりました。このお寺は、中世野原のシンボル的な寺院だったようです。また、高松城跡東側からは中世の港湾施設(荷揚場)も出てきているので、「野原なかくろ」が港町でもあったことは間違いないようです。

高松市地形図 旧流域入り
 野原天満里は、 香川県庁南方の中野天満神社周辺と考えられています。
前回に続いて「一円日記」を見てみましょう。この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったときに、返礼品として「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには野原郷を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えばこの野原天満里には、その中に「さたのふ殿」「すゑのふ殿」の名前が見えます。このうち「さたのふ殿」は、初穂料として米五斗を御師に渡し、土産として帯・扇・斑斗一把・大麻祓が配られています。また、その一族「左衛門五郎殿」と「宗太郎殿」も標準以上の初穂料を出し、多くの土産を配られています。このお土産の多さは、一般の信者との「格差」を感じます。ただの信者ではなく、香西郡を本領とする有力国人香西氏(勝賀城が主城)の家臣と研究者は考えているようです。つまり、ここには香西氏の臣下団が住んでいたということになります。
DSC03863高松 旧郷東川
 野原中村は「八輪島」最大の集落で、現在の栗林町周辺にありました。
「一円日記」には「時久殿」「やす原殿」の二人の信者と、「宮ノほうせん坊」など五力坊の寺庵が記されています。「宮ノほうせん坊」=法泉坊は現在の玉泉寺の前身となる寺院であり、脇ノ坊とともに「宮ノ」を頭に付けていることから石清尾八幡宮の供僧のような存在と考えられるようです。
 他の信者を見ると、
時久・安原氏のほか、
「さいか宗左衛門殿」の雑賀氏、
「さとう五郎兵衛」ら佐藤氏一族五人、
香西氏の庶流で冠綴神社の神官の先祖「ともやす殿」、
「せうけ四郎衛門殿」ら「せうけ」氏二人、
「よしもち宗兵衛殿」ら「よしもち」氏二人、
「時里殿」、「有岡源介殿」、「なりゑた殿」、「くす川孫太夫殿」
ら姓持ちで武士と見られる者がほとんどです。このうち雑賀・佐藤氏は香西氏の城持ち家臣として「南海通記」にも登場します。その中でも雑賀宗左衛門・佐藤五郎兵衛・同左衛門尉は初穂料が多く、配られ伊勢土産も飛び抜けて多いようです。土産の量と初穂料と地位は相関関係にあるのです。ここに名前がある人たちは、おそらくは香西氏の家臣団の一角を占めていた人々で、野原中村はその居住区になっていたことがうかがえます。ここから野原中村が野原中黒里とともに「八輪島」の中核集落であったことはまず間違いないと、研究者は考えます。
野原・高松・屋島復元図
 
 また、野原中村は、その西南に香西氏の拠点勝賀城の支城室山城がありました。
そのことを考えるなら野原中村が室山城の城下集落として形成されたところかもしれません。室山の南にある「さかたのといの里」も、そうでしょう。おそらく香西氏は、この室山城とその城下に住む家臣団を通じて、河口にあるなかぐろ集落の港湾掌握を行っていたとも考えられます。中村集落が二筋の河川に囲まれて海に近いところから見て、川湊を通じて海と一体的な関係をにあった可能性があります。
 以上の二本の河川に囲まれた「八輪島」にある集落に対して、海岸部に並ぶ野原浜・野原西浜はかなり様相が違っていたようです。
 発掘調査で明らかになった浜ノ町遺跡が地区の一角にあり、13世紀末以降、町屋や複数の寺院を持つ特別の海浜集落として発展していたことが分かっています。野原浜の西の野原西浜にも、15世紀初頭には「野原西浜極楽寺」があったことが史料からも分かります。(大報恩寺蔵「北野経王堂一切経」)。
 また発掘調査によって大量の土錘が出土し、畿内産の良質の砥石や土器・瓦器・瓦質土器、吉備産の陶器・土器等が多く出土しています。ここから大規模な漁業を営む海浜集落であると同時に、「瀬戸内海を介して高松平野外と平野内陸部を結ぶ、物資の流通拠点」であり、中世港町と評価できる海浜集落であると研究者は考えています。

DSC03842兵庫入船の港

 中世の野原郷にあった集落について、まとめておきましょう
①無量寿院を核とした寺院群と商人宿・船宿を営む武装有力商人らからなる港町=野原中黒里、
②汝魚川(拙鉢谷川)河口を挟んでその西に広がる野原浜・野原西浜という二つの部分からなる港町、
③室山城の城下集落としての性格を持つ野原中村(川湊を伴っていた可能性が高い)
④それとの密接な関係が予想される野原天満里、という構成を取っていたことになる。
このように、性格の違う4つの集落が集まって出来ていたのが「幻の港町」=中世の野原集落の実態のようです。
   
DSC03601
生駒氏は高松城を、何もない海浜に築造したのか?
 かつて武蔵の江戸は一面の蘆の原であったが、徳川家康によって城下町建設が進められ、現在の東京の基礎が作られたと云われてきました。同じように、東北の仙台も伊達政宗以前は何もないところであったとされ、土佐の高知も山内一豊によって造られたとされてきたのです。そして、生駒氏以前の高松も似通ったイメージで捉えられてきました。
 しかし現在では、江戸は中世から東京湾岸屈指の都市であったことが明らかにされ、仙台も伊達氏以前の留守氏時代から東北中部の拠点の一つであったことが知られるようになり、高知にしても長宗我部氏時代に基礎が築かれたことが分かってきました。そして、高松も「野原」という讃岐有数の中世港湾の上に築かれてきたことがようやく明らかになってきたようです。
高松城江戸時代初期

参考文献  市村高男 中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
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古代、現在の高松市中心街の多くは海の中でした。
野原・高松・屋島復元図

そのためこのエリアの中心地域は、屋島周辺の古高松にあったようです。今の地形からは想像できませんがかつて屋烏は島であり、現木太町周辺も海だったようです。その景観は、近世の干拓や塩田造成で一変し現在のような形になりますす。
最初に屋島周辺の古高松・方本の歴史を考えて見ることにします。
高松・屋島地形図明治30年
その際に、私たちが持つ現在の高松の地形から離れるために、次のようなイメージトレーニング行いましょう。
①高松城跡がある地点と庵治岬の突端部と結ぶと、そこから大きく湾入した入江があります。これを「古・高松湾」と呼ぶことにします。
②高松湾の人口にあたる幅は約四㎞、奥行きは2㎞前後で、讃岐の湾では群を抜く規模になります
③「古・高松湾」の湾内に流れ込む新川・谷日川・御坊川などの河川は、舟運によって内陸部との物資の往来を可能にしていました。
④屋島はそこに浮かぶ島でした。
DSC03820

海のハイウエー瀬戸内海 直島から女木島へ そして屋島へ
 古代以来、九州から畿内への瀬戸内海航路が拓かれます。 古・高松湾の沖の女木島・男木島・直烏といった島々は、四国北岸の古・高松湾へのターミナル・アイランドの役割を果たしてきました。それを、裏付けるのが、女木島の女木丸山古墳から出てきた朝鮮半島製の耳飾です。
女木島丸山古墳 垂飾付イヤリング 朝鮮製
ここからは、この島を拠点にした人物が、国外にまで活動範囲を広げた姿がうかがえます。また、これらのモノの動きの背景には、それを運んだ人の動きがあったことを思い起こさせます。
004m女木島

白村江敗北という危機的状況下の国防政策として古代山城が屋島に築かれます。さらに、瀬戸内海を支配した平氏は、この周辺に水軍拠点を置いていたようです。それが源平の戦に際して、平氏がここで「壇ノ浦の戦い」を戦う背景になのでしょう。どちらにしても、古高松は、古代以来重要な地域であったようです。          
 次に、中世の古高松を復元してみましょう
 高松里は古代は山田郡高松郷と呼ばれ、山田郡の中心的な集落でした。源平の屋島合戦のときに、源義経がこの地の民家を焼き払ったのも、平氏の拠点への先制攻撃の意味があったのかも知れません。
DSC03838高松周辺の古代郡名

中世古高松 高松氏と喜岡城
 JR屋島駅の南東の小高い丘の上に、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。ここには高松頼重(舟木氏)の居城でした。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきた東国出身の御家人で、建武の新政の勲功により讃岐守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗るようになります。つまり、その時点ではここが讃岐の守護所で県庁所在地であったと言えます。
 これに対して、足利尊氏の勝利に呼応して、讃岐で蜂起するのが細川定禅です。彼は香西・詫間・三木・寒川氏らの讃岐武士を率いて香西郡鷺田(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵し、この城に攻め寄せます。高松頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしますが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。1336年(建武三年)のことです。ちなみに戦前の皇国史観の下では、高松氏は南軍に属したということで、忠臣の武将として郷土の英雄とされ、知らない人はいないほど有名だったいいます。
それから約250年後、この城は再び歴史の舞台に登場します。
豊臣秀吉は四国平定のために、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのがこの喜岡城でした。
 このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正、片山志摩以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員討死にします。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。その舞台が、この丘でした。
 つまり、中世・戦国時代を通じて古高松地区は喜岡城を拠点とする領主の支配するテリトリーだったと言えます。

HPTIMAGE高松

中世の港町・方本(かたもと)とは、どんな町だったのでしょうか。
文安二年(1445)の「兵庫入船納帳」に讃岐屈指の港町として「方本(潟元かたもと)」が登場ます。
兵庫北関2
「兵庫入船納帳」に出てくる讃岐の港と、通過船の大きさをその数を表にしたものです。通過船が多いのは宇多津・塩飽です。潟元は真ん中どころにあります。方本を母港とする舟で兵庫北関を通った11艘であったことが分かります。数としては多くないのですが船の大きさに注目すると、大型船が多いようです。
 なぜ小型船がなく大型船ばかりなのでしょうか?
それは、六艘の所属が五艘は十河氏、一艘が安富氏で「国料船」のようです。国料船とは、守護細川氏の御用船の名目で課税免除の特権をもっている船のことです。ここからは方本が、守護代安富氏や有力国人十河氏と、深い関係を持っていたことがうかがえます。
 次の表は、讃岐の船の積荷を港毎に表した表です。
方本の船が積んでいたのは何でしょうか。縦欄が積荷、横が港名で方本は真ん中付近にあります。

3 兵庫 
ここから分かるのは、方本船籍の大型船の積荷は90%以上が塩であったようです。古代以来の塩の荘園が、この周辺には有りそれが発展して塩田地帯を形成していたようです。その塩を都へ運ぶ専用の塩運搬船団がここにはいたようです。

DSC03859

もうひとつ「一円日記」という史料が近年、明らかになりました。
この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったとき、その代わりに「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには方本を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えば方本では「かた本ノ里」に八島(屋島)寺や「源介殿」以下九人の住人が記され、「にしかたもと」には「すかの太郎大夫殿」ら八人の住人の名が記載されています。面白いのは、初穂料代を何で納めたかが記録されています。この時代の多くが米などの現物なのですが、方本・西方本のほとんどの住人は初穂料を銀銭で納めているのです。ここからは方本・西方本の住人が製塩・漁労・海運・流通等の多角的経営によって銭貨を蓄積し、積極的に使用していたことがうかがえます。これは庵治や志度寺の門前町兼港町である志度も、ほとんどが銀納なので流通・交通などに関わりを持った集落に共通する傾向のようです。

 さらに、注目されるのは「兵庫入船納帳」で文安2年3月9日に安富氏の「国料船」の船頭として記録されている「成葉(なりわ)」が、120年後の「一円日記」の「かた本ノ里」住人の「なりわ殿」て登場してくるのです。同じ方本の住人で、発音上共通の名字または屋号を持っているので、「なりわ殿」が「成葉」の末裔と考えられます。
 この方本・西方本が近世でも大きな港町の一つであったことも併せて考えると、中世・戦国時代を通じて海運に関わる船頭・廻船問屋が多く存在したことは、当然かもしれません。また、伊勢御師の岡田大夫は「かた本ノ里」の源介宅を、高松・方本地域の活動拠点である「やと」にしていたようです。そこからも、この地の経済的・流通的・情報面における重要性がうかがえます。
 次に庵治(阿治)を見ておきましょう。
DSC03858庵治
 庵治岬の先端に位置する庵治は、古代山田郡の郷名には存在しません。
しかし至徳二年(1385)の満願寺大艘若経奥書(願流寺蔵)に登場することや、満願寺の存在からみて、一四世紀以前に成立していたことは間違いないようです。
 「兵庫入船納帳」には、兵庫北関を通関した10隻の庵治船籍の船が記録されています。そのうちの四隻が十河氏の「国料船」であり、この港湾も方本と同じく十河氏の影響下に置かれていたようです。
 「一円日記」には、「川渕三郎太郎殿」以下21人の住人が書き留められ、彼らのほとんどが銭貨で初穂料を納めています。そのなかには岡田大夫が「やと」とした川渕氏のほか、「ぬか殿」「こも渕久助殿」「こも渕又八郎殿」「あち左近殿」「浦殿」ら、普通の人とは違う者がいたようです。このうち「浦殿」の先祖と思える「浦」が、「入船納帳」の中に十河氏の「国料船」の船頭として記されています。ここからも浦氏などの多くが海運・流通などに関わる有力者であったことがうかがえます。
 また、「国料船」の船頭として記されている「兵庫」は、庵治浜の奥に残る「兵庫畑」という地名との関係から、船頭あるいは問丸として営業する傍ら、土地の買得や開発に関わっていたことが推測できます。

 以上、中世の古高松・方本・庵治についてまとめておくと、
①古高松は高松氏の城館を中心とした集落と内陸部の商業・流通的性格を持つ集落の複合体
②方本と庵治は船頭・問丸などを中心に海運・流通・製塩・漁労等に関わる人々が居住した海浜集落(港町)
③方本・庵治が東讃岐屈指の国人領主である十河氏の影響下に置かれていた
④兵庫北関に向かった船船のほぼ半数が十河氏の「国料船」となっていた
方本・庵治が、十河氏によって強く支配されていたのでしょうか?
これに対しての研究者の答えはNOです。
その理由は、残り半数の船は、船頭や問丸の裁量で塩や穀類の輸送を行っているからです。
例えば、安富氏の「国料船」の船頭を務めた成葉が、その一方で方本塩460石、大麦・小麦各10石を積載した船の船頭として活動しています。「国料船」は、十河氏が自分の郡内の港町の船をチャーターし、畿内で販売する塩や年貢類を積載・輸送させていた可能性が高く、そこに船頭や船主たちの私的商品が合わせて積み込まれていたとも考えられるからです。畿内における当時の領主と港町の関係などからも、領主の一方的な支配の強制が貫徹できていたとは考えにくいようです。
 しかし方本・庵治は、十河氏や安富氏と結んで発展する道を選んだようです。
そして進んで彼らの「国料船」の担い手となった可能性が高いと研究者はいいます。方本・庵治船のほぼ半数が「国料船」であった事実は、ふたつの港側に十河・安富氏の要請を受けいれる動きがあったことをしめしています。そうでなければ半分が「国料船に指定」される状態にはならないでしょう。方本・庵治は、それによって瀬戸内海海運において有利な条件を獲得しようとしたのではないでしょうか。
隣接するライバルの野原船(現高松周辺)と比較してみましょう
野原船が方本の塩を大量に積載しつつも、その一方で大麦・小麦・米・大豆など高松平野で生産された農産物や、近場の瀬戸内海産と見られる赤イワシを大量に輸送していました。一方の庵治や方本もの地場産の塩を大量に積載しする「塩専用運搬船」のような性格でした。つまり、現在でも同じですが積荷がモノカルチャー的で、多様化ができていないので「危機」には弱いとことになります。
DSC03842兵庫入船の港
 これは方本・庵治の立地の問題に加えて、この両港が背後に抱え持つ生産地の狭小さと集荷力の弱さでもありました。つまり、港湾としての存在基盤が不安定だったのです。そこで、有力領主と連携し、有利な条件を獲得しようとする対応策がとられたのでしょう。
野原・高松復元図カラー
 これに対して野原(現高松)は、郷東川沿いに広がる高松平野を後背地にして、河川水運により200石を越える大麦・小麦・米・豆の集荷・積載が可能となる港でした。また、積載品のなかで方本の塩に次いで多い赤イワシ510石があります。これは秋に高松沖から塩飽付近で捕獲・加工されたもので、漁場や加工場も後背地として持っていたようです。その意味で、野原(現高松)は、積載品が多様化しており、方本よりも港湾として安定した基盤を持っていたと言えます。
DSC03834
 さらに港湾をめぐる自然環境が野原湊と方本湊の明暗を分けることになります。
高松と屋島との間は、すでに屋島の合戦当時から
「潮の干て候時は、陸と島の間は馬の腹もつかり候はず」(「平家物語」)
という状態で、干潮時には馬は歩いて渡れたようです。その後も海岸線は、河川による堆積など埋まっていきます。その結果、高松の港湾機能はかなり早くから低下し、方本も比較的早い段階で西方本に中心を移していたようです。
こうして、15世紀後半~16世紀になる野原(現高松)エリアの方本・古高松エリアに対する優位性が明らかになり、次のような変化が現れます。
①無量寿院や勝法寺を始め多くの寺院が野原へ移転してくる
②野原中ノ村の香西氏の家臣の雑賀氏や佐藤氏一族が紀州雑賀から移住してくる
③文安二年に庵治の船頭として見える「安原」一族の子孫「やす原殿」が野原中ノ村に移住
④他所から永禄八年当時の野原に他国・転入したと見られる人々が散見される。
こうして、一五世紀後半以降、古・高松湾にあった方本・古高松と野原の二つの中心港がが、しだいに野原へむかって収斂していくのです。
16世紀末、豊臣配下の生駒親正は野原に築城し「高松」へ地名変更します。
其の結果、それまでの高松が古高松となります。これは中世を通じて古・高松湾の中で展開された二つの中心地の歴史の帰結だったと研修者はいいます。その意味で、近世高松城とその城下町が、古高松でなく野原に姿を現すのは、このような二つの地域での綱引きの結果だとも言えるのかも知れません。
高松城江戸時代初期

参考文献
市村高男  中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
 


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