瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高松市寺町


高松屏風図3
    
  今回は「高松城下図屏風」の中の寺町を見ていきたいと思います。
外堀南側から真っ直ぐに南に伸びる丸亀町通りからは東西に、いくつかの町筋が伸びています。西側には、兵庫町,古新町,磨屋(ときや)町,紺屋(こうや)町が見えます。一方東側には、かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。城下町は南に向かって伸びていたことが屏風図から分かります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』には、南の端に三番丁が描かれています。その頃の高松城下町は、法泉寺の南の筋あたりが城下町の南端でした。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には次のように記します。

御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

ここからは次のようなことが分かります。
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
と記されています。三番丁あたりまでだった街並みが、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が開けたようです。
高松城下図屏風 寺町
 外堀の西南コーナーの「斜めの道」を南に進みます。この道は丸亀町通りと並行して南に伸びる「3本目」の道なので仮に「3本目」道と呼んでおきます。この道を南に行くと、その先に緑の垣根に囲まれた区画が見えてきます。ここが三番丁の寺町エリアのようです。拡大してみ見ましょう。
高松寺町3
寺町の一番西が法泉寺で、そこから東にお寺が東に向けて建ち並びます。その南が東福寺です。四番丁小学校は大本寺の跡に建っています。さらにその南の市役所は浄願寺跡だったところになるようです。
寺町の寺院群を江戸末期の絵図で見てみましょう。
1高松 寺町2
おきな本堂と伽藍、広い境内を持った寺院群が並んでいます。
高松城下図屏風では西から宝泉寺・行徳院、地蔵寺、正覚寺・
その南に東福寺・大本寺などが建ち並び南方の防備ラインを形成します。
1高松寺町1
さらに東には、徳成寺・善昌寺・本典寺・妙朝寺の4寺が並びます。この寺の並びの南側が寺町、その東側は加治屋町と記されています。この絵図では、方角や位置が分かりません。そんな時は明治の地図と比べてみると、見えてくるときがあります。
  「明治28年高松市街明細全圖」で寺町を見てみましょう
高松市街明細全圖明治28年
地図をクリックすると拡大します
日清戦争が終わった年に作られた市街図からは、次のようなことが分かります
①高松城の外堀は、まだ健在
②丸亀通り北の常盤橋を渡った突き当たりが県庁だった。隣は今と同じ裁判所。
紺屋町と三番丁の間に寺町は形成されていた。
④明治になっても街並みや道路に大きな変化はない。
⑤寺町の一番西の法泉寺の境内が飛び抜けて広い。ここに山田郡の郡役所が置かれ、マッチ製造所も見える。
大本寺の元境内に4番丁小学校ができている。
⑦地図上の南西角に高等女学校(現在の高松高校)
⑧現在の中央公園は浄願寺の境内であった
⑧丸亀町通りの東側にも寺町があった。その南が古馬場町である。
それから約30年後の大正12年の高松市街図です。
高松市街地図 大正
①法泉寺前を通る赤い実線は路面電車の線路。停留所「法泉寺前」が設置された
②寺町の各寺院境内の北側が一律に狭くなっている。(原因不明)
③四番丁小学校の南の浄願寺に市役所ができた
④市役所の南の浄願寺境内に高等小学校が出来た。現在の中央公園
⑤市役所の東の北亀井町の「尚武会」は意味不明
寺町のお寺の中でも最も広い境内を持つのが宝泉寺でした。
高松宝泉寺 お釈迦

このお寺は、弘憲寺と共に生駒家の菩提寺で、宇多津から高松城築城時にここに移されます。二代目一正と三代目正俊の墓所となり、寺名も三代目正俊の戒名である法泉に改められます。しかし当時は、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んでいたようです。
高松宝泉寺鐘
生駒氏の菩提寺であることを物語るもののひとつに鐘があります
文禄の役(西暦1592年)に朝鮮に出陣した時、陣鐘として持参し、帰国後、この寺に寄進したと伝えられるものです。
 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』には、この鐘について次のように紹介されています。
この銅鐘は、総高87センチ、口径53センチ、厚さ5.5センチ、乳(ちち)は4段4列の小振りの銅鐘である。もと備前国金岡庄(岡山県岡山市西大寺)窪八幡にあったもので、次の銘が刻まれている。
「鎌倉時代の元徳(げんとく)2年(西暦1330年)の青陽すなわち正月に、神主藤井弘清と沙弥尼道証の子孫が願主となり、吉岡庄(金岡庄の北方)の庄園の管理人である政所が合力し、諸方十方の庶民が檀那(だんな)となって銅類物をそえ、大工(鋳物師)宗連(むねつら)以下がこれを鋳た」

 生駒氏は讃岐にやって来る前は、播磨赤穂領主で備前での戦いにも参加していました。その時の「戦利品」を陣鐘として使っていたのかもしれません。「天下泰平」の時代がやって来て、菩提寺に寄進したのでしょう。どちらにしてもこの寺は、生駒氏からさまざまな保護を受けていたようです。それは、明治には山田郡の郡役所も設置されるほどの広大な境内を持っていたことが地図からも分かります。
4343291-05宝泉寺
宝泉寺(大きな松で有名だった)
日露戦争後には香川県出身将兵の忠魂碑として釈迦像が建立され「法泉寺のおしゃかさん」として市民にも親しまれていました。
当時の地図には境内に「釈迦尊像」と記されています。また、第一次世界大戦中の1917年(大正6年)5月20日に開通した路面電車がこの寺の前を通り、停留所「法泉寺前」も設置されています。
 このお寺に大きな試練が訪れるのは第2次世界大戦末期です。1945年(昭和20年)7月4日未明の「高松空襲」で、ほとんどが焼失します。
高松宝泉寺釈迦像

南門は必死の消火活動で残ったようです。忠魂碑として建てられた大きな釈迦像も奇跡的に被弾せず無傷で残りました。海まで見える焼け野原となった高松市内で「法泉寺のおしゃかさん」は、どこからも見えて、その変わらぬ姿は市民の心のよりどころになったといいます。
高松宝泉寺 門
 戦後の都市整備計画の区画整理は、この寺に大きな犠牲が迫ります。広い境内は「県庁前通り」と「美術館通り」で四分割されました。そのため釈迦像や生駒廟と共に本堂は約70㍍東の現在地へ移転し、再建されました。現在の境内は、往時から比べると大幅に縮小しています。
 その他のお寺も従来の場所での再建を諦め、他所に移って行くもの、境内を縮小し再建費を工面するものなど、存続のためのための苦労があったようです。
 法泉寺の東側にあった道は、『高松城下図屏風』の中では、中央の丸亀町の通りから数えて西へ三本目の南北の通りです。そのまま北に進むとお城の外堀の西側の「斜め道」に出て、西浜船入(港)に通じていました。この通りは、今では宅地になって消えてしまいました。しかし、法泉寺より南側の部分、つまり東福寺と四番丁小学校の間だけは残りました。四番丁小学校の西側の道路は、四百年前のままの位置にあるようです。
 もうひとつ気になるお寺が 浄願寺(じょうがんじ)です。
高松浄願寺
中央公園の中にある浄願寺の記念碑
この寺も法泉寺と同じように生駒氏が宇多津から高松へ引き抜いてきたお寺です。高松を城下町にしていくためには、文化水準の高かった当時の宇多津からいくつかの寺院を移さなければ、城下町としての体裁が整わなかったようです。丸亀から町人を「連行」したのも「城下町育成」にとって必須の措置と当時の政策担当者は考えていたようです。
4343290-27浄願寺
浄願寺
 浄願寺はもともとは、室町時代中期に宇多津に創建された寺でしたが、生駒親正が高松城築城時に高松に移します。しかし、その後火災で全焼していまいます。それを救ったのが、高松藩初代藩主として水戸から入封した松平頼重です。頼重は、高松藩主の菩提寺として再興しますが、その際に五番丁に土地が与えられました。以後は隆盛を極め、広い境内に伽藍がひしめく状態だったようです。
 明治になると高等小学校が境内の南にできます。ここには菊池寛が通学していたようです。さらに日清戦争後の1899年(明治32年)には、高松市役所が北古馬場町(現・御坊町)の福善寺から境内の北側へ移ってきます。つまり、現在の高松市役所と中央公園が浄願寺の境内だったということになります。
 この寺にも高松空襲は襲いかかります。戦後は、番町二丁目に移動して再建されました。ちなみに、中央公園には、浄願寺跡地の石碑と浄願寺ゆかりの禿狸の像があります。
高松城下町イラスト

 寺町について見てきましたが「高松城下図屏風」には、寺町の南には堀が描かれています。これも寺町を城下町高松の南の防備ラインと考えていたことを補強するものです。いざというときには、藩士達には集合し、防備する寺院も割和えられていたのかもしれません。しかし、その堀も後には埋め立てられて「馬場」となったとも云われます。次回はその「古馬場」についてみていきます。
参考文献 井上正夫 むかしそのまま 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収



           
生駒氏による高松城築城の「通説」ストーリーは?
1587年(天正15)、豊臣秀吉の命により、播磨赤穂6万石の領主・生駒親正が讃岐国主に任じられます。親正は、まず引田城に入り、次いで宇多津の聖通寺山城(平山城)に移り、翌1588年(天正16)に香東郡野原の地に高松城と城下を築いた(『南海通記』)。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)が従来語られてきたストーリーのようです。
 それでは生駒氏の高松城は、いつ完成したのでしょうか?
南海通記は、着工2年後の1590年には完成したとしますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままのようです。
 また、生駒時代の高松城を描いた絵図は、1627年(寛永4)に幕府隠密が高松城を見分して記した「高松城図」(「讃岐伊予土佐阿波探索書」所収)以後のものしか知られていません。そのため完成当初の高松城・城下町がどのような景観だったかについても、よく分かっていないというのが実情のようです。
 文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。
例えば天守台の解体修理に伴う発掘調査からは大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と指摘しています。つまり、入国した1588年(天正16)から10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたようです。
 織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は関ヶ原の戦い以後の慶長期(1596 ~ 1615年)に行われた可能性が出てきたようです。
1) 上級家臣が屋敷を構える外曲輪では、
ここからは屋敷内や街路にゴミ穴(土坑)が掘られて土器・陶磁器・木器が廃棄されていました。ゴミ穴を年代毎に見てみると外曲輪での日常的なゴミ処理が、1588 ~ 1600年頃には極めて少なく、生活感の希薄な状況であると指摘されています。また屋敷地の区画施設(溝や塀)にも1588 ~ 1600年まで遡るものは、現在までの発掘ではありません。
しかも1630 ~ 40年代までは、それぞれの屋敷地に個別に区画溝が巡らされていて、中世的な屋敷の景観が読み取れるといいます。「高松城下図屏風」に描かれたような、塀(板塀・土塀)や長屋門をもつ区画施設は、1640 ~ 50年代になってようやく現れるようです。つまり、私たちが見なれた「高松城下図屏」と生駒時代のお城や街並みは大きく違うようです。特に家臣団屋敷の景観も相当大きく変化したことがうかがえます。
岡山城と高松城に瓦を供給した「瓦工場」
16世紀末葉~17世紀初頭における高松城跡出土瓦を、時代ごとに分類すると次のようになります。
Ⅰ期 1588 ~ 90年代前半(天正16 ~文禄期)頃。
在地系の瓦主体。まだ瓦の量自体が少なく、中世的で丁寧な製作技法が見られる。
Ⅱ-1期   1590年代後半(慶長1~5年)頃。
在地系の系譜(瓦工集団)で集中的な生産に伴う粗雑化が進む。姫路系の直接的な影響の可能性をもつ系譜も出現する。
Ⅱ-2期   1600年代前半(慶長5~ 10年)頃。
岡山城跡と同笵・同文関係にある軒平瓦の系譜(三葉文系)が普遍化し、瓦の量が急増する。胎土・焼成ともに、近世的な特徴をもつようになる。
Ⅲ期  1600年代後半~ 10年代(慶長11 ~元和6)頃。それ以降も含むか。岡山城跡との同笵・同文関係は継続。
ここでも城・城下の建設の進展を窺わせる瓦の大量供給は、Ⅱ-2期~Ⅲ期(慶長期)になってからのようです。そして大量に出てくるのは、岡山城との同笵・同文瓦の瓦なのです。
これをどう考えたらいいのでしょうか?
 同時進行で建設されていた高松城と岡山城に瓦を供給した「瓦工場」がどこかにあったようです。
「高松での大量供給段階でも岡山城の大規模な普請は継続していることから、現状では岡山からの搬入の可能性の方に妥当性がある。」
と研究者は考えているようです。
  岡山では1590年代(文禄・慶長初期)に瓦の大量生産・供給の最初のピークがあります。一方高松への大量供給はこれに遅れていますので、岡山城での普請が先行すると考えられます。
 岡山城主・宇喜多秀家は信長政権下での中国攻め以来、秀吉と深い関わりがあり、1585年(天正13)には秀吉の養子として元服しています。その後は豊臣政権の中で重用され、文禄の役では総大将を務め、五大老に名を連ねます。岡山城建設の最初のピークは、豊臣政権における秀家の台頭と軌を一にしているようです。
 阿波の蜂須賀氏に対して、どこに城を築くかについては秀吉からの指示があったといいます。天下を握ったばかりの秀吉は、西国の最前線は備讃瀬戸あたりで、この地域での政治的中心地の建設にあたり
「まず岡山城、次に高松城を造る」
という意向があったことは充分に考えられます。その岡山城建設に必要な瓦工場も宇喜多家の管理下に建設操業を始めます。そして、関ヶ原の戦い以後に遅れて高松城築城を開始した生駒家へも瓦を提供することになったという筋書きが描けそうです。
築城に当たっての寺院への対応は?
  西浜で真行寺に隣接して境内があった無量寿院は、戦国期には野原中黒(高松城中心部周辺)に存在したことが「さぬきの道者一円日記」(1565年、永禄8)から分かり、発掘調査により西ノ丸がその旧境内地と特定されました。出土瓦などから
「少なくとも17世紀以降に無量寿院が[西浜へ]移転したものと考えておきたい」
と報告書は記します。
   「高松城下図屏風」等には、外堀に面した片原町に愛行院の境内が描かれています。愛行院は、中世野原から継続する華下天満宮(中黒天満宮)の別当寺で、城下における山伏の統括を行う役割が与えられていました。中世の境内の位置は分かりませんが、絵図にある境内地の周辺にあったと考えられ、城下に組み込まれた形になったようです。
丸亀町の性格は?
大手筋の丸亀町は1610年(慶長15)に生駒藩3代当主正俊の時に、丸亀城下町の商人を移住させて成立したと伝えられます(『南海通記』巻廿下)。城下の中心市街地に立地する丸亀町は城内にあり「高松城下図屏風」での町家の描写からも最も格式の高い町人地であったことが分かります。つまり、丸亀町は城下の整備・拡大に伴い新たに新設された、いわば後発的な中心市街地という性格をもつようです。
城下町の発展
  「高松城下図屏風」は1640 ~ 50年代の景観を描いていると言われます。この屏風からは、南側の寺町を超えて城下が拡大している様子がうかがわれます。寺町の外側(南側)には水路が描かれていますが、その一部は馬場として埋め立てられています。本来は外堀に匹敵する幅をもっていたようです。この水路の内側(北側)に寺町が連続していて、町人地の南大手筋ではこの水路より内側が丸亀町、外側が南新町となっています。ここからも各町の成立年代が違うことが読み取れます。
  こうした水路の存在は何を示すのでしょうか?
  研究者は「城下全体を囲む堀=惣構が存在した」と考えているようようです。その完成は、丸亀町成立の1610年(慶長15)から「讃岐探索書」で「南ニ四筋アリ」(水路以北の範囲に相当)と記された1627年(寛永4)の間で、おそらくは元和の一国一城令(1615年)までに求められるようです。
生駒藩の知行地と自立した家臣団
 「生駒家廃乱記附録」には、4代高俊の治世(1630年代)のこととして
「壱岐守殿御家中大形[方]在郷、時々用事之有る節高松へ罷り出候に付、屋敷小分之由」
とあります。また「小神野夜話」には
「御家中も先代[生駒氏治世]は何も地方にて知行取居申候故屋敷は少ならでは無之」
ともあります。つまり、家臣に対して知行地を与える地方知行が行われていたため、家臣たちは知行地に留まり(在郷)、用事のある時だけ高松へ出仕していた、というのです。これは先ほどで述べた「家臣団屋敷で築城当初の生活の痕跡が希薄
と併せて考えると、いろいろなことが想像できます。知行地制は時代に逆行する制度でした。それが生駒氏では行われていたとようです。同時に、周辺の開発・開拓も知行主が主体となって行っていた様子が窺えます。それは新たに召し抱えられた在地制の強い家臣団であり、彼らが積極的な開発主体であった気配があります。彼らにすれば、知行制が行われる限り高松城下町に屋敷を置き生活する必要はないわけです。この辺りが旧来の家臣団との藩政上の対立を生みだし「生駒騒動」へとつながったのではないかと私は考えています。
 どちらにしても、生駒藩時代の城下町は家臣団が「常駐」していた痕跡はあまりないようです。
発掘調査からの高松城の建設過程を確認しておきましょう
①1588 ~ 1600年頃(第1段階)
小規模で散発的な建設が進められ、領主生駒氏の居館も「仮屋形」にとどまった
②1600年代頃(第2段階)
天守台の建設が始まり順次城郭中心部の建設・整備が進んだ
③1610年代前半(第3段階)、
③新たな中心市街地としての丸亀町の建設が惣構推定ライン外堀0 500m行われ、寺町の形成がほぼ完了し、城下全体を囲む惣構が建設された
④1620 ~ 30年代(第4段階)、
家臣団の屋敷地がほぼ完成形に近付く
 第1段階では、素掘りの区画溝を主体とした領主居館と家臣団・町人地の屋敷割が、部分的に行われていたと見られる。中世から続く寺社は、小さな位置変更程度で存続が認められたようです。(見性寺・愛行院等)。
 第2段階では、外堀より内側での城郭の建設や武家地の屋敷割が全面的に行われました。天守台を含む本丸や二ノ丸・三ノ丸・桜馬場・西ノ丸などが整備され、外堀とこれに沿った土塁も作られます。ただし家臣の屋敷割は、素掘り溝で作られています。この段階で、生駒氏居館は三ノ丸にあり、桜の馬場の対面所とともに領主権力の政庁としての役割を担っていたようです。
城下町の膨張が進んだ段階で高松城に入ったのが松平頼重でした(1642年:寛永19)。
頼重は入部直後から城下に多くの町触を出して都市法の整備にかかります。その背景には、初期高松城下町の成長に伴い、高松という都市を新たな形で把握するという政治的な意志が見られます。

 以上の状況を踏まえ、改めて『南海通記』の記事(2)に立ち戻ると、
『南海通記』が記す生駒氏入部後、直後の1588年から高松城の築城に取りかかったというのは否定的に考えざる得ません。それは、朝鮮出兵という大規模な軍事遠征下という背景や、考古学的な発掘調査の示すことでもあります。高松城の具体的な縄張りが実現するのは第2段階であり、生駒親正の最晩年(関ヶ原合戦時に出家し、3年後に死去)になります。高松築城に関与したのは2代目の一正であると見た方がいいようです。
 ところで生駒藩では、関ヶ原の戦い直前の時期に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。

 参考文献 佐藤 竜馬  高松城はいつ造られたか

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