野原・高松・屋島復元地形図

中世の高松周辺の海岸線です。屋島は島で、現在の高松城のある野原の地との間には、「古・高松湾」があったと研究者は考えているようです。イラストで見ると、こんな風になるようです。
野原・高松・屋島復元図

以前に高松城の西側の宮脇町のことは見ました。今回は高松城の東浜(東側のエリア)の変化を見ていきたいとおもいます。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です
高松城 周辺地理図

この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」は、江戸初期の高松城の東の地形について、次のように記します。
東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟坂田中河原迄潮先来ル也。
意訳変換しておくと
東浜は④野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。

「野方口迄潮サシ込」は、上図④の「ノカタ(野方)ロ」の付近のことのようです。確かに絵図でも、野方口から東は海岸です。南海通記と絵図は一致します。「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の「高松ヨリハ嶋(屋島)ヘー里半、塩浜一里」の説明文とも合います。
「南海通記」の「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」と思われる道が、上図では④の「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。
高松野原 中世海岸線

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。
真言宗の念仏僧侶で梵語に造詣の深かった僧澄禅の四国巡礼記録です。ここには、一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が次のように記されています。
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
 ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。
高松天正年間復元図1

野方口とは、干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。
この遠干潟の部分が近世になると、新田干拓されていきます。

古高松湾は、どのようにして現在の姿になったのでしょうか。
高松城周辺 正保絵図

上図は国立公文書館版「正保国絵図」の古・高松湾の沿岸部です。
木太村の海側に①富岡村 ②夷村 ③春日村が新たに姿を現しています。この夷・富岡村については、生駒期の史料に次のように記されています。
寛永一六年(1629)二月讃州御国中村切高惣帳。
新田
一、高三六拾七石壱斗            富岡蔵入惣所
一、高三百五拾九石弐斗式升七合  夷村蔵入惣所
寛永一七年二月一五日生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳、
一、高三百六拾七石壱斗          富岡新田
一、高三百五拾九石弐斗弐升七合  夷村新田

生駒騒動の結果、生駒家から讃岐一国を没収されたのは、寛永17(1630)年7月のことです。この記事は、その直前のものになります。寛永16年以前に、夷・富岡の地で、新田開発が行われ、その後に造られた「正保国絵図」に、村として記載されたようです。この新田開発については、高松藩校講道館教授の菊池武賢が著した地誌『翁姐夜話』(延享二年(1745)に完成)に、西島八兵衛の評伝として次のように記しています。
寛永五年脩シ満濃池ヲ、築三谷池ヲ、十二年為陣内池ヲ。十四年築テ堤ヲ障サヘ海水ヲ、為田卜。福岡・木太ノ滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名、是レ也。今並二為ル熟田卜。民大二頼(カウムル)其利ヲ。到マテ干今二称ス之,

意訳変換しておくと
寛永5(1628)年に満濃池を再築し、三谷池を築造する。寛永12(1635)年には陣内池、14年には堤防を築いて海水をせき止め、水田干拓を行った。福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名がこれである。今は美田となっていて、民はその恩恵を受けており、今になるまで西嶋八兵衛を賞する。

同書の松浦正一所蔵本には、続けて次のように追加文章があります。
謂木太春日新開也。下往還大路、自此時始。
半以西属東浜、半以東属木太。其境有溝、架石小橋。
木太・春日新開は、この時に拓かれた。下往還大路も、この時につけられた。この西半分は東浜に属し、東半分は木太に属す。其境には溝があり、小さな石橋が架けられている。

ここからは、伊勢の藤堂藩から生駒家に家老級の扱いでレンタルされていた西鳩八兵衛が、寛永14年に、福岡村から木太村を経て春日村富岡にいたる間の新田開発を行ったことが分かります。これが後に木太・春日新開と呼ばれるようになります。
宝永地震における高松藩の被害状況

その範囲については、「英公外記」(明治15年完成)の寛文七年(1667))条に、次のように記されています。
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松鳩木太春日の潟新開成る。下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛か築し所なり。

ここには、西嶋八兵衛が拓いた木太・春日新開のさらに海側を、寛文七年に新田開発したと記します。
この「下往還」より南手の新開とは、どこにあたるのでしょうか?
「下往還」とは、下大道、東下道とも呼ばれた高松藩五街道の一つ志度街道のことだと研究者は指摘します。下大道については、慶応三年(1867)成立の石田忠恒著「政要録」に「讃岐大日記に慶安元子年山田郡下大道を作る」という記事が見えます。この道はもともと干拓に伴って築造された汐止堤防で、それを改修して慶安元年(1648)に街道として整備されたようです。それまでは、姿のなかった街道なので、絵図に登場することはありませんでした。

天保国図 高松東部
下往還について、上図の「天保国絵図 讃岐国」で見てみましょう。
先ほど見た【図6】のふたつの絵図では、福岡村・夷村・富岡村に海岸線がありました。それがこの天保絵図では、そのさらに海側に、高松城のそばの東濱村から古高松村向けてほぼ直線の道が赤く記されています。ここからは、西嶋八兵術が寛永一四年に新田を開発したのは、この赤く記された道よりも南側の地域であることが分かります。
また、【図6】の「正保国絵図」と天保国絵図を比べると、川の流れが大きく変化しています。

高松春日川付け替え工事 
絵図に描かれた河川は、西から順に、香東川の(後の御坊川)、詰田川、春日川、新川です。それが【図6】の「正保国絵図」では、春日川と新川が夷・富岡両村の間で合流し、河口部では一つになって描かれていました。ところが、天保国絵図では、二つの川は分離して、別の河川として描かれています。ここからは「正保国絵図」が造られた後に、大規模な河川改修が行われたことがうかがえます。

下の【図8】は、「高松平野地形分類図」に「正保国絵図」に見える村々を書き込んだものです。
   1
ここでは旧河道が黒く描かれています。それを見ると、新川・春日川は河口部の三角州帯では、のたうつ大蛇ののように幾筋にも分かれて、蛇行していたことが分かります。これらの旧河道の痕跡は、今でも残っているようです。
 これについて『讃岐のため池誌」は、次のように述べています。
新川は現在では高松市春日町の河日で、春日川から分岐しているが、新川のほぼ中流部で久米池の西側にあたる高松市東山崎町中免には、かつて新川がこの附近で真直ぐ、春日川に流れこんでいた痕跡跡が明瞭に残っている。おそらくこの地点で春日川と新川を合流させたのでは、そのあとの洪水量が大きくなりすぎて、その制御が難しいところから、新川を春日川から分離し真北へ新しく付け替えることによって洪水を三分し安全に海に導くことができると考え、新たに新川を開さくしたものと思われる。

ここには、次のようなことが指摘されています。
①新川と春日川が合流していたこと、
②洪水防止のために河道を三分離したこと
③そのために新たに付け加えられた放水路が「新川」であること
④その時期については、何も触れていない。

さらに「英公外記」には、寛文七年(1667)のこととして、次のように記されています。
「此年松嶋すべり之沖より 潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松嶋木太春日の潟新開成る」

ここからは松平頼重の治政下に、松嶋から滑(洲端)の沖を経て屋島の潟元までの潟の新開が行われたことが記されます。これは先ほど見た下往還より海側のエリアになります。この新田開発は木太・春日新開からさらに沖へ向かって突き出すかたちでなされました。
三十幸太郎著の「近讐要録」には、西嶋八兵衛の項に次の記事が記されています。
高松盛衰記二云フ英公ノ初年二矢野部平六卜謂フ入アリ是亦経済家ニテ開拓整溝ノ事ヲ掌ル 頻二海面ヲ埋メテ田畑ヲ増加セリ 西島氏津二在テ此事ヲ聞テ曰く 吾新田ノコトヲ気付カサルニ非サルモ海面ニ向ッテ広ク新地ヲ築出ストキハ河水ノ下流漸々洪塞シテ水患ヲ引起スコト多カラン 永遠ノ后ハ得失相償ハサルモノアラント味ヒアル言ナリ

意訳変換しておくと
高松盛衰記には、次のように伝える。英公(松平頼重)の初年の頃に、「経済家」の矢野部平六が開拓整備の実権を握り、海面を埋めたて田畑を増やした。これを津に引退していた西嶋八兵衛が聞いて次のように云ったという。
 私もこの新田開発のことは考えたこともあった。しかし、海面に向って広く新地を築いて突き出すと、河水は下流で滞留して、水害を引起すことが多くなる。長い目で見ると損得は、相半ばすると考えて実施しなかったと述べたという。

生駒騒動の前に、念願叶って伊勢国津の藤堂家へ帰っていた西嶋八兵衛の言葉です。頼重期に行われた矢野部(矢延)平六による新田開発の手法について危惧したことが記されています。それは、海面に向かって広く新地を築き出すと、川の下流は次第に「瀞塞」して、水害を引き起こすことが多いと指摘しています。
高松地質図

 この弊害を解消するために取られた手段が干拓地へ流入する河川の改修だったと研究者は考えているようです。【図8】から見てとれるように、新川・春日川・詰田川の河道は、三角州帯においてほとんど直線的です。この改修のねらいは、蛇行していた河道の直線化することで、川の流れを早め、河口付近における砂や泥の堆積を防ぐことを目的としたのでしょう。
 松平頼重の時代には、新田開発の画期でもありました。万治・寛文年間(1658―73)には、高松城下の西部で香東川と本津川の分離が行われ、二つの川は別の河口を持つことになります。高松の東西において、同じころ同じ手法で新田開発が行われていたと研究者は推測します。
高松地図明治14年
明治14年の高松城
 さらに、前回見たように丸亀平野でも、満濃池の築造と、その用水路整備のための金倉川の流路変更、さらに変更後の河口域での新田開発とがセットでおこなわれていました。治水のための流路変更や、灌漑のためのため池建設、用水路整備は、単独では成立しないものであったことが改めて分かります。
   以上をまとめておくと
①中世は海が屋島と野原の間に入り込んで、組んで「古高松湾」があった。
②そのため海岸線は、福岡村・夷村・富岡村にあり、街道もこの海岸線沿いを通っていた。
③寛永14(1637)年に、西嶋八兵衛が堤防を築いて、神田干拓を行った。
④それが福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村である
⑤松平頼重の時代に矢延平六が、海面に向かって広く新地を築き出す形で新田開発を行った。
⑥そのため河川の水害が危惧されることになり、対策として川を分離した上で、新たに新川を開削した。
⑦その際に流速を早くするために直線的な川筋が引かれた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)
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