瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高板山

猛暑もやっとおさまり、山の上には涼しさが戻ってきたようなので「山のてっぺんで私も考えた」シリーズを再開しようと思います。これは気になる山のてっぺんに行って、その山を取り巻く歴史について、知ったかぶりの少ない知識を並べて、ああでもない、こうでもないと考え、「新説」を紡ぎ出すというとんでもない試みです。興味と閑のある方は、お立ち寄りください。前回は、阿波木屋平の天行山と修験者の関係を見ました。今回は、土佐の奥神賀山にある奥神賀神社を遡上にあげます。

P1270661
奥神賀神社
この神社が気になるのは、そのロケーションです。神賀山は、土佐矢筈山からのびる笹の主稜線が美しい山で、広い笹野原の中に、ポツンと鳥居と神が宿る神聖な磐境があります。この光景が、なんとも微笑ましくもあり、私の想像力を刺激します。というわけで、今回も国道32号を原付バイクで南下して、池田・大歩危経由で国道439号に入り、大豊町の西峯までやってきました。

P1270639
                     大豊町西峯
豊永の西峯集落の最後の民家を過ぎると、稜線上の豊永峠までの約10㎞の林道です。舗装された林道で油断していると・・

P1270642
小桧曽林道の起点 ここから2㎞はダート
峠まで残り4㎞附近が小桧曽林道起点で、ダートの始まり。原付スクターとダートは相性が悪い。苦戦しながらもスクターを進めていくと、

P1270644
豊永峠手前の上り坂
峠手前2㎞あたりで再度舗装道路に行き当たりました。ここからは快調にアクセルを廻して、豊永峠に到着です。
P1270650
ススキ一面の豊永峠
峠ではススキが風に吹かれておいでおいでと迎えてくれました。ここから南に拡がる展望は素晴らしい。めざす奥神賀神社は、この後方の稜線上にあります。わずかな稜線歩きを楽しみます。

P1270656
豊永峠
P1270665
                      奥神賀神社
峠から道草歩きで20分足らずで鳥居が見えて来ました。

P1270662
奥神賀神社 (神が降臨する甘南備岩が御神体)
無事やってこれたことに感謝して参拝。そして、笹に腰を下ろして遅いおにぎりを食べます。そして、寝そべりながら考えます。どうして、ここに鳥居が建てられたのでしょうか?。この神聖な石の廻りでどんな神事や、祭礼が行われていたのでしょうか。それを知る「手がかり1」を見ておきましょう。

  四国霊場39番の延光寺(宿毛市)は、かつては修験道当山派の拠点でした。

四国霊場延光寺 貝の森 宿毛
延光寺(宿毛市)の東南の貝の森
この寺の4㎞ほど東南に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀り、修験者の修行の山でり、日照りの時には雨乞のために、里人が登って祈念していたようです。この貝の森については、次のような話が伝えられます。

 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こした。それがきっかけで、貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と、近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡者が出た。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなった。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、その頂上では多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は、中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと

宿毛の貝の森山は、伊予と土佐の境に近く、その信仰主権をめぐって、修験者たちや在地の豪族たちを巻き込んだ対立が起きていたようです。
P1270664

そういう目で、神賀山を見るとこの山も草原の中にポツンとあるこの奇岩は、神が宿る御神体には相応しく、自然と手をあわせたくなります。ここが霊山として修験座達の信仰されていたのは納得できます。同時に、この山も次のような二つの修験者たちの境界線に立つ山です。
①北側 豊永の定福寺   (霊山は梶ケ森)
②南側 物部のいざなぎ流 (霊山は高板山)
P1270512
定福寺山門
①の定福寺については、以前にお話ししたように「熊野 → 伊予新宮村の熊野神社 → 大豊の豊楽寺 →  定福寺」の系譜上つらなる熊野行者によって開かれた山岳寺院と研究者は考えています。

P1270527
定福寺の本堂の横に鎮座する熊野神社

定福寺の本堂の横には、今も熊野神社が鎮座していることが、それを裏付けます。そして、その行場が梶(加持)が森になります。梶が森と神賀山は、ひとつながりの山域です。定福寺を拠点とする修験者たは、この山までテリトリーを伸ばしていたはずです。
一方、南側は物部の谷です。そして、ここは物部修験いざなぎ流の拠点でした。その霊山は、高板山で、神賀山の三つの峰を連ねて目の前にそびえています。つまり、神賀山は物部修験と、熊野修験のテリトリーの境界線上の霊山だったのです。しかし、そこでは対立・抗争だけが行われていたようではないようです。第2の手がかりを見ておきましょう。
幡多郡の四万十川上流の旧大正町奥地の佐川山を見ておきましょう。
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵のふたつの地蔵さまが鎮座します。旧3月24日は、この山の周囲の大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山しました。見所は喧嘩でした。土佐と伊予の人々が口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作柄がよくなるといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てて、豊作を祈願しました。
このような「鎮めの地蔵(喧嘩地蔵)」として、地蔵が鎮座していた山を挙げると次の通りです。
①西土佐村藤ノ川の堂ヶ森
②東の大正町杓子峠
③西の佐川山
④南の宿毛市篠山
⑤北の高森山
⑥中央の堂ヶ森
また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは、周囲の集落の信仰対象となっていること、相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 この史料を読んで私は、神賀山でも、武闘から「口げんか」や「相撲」に姿を変えながら、物部と豊永の人達の交流が行われていたのではないかと思うようになりました。

最後に、窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰を見ておきましょう。

御在所の森 高知県
                      御在所の峰

 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。役小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は、修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
 別の見方をすると、テリトリーの境の霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとっては争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。
 もちろん山伏の背後には、地元の武士団の意向もあったはずです。それは寺蔵が建立される以前には、地域間の抗争があったこと、それを鎮めるために「山頂での相撲や喧嘩」など山伏たちによって行われるようになったと考えることができそうです。そして、私には奥神賀神社のご神体である奇岩は、寺蔵のようにも見えて来ます。
そういう目で、奥神賀神社の廻りで行われていたことを、想像も交えながらまとめておきます。
①奥加賀山は、北の豊永と南の物部の境界に位置する山で、両者の対立抗争の山でもあった。
②そこで、北の豊永・定常寺(熊野修験)と南の物部いざなぎ修験の修験者たちは、奥神賀山の笹の原にある奇岩の廻りで、両者が集まるイヴェントを年に1回開くようになった。
③それは武闘抗争に替わる口げんかや相撲であった。
④こうして、豊永と物部は対立を含みながらも、交流が続けられる関係が作られた。

そんなことを考えながら笹の原に寝っ転がりながら、ススキの向こうに見える高板山を眺めていました。
P1270666
物部修験いざなぎ派の霊山高板山
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事





石堂山3
石堂山
前回までは、阿波石堂山が神仏分離以前は山岳信仰の霊山として、修験者たちが活動し、多くの信者が大祭には訪れていたことを押さえました。そして、実際に石堂神社から白滝山までの道を歩いて見ました。今回は、その続きで白滝山から石堂山までの道を行きます。

P1260152
笹道の中の稜線歩き 正面は矢筈山
白滝山と石堂山を結ぶ稜線は、ダテカンバやミズナラ類の広葉樹の疎林帯ですが、落葉後のこの季節は展望も開け、絶景の稜線歩きが楽しめます。しかも道はアップダウンが少なく、笹の絨毯の中の山道歩きです。体力を失った老人には、何よりのプレゼントです。ときおり開けた笹の原が現れて、視界を広げてくれます。

P1260158
正面が石堂山


P1260161
  白滝山から石堂山の稜線上の道標
「石堂山 0,7㎞ 白滝山0,8㎞」とあります。中間地点の道標になります。
P1260164
振り返ると白滝山です。
P1260166
白滝山から東に伸びる尾根の向こうに友納山、高越山
P1260167
矢筈山と、その奥にサガリハゲ
左手には、石堂山の奥の院とされる矢筈山がきれいな山容を見せてくれます。そんな中で前方に突然現れたのが、この巨石です。

P1260170

近づいてみると石の真ん中に三角形の穴が空いています。

P1260171

中に入ってみましょう。
P1260205
巨石の下部に三角の空洞が開いています。
これについて 阿波志(文化年間)は、次のように記します。

「絶頂に石あり削成する如し 高さ十二丈許り 南高く北低し 石扉あり之を覆う 因て名づけて石堂と曰う」

意訳変換しておくと
石堂山の頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにもある。南側の方が高く、北側の方が低い。石の扉があってこれを覆う。よって石堂と呼ばれている。

  ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんで巨石があり、北側の方が高い。
②巨石には空間があり、石の扉もあるので石堂と呼ばれている

P1260203
北側から見た石堂
この石堂が「大工石小屋」で、この山は石堂山と呼ばれるようになったことが分かります。同時にこれは、「巨石」という存在だけでなく「宗教的遺跡」だったことがうかがえます。それは、後で考えることにして、前に進みます。

石堂山6
 石堂と御塔石(石堂山直下の稜線上の宗教遺跡)
石堂(大工石小屋)からひとつコルを越えると、次の巨石が姿を見せます。
P1260181
お塔石(おとういし:右下祠あり) 後が矢筈山 
山伏たちが好みそうな天に突き刺す巨石です。高さ約8mの方尖塔状の巨石です。これが御塔(おとう)石で、石堂神社の神体と崇められてきたようです。その奥に見えるのが矢筈(やはず)山で、石堂神社の奥の院とされていました。

 P1260178
御塔石の石祠

御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。

P1260184
石堂山からのお塔岩(左中央:その向こうは石堂神社への稜線)
先ほど見た阿波志には「絶頂に石あり 削成する如し」と石堂のことが記されていました。修験者にとって石堂山の「絶頂」は、石堂と御塔石で、現在の山頂にはあまり関心をもっていなかったことがうかがえます。

 P1260175
お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。 
 修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
①有用な鉱石が出てくる。
②修行に適した行場がある。
③本草綱目に出てくる漢方薬の材料となる食物の自生地である
①③については、以前にお話ししたので、今回は②について考えて見ます。最初にここにやってきた修験者が、天を突き刺すようなお塔岩を見てどう思ったのでしょうか。実は、石鎚山の行場にも、お塔岩があります。
石鎚山と石土山(瓶が森)
 伊豫之高根  石鎚山圖繪(1934年発行)
以前に紹介した戦前の石鎚山絵図です。左が瓶が森、右が石鎚山で、中央を流れるのが西の川になります。左の瓶が森を拡大して見ます。

2石鎚山と石土山(瓶が森)
    石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分 

これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
石鎚山圖繪(1934年発行)の右・石鎚山の部分

 今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
石鎚山 天柱金剛石
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。

 修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝は天界への道、
④奈落の底まで通じる火口、断崖(瀧)
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界とされました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったようです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされます。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。神々との出会いや、心身を清められることを願って、人々は先達に率いられてお山にやってきたのです。そのためには、いくつも行場で関門をくぐる必要がありました。
 土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
高板山6
高板山(こうのいたやま)

いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。

高板山11
          高板山の行場の霊像

像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
高板山 不動明王座像、四国王目岩
               不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
①捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
②セリ岩(向きでないと通れないほど狭い)
③地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
④四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所
ちなみに、滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

高板山 へそすり岩9
高板山 臍くぐり岩
石鎚山や高板山を見ていると、石堂山の石堂やお塔石なども信仰対象物であると同時に、行場でもあったことがうかがえます。

 それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平村絵図1
        木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分

この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。そればかりか村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを登場数が多い順に一覧表にまとめたのが次の表です。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。そして、巨岩にはそれぞれ名前がつけられています。固有名詞で呼ばれていたのです。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
          三ツ木村と川井村の「宗教施設」
 ここからは、木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。同じようなことが、風呂塔から奥の院の矢筈山にかけてを仰ぎ見る半田町のソラの集落にも云えるようです。そこにはいくつもの行場と信仰対象物があって「石堂大権現三十六王子」を形成していたと私は考えています。それが神仏分離とともに、修験道が解体していく中で、石堂山の行場や聖地も忘れ去られていったのでしょう。そんなことを考えながら石堂山の頂上にやってきました。

P1260187
石堂山山頂
ここは広い笹原の山頂で、ゆっくりと寝っ転がって、秋の空を眺めながらくつろげます。

P1260191

しかし、宗教的な意味合いが感じられるものはありません。修験者にとって、石堂山の「絶頂」は、石堂であり、お塔石であったことを再確認します。
 さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

関連記事

このページのトップヘ