瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:高清左衛門

                 
前回は、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」に出てくる犬塚の地名由来について見ました。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この荒唐無稽な話は、「山伏による創作話」と思っていたのですが、そうとも云えないようです。
実は、高清左衛門の大蛇退治と同じような話が、もうひとつ伝わっています。
それが「畑恒信の大蛇退治」を記した犬塚の碑文です。これを見ておきましょう。(要約)

内田の犬塚
右が犬塚(1786年建立)、左が畑恒信の碑(1918年建立)
犬之塚在松字岡哉属鵜足郡内田村博者曰 永禄中畑氏之先有恒信避土乱入讃州畜犬従焉道過杵尾谷飢而億有大蛇襲後畜犬狂走吼其主弗已叱之益甚恒信怒挺剣斬其首首飛蛇喉蛇即逃去恒信大驚射蛇不及遂跡血抵蛇所殯諸猪之野後世因名其虎曰蛇壇其射蛇不及曰無念谷方言謂憤曰無念於是恒信深痛畜犬之非命埋其屍為建其塚云恒信有裔孫曰畑八造義直居香川太田焉謂余曰昔者吾遠祖時義仕新田将軍建勲延元之間時有若犬獅子出入敵城伺其虚実至恒信亦有若畜犬遂免大蛇之難畑氏世有異犬蕨功可勝道哉今将碑之子請銘之銘曰く
繋犬邪人邪 人而不淑 謂之何哉
繁人邪犬邪 犬而如斯 余莫以為犬也
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書
意訳変換しておくと
犬の塚は、松字岡にあり、鵜足郡内田村に属する。ここには、次のような話が伝わっている。永禄(1558~70)中、畑氏の祖先に恒信という者がいたが、阿波の兵乱を避けて犬を連れて讃州にやってきた。杵尾谷を過ぎ、餓えと疲れで座り込んでいると、大蛇が後から近づいてきた。それに気がつかずにいると、犬が吼えた。制止すると、ますます吠えたてるので、恒信は怒って剣を抜いて犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇の喉元に食らいついた。驚いた蛇は逃げた。恒信は大いに驚いて、蛇を射る間もなかった。そこで蛇が残した血を辿って行くと、猪の野(柞野?)に至った。
 後世になって、この地のことを「蛇壇」と呼ぶようになった。また蛇を射ることができなかったので、「無念谷」とも呼んだ。ここに恒信は、犬の非命を痛んで、その屍とを埋め、塚を建てたと云ふ。恒信には、香川の太田に子孫があって畑八造義直と云う。
 彼が私に次のように語った。「昔、我が遠祖の時義は、新田将軍に仕へて勲をたてた。延元(1336~1340)の間、大獅子の若のように敵城に出入して偵察活動を行っていた。恒信も獅子若のように犬を連れて、大蛇の難を免れた。畑氏には代々、異犬がおり功績を挙げてきた。今まさにこれを碑に刻むことにする。銘して曰く、
アアヽ・犬なるか人なるか、
人にして淑(ヨ)からざる、
之を何とか謂はん。
繋人なるか犬なるか、
犬にして斯(カク)の如し。
余以て犬と為すなきなりと。
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書

ここからは次のような情報が読み取れます。
①大蛇退治をし、松字岡の塚に犬塚を建てたのは、阿波出身の畑恒信であったこと。
②つまり大蛇退治の主人公を畑恒信とすること
③天明六(1786)年恒信の子孫畑義直が、内田字天川の地に移し「犬の塚」を建てたこと
④物語は大蛇退治だけで終わっており、主人公が内田で撃ち殺されたこと=「村民による畑恒信虐殺事件」には触れていないこと
⑤碑文を書いた菊地武周夫(武矩)は高松藩の儒臣で、「祖谷紀行」などを残すなど名文家であったこと
つまり、この犬塚は畑池の祖先顕彰碑として1786年に建てられたものであることを押さえておきます。
まんのう町内田集落
内田の④畑恒信の碑と犬の塚
それから約130年後の大正7(1918)年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立しします。それを見ておきましょう。
畑恒信碑(造田字天川)
畑恒信阿波美馬人其先曰時能本出武蔵属南朝廃名顕世有畜犬甚書能偵敵状以是夜襲必勝事見史籍永禄中恒信避乱入讃岐亦有畜犬従焉至杵尾憩而睡篤大蛇所襲犬暴吠其主驚害怒叱益吠不己恒信斬其首首飛触蛇蛇骸走恒信始悟犬吠之為己也乃追射蛇於猪尾斃之時飢渇甚入民家求食衆以其状異謂篤狂也乃乱打之遂致死既而知其賓歎曰彼能殺蛇除此方害豊可不徳之哉彼畜犬又能護主亦云忠臭乃両葬之墓在内田内田人年修法会迄今三百六十年也明治初又祠恒信予天河祠芳其裔徒香川大田自第三世至第十一世世称畑八造第七世八造詳直義者千天明六年為犬建碑菊池高洲銘之第十三世曰吉次今戸主也為戸主則年往掃内田墓蓋家例云吉次以為犬雖有碑而先徳未顕乃来余乞銘余謂恒信事蹟半在犬碑半在日碑其裔又能念蕨祖良可嘉癸乃
為叙其事而銘之銘日
縄其祖武 克紹遺徳 据大入讃
使剣去國 時乎命乎 免大蛇口
命乎時乎 死野人手 野人悔過
弔之慰之 一時相尼 千載追思
大正七年一月 二等學正 赤松景福撰井書
意訳変換しておくと
畑恒信は、阿波美馬の人であり、その祖先を時能と云う。もともとは武蔵出身であったが、阿波にやって来て南朝に属して、その名が知られるようになる。その飼犬は非常に賢く、敵情偵察などにすぐれた情報を提供し、それに基づいて夜襲すると必勝であったことが史書に見える。
 永禄(1558~1570)中、恒信は乱を避けて讃岐に入った。犬もこれに従った。柞尾(柞野)に入って、座り込んで寝ていたところ、大蛇が近づいてきた。犬が吠えて危険を知らせようとするが、危険に気がつかずに犬を制止しようとする。それでも犬は吠え立てるので、怒りにまかせて恒信其は犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇に触れた。大蛇は驚いて逃げた。恒信は、犬が危険を知らせるために吠えていたことを知った。大蛇を追って、猪尾(柞野)で射て倒した。その安堵感で空腹を覚えた畑恒信は、民家に入りて食事を求めた。これを見た村人たちは、その異様な姿を見て怪しみ、これを乱打して撃ち殺した。しかし、事実を知って次のように嘆いた。
 畑恒信は蛇を殺して、その害を除いてくれた。まさに我々にとっては徳ある恩人である。彼の犬も、主を護った忠犬である。こうして、村人たちは主人とその犬を葬った。その墓は内田にある。内田の人達は、今に至るまで360年間、毎年法会をして供養している。そして明治の初めに、改めて恒信を天河(川)祠のそばに祀った。
 畑氏の子孫は、香川の大田に移った。第三世より第十一世に至るまで、代々にわたって畑八造と称した。第七世の八造(諱:直義)が、天明6(1786)年に、犬の為に碑を建て、菊池高洲之が文章を書いた。第十三世は吉次で、今の戸主である。戸主とは毎年、内田にやってきてその墓を清掃する。これが家訓だという。吉次は、犬の碑はあるが、私たち先祖の徳はいまだに顕彰されていない。そこで、顕彰碑の建立を思い立ち、私に銘を書くことを依頼した。私が思うに、恒信の事蹟は、半ばは犬の碑に書かれていて、その半ばは人々の伝承として伝えられている。彼の子孫は、祖先のことをよく供養し念じている。これはまことに喜ばしいことである。このことを述べて顕彰碑の銘文としたい。
銘に曰く、
其の祖の武を誉め
よく遺徳を継ぐ
犬を携べて讃(讃岐)に入り
剣によって国を去る。
時なるか命なるか
大蛇の口を免∧マヌカ∨れ
命なるか時なるか
野人の手に死す
野人過を悔い
之を弔ひ之を慰む。
一時の相尼するも
千載追思せん
翡犬之塚碑(造田字天川)
 大蛇退治のストーリーは、ほぼ同じなのですが、主人公がちがいます。こちらの主人公は畑氏の先祖だとします。そして、犬の顕彰碑はあるのに先祖の顕彰碑がないので、1918年になって改めて顕彰碑を建立したと、その建立動機が記されています。また、犬塚にはなかった「村民による畑恒信虐殺事件」が記されています。こうして、天川集落の人々は現在も畑恒信の碑や犬の塚に毎月一日に参って花や線香を供えています。また12月1日には、神官をまねきお祭りが行われていたとします。これで大蛇退治の主人公と、そのふたつの碑文については「捜査終了」のように思えました。
 しかし、問題はここからです。

 前回見たように「堀川碧星 美合村」に載せられている大蛇退治の話の主人公は「甲瀬(高清)左衛門」と書かれていました。
畑氏ではないのです。つまり、同じようなストーリーですが、主人公が異なる話が2つあるということになります。そこで研究者は、高清村(半田町)の左衛門の子孫であるという篠原家を訪ねます。そして、そこに保存されたいた古文書に出会います。それが宝暦12(1762)年に、阿波藩からの御尋ねにより、藩に提出した「高清左衛門家筋先祖書」(控え)です。これは、高清左衛門から六代後の九左衛門の書いたものになります。その大要を見ておきましょう。
  御尋二附乍恐申上覚(大意)               琴南町誌 1070P
一、私の先祖は麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休と申す者で、もともと細川家に仕えていましたが、後に三好長慶様に随うようになりました。畿内においてたびたび軍功をたてたので、摂州豊島部を下され、嫡子右京進をその地に居らせて、道久は上桜に居り、のちに入道して篠原紫雲と名乗るようになりました。私家の家祖高清左衛門は、この紫雲の次男で、篠原左衛門と言い、上桜に父と同居していました。しかし、上桜城が長宗我部元親の侵攻で落城すると、諸国を流浪し、のち川島に帰り居住するようになります。そのような中、天正13(1585)年に脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられ、狩のお供や狩場のご用を勤めるようになりました。
一、宗心様が半田山へ御狩をなされた折、お供をして、鹿・猪等多数射止めてご覧に入れました。その褒美として刀を下された上に、半田山の内高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付を下され、以後名を高清左衛門と改めるようおおせつけられました。

ここまでを要約しておくと
①大川山で大蛇を退治した高清左衛門の先祖は、麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休だった。
②篠原道久の次男が、家祖高清(篠原)左衛門で、長宗我部元親の侵攻後に諸国を流浪した。
③後に川島に帰り、脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられた。
④半田山での御狩の褒美として、半田山の高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付をもらった。

次の一項は、キーポイントなので原文のまま掲げます。
一、高清左衛門儀 讃州宇多郡山中江殺生罷越天間川(天川)与申所一宿仕居申所 同村内田之郷侍大勢フ相擁シ不時こ口論仕掛候こ附 無拠合人之者共数十人切殺シ候 而則其所二而自殺仕候 其後相祟り 其上讃州之御殿様江 夢中二高清左衛門自殺之次第奉告候二附 御上ョリ一社御建立被為仰八幡之神号フ御贈り被レ為レ遣成居申候御事。天間川氏神二被レ為二仰附一今以御普譜罷
意訳変換しておくと
一、高清左衛門が讃岐国宇多郡の山中に入っていたところ、天間川(あまがわ:天川)で一宿していたところ、内田郷の侍大勢と口論になり、よんどころなく数十人を切殺して、その場で自殺し相果てました。その後、高清左衛門の祟りが内田郷へ下るようになりました。その上に讃州の殿様(生駒正親?)の夢中に高清左衛門の自殺の次第が出てきました。そこでお上から一社を御建立し、八幡の神号をいただき天川の氏神とするべしと仰せ附つかり、御普譜が行われました。

一、高清の居住地にも左衛門の霊を祀り高清明神と称するようになりました。なお讃州天川神社へは年に一度は参詣するよう神誼が私共先祖にあり、今もって毎年お参りしています。

一、高清左衛門は、手飼の犬を連れて阿讃山脈に入っていました。天川で左衛門が死んだとき、その犬が左衛門の足の親指をかみ切り、これを半田山へ持ち帰り、家族共の前にこれを置き涙を流したので、家人は左衛門の身に変事のあったことを知りました。そこで、犬に案内させ讃岐へ参ったところ、既に御役人の検分も終わり、事は一通り済んでいたのでそのまま帰ってきました。この時の犬は天川で自分から食を断って死にました。この犬の情をあわれみ犬の墓が、天川の地に建てられ今も残っています。また犬が持ち帰った左衛間の指は、鈴に入れな居宅の向かいの所に埋め「すずみどの」と呼び習わしています。供養に使ったものと思われる経石のようなものが多数もり掛けていること。(以下中略)
半田山高清名五人組 九左衛門
宝暦十弐(1762)年二月七日
大谷次二郎様
(裏書)
高清左衛門より六代目 九左衛門代書之
高清左衛門家筋先祖書
宝暦十二十年二月七日御尋仕候押書
以上が高清左衛門の伝説にかかわる文書として半田町の篠原家に残されていました。この文書は阿野藩の問い合わせに対して答えた準公文書にあたるものです。その意味では信頼性が高いと考えられます。こうしてみると高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)に実在した人物と推察できます。そして彼が内田で、喧嘩に巻き込まれ自決した事件があったことがうかがえます。それを裏付けるように、上内田字天川の檜が丘には、高清左衛門とその奥さんの墓といわれる五輪塔が二基祀られています。その横に七人侍の墓という自然石の墓もあります。
 こうしてみると「高清左衛門の大蛇退治 犬塚伝説」は、まったくのフィクションではなかった可能性が出てきます。事実である「高清左衛門の喧嘩・自決」に、大蛇退治が「接ぎ木」された話として捉えることができます。そして、この伝説が語られるようになったのは、17世紀になってからのことだったのでしょう。物語が生まれるまでの経緯を年表化してみます。
①阿波高清村(半田村)の高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)の実在の人物であること。
②生駒藩時代に、讃岐領内に入って狩猟中に、地元の人間と騒動を起こし自害したこと。
③高清左衛門の怨霊は、祟り神となって禍をもたらしたので、神として祀られることになった。
④この史実に、山伏たちが尾ひれを付けて「大蛇退治」伝説を創作し、これが広まったこと
⑤1762年になって阿波藩は、その確認のために高清家に経緯の報告書提出を命じたこと。
⑥1786年に犬塚が畑氏によって建立され、主人公が「高清左衛門」から「畑恒信」に書き換えられたこと
⑦1918年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立し、畑氏の顕彰碑としたこと

こうして、大蛇退治伝説は「高清左衛門」から「畑恒信」に株取りされて、後世に語り継がれていくことになったと私は考えています。

なおこの「犬塚」というのは、形を少しづつ変えながら周辺の土地で語り継がれてきたようです。そのため各地に「犬塚」が残っています。例えば「高清左衛門」の半田町では次のように語られています。
   
高清左衛門と犬の墓(郷土研究発表会紀要第38号 半田町の伝説)
戦国の世、上桜城主篠原紫雲の一族に高清左衛門という部将がいた。臂力共に人に優れ、武芸特に砲術をよくした。上桜城落城により、一族は散りぢりに落ちのびた。高清左衛門は愛犬を連れて、半田山の高清谷へ身を潜ませ難をのがれた。その後時勢を待って、狩りをして暮らしていた。ある日、3匹の愛犬を連れて重清から真鈴を越え、阿讃国境に近い雨川(天川)の辺りで深山に入り野宿をした。その夜、1匹の犬がしきりに吠えたて安眠できない、制してもきかない、狂犬になったのかと1刀のもとに首を落とした。ところがその首は大蛇の鎌首に食いついた。左衛門は大蛇めがけて鉄砲を撃ち込むが大蛇は逃げていった。翌日山を下って、雨川に愛犬を埋め石を立て供養した。これが犬の墓として残っている。その晩、左衛門は庄屋で泊めて貰おうと立ち寄ると、お婆さんが1人いろりにあたっている。それはお婆さんを呑んで化けている大蛇だったので射殺した。これを見た村人は、庄屋の隠居を殺したと向かってきた。いくら化けた大蛇であることをいっても信じてくれず、多勢に無勢、左衛門は殺されてしまった。
 主をなくした愛犬は、左衛門の親指をかみ切って帰ってきた。これを見た妻は、主人の異変を直感し犬について雨川へ来た。村人は左衛門が大蛇を退治してくれたことを知ったが遅かった。妻に深く詫び、犬の墓も丁寧に祀った。妻は高清に帰ると、夫の親指を鈴の実として封じ、向かいの丘に祠を建て祀った。それが現存する鈴実さんの祠である。なお、高清左衛門の犬の墓というのが一宇村にもあり、香川県にも同じような伝説があるそうである。   (白川隆市さん・黒川浅市さん談)」((https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/38/3821.html

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
堀川碧星 甲瀬(高清)左衛門の話 美合村収録
大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P


 以前にお話しした西村市太夫が髙松藩に報告した殿様の「鷹狩りルート」の絵図中に、「中寺」と「犬頭」という地名がありました。

西村家文書 柞野絵図2
まんのう町造田の柞野周辺の絵地図(中寺・犬塚・三つ頭が見える)

中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
一 鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、その子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋には別紙のような墓も建てられました。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
「末寺の岡 犬の墓」が地図上の「犬頭」のようです。そうだとすると、位置的には中寺の手前のピークあたりになります。
犬塚については、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」(琴南町誌1068P)を、少し長いですが全文を見ていくことにします。

甲瀬は甲瀬村にて此甲瀬の左衛門なるに付世人甲瀬左衛門と言ふ。初め大川山の怪物が居るとの事を聞き打ち取らんとて尋ね来りしが居らざりしかば造田村の柞木野(柞野)に来り松字ケ岡と言へる山の上にて一つの大松の根本に腰打ちかけ疲労の為居眠りなし居りたり。然るに連れ来りし一匹の大が突然大声にて吠へて止まず。左衛門目覚めいくら静止なしたれども其効なく左衛門の心持よき眠りを醒し尚且静上をきかぎれば大いに怒り持ちたる刀を抜きて犬の首を切りたり。首飛びて後の大松に飛び行けり。左衛門ふり返り眺むれば一匹の三つ頭ある大蛇其大松の枝に跨り目は違々と輝き大なる口をあけ火の如き赤き舌を出し今にも左衛門に飛びかヽらんとする気配なり。左衛門驚きよく眺むれば件の犬の首大蛇の喉に食ひ付きゐるなり。左衛門直に鉄砲のねらひ定めよく撃ちたり。然れども大蛇は死さずして傷き何処へか逃げ行きたり。
 
  若しこの時犬吠へざれば左衛門の命はなかりしなり。左衛門初めてその犬の吠へて止まざりし所以を知り深く憐み厚くその地に葬りたり。即ち犬は主人の危難を救ひて身代りとなりて死したるなり。これ三つ頭にある犬の塚俗称犬の墓にして大蛇の頭三つありたるに付この地を三つ頭と言ふ。又その近くに蛇のくぼ(窪)と言へる所あり。こゝに大蛇が棲み居しなり。これ中寺と言へる山の下にしてこの山最もこの辺にては高く山上に一つの寺ありたればこの山を中寺と言ひ又下の谷にかねのくばと言へる所あり、この寺の鐘を埋めたりければこの地をかねのくば(鐘の窪)と今も言ふなり。その大蛇は俗称猫また山猫の年古りて人を食ひ人をばかすものがばけたるものなりしなり。

意訳変換しておくと
阿波の甲瀬村に甲瀬左衛門という狩人がいた。大川山に怪物が現れると聞いて、探索したが見つけられず、造田村の柞野の松字ケ岡というる山の上の大松の根本に腰を下ろして、疲れ果てて眠り込んでしまった。ところが連れて来た2匹の犬が突然、吠へたてた。左衛門は目覚めて、静止させるが云うことを聞かない。左衛門は眠り覚まされた上に、云うことを聞かないことに激怒して、刀を抜きて犬の首を切った。首は後の大松に飛んだ。左衛門が、ふり返ると三つ頭がある大蛇がその大松の枝に跨り、目を輝かせ、大きな口をあけ、火のような赤き舌を出しで。今にも左衛門に飛びかかろうとしていた。左衛門は驚きながらよく見ると、切り落とした犬の首が大蛇の喉にくらいついている。そこで左衛門はすぐに、鉄砲のねらいを定め撃った。しかし、大蛇は傷つきながら果てず何処へか逃げ去った。

もし、犬が吠へなければ左衛門の命はなかったはずだ。左衛門は、犬の吠へ止まなかったことの理由を知って、深く憐んで厚くその地に葬った。犬は主人の危機を救って身代りとなりて死んだことになる。これが三つ頭にある犬の塚(俗称犬の墓)で、現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。その近くには「蛇のくぼ(窪)」と云うところもある。ここが大蛇が棲みついていたところである。これは中寺と呼ぶ山の下にあたる。中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。また、下の谷に「かねのくぼ」という所がある。ここは、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる。その大蛇は「猫また」と呼ばれ、山猫が年老いて怨霊となり、人を食ひ、人をばかすようになったものが化身したものだったという。

ここには地名の由来について、次のように記されています。
①現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。
②三つ頭には犬の塚(俗称犬の墓)がある
③犬塚の近くには大蛇が住み着いていた「蛇のくぼ(窪)」がある
④「蛇の窪」は、中寺と呼ぶ山の下にあたる。
⑤中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。
⑥下の谷の「かねのくぼ」は、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる
続いて見ていきますが、以下は意訳のみを挙げたおきます。

 左衛門は、討ち逃した大蛇の傷口から点々と落ちた血の跡を道々追いかけて造田村柞野の大家までやってきた。すると、大蛇はその家の老婆を食ひ老婆に化けていた。左衛門はこの老婆こそが魔物の化け物と見抜いて、一気に打ちとろうとした。しかし、当家の者たちは、我が家の老婆に何をする。老婆は魔物ではないと左衛門を留めた。そこで左衛門は、この老婆は夜中に便所へ行ったかどうかと訊ねた。すると家人は行ったと答えた。その時に魔物に食われ、魔物が老婆となりて化けているにちがいないと云って、直ちに老婆を打ち殺した。家人は大いに驚き怒り、集まってきた附近の者と、手に手に棒刃物等を持って左衛門をたたき殺そうとした。左衛門は、これ魔物の化けたるものだ。今は夜なれば二十四時間待てば、必ずその正体あらはすと説明したが、聞き入れられずに大勢にたたき殺されそうになった。左衛門は一目散に逃げて上内田まで逃れた。しかし。経緯を聞いた近隣の者達が大勢集まり、左衛門を大川(土器川)で石こづめにして殺した。

 石こづめとは、川へ追ひ込み四方より石を投げつけて埋め殺すことである。昔は鹿などをこのやり方で捕えたいたと云う。左衛門は死に際に、「我を殺せば必ず将来この上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し、怨み死んだ。「門倉たてさゝぬ」とは、資産家を輩出させないことで、俗に言ふ「はんじょうさヽぬ」である。そのため、左衛門の霊が祟っているためか上内田の地には今も資産家が現れない。今までにも財産家が現れ門倉が建ち始めると、その家に災難が起り、「門倉のたちたる家なし」と云う。

ここまでを要約しておくと
①大蛇は、三つ頭から里の造田村柞野に逃げ、老婆を喰らい老婆に化けた
②左衛門はそれを見抜いて老婆を撃ち殺した。
③しかし、家族や住民の怒りを受けて、上内田まで逃げてきた。
④上内田の住民たちは、 左衛門を土器川で「石こずめ」にして殺した。
⑤左衛門は、祟りとなって「上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し怨み死んだ。
続いて、もう一匹の犬のその後を追います。
 二匹いた犬の内で、一匹は松字岡にて大蛇の首に食らいついて死んだ。残りの一匹の犬は、主人の死を阿波国甲瀬村の留守宅へ知らせようとした。左衛門の足の指は一本曲っていたが、これを印にするために噛み切って口に咥えて一目散に走りだした。造田村上内田から美合村中通の下木戸、西桜、本村、本名、野口、皆野の地を過ぎ川東村淵野まで帰ろうとした。このルート上には皆野と淵野の界に土器川があり、ここには橋がなかった。加えて大雨の後で増水し、川幅が広くなっていてた。渡れそうな所を探して、犬は行きつ戻りつを繰り返した。ここが今は「犬の馬場」と呼ばれるようになった。そして、橋を犬の馬場橋と言ふ。犬はついに意を決し濁流の土器川に飛び込み水流に流されながらも、辛うじて向岸へたどり着いた。そして、堀田、尾井手、明神を経て勝浦村を越えて阿波国甲瀬村の留守宅へたどり着いた。
 留守を守りし左衛門の妻は、犬が咥えて持ち帰った曲がった指を見て、主人の身に起こったことを悟った。悲しみながらも主人の最期を確認しようと犬を連れて、造田村上内田の地へ向かった。土地の者に、事件の顛末を聞きいて、大いに悲しみ髪をそり尼となりて左衛門の石こづめにされたる土器川の支流天川に飛び込み主人の後を追った。そのためこの川を尼の川(尼川)と呼ぶようになった。されが転じて天の川(天川)となった。また、この時の犬の墓が、上内田の犬の塚(俗称上内田の犬の墓)である。つまり、犬の塚は三つ頭と上内田と二箇所にあることになる。


こうして見るとこの物語は、次のような地名の由来説きの役割を果たしていることに気がつきます。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この物語を聞くと、地元の地名の由縁がストンと心の中にしまい込まれていく気がします。これを語ったのはどんな人達だったのでしょうか?「地名説き説話」は、全国各地にある物語で、遍歴の聖や修験者がその土地に定着して語ったとされます。庚申講などでは、夜明けまで「日待ち」として、いろいろな話が語られました。その主役となったのは各地を遍歴して「民話収集」していた山伏たちです。荒唐無稽の驚く話も山伏が得意とする所です。そして、大川山周辺には、山伏たちが数多く定着していた痕跡があります。集められた旧琴南町の昔話に出てくる山伏たちの活動も、それを裏付けます。

以上をまとめておくと
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



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