神社というものがどんなふうにして姿を見せるようになったのか考えるときに、私にとって身近で参考になるのが高瀬の大水上神社です。この神社は、その名の通り財田川の支流である宮川の源流に鎮座しています。祀られているのは水神です。そして、神が舞い降りてきたと思える巨石も、いまも信仰対象になっています。
この神社について高瀬町史をテキストにして見ていきます。

大水上神社の奥社
この川の流域には銅鐸や広形鋼剣が出土した羽方遺跡があり、下流部は早くから水田稲作が進んだ地域です。ここに祀られている神は、弥生時代から集落の首長によって祀っていたと私は思っています。いまに至るまで、神々の名は幾度も変遷したかも知れませんが・・大水上神社は、三野郡唯一の式内社で延喜式では讃岐の二宮にランクされています。
羽方遺跡出土の平形銅剣 平形銅剣は善通寺王国の象徴
平安時代の神階授与記事には
貞観七 (八六五)年 従五位上から正五位下へ、
貞観十八(八七七)年 正五位上へ
に叙されたことが記されます。これが大水上神社が文書に残る初見になります。
律令国家のもとでは、さまざまな神に対し位階が授けられていました。国家が神に授けた位階を神階と云います。律令国家は神階を授与することにより、神々の序列を明らかにしました。つまり、授ける方が偉いので、国家が地方の神々の上に立ったことになります。これは国家イデオロギーとしては、上手なやり方です。こうして、全国の神々はランク付けされ国家の保護を受けて、有力豪族によて管理・維持が行われるようになります。
羽方遺跡出土の銅鐸
古代に、この神社を保護管理したのは、丸部氏が考えれます。宮川を下って行くと延命院古墳や讃岐で最初に作られた古代寺院である妙音寺があるエリアが、丸部氏の拠点があったところでしょう。その氏神的存在として、この神社は出発したのではないかと私は考えています。それが律令国家の下で延喜式神社となり、二宮としてランクづけられたとしておきましょう。
讃岐では、田村神社・大水上神社・多和神社への神階授与の記事があります。それぞれ讃岐国の一宮・二宮・三宮となる神社であり、社格が定められてきたようです。

以前にお話ししたように、平安時代後期になると律令体制の解体と共に、国家による全国的な神社の管理は出来なくなります。
そこで国家が取った方法は、保護する神社の数を限定し、減らすことです。京都を中心とする周辺の大社や、地方では一宮や二宮だけに限定します。また延喜式内社を国府の近くに「総社」を新たに作るなどして「簡便化」します。この結果、国家的な保護を大い衰退しその跡を失った式内社も出てきます。
国家の保護を失っても、パトロンとしての有力者が衰退しても、地域住民の信仰対象となっていた神社は消えることはありません。大水上神社を見てみると、背後に山を控え、社殿のすぐ横に川が流れ、淵があります。まさに水神の住処としては最適です。この水神は、時代と共に姿形は変えながら人々に、農耕の神と崇められてきたものでしょう。

夫婦岩(かつての御神体)
大水上神社に瓦窯跡があるのはどうして?
大水上神社境内には、瓦を焼いた窯跡が残っています。神社の屋根はワラやカヤで葺きます。瓦は使われません。それなのに瓦窯跡があるのは、どうして?
奈良時代の終わりごろから次のような事が云われ始めます。
「この国の神々は、神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために神の身を離れ、仏教に帰依することを求めようとしている。」
このような声に応えて、民間僧侶たちが神々の仏教帰依の運動を進めます。具体的には、神社の境内を切り開き、お堂を建て仏教の修行の場を作るようになるのです。神々は、元々は仏であったとして、神々が権化した権化仏が祀られるようになります。神と仏の信仰が融合調和することを神仏習合(混淆)といいます。仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いを実現する場として、神社に付属して寺が建てられるようになります。これが神宮寺(別当寺)です。こうして、結果としては、神社を神宮寺の僧侶が管理するようになります。ある意味、僧侶による神社の乗っ取りと云えるかも知れません。こうして、神社の周辺には別当寺が姿を現すことになります。神社の祭りの運営もこれらの社僧がおこなうことになります。

大水上神社の場合は、 2つの別当寺があったようです
江戸時代中期に書き写されるとされる「二宮三社之延喜」には次のような社領目録がのせられています。
国讃嶋二宮社領目録 高瀬町史史料編133p惣合(総合計) 弐百町右之内八九町 修理領右之内三六町 祝言領右之内二六町 灯明領右之内三六町 御供領右別当神主支配三六町 別当清澄寺三六町 別当神宮寺二六町 神主 義重二六町 社ノ頭 右近二六町 惣社人二六町 惣神子右社領自今不可有変易者也
総合計は200町とあるのですが、合計すると176石にしかなりません。まあ、それは今は深入りせずに別当寺を見ておきます。
「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」
と記るされています。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、清澄寺と神宮寺という2つの別当寺があったことは分かります。そして、それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あるようです。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
ここからは大水上神社には中世に2つの別当寺があったことが分かります。その別当寺の屋根の瓦を葺くために窯が作られていたようです。高瀬町史には、この窯跡について次のように記します
①寺院に必要な瓦や日用品を焼くために作られたもの②時代は平安時代後期~鎌倉時代のもの③窯跡は二基が並び、西側が一号、東側が二号④1932(昭和七)年国の史跡に指定。
一号窯跡の実測図で窯の構造を見てみましょう
①上側の図は、窯の断面形で底は傾斜している。②下側の図は、平面形で、全長約3,8㍍の規模になる。③左端が焚口、中央が火が燃え上がる燃焼室で、右側が焼成室と呼ばれ、ここに瓦などを詰めて焼き上げる④焼成室の底が溝状に細長く窪められていて、ここに炎が入り上に詰められた瓦などが焼きあがっていく仕組み⑤二号窯は焼成室の平面形が方形で、底が傾斜せず水平な平窯で、瓦のほか杯や硯も焼いている。
大水上神社のニノ宮窯跡と同じ時期に、使われていた瓦窯跡が下麻にあります。

下麻の歓喜院本堂奥にある四基の窯跡で、1953(昭和28)年に発見されたものです。ここの窯跡の構造はニノ宮二号窯跡に似ていて、西から1号・2号が並んであり、17m東にに3号・4号が並んであります。

下麻の歓喜院本堂奥にある四基の窯跡で、1953(昭和28)年に発見されたものです。ここの窯跡の構造はニノ宮二号窯跡に似ていて、西から1号・2号が並んであり、17m東にに3号・4号が並んであります。
歓喜院瓦窯
二基一対で二組、合計四基が一列に並んでいることになります。4基の窯跡からは軒丸・平瓦が出土しています。

同じ時期に、大水上神社と歓喜院で焼かれていた瓦を、どのように考えたらいいのでしょうか
二宮窯跡と大水上神社から出土した瓦
大水上神社境内の鐘楼跡(別当寺)と歓喜院窯跡から出土した軒平瓦は、文様が似ています。ここからは、歓喜院の窯で焼かれた瓦が大水上神社まで運ばれ別当寺の屋根に葺かれたことがうかがえます。大水上神社と約三㎞離れた歓喜院法蓮寺は、平安時代後期には何らかのつながりがあったのでしょう。法蓮寺がいつ創建されたかは分かりません。

しかし、ここには10世紀頃の作とされる重文の木造不空羂索観音坐像が残されています。また歓喜院のある下麻は大水上神社の氏子になります。以上をまとめておきます。
①弥生時代に稲作が始まった頃から宮川の源流には水神が祀られた。
②律令時代には大水上神社として、讃岐二の宮にランク付けされた。
③この背後には、三野郡の郡司の丸部氏の信仰と保護が考えられる
④中世になるとふたつの別当寺が境内に形成され、神仏混淆が進み社僧による管理が行われた。
⑤神宮寺(別当寺)建設のために下麻の歓喜院の瓦窯から瓦が提供された。
古代三野郡の郷・寺院・窯跡
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献 高瀬町史68P 古代第二節 大水上神社






