神峯寺-聖火を焚く神の峯
二十七番の神峯寺は、非常に特色のある札所です。
境内からはビニールハウスで真っ白に見える平野が眼下に広がります。海をながめるにはいいところです。頂上に上がっていきますと、道が二つに分かれます。いっぽうの道を行くと神峯神社に行ってしまいます。
お寺のほうは本堂と大師堂があって、地蔵があります。
かなり高低差がありますけれども、道をわざわざこしらえたのです。もう一つ渡りますと、庫裡があります。神社の下の社務所がもとのお寺だったといいますので、頂上の寺と神社はもとは一体でした。頂上の神社から階段を下りるとお寺でしたが、いまは大師堂もお寺の本堂も全然わかりません。
期待しないで登ったら、修行者が寝泊まりするに格好の窟があって岩屋地蔵ががまつられいます。燈明岩という岩があって世の中に異変があると、大晦日にこの岩が光を放つのだそうです。昔はここに修行者がいて火を焚いていたことを、そういったのだとおもいます。
大晦日に龍燈があがったというのは、大晦日は大いに焚いたからです。本堂の上には立岩というおおきな岩があります。白い岩ですから月夜にはかなり光って見えたのかもしれません。立っている岩は、そこで火を焚けばなおさら光ります。龍燈のしかけがここに行くとよくわかるのでして、つまり、流燈岩が燈明巌になったわけです。
寺の略縁起には、「当山は神功皇后三韓征伐にあたり、勅命で天照大御神その他の諸神をまつりたるのち、行基菩薩自作の十一面観音の尊像を大同四年聖武天皇の勅命により、弘法大師が神仏合祭の上、四国二十七番の札所と定め」と書いてあります。
『四国偏礼霊場記』の場合も、札所の来歴は記しません。
『四国辺路日記』にも書かれておりません。
『南路志』は「竹林山神峯寺、退転」とあるので、久しく住職がしなかったようで、すでに下に移転していたのです。したがって、この寺の来歴はよくわからないのです。
本堂四間四面小扮葺、三社権現、荒神、大師堂、岩窟地蔵があると書しています。
現在、四神がまつられている神峯神が三社権現に当たるだろうとかもいます。
地主権現というのもありますが、地主権現というのが一神で、三社権現が三神だとすると、四神に当たるのが、いまの神峯神社です。
地主権現といっているのは、現在は唐浜の村の中に一つあります。しかし、これは山頂の山の神を下におろしたものです。かつては神峯神社が札所でした。
四国全体を回ると一宮という神社が札所であるのと同じです。神社を札所としてもとは神官が納経に応じました。ところが、のちになりますとどこも別当寺と称するものが出てきます。
たとえば、瀬戸内海の大三島には大山祇神社という札所がありました。しかし、納経に島まで渡るのはたいへんですから、代わって判子を押した南光坊という別当が、現在では大山祗神社とはまったく離れて札所になっています。そういう意味では、神仏分離は神社としては非常に損だったのではないかとかもいます。
いまは神峯神社にお参りする人はほとんどありません。神社は忘れられております。神仏分離後は、神社は村から離れて安田町唐浜の管理になりました。
『類聚国史』には「貞観八年八月七日己卯土佐国正六位神峯神二従五位下ヲ授ク」とありま。これを唐浜に下ろしたのが「地主権現」です。海岸から五十町で631メートルの神峯に上るのですから、かなり傾斜が激しいとか考えにならないといけません。神峯寺は、札所の中での難所でした。
山神の大山祗命一柱に天照大御神と天児屋根命、応神天皇を合祀したのが三社権現です。そして、その磐座が燈明巌で、もともとここでまっられていたわけです。しかし、事実はここに聖火を焚く辺路修行者がいて、海上、海辺の民から「神の峯」として仰がれたものだとおもわれます。このような「聖なる山」であったが故に、結界が厳重で、女人禁制でした。
『四国偏礼雲場記』は
「此山高く峙ちてのぼる事壱里なり。絶頂よりのぞむに、眼界のをよぶ所、諸山みな山下につらなり、子孫のごとし。幽径九折にして、くろき髪も黄になんぬ。魔境なるが故に申の刻(午後四時)より後は人行事を得ず。かかしは堂塔おほくありしときこえたりといへ共、一時火災ありてより、今は本堂大師堂鎮守のみ也。麓に養心庵と云あり。参詣の人は是に息ふ。此あたりに食ず貝といふものあり」と記しています。
登っただけで髪の毛が黄色になってしまうというから、だいぶ険しい山路だったのでしょう。